雄弁家

2007年01月03日

ソクラテスが「涜神の罪」で告発されたころ、すなわち紀元前400年ころのアテネでは、「民衆裁判」と呼ばれるべきものが行なわれていた。訴訟指揮を行なう裁判官はおらず、法的な論点も事実認定も量刑もすべて籤で選ばれた200人から500人の市民(陪審員)の投票で決められた。検察官制度はなく、刑事訴追も私人によって行なわれた。法廷では訴追人と被告人が陪審員の前で自ら弁論を行ない、それを聞いた後直ちに投票が行なわれ、多数決によって被告人の有罪無罪が決められた(同数の場合は無罪とされた)。

第三者が告訴人や被告人に代わって弁論することは原則として認められていなかった。訴追人も被告人も、自分の主張を自分で述べなければならなかった。ソクラテスのような人ならば、法的な論点についても事実上の論点についても自ら十分に弁じ立てることが出来たかもしれないが、普通の訴訟当事者にとってそれはかなり難しい仕事であっただろう。両当事者は弁論のなかで法を論じ、証拠を引用し、時には証人尋問を行う。かなりの熟練を要する作業である。そこで経済的に余裕のある訴訟当事者はロゴグラフォス(logographos)と呼ばれる弁論作家を依頼し、弁論を書いてもらい、その内容を暗記して法廷に臨んだ(Roscoe Pound, THE LAWYER FROM ANTIQUITY TO MODERN TIMES (West, 1953), p33)。

当時のアテネには数百人のロゴグラフォスがいたと言われる(Michael Gagarin, Series Introduction, Vol. 1, The Oratory of Classical Greece (University of Texas Press, Austin, 1998), xii )。しかし、今日までその作品が伝えられているのはわずか10人であり、弁論の数にして約150と言われている(id., xvi)。弁論作家は訴追人・被告人いずれの依頼も受ける。そして、依頼人自身が法廷で弁論するためのいわば「台本」を書くわけだから、その作品で「私」というのは弁論家ではなく、依頼人たる訴訟当事者である(弁論作家自身が訴追人あるいは被告人として弁論する例もある。例えばアンドキデスの現存作品は全てそうである)。

そして、弁論作家は、自分の意見ではなく、依頼人の身になって依頼人に有利な主張を説得的に訴えようと努力した。例えば、最古の弁論作家アンティフォン(前480年ころ−411年)の作といわれる6編の弁論のうち、1編は告発側、2編は被告側で、3編は告発側・被告側が2回ずつ弁論の応酬を行なう「4部作集」(テトラロギア)と呼ばれる弁論の習作である。告発側の弁論である『毒殺容疑での義母告発』の中で、アンティフォンは奴隷に対する拷問尋問(市民に対する拷問は認められていなかった)について

「奴隷どもが否定したり、筋の通らないことを言ったりすれば、拷問尋問によって事実を申し述べることを余儀なくされるでありましょう。何故なら、拷問尋問は嘘を話そうと用意している者にさえ真実を述べるようにさせるからです。」

と論じている(高畠純夫訳「アンティフォン弁論集」富山医科薬科大学一般教育研究紀要14−1(1992年)、4頁)。しかし、被告側の弁論『ヘローデース殺害に関して』では、拷問による供述の偏頗性を次のように指摘している。

「皆さんは次のことをご存知のことと思います。すなわち、拷問される者は拷問尋問の最大の責任者の側に立ち、結局はそうした者を喜ばせるようなことを話してしまうということをです。なにせそうした者の中にのみ救いはあるのですから。そしてそれはとりわけ自分が嘘の非難をなそうとする者がその場にいない場合にそうなるでありましょう。」(同前、37頁)

弁論作家自身が法廷に赴き、被告人のために被告人に代わって弁論を行うということが絶対になかったかというと、そうでもないらしい。例外的に、被告人の親や友人、出身部族の仲間に弁論してもらうことが認められる場合があり、このようにして法廷に同席する弁論者のことをシネゴロス(synegoros)と呼んでいた(Pound, supra. pp31-32)。

前340年のアテネ。美貌のヘタイラ(高級娼婦)、フリュネ−が涜神の罪で訴追された。

訴追人は彼女の元恋人ユーティアス。彼は弁論作家アナクスメネスの告発弁論を引っさげて出頭した。対する弁護人は雄弁家ヒュパリデス、彼もフリュネーの恋人であり、つまりユーティアスの恋敵であった。ソクラテスの先例を引くまでもなく、涜神の罪で有罪になれば死刑である。形勢は被告人側に不利であり、ヒュパリデスはなかなか弁論を進められなかった。このままでは陪審員たちは有罪の評決をするに違いない。

と、そのとき彼は、何を思ったか、依頼人を法廷の中央に突き出し、彼女の衣服をはぎ取った。陪審員たちは思わず目を見張った。彼らは、彼女の汚れなき裸身にアフロディーテを重ね畏れて、フリュネーに無罪の評決を言い渡した。

最近の研究によるとフリュネーが訴追されヒュパリデスが彼女の弁護をしたのは事実のようだが、2人が恋人同士であったとか弁護人が被告人の衣服を剥いだというのは、後の伝記作家の創造だとのことである(Craig R. Cooper, “Hyperides and the Trial of Phryne” Phoenix 49 (1995), pp303-318)。

フリュネーは当時のアテネで最も著名なヘタイラであった。彼女の顧客は各界の著名人ばかりであり、また、彫刻家プロクシテネスのモデルでもあった。彼のアフロディーテ像のモデルはフリュネーとされる。当時のアテネの裁判では女性はたとえ刑事訴追を受けても法廷に出頭することが許されなかった。法廷に出られるのは男性だけだった。しかし、フリュネーはアテネ市民にとっては特別な存在であり、法廷に出ることが許されたのだ。


ウィニペグ大学の古典学者クレイグ・クーパー博士の解説によると、フリュネーが訴追された罪は涜神罪(アセベイア)であるが、具体的には、?アポロ神殿(リュケイム)でどんちゃん騒ぎしたこと、?新たな神を紹介したこと、そして?違法に男女の宗教的集会(タイアソイ)を開いたこと、である(Craig R. Cooper, Hyperides, in Vol. 5, The Oratory of Classical Greece (University of Texas Press, Austin, 2001, at p147)。いずれにしても、この当時アセベイアによる訴追は政治的に利用されていた。というのは前430年の法令で、無信仰や異端の意見に対してこの罪が適用されることになったからだ。プロタゴラス、ソクラテス、アリストテレスというような哲学者もこの訴追を受けている。著名な女性で政界にも影響力があったと思われるフリュネーに対する訴追も政治的な動機が背後にあったと考えられる。

いずれにしても、ヒュパリデスによるフリュネーの弁護は後の弁論家や芸術家たちにインスピレーションを与えた。前2世紀の修辞学者アルシフロンは、フリュネーが胸をはだけたから裁判に勝ったと考えるべきではなく、ヒュパリデスの弁論によってその行動の適切さがもたらされ、その結果、裁判の成功をもたらしたのだ、と論じた。ローマの雄弁家クインティリアーヌスは、「ヒュパリデスの雄弁は確かに賞賛に値するが、しかし、フリュネーを救ったのはそれではなく、彼女の身体の優美であった」と述べた。18世紀新古典派の巨匠ジャック・ルイ・ダビッドや19世紀フランスアカデミズムの画家兼彫刻家ジャン・レオン・ジェロームが「フリュネーの裁判」を描いている。Jerome Phryne on Trial

plltakano at 14:52コメント(1)トラックバック(0)  このエントリーをはてなブックマークに追加
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高野隆

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