着席位置

2008年03月21日

法務省は、「裁判員が参加する裁判に限定して」、拘禁されている(保釈が認められていない)被告人が法廷でネクタイを着用し、革靴を履くこと、さらに、弁護人の隣に着席することを認める方針を発表した(読売オンライン2008年3月20日03時05分http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080319-OYT1T00897.htm)。「ネクタイ」と言っても「結び目がほどけない取り付け式のもの」であり、「革靴」も「革靴に見えるが実際にはかかとの部分がない形状のもの」という代物であるが、SBM運動(注1)の提唱者である私にしてみると、「一歩前進」には違いなく、多少の感慨はある。

しかし、なぜこの新方針を「裁判員が参加する裁判」に限定する必要があるのだろうか。この限定の背後には、「裁判官はプロだから、被告人の服装や着席位置などに心証を左右されることはないが、素人はそうした要素に影響されやすい」という発想が窺える。

しかし、この裁判官/裁判員二分法に実証的な根拠があるようには見えない。裁判官もおなじ人間である以上、腰縄手錠で法廷に引き立てられ一人だけラフな服装にサンダル履き、全身を衆目に曝してベンチに座っている被告人の姿に影響を受けているに違いない、と私は思う。いや、むしろ、職業裁判官の方が、そうした被告人の服装や着席位置が示す「有罪シグナル」に過敏に反応しているのではないかと思える節がある。

これまで私は何度も裁判官に「被告人にスーツとネクタイを着用させ、弁護人席の私の隣に着席することを認めてほしい」という申し入れをしてきたが、これを認める裁判官はほとんどいなかった。裁判官は「被告人の身柄に対する戒護上の問題がある」などと説明するが、これが本当の理由でないことは今回の法務省の方針転換がはっきりと示している。そもそも、身柄拘束されていない被告人には「戒護上の問題」などありえないのだから、これが被告人を弁護人の隣に座らせない理由でないことは明らかだ。

ある裁判官は「長年にわたる法廷慣行」を理由に被告人を弁護人の隣に座らせることを拒否した。裁判所の慣例の方が、被告人が弁護人と自由に意思疎通することよりも大切だというのだ。しかし、これも本当の理由ではないと私は思う。もしこれが本当だとしたら、職業裁判官たちは「法廷慣行に違反する」と言って今回の法務省の方針をも拒否するはずだが、彼らは決してそうはしないであろう。まるでこれまでずっとそうして来たかのように、「裁判員が参加する裁判に限定して」被告人を弁護人席に着席させるだろう。

日本の職業裁判官たちが、被告人にきちんとした格好で法廷に来ることを拒み、当事者席の弁護人の隣に座ることを拒否して、スエット・スーツにサンダル履きで全身をさらしてベンチに座ることを強制する本当の理由は何だろうか。私はこう思う。日本の職業裁判官は刑事被告人を訴訟の当事者とは考えていない。被告人は争いの当事者ではなく、お白州で裁きを受ける「罪人」でなければならないのだ。私の友人の萩原猛(弁護士・大宮法科大学院大学教授)がさいたま地裁でSBMの申立てをしたところ、裁判官はこう答えてそれを拒否したそうである――「被告人は訴訟の客体でもありますから」と。「客体」というのは法律家のジャーゴンで「主体」の対をなす言葉、つまり、訴訟の「対象」という意味である。多くの裁判官はこれほど正直に表現することはないまでも、本音ではそう考えている。日本の職業裁判官が被告人を裁判の当事者ではなく、「対象」と考えていることを示すもう一つの例をあげよう。民事裁判では、第1審で原告であった人であれ、被告であった人であれ、控訴をすると控訴審では「控訴人」と呼ばれ、控訴された側は「被控訴人」と呼ばれる。アメリカでは刑事裁判でも、被告人が控訴すると彼/彼女は「控訴人」と呼ばれ、政府は「被控訴人」と呼ばれる。被告人が上告すれば彼は「上告人」であり、政府が上告すれば「被上告人」になる。ところが、日本の刑事裁判では被告人は地裁から最高裁まで一貫して「被告人」と呼ばれ続ける。日本の被告人は、自ら控訴しても上告しても、決して「控訴人」「上告人」と呼ばれることはないのである(注2)。

要するに、日本の職業裁判官の意識の中では、刑事被告人は権利を主張する紛争の当事者ではなく、自分たち(判官)の裁きを受ける個人(罪人)にすぎない、そうでなくては困る。だから、民事裁判の当事者のようにきちんとした身なりをして、弁護士の隣に座ることなどもってのほかなのである。

裁判員として刑事裁判にかかわることに国民が躊躇する理由の一つとして「自分に人を裁くことができるか不安だ」というものがある。多くの国民が刑事裁判というのは「人を裁く」ことだと思っている。しかし、ここに大きな問題がある。近代国家において司法は「人を裁く」ものであってはならないからである。近代国家においては、神の代理人として特別の権限を与えられた人物はいてはならないのであり、したがって「人を裁く人」は存在してはならないのである。地上にいる人はみな同じ権利義務の主体であって、一部の人間が他の人間を裁くことなど許されるはずがない。

民事裁判も刑事裁判も、国家が運営する紛争解決装置である。刑事裁判官は、刑事訴追をめぐって存在する当事者同士(政府と被告人)の間にある紛争――有罪か無罪か、死刑か無期か、実刑か執行猶予か――を証拠と法に基づいて判断し、決着をつける役割を担っている国家機関にすぎない。裁判官は、決して、全体(神、正義)の代弁者として個人を裁いているのではない。

ところが、日本の職業裁判官の意識は、いまだに「近代」に至っていないのである。彼らの意識は江戸時代のお白州を主宰する与力のそれとほとんど変わりがない。そして、実際のところ、この意識は職業裁判官だけではなく、検事や弁護士の中にも蔓延している。「裁判員制度は現代の赤紙だ」とか「人を裁くことを国民に強制するのは国民の良心の自由を侵害する」などと言って裁判員制度を批判する論者は、一見リベラルな日本国憲法の擁護者のようにふるまっているが、実はそうではなく、この前近代的な刑事裁判思想にとらわれているのである。

被告人に裁判というパブリック・フォーラムに参加する当事者にふさわしい格好をすることを認め、自分の代弁者たる弁護人の隣に着席することを認めるというのは、被告人の諸権利を実質化することに役立つだけではなく、刑事裁判というものに対する前近代的な意識を打破する契機となるだろう。しかし、一度巨大な権限を手にした人はそれを容易に手放そうとはしないものである。被告人が弁護人の隣に座ることをかたくなに拒否している現在の職業裁判官たちや、裁判員制度を憲法違反だと言ってその実施を阻止しようとしている法律家たちの存在がそれを良く示している。法務省が、まがいもののネクタイやスリッパもどきの革靴の着用にこだわるのも、いわば「最後の抵抗」であろう。

(注1)SBM運動:被告人を自分の隣に座らせることを裁判所に要求する弁護士の運動。SBMは”Sit By Me”(私のそばに座って)の略。その考え方と実践については高野隆・金岡繁裕「弁護人の隣に座る権利――SBM運動の意義と実践」季刊刑事弁護52号(2007年)を参照。
(注2)被告人を「控訴人」「上告人」と呼んではいけないという決まりはない。だから、私は「控訴人」「上告人」という表記をすることがある。


plltakano at 01:46コメント(3)トラックバック(0)  このエントリーをはてなブックマークに追加
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