裁判員

2009年06月14日

最近同業者から次のような話を立て続けに聞かされた。
「強盗致傷の事件で、勾留満期まで数日あるのに、5月20日付で突然起訴された。」
「強盗致傷の否認事件で、裁判員事件になると意気込んでいたが、不起訴になった。」
「強制わいせつ致傷事件で……(以下同文)。」
「強盗致傷事件だったが、強盗だけで起訴された。」

どうやら検察は、裁判員裁判になる事件のえり好みを始めたらしい。もともと日本の検察官はとても負けず嫌いであり、間違いなく有罪判決が取れると確信しない限り起訴しないし、起訴した以上何が何でも有罪にしようとあらゆる手を尽くす。5月21日の裁判員法の施行は、日本検察の有罪至上主義を刺激して、起訴事件のさらなる厳選に拍車をかけているようである。

この出来事が示しているのは、検察官が、職業裁判官よりも一般市民の方が有罪の証明責任を重くとらえるだろうと予想していることである。裁判官なら有罪にしてくれそうな事件でも、市民は無罪に投票するかもしれない。だから、その可能性のある事件は、多少無理してでも裁判員法が施行されるまでに起訴してしまう、あるいは起訴を控える、さらには罪名を軽くして裁判員対象事件から外してしまう。そういうことである。

弁護士のなかには検察が起訴事件を厳選することを良いことだと考えている人が多い。犯罪捜査の対象になるだけでなく、刑事裁判の被告人になることは個人にとって非常に大きな負担である。まして、保釈が認められずに何か月も、ときには何年も身柄を拘束されて刑事裁判を受ける個人の悲惨さは、多くの弁護士が目の当たりにしている。だから、できるだけ早く個人を刑事システムの網から解放することは良いことだというのは理解できる。しかし、被疑者個人の利益を離れて刑事司法全体の健全さということに目を転じると、この現象を「良いことだ」と喜んでばかりはいられない。むしろ、この現象は非常に不健全な現象だというべきではないだろうか。

事件が不起訴になるということは、その事件が裁判所という公共的審判機関によって判断を受けないということである。誰でも傍聴できる公開の法廷で証人尋問が行われ、証言に基づいて司法機関である裁判官や裁判員が、被告人が有罪なのか無罪なのか、そして有罪ならばどのような刑が相当なのかを判断するというプロセスが一切行われない。手続が打ち切られ被疑者は解放されるが、その判断は捜査訴追の一方当事者である検察官だけのものであり、その判断の根拠となる資料は検察官の事件ファイルの中に封印される。通常の市民はそのファイル(不起訴事件記録)にアクセスすることはできず、したがって、検察官の判断のプロセスを公共の場で議論することは不可能となる。犯罪被害者が不起訴処分を不当として検察審査会に審査の申立てをしたとしても、検察審査会の審査は非公開であるから、事件と検察の判断が公共的に議論されないという事態は変わらない。要するに、不起訴というのは事件を公共的なフォーラムで議論することを回避し、事件の情報を検察に独占させる装置なのである。

検察官は刑事事件の捜査と訴追の専門家である。だから、彼らが「有罪判決が取れるに違いない」と判断した事件の多くは裁判官によって有罪の認定を受けるであろう。確かに、最終的に有罪無罪の判断をするのは裁判官である。しかし、検察官が事件を厳選すればするほど、裁判官は検察官の判断を信頼するようになる。そして、多くの事件を一定期間の間に――したがって効率的に――処理しなければならない裁判官は、検察官の判断への信頼なしには生活できなくなる。「検察官が起訴した以上、よほどのことがない限り有罪に違いない」「この程度の事件を一から審査するのは時間の無駄だ」「どうせ間違いないのに、なぜこの弁護人はわざわざ証人尋問を要求するのだろうか。迷惑な話だ」。

しかし、人間の仕事は完ぺきではありえない。とりわけ、情報を独占し他者からの批判にさらされない仕事は、独善に陥りがちである。検察官が「有罪判決がとれる」と確信する事件の中には必ず無罪の事件が含まれている。裁判官が検察官の確信は必ずしも事件の真相を反映していないということを理解しているならば、裁判官は弁護人の指摘にも耳を傾け、無罪の発見のための努力をしようとするだろう。けれども、はじめから「検察が事件を厳選して起訴したのだから、まず間違いない」という予断をもって裁判をするならば、弁護人の意見や被告人の弁解を真摯に受け止めることはできなくなる。証拠を検察の描いた有罪の構図によってしか見られなくなる。その結果、無実の人に有罪の判決を言い渡しても、そのことを自覚できず、何度でも同じ過ちを繰り返すことになる。

裁判員裁判では、一つの事件だけのために、裁判の経験が全くない市民が6名加わることになる。彼らによって職業裁判官の「有罪バイアス」は緩和されるだろう。しかし、職業裁判官が裁判員の身近にいて「同僚」として仕事をする。普通の市民は裁判官を尊敬し、評議室の中でも裁判官の言動を重く受け止めるだろう。したがって、裁判官の「有罪バイアス」は多かれ少なかれ裁判員に伝播せざるをえない。

検察が裁判員対象事件を厳選し、通常の事件以上に有罪証拠の豊富な事件ばかり起訴するようになれば、裁判員がその市民感覚を事実認定に注入する余地は、完全になくならないまでも、非常に少なくなるだろう。どうせ有罪なんだという意識は、裁判員のやりがいを削ぎ、長期的には裁判員制度を形骸化させる危険性を生み出すだろう。被告人の犯罪とそれへの刑罰は、結局、検事がきめるのであって、裁判員の仕事はそれを追認するだけだ。これでは何のために市民が刑事裁判に参加するのか分からない。

犯罪被害者の立場に立ってみよう。本当は強盗致傷や強制わいせつ致傷の被害者なのに、検事が臆病で有罪至上主義であるために、ワン・ランクもツー・ランクも下の窃盗や条例違反の被害者と認定される。場合によって、犯人は刑事司法から完全に解放されてしまう。これで正義が実現されたと言えるだろうか。

検察庁法によれば、検察官の仕事は「公益の代表者」として「公訴を行い、裁判所に法の正当な適用を請求[する]」ことである(検察庁法4条)。刑事手続における検察官の目標は、裁判に勝つこと(有罪判決を獲得すること)ではなく、正義を実現することである。国民は彼らの自意識やメンツのために税金を払っているのではない。当事者主義の訴訟を通して真実に根ざした正義が行われ、その営為を通じて自由と秩序が保たれることを期待して、高度の能力をもった専門家を雇っているのである。

われわれはこれから数年間の検察統計と司法統計に着目すべきである。裁判員対象事件の起訴率と他の事件の起訴率の変化に特に注意しよう。もしも、裁判員対象事件の起訴率が、他の事件と比較して、有意に減少したとしたら、それは、日本の検察が国民の福祉よりも自分たちの面目を保つ方が重要だと考えていることを示している。そして、それは、裁判員裁判の健全な発展にとって大きな障害物になる可能性がある。


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2008年10月19日

本の宣伝を一つ。

朝日新書から木村晋介監修『激論!「裁判員」問題』が発売されました。

本書は、木村晋介氏の挑発に乗って、裁判員制度反対派の西野喜一氏と賛成派の私が文字通り「激論」を闘わせた本です。一般読者向けの本ですから、憲法の制定過程とか証拠法の議論とかはあまり詳しく述べられていませんが、反対派と賛成派の主要な論点についてこれほど深く議論を展開したものはないのではないかと思います。どうぞご購読を。定価777円。全国書店で発売中。

本書の目次:
プロローグ 木村晋介
第一部 なにが問題か
・裁判員制度の概要  山本紘之
・賛成派、反対派の主張
(賛成派)高野隆  「裁判員の力で、世界最悪の日本の刑事裁判は今よりましになる」
(反対派)西野喜一 「裁判員制度は憲法違反で、国民に大迷惑な制度」
第二部 激論、裁判員!
第1章 市民生活と裁判員制度
(1) 冤罪は減るのか
1)被告人に不利にならないか
2)なぜ米国のように選択制でないのか
3)米国では「無罪なら裁判官裁判、有罪なら陪審裁判が有利」というのは本当か
(2)重罰化とメディアと裁判員
4)光市の事件は何を示したのか
5)メディア規制をすべきか
6)裁判員は重罰化の歯止めになるか
7)弁護団はなぜメディアを信頼しないのか
8)裁判員制度は刑事事件をわかりやすくするか
(3)死刑と裁判員
9)死刑廃止論者は裁判員になれるか
10)死刑廃止論者は裁判員を辞退すべきか
(4)裁判員制度は何のために
11)陪審派と反陪審派の妥協の産物だったのか
12)重罪でなく軽微な事件から始めるべきだったのか
13)現場の裁判官、検察官、弁護士はこの制度をどう見ているのか
14)裁判所のホンネは「誤判の責任を国民に転嫁する制度」なのか
15)痴漢など、すべての否認事件に裁判員を適用すべきでないのか
16)裁判官を事実認定のプレッシャーから解放すべきなのか
17)事実認定と法令適用を切り離すことはできるのか
18)日本の裁判は有罪判決が多すぎるのか
19)裁判官は無罪判決より有罪判決の方が書きやすいのは本当か
第2章 あなたが裁判員に選ばれたら
(5)裁判員の負担
20)負担はどの程度になるのか
21)裁判員になると人生が暗転するのか
22)国民として負担を引受けるべきか
23)記憶か書面か
(6)裁判員制度は憲法違反か
24)裁判員は「意に反する苦役」か
25)「あなたが裁く」とは
26)評決を棄権できるのか
27)目撃者の証言義務とはどう違うのか
28)民意は裁判員制度に賛成か
(7)裁判員の守秘義務
29)やらせておいて言わせないとは
30)なぜ評議の内容を公開できないのか
31)裁判員に守秘義務を課すのは憲法違反か
(8)裁判員に選ばれるリスク
32)リストラや廃業の危機なのか
33)裁判員になったことを上司に言っても大丈夫か
34)辞退を認めると残るのは公務員と主婦ばかりにならないか
第3章 日本の裁判はどうなる
(9)負担軽減と粗雑司法のジレンマ
35)短期集中型でずさんな裁判にならないか
36)集中審理で裁判はわかりやすくなるのか
37)ハードスケジュールに裁判員はついていけるのか
38)弁護士の尋問技術養成は間に合うのか
(10)刑事手続きの反人権的状況を変える突破口になるか
39)裁判員制度で捜査は民主化するか
40)取調べの可視化は進んだか
41)裁判用語はわかりやすくなるか
42)裁判員を前にして証言者に心理的圧迫はないのか
(11)よりよい裁判にするために裁判員にできることは何か
43)弁護士はどういう戦略を練っているのか
44)裁判員は裁判官に「ノー」と言えるか
(12)裁判員の判断力は信頼できるか
45)裁判官に量刑判断を任せられるか
46)過去の裁判の積み重ねた「量刑相場」に根拠はあるか
47)検事控訴を認めなくすべきか
(13)要するによくなるのか、悪くなるのか
48)裁判官は変われるのか
49)大変だけどやりがいはあるのか
50)市民を権力に取り込む制度なのか
総括 木村晋介 
激論!「裁判員」問題 (朝日新書 142)
激論!「裁判員」問題 (朝日新書 142)


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2008年03月21日

法務省は、「裁判員が参加する裁判に限定して」、拘禁されている(保釈が認められていない)被告人が法廷でネクタイを着用し、革靴を履くこと、さらに、弁護人の隣に着席することを認める方針を発表した(読売オンライン2008年3月20日03時05分http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080319-OYT1T00897.htm)。「ネクタイ」と言っても「結び目がほどけない取り付け式のもの」であり、「革靴」も「革靴に見えるが実際にはかかとの部分がない形状のもの」という代物であるが、SBM運動(注1)の提唱者である私にしてみると、「一歩前進」には違いなく、多少の感慨はある。

しかし、なぜこの新方針を「裁判員が参加する裁判」に限定する必要があるのだろうか。この限定の背後には、「裁判官はプロだから、被告人の服装や着席位置などに心証を左右されることはないが、素人はそうした要素に影響されやすい」という発想が窺える。

しかし、この裁判官/裁判員二分法に実証的な根拠があるようには見えない。裁判官もおなじ人間である以上、腰縄手錠で法廷に引き立てられ一人だけラフな服装にサンダル履き、全身を衆目に曝してベンチに座っている被告人の姿に影響を受けているに違いない、と私は思う。いや、むしろ、職業裁判官の方が、そうした被告人の服装や着席位置が示す「有罪シグナル」に過敏に反応しているのではないかと思える節がある。

これまで私は何度も裁判官に「被告人にスーツとネクタイを着用させ、弁護人席の私の隣に着席することを認めてほしい」という申し入れをしてきたが、これを認める裁判官はほとんどいなかった。裁判官は「被告人の身柄に対する戒護上の問題がある」などと説明するが、これが本当の理由でないことは今回の法務省の方針転換がはっきりと示している。そもそも、身柄拘束されていない被告人には「戒護上の問題」などありえないのだから、これが被告人を弁護人の隣に座らせない理由でないことは明らかだ。

ある裁判官は「長年にわたる法廷慣行」を理由に被告人を弁護人の隣に座らせることを拒否した。裁判所の慣例の方が、被告人が弁護人と自由に意思疎通することよりも大切だというのだ。しかし、これも本当の理由ではないと私は思う。もしこれが本当だとしたら、職業裁判官たちは「法廷慣行に違反する」と言って今回の法務省の方針をも拒否するはずだが、彼らは決してそうはしないであろう。まるでこれまでずっとそうして来たかのように、「裁判員が参加する裁判に限定して」被告人を弁護人席に着席させるだろう。

日本の職業裁判官たちが、被告人にきちんとした格好で法廷に来ることを拒み、当事者席の弁護人の隣に座ることを拒否して、スエット・スーツにサンダル履きで全身をさらしてベンチに座ることを強制する本当の理由は何だろうか。私はこう思う。日本の職業裁判官は刑事被告人を訴訟の当事者とは考えていない。被告人は争いの当事者ではなく、お白州で裁きを受ける「罪人」でなければならないのだ。私の友人の萩原猛(弁護士・大宮法科大学院大学教授)がさいたま地裁でSBMの申立てをしたところ、裁判官はこう答えてそれを拒否したそうである――「被告人は訴訟の客体でもありますから」と。「客体」というのは法律家のジャーゴンで「主体」の対をなす言葉、つまり、訴訟の「対象」という意味である。多くの裁判官はこれほど正直に表現することはないまでも、本音ではそう考えている。日本の職業裁判官が被告人を裁判の当事者ではなく、「対象」と考えていることを示すもう一つの例をあげよう。民事裁判では、第1審で原告であった人であれ、被告であった人であれ、控訴をすると控訴審では「控訴人」と呼ばれ、控訴された側は「被控訴人」と呼ばれる。アメリカでは刑事裁判でも、被告人が控訴すると彼/彼女は「控訴人」と呼ばれ、政府は「被控訴人」と呼ばれる。被告人が上告すれば彼は「上告人」であり、政府が上告すれば「被上告人」になる。ところが、日本の刑事裁判では被告人は地裁から最高裁まで一貫して「被告人」と呼ばれ続ける。日本の被告人は、自ら控訴しても上告しても、決して「控訴人」「上告人」と呼ばれることはないのである(注2)。

要するに、日本の職業裁判官の意識の中では、刑事被告人は権利を主張する紛争の当事者ではなく、自分たち(判官)の裁きを受ける個人(罪人)にすぎない、そうでなくては困る。だから、民事裁判の当事者のようにきちんとした身なりをして、弁護士の隣に座ることなどもってのほかなのである。

裁判員として刑事裁判にかかわることに国民が躊躇する理由の一つとして「自分に人を裁くことができるか不安だ」というものがある。多くの国民が刑事裁判というのは「人を裁く」ことだと思っている。しかし、ここに大きな問題がある。近代国家において司法は「人を裁く」ものであってはならないからである。近代国家においては、神の代理人として特別の権限を与えられた人物はいてはならないのであり、したがって「人を裁く人」は存在してはならないのである。地上にいる人はみな同じ権利義務の主体であって、一部の人間が他の人間を裁くことなど許されるはずがない。

民事裁判も刑事裁判も、国家が運営する紛争解決装置である。刑事裁判官は、刑事訴追をめぐって存在する当事者同士(政府と被告人)の間にある紛争――有罪か無罪か、死刑か無期か、実刑か執行猶予か――を証拠と法に基づいて判断し、決着をつける役割を担っている国家機関にすぎない。裁判官は、決して、全体(神、正義)の代弁者として個人を裁いているのではない。

ところが、日本の職業裁判官の意識は、いまだに「近代」に至っていないのである。彼らの意識は江戸時代のお白州を主宰する与力のそれとほとんど変わりがない。そして、実際のところ、この意識は職業裁判官だけではなく、検事や弁護士の中にも蔓延している。「裁判員制度は現代の赤紙だ」とか「人を裁くことを国民に強制するのは国民の良心の自由を侵害する」などと言って裁判員制度を批判する論者は、一見リベラルな日本国憲法の擁護者のようにふるまっているが、実はそうではなく、この前近代的な刑事裁判思想にとらわれているのである。

被告人に裁判というパブリック・フォーラムに参加する当事者にふさわしい格好をすることを認め、自分の代弁者たる弁護人の隣に着席することを認めるというのは、被告人の諸権利を実質化することに役立つだけではなく、刑事裁判というものに対する前近代的な意識を打破する契機となるだろう。しかし、一度巨大な権限を手にした人はそれを容易に手放そうとはしないものである。被告人が弁護人の隣に座ることをかたくなに拒否している現在の職業裁判官たちや、裁判員制度を憲法違反だと言ってその実施を阻止しようとしている法律家たちの存在がそれを良く示している。法務省が、まがいもののネクタイやスリッパもどきの革靴の着用にこだわるのも、いわば「最後の抵抗」であろう。

(注1)SBM運動:被告人を自分の隣に座らせることを裁判所に要求する弁護士の運動。SBMは”Sit By Me”(私のそばに座って)の略。その考え方と実践については高野隆・金岡繁裕「弁護人の隣に座る権利――SBM運動の意義と実践」季刊刑事弁護52号(2007年)を参照。
(注2)被告人を「控訴人」「上告人」と呼んではいけないという決まりはない。だから、私は「控訴人」「上告人」という表記をすることがある。


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2007年01月07日

月刊マスコミ市民2006年12月号より。転載を許可してくださった同誌編集部に感謝します。

――このたびの裁判員制度の導入は、「開かれた司法」を標榜して、「国民の良識を司法に導入する」ことが眼目であろうと思います。最初に、高野さんがこの制度を支持している主な理由をお聞かせください。

年間1500件くらいの冤罪が発生
高野 私が裁判員制度を支持する一番大きな理由は、いまの裁判があまりにもひどいからです。私の推測では、いまの職業裁判官による刑事裁判で、少なく見積もって年間に1500件くらいの冤罪が発生しています。毎年全国の地方裁判所に8万人あまりの人が起訴されますが、そのうち無罪を主張して争っている被告人が5000人います。ところが実際に無罪になるのは60人しかいません。無罪率は1,2%です。つまり冤罪を主張して頑張っても無罪になる人は100人に1人しかいないのです。

検察庁や裁判所は、「日本の検察は有罪の事件しか起訴しないので99%の有罪率になるのだ。」と説明していますが、私は、そう思いません。無罪を主張する5000人のうち3〜4割程度の被告人は本当に無罪だから否認しているのだと思います。それにはいくつか根拠があります。

戦前には陪審裁判が行われていましたが、当時の統計を見ますと、100件の否認事件のうち20件くらいは無罪になりました。同じ時代の職業裁判官による裁判の無罪率に関するデータがあります。こちらの方は、否認事件と自白事件合わせた数に対する数字しかありませんが、明治から昭和の10数年までの間、多い年で6%くらい、少ない年でも2%くらいの無罪率です。否認事件が全体の10分の1だとすると、否認事件の無罪率は2割から6割という数字になります。陪審裁判が行われる前年・1927年の職業裁判官による刑事裁判の無罪率は、地裁レベルで4%くらいです。否認事件が10分の1だとすると、約40%の無罪率ということになります。

アメリカでの陪審裁判と職業裁判官の無罪率を比較したデータがありますが、陪審裁判の無罪率は約30%、職業裁判官の無罪率は17%くらいです。つまり市民のほうが、有罪判決を出すことに慎重なのです。これは、日本でもアメリカでもヨーロッパでも同じですが、職業裁判官の無罪率を見ると、日本の職業裁判官の無罪率が極端に低いことがわかります。

アメリカの裁判官が17%に対して日本が1%という極端な差は、日本の検察が起訴に対して慎重だということでは説明ができないと思います。「慎重な起訴」の根拠は起訴猶予制度ですが、この制度は明治時代から慣行として行われていました。大正11年に制定された旧刑訴法が明文で起訴猶予制度を定めました。つまり、日本の検察は戦前から起訴すべき事件を選別してきたのです。検察官は有罪であることを確信していないかぎり起訴しませんでした。戦前には予審制度(註1)があり、検察が予審を請求しても裁判官が起訴をせずに予審で公訴を棄却(予審免訴)することがあったのですが、そういうシステムのなかでも全体で4%の無罪率が出ていたのです。

ところが戦後になり、無罪率が急激に減っていきました。私は、その原因は、司法研修所を中心とする刑事裁判教育が非常に大きな役割を果たしていると思います。司法研修所の刑事裁判教育は、要するに、実際の記録を与えて有罪判決の書き方を現職の刑事裁判官が教えるものです。記録の中に出ている事実のなかから、有罪を証明するのに役に立つ証拠(彼らはこれを「間接事実」と呼んでいます。)をいくつかピックアップして、それが認定できれば罪を認定できるというのです。本来情況証拠というのはいくつ積み重なってもそれだけで確実に有罪と決め付けられる証拠ではないのです。そこには常に「飛躍」が伴うのです。その飛躍の決め手になるものは法廷に登場した人間たち――被告人や証人たち――と生に接触することで初めて得られるものであって、紙の上の活字を幾ら追っても導き出すことはできないものでしょう。ところが、研修所で教鞭をとるエリート裁判官たちは、紙の上の情報から幾つかの「間接事実」をピックアップできれば安心して有罪にして良いということを教えるのです。そういう教育を受けた若い裁判官は裁判実務のなかでさらに官僚的な事実認定のシステムを学んでいくことになります。それが完成したのが現在の“有罪率99%”です。

日本の刑事裁判が日常的に冤罪を生み出していると考えるもう一つの根拠は、裁判官によって無罪率が全然違うということがあります。私が永年弁護士をしていたある地方都市の裁判所での経験ですが、Aという裁判官は毎年数件の無罪判決を出していましたが、検事控訴は1件もなくすべて無罪が確定していました。ところが同じ時期にBという裁判官は1件も無罪をだしませんでした。おそらくBさんは一生無罪を出さないでしょう。ある裁判官にだけ無実の人の事件が配点されるなどということはありえないでしょう。実際、無罪になった事件とそうでない事件を比べて証拠の中身が違うようには思えないのです。

日本の職業裁判官は「疑わしきは被告人の利益に」とか無罪推定というルールに非常に冷淡な態度をとっているとしか思えません。「100人の犯人を逃すとも1人の無辜を罰してはならない」というのが刑事裁判の鉄則だといわれていますが、現代の日本の裁判官はそんな考えを「弱腰」とせせら笑っているようにしか思えません。彼らの行動原理はむしろ「100人の無辜を罰しても1人の犯人も逃してはならない」というもののように思えます。職業裁判官が事実認定を独占している今の日本の刑事裁判システムは、無実の人でも有罪になってしまう危険を強く孕んだ制度です。冒頭に述べたえん罪の発生件数についても、おそらく刑事弁護をしているベテランの弁護士ならば、皆そう感じていると思います。

裁判員の心に残る弁論ができる制度
刑訴学者は、日本の刑事裁判を「調書裁判」だとか「検察司法」だとか「人質司法」だとか言った標語で批判しますが、私に言わせれば、それはまだオブラートに包まれた表現だと思います。現実はもっと惨憺たるものです。無実の人間でも有罪を宣告して刑務所に入れてもはばからないのが現在の職業裁判官システムだと思います。彼らは良心の呵責を全く感じることなく、冤罪を大量生産している。「冤罪製造マシン」である。私はそう思います。これをやめさせるもっとも直接的な手段は陪審制度だと思います。つまり職業裁判官に事実認定をさせないということです。証拠の採用・不採用の決定や法律の説示など、法律専門家としての仕事はしてもよいが、証拠をどう評価するか、被告人が有罪か無罪かを認定する仕事は、市民に任せることです。

裁判員制度は、そういう意味からすると非常に中途半端な制度です。もっともらしい有罪判決の書き方をシステマティックに学んできた職業裁判官が、市民と一緒に評議室に入ります。評議室という完全なブラックボックスのなかで裁判官と市民が議論するのですから、もしかしたら裁判官が事実認定のやり方を素人に教えようとする危険性は多分にあるでしょう。そうなると、今まで行われてきた職業裁判官の事実認定に市民のお墨付きを与えるだけの制度になってしまう可能性はあるのです。しかし今があまりにも悪いので、今より悪くなることはないと私は思います。

裁判官のプレッシャーに対抗しようとする裁判員が出てくるかもしれませんし、市民がいることで、裁判官の意識にも影響を与えるかもしれません。自分たちが今までやってきたことは、プロにしか通用しないテクニックであり、普通の教育を受けている市民にとっては非常識なことだったのではないかと悟ってくれる裁判官も出てくるかもしれません。そして何よりも私たち弁護士は、公判廷で直接裁判員の目を見て彼らに訴えかけることができるのです。裁判員に、「あたなは何をしにここに来たんですか。裁判官の仕事の手助けに来ているわけではありませんよ」と、証拠に根ざしたアピールをする機会が与えられるのです。弁護士は評議室に入れません。しかし、私たちの弁論が彼らの一人の心にでも残れば、その人が評議室の中で自分の考えを他の人々に訴えてくれるかもしれません。少なくとも、そういったチャンスがあります。だから、私は裁判員制度を支持しているのです。

――非常に説得力のあるお話だと思います。いまのお話を理解したうえで、二点の質問をさせてください。ひとつは、アメリカでは市民の裁判のほうが無罪率が高いと言われましたが、日本の場合は、たとえば少年犯罪に対して厳罰化すべきだというかなり感情的な世論もあり、逆な結果になるのではないかとの懸念を感じます。

もうひとつは、職業裁判官があまりにもひどいというお話でしたが、プロがひどいから素人を参加させろということは、「航空機事故が多いから、操縦室を素人に監視させろ」とか、「医療過誤が多いから、手術室に素人を立ち合わせろ」といった議論と同じになってしまうとの批判があると思います。むしろ、非常識な裁判官の体質を変えさせる方途が求められるという意見については、どのように思いますか。

職業裁判官は、メディアの影響を如実に受ける
高野 まず第一点ですが、凶悪犯罪に対して厳罰に処すべきという世論は、日本だけのことではありません。たとえばアメリカでは、少年事件に対しては日本よりはるかに厳しく、10歳くらいの犯罪者でも、顔写真入りの実名報道がされたりしますし、重罪事件では少年でも原則として刑事裁判を受けるという法制もあります。犯罪に厳罰をもって対処せよという世論は世界共通です。

問題は刑事裁判の判断者がそのような世論から距離を保てるかどうかです。陪審員は裁判の冒頭で、自分たちはメディアの報道に基づいて判断するのではなく、証拠に基づいて判断しなければいけないことを、弁護人からも裁判官からも検察官からも繰り返し説示されるのです。オーストラリアの大学で行われた最近の研究によりますと、ほとんどの陪審員は、裁判のごく初期の段階で、メディアは本当のことを報道していないことを理解し、事件のことは自分たちのほうが遥かによく知っていることに気づくのです。マスコミ報道とは違う結果を出すことは、陪審制のほうが多いのです。「マイケル・ジャクソン事件」や「ロドニー・キング事件」、また「O・J・シンプソン事件」「マクマーティン事件」など、メディアが圧倒的な有罪報道をしていたにもかかわらず、証拠上有罪とするには合理的な疑いがあるとして陪審が無罪の評決をする例は枚挙にいとまがありません。

逆に、職業裁判官はメディアの影響を如実に受けるのです。彼らはマスコミの報道を非常に気にしています。私は5〜6年前にある有名な保険金殺人事件の裁判をやりましたが、書記官室に行くと必ず新聞のコピーがおいてありました。裁判官も書記官も事務官も自分たちが扱っている事件の経過を報じた新聞を回覧していたり、週刊誌の裁判官批判のキャンペーンなどを熱心に読んでいるのです。

職業裁判官と裁判員や陪審員の決定的な違いは、職業裁判官は、判決を出した後も裁判官をやっていますが、裁判員や陪審員は、ひとつの評決を出した後は裁判にかかわらなくてよいということです。つまり、自分の判断を世間がどのように評価するかを気にしなくてもよいのです。裁判官は、ずっとそこにとどまらなければなりませんので、マスコミの評価や組織の中(最高裁の人事局)における評価を心配するのでで、メディアの影響を非常に受けるのです。

今まさに、報道機関の犯罪被害者キャンペーンの影響で日本の官僚裁判機構は一瞬にしてこれまでの死刑の選択基準を変えてしまいました。被害者が一人であっても、殺し方が残虐である、本人が反省の態度を示していない、被害感情がすごく強いなどの事情があれば、被告人を直接観察した1審の裁判官が死刑を拒否した判断を覆してでも死刑を選択すべきだということになりました。それを成し遂げたのはマス・メディアであり、メディアが犯人の処刑を執念深く追い求めた遺族をヒーローとして報道し続けてきたことが、最高裁を至極簡単に動かしたのです。

事実認定は、誰にでもできる仕事
次に、「外科手術を素人にさせるのか」という批判ですが、それは批判になっていません。なぜなら事実の認定というのは外科手術ではないからです。事実認定は専門的な仕事ではなく、誰でもが行える常識的な判断であり、そうでなければいけないと私は思います。裁判官は、司法試験に受かるための法律学の勉強と研修所での教育を受けるのですが、事実認定とというのは、法廷に現れた証言や証拠を見聞きし、“この人が犯人であると認定することに問題がないか”という判断をすることであり、法律家にしかできない仕事ではないのです。いままで研修所という教育機関を通じて、事実認定は法律家にしかできない仕事であるというような妄想を作り上げてきたのが、むしろ問題なのです。

――つまり高野さんのご主張は“現在の硬直した官僚司法組織を内側から改革することは困難であるから、外部から素人の血を導入するしかない”ということになるのでしょうか。

高野 そういうことです。事実認定は、外科手術や歯科治療や飛行機の運転といった技術的な類のこととは違うのです。誰でも、日常的に「これは事実ではない」、「私はこう判断する」ということをしているのと同じなのです。人生における重大事を決定するのと同じことです。決定の基礎となる資料が「証拠」であり、それについては法律家が適正なルールに基づいて採否を決める必要がありますが、採用された証拠をどう見るかという課題にとって必要なのは、専門知識ではなく、健全な常識以外の何ものでもありません。

――次に憲法問題とのかかわりで、いくつかお尋ねいたします。一つ目は、19条の「思想・良心の自由」と18条の「苦役からの自由」に関してですが、国民は裁判員に選任されることを拒否することができないことについて、どのようにお考えになりますか。

高野 私は、国民は司法に参加する権限があると同時に義務があると思います。それは、税金を払う義務と同じように、あるいは裁判所から証人として呼び出しがきたときに宣誓をして証言をする義務があるのと同じように、すべての市民はそういう義務を負っていると思うのです。

――そういたしますと、“自分は人を裁けるような人間ではない”という思想の持ち主がいたとしても、義務として果たさなければならないことになりますでしょうか。

高野 そこに根本的な間違いがあるのです。裁判というのは、「人を裁く」のではありません。ある人が罪を犯したといわれ、その人は犯していないといって紛争がそこにあるわけですが、社会が成り立つためには、紛争を平和的な方法で解決する機構がなければならないのであり、それがない社会は、ライオンと羊が一緒の檻の中に住んでいるような社会になってしまいます。国家の秩序を作り上げる最低限の要素のひとつとして、紛争を解決するシステムとしての司法がなくてはなりません。それは学校の先生がいたずらをした生徒を叱るのとはまったく違うものです。われわれは自分たちの自由の一部と引換えに平和な社会の存続のために紛争解決システムを作ることを合意しました。われわれはそれを支える義務を一人ひとりが負っているということです。

憲法は、陪審を否定していない
――次に、被告の側からの問題についてお尋ねいたします。憲法32条ならびに37条1項の裁判を受ける権利は、職業裁判官による裁判を受ける権利であると解されている(註2)と思いますが、被告人は裁判員を含めた裁判か職業裁判官の裁判かの選択ができないということについて、いかがお考えでしょうか。

高野 憲法32条は、明治憲法24条の「裁判官の裁判を受ける権利」とはまったく異質のものです。もともとは、アメリカ憲法の修正条項が保障するコモンロー上のデュープロセス(法の適正手続き)からきているのです。それは司法へのアクセス権なのです。つまり権利が侵害されている人や紛争に巻き込まれた人が、裁判所を利用する権利であり、憲法制定時の原文はright of access to the courtです。

37条の1項の「公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利」は、職業裁判官による裁判でなければならないということではありません。その条文も、合衆国憲法第6修正(註3)の「公正な陪審による裁判」というところを引き継いでいるのです。GHQ草案の段階では、陪審の権利が規定されていたのですが、当時の日本政府側が難色を示して、最終案は陪審という言葉がなくなったのです。しかし当時のGHQの法律家との交渉の過程で、陪審を入れる可能性は否定すべきではないということで、裁判所法3条(註4)で、刑事事件について陪審制を導入することを予定した規定をおいているのです。

1943(昭和18)年に陪審法は停止されましたが、そのときの天皇の勅令で「今次大戦終了後、再施行するものとする」とされたのです。憲法制定当時のGHQも帝国議会の議員もそして国民も、陪審裁判を受ける権利は、いずれ敗戦の混乱が終わった時点で復活すると考えていたのです。そう考えると、憲法が陪審を否定しているなどという意見は、私に言わせれば歴史を無視している考えだとしか言いようがありません。

――戦前の陪審は、王権濫用の抑止から出発したヨーロッパの制度とはまったく違っていて、民衆から求めたものでもなく、“天皇の大御心の発露のほかならないもの”(註5)つまり天皇のお情けでしかないと伺っているのですが。

高野 それは違うと思います。歴史を観念的に捉えて、戦前は天皇の裁判であり、天皇が統帥権を総覧しているという大日本帝国憲法下においては、国民は臣民に過ぎなかったという図式的な理解から、歴史をゆがめていると思います。陪審法の制定過程は、もっと民衆に根ざしていました。当時刑事弁護の最前線で活躍していた弁護士たちが、陪審制を導入しなければいけないという運動を展開して、それが実って陪審法が誕生したのです。もちろん時代的な制約がありました。治安維持法の改悪の動きもあり、さまざまな歪みも出てきました。「裁判官による裁判を受ける権利」が明治憲法にあるので、陪審の評決に対して裁判官が更新(御破算)できるという規定もありました。こうした意味では不完全ではありましたが、根底にあったのは市民の常識に根ざした事実認定をしようという動きです。そのことは否定しようもない歴史的事実です。

――いまのお話と関連いたしますが、憲法76条の「司法の独立」との関係で、裁判員が司法のなかに入ることは憲法の趣旨から外れる、あるいは憲法は市民参加を予定していないという見解が一部にはあると思うのですが、これについてはどう思いますでしょうか。

高野 その考えを私はまったく理解できません。憲法がいう「司法の独立」というのは、アメリカ独立宣言に淵源があります。任命された裁判官を、国王が気にいらないといって転勤させたり給料を下げたりして、国王に都合のよい恣意的な判断を司法にさせたことがあった。それがアメリカ革命の原因になったのです。そのような事態を防ぐために、裁判官は独立しており、善行を保つかぎり転勤はさせられないし罷免させることもできないということです。日本国憲法の「裁判官の独立・司法の独立」というのは、裁判官は何ものにもとらわれず、身分が保障されており、自分の良心に従った司法判断ができるのを保証することです。

ところが現実には、いまの司法はあまりにも組織に縛られています。転勤や給与の差別、あるいは組織に同調できない裁判官を排除するシステムができているのです。これこそが、まさに「司法の独立」の否定に他ならないのです。

では裁判員は何かといえば、刑事司法における有罪無罪の判断を、自分たちが主体的にすることを託された市民です。彼らが参加することで、有罪無罪の判断が常識に根ざしたものになる、あるいは合理的になる、そういう装置として市民がそこにきているのであり、それは「司法の独立」を侵害するものとはまったく違うのです。なぜなら、彼らは裁判官の固有の領域を全く侵していないからです。

公判前整理手続の二面性
――実際に裁判員制度が施行されたときの、システム上の問題について、何点かお伺いいたします。

ひとつは、公判前整理手続(註6)についてです。例えて言えば、プロの調理人がご馳走を準備してお客に食べていただいたとしても、客が食事を口にしたあとで、追加する調味料が必要だと要求することも当然あると思うのですが。

高野 現在の公判前整理手続が作られたのは、一種の妥協の産物だと思います。日本の官僚裁判官は、自分たちが判決を書くのに都合の良い制度は何かという目的を持って議論しています。彼らは、さまざまな争点をあらかじめ整理して絞りこみ、全体のパズルのなかでどのピースが欠けているのかを決めたうえで、裁判でそのピースが埋まるかどうかを決めようと考えたのです。そうすることで効率的に仕事ができるであろうというのが、彼らの発想です。しかし私はその発想は根本的に間違っていると思います。裁判における「事実」は、もっとふにゃふにゃしたものなのです。パズルの作り方自体が変動するかもしれないのです。裁判が始まる前の事実調査の中で、双方の努力によって真相が出てくる可能性も、あるいは出てこないこともあります。裁判の途中で思いもかけないことが起こることもありえます。公判前整理手続の発想は、そういう不確定な部分、揺れの部分を削ぎ落としてしまうのです。これは手続を硬直化させ、むしろ裁判による真実の発見を妨げてしまう危険があると思います。だから「追加する調味料」が必要だという批判は正しいと思います。ちなみに、アメリカでもイギリスでも素人が事実認定をしますが、公判の前に「争点」を整理する手続など存在しません。被告人は”Not Guilty”(私は有罪ではない)としか答弁しません。無罪の理由など説明する必要がないし、訴因のどの部分を争うかを言いません。被告人が無罪を主張したら、検察官は訴因の全ての要素を合理的な疑いを容れない程度に立証しなければなりません。訴因の全てが争点なのです。訴因制度とはまさにそういうものです。日本の公判前整理手続が要求する「争点整理」は被告人側に検察官の立証責任を軽減する義務を負わせたものであり、非常に大きな問題があると私は思います。

しかし反面で、今回の公判前整理手続のなかには、今までなかったことが認められた部分が結構あります。その最大のものは、証拠開示です。これまでは否認事件で争えば争うほど、検察官は証拠を隠しました。警察も検察も非常に大きな権限をもって、令状ひとつで現場からあらゆる物をもっていきます。あとから弁護士が行っても、そこにはぺんぺん草も生えていない状況で、証拠にアクセスができないのです。彼らはそのなかから自分たちに都合によい証拠だけを出してくるのです。しかし今度は、検察側が出してきた証拠に対して、こちら側は「こういう証拠があるはずだ」と、一定の類型にあたる証拠の開示を求めることが権利として認められたのです。それを検察官が出さない場合には、不服申し立てができます。いままでは与えられていなかった大きな武器を被告側は手にすることができたのです。弁護側は公判が始まる前の段階で、事実の調査をする機会がたくさん与えられたということです。これはすごく大きな成果だと思います。それよって公判が集中的に行われることは、とてもよいことだと思います。

今の裁判は、今日1時間公判が行われたら2ヵ月後に1時間行うといったように(歯科治療方式といわれていますが)、延々と続くわけです。弁護側は、最初はあまり準備をしないで、裁判が進行していくうちに真相が発見できるからよいという人もいますが、実際はそういうことで無罪になっている事件は少数です。最初に検察官が立証しますから、有罪の証拠を裁判官は繰り返し聞かされ、また読みもします。弁護側の立証が始まるのに3年かかることもありますから、証人は昔のことを証言しなくてはならず、記憶が薄れて思い違いもあり、検察側に突っ込まれるのです。そうすると、調書の方が信用できるということになるのです。仮に弁護側が反証できたとしても、さらにまた裁判が続くわけですから、検察側は補充捜査ができるのです。膨大な検察・警察の資源を投入して有罪の証拠を集めます。ひどい場合には弁護側に有利な証言をした証人を監禁して、証言を覆させたりするわけです。

だらだらと裁判をやることは、決して弁護人の仕事を楽にさせているのではなく、むしろ無実の人が有罪判決を受ける確立を高めるのです。裁判がはじまる前段階で、しっかり調査をして防御の機会をえて、公判が始まったら一日か二日で一気に検察官側と弁護側の証人尋問をやり、論告弁論をやって判決となれば、補充捜査などはやれません。もうひとつの利点は、調書が使えなくなることです。一日中証人尋問をして、それが終わったらすぐ弁論を聞いて、その後すぐに評議に入らなければならないのですから、裁判官がその日の公判のあとに調書を読む作業などできません。公判廷での弁論がすべてであり、紙にかかれたものは記録にしか過ぎないという、裁判本来の姿に戻るのです。刑事訴訟法のどこを読んでも、「裁判官が調書を執務室で読んで判決を書く」などとは書いてありません。

公判前整理手続は、そういう二面性をもっています。また改正刑訴法316条の32で、「やむを得ない事由」があるときは公判前整理手続が終了した後でも証拠を提出できるという規定があります。「やむを得ない事由」を厳しく解釈するか、緩やかに解釈するか、それはこれからの課題であると思います。

守秘義務規定は、憲法違反
――最後に守秘義務の問題でお尋ねいたします。評議の秘密や職務上知りえた秘密について、懲役刑を含む強い守秘義務を民間人に課しています。「秘密を背負って墓場まで行け」ということは、かなり疑問だと思います。

高野 同感です。このような守秘義務規定は憲法違反であると私は信じています。その問題はいずれ解決されなくてはならないと思います。評議室のなかで誰がどう発言したかは、本来秘密であるべきではないと思います。秘密にしておかなければあとで攻撃されるし、そう思えば十分な意見が言えないではないかと言うのですが、それは実証的な根拠がどこにもないと思います。あの「ロドニー・キング事件」でも「O・J・シンプソン事件」でも、評決の直後に陪審員は記者会見を開いています。そして何人かの人は、評議室の中の出来事を含めてドキュメンタリーの本を出版しています。そういう「表現の自由」が保障されることによって、司法に関する情報が国民に伝わっていき、司法が改善するベースになると思うのです。とくに、日本の場合は裁判官が評議室に入るわけですから、そのなかで彼らが裁判員にどういう発言をしたか、どのように証拠の説明をしたかが明らかにならないのは、非常によくありません。守秘義務の規定は、決して裁判員が自由な発言をするための制度ではなく、むしろ裁判官が裁判員に対してアンフェアーな言動をすることの担保にしかならないと思います。

人間は、本来自由にできています。ですから、私の推測では、裁判員の中には自分が体験したことを是非言いたいという人が必ず出てくると思いますし、マスコミのなかにも、そういうものを報道・出版したいという人が出てくると思います。人間は表現したい欲望を抑えることができない生き物です。そこで罰則をめぐって本格的な論争が起こると思います。そこで犠牲になる人が出てくるかもしれませんが、本来、自由を勝ち取るということはそういうものだと、私は思っております。


註1 公判手続前の裁判官による取り調べ手続で、事件を公判に付すべきか否かを決定し、同時に公判で取り調べがたいと思われるような証拠の収集・保全を目的とする手続きをいう。非公開で、原告として弁護人の立会いもなく、被告人は予審判事の一方的な取調べの客体に過ぎず、しかも予審の結果を記録した予審調書は公判廷において無条件に証拠能力を有したため、糾問手続きの観があった。(『法学辞典』日本評論社、1991年)

註2 市川正人「裁判員制度の可能性と課題」(『法律時報』2005年4月13頁)

註3 合衆国憲法修正第6条(1791年確定)「すべての刑事上の訴追において、被告人は、犯罪の行われた州および地区の公平な陪審による、迅速な公開裁判を受け、また公訴事実の性質および原因について告知を受け、自己に不利益な承認に反対尋問し、自己に有利な承認を得るために強制手続きをとり、および自己の防衛のために弁護人の援助を受ける権利を有する」(阿部照哉・畑博行編『世界の憲法集』有信堂 1998年)

註4 裁判所法第3条3項「この法律の規定は、刑事について、別に法律で陪審の制度を設けることを妨げない」

註5 大日本陪審協会編『陪審手引』、1931年

註6 公判の期間をできるだけ集中させ、連日の審理に対応するため、裁判官、検察官、弁護士が公判期間に先立って検察官がもっている証拠を開示させ、争点を整理して審理の予定を立てること。


plltakano at 23:55コメント(0)トラックバック(0)  このエントリーをはてなブックマークに追加
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