法廷技術
2009年02月14日
アール・ロジャーズの父はメソジスト教会の牧師だった。父はアールにも説教師になって欲しかったが、アールは医者になりたかった。しかし、学費が工面できずその夢は果せなかった。若くして結婚した彼は、ロサンゼルスで新聞記者として働いた。裁判の取材をしたことがきっかけで弁護士を志す。19世紀のアメリカには司法試験などというものはなかった。弁護士の下で一定期間修行を積んで地元の法曹協会への所属が認められれば弁護士として仕事ができた。
彼は刑事事件が嫌いで民事弁護士を志した。彼の運命を変えたのは1899年地元の有力弁護士ジェイ・ハンターを射殺した配管工ウィリアム・アルフォードの事件だった。弁護士になって2年目の彼が弁護人に任命された。依頼人は拳銃を持っていたのに対して、被害者は杖をもっていただけだ。依頼人は被害者からいきなり杖で叩きつけられて転倒し、さらに襲い掛かってくる被害者に夢中で拳銃を向けたと正当防衛を主張した。しかし、検視官は、銃弾はハンターの体内を「下に向けて」貫通していると証言し、アルフォードの言い分を否定した。
ロジャーズはハンターの小腸がアルコール漬けで保管されていることを知った。彼は裁判所に腸を取調べることを要求した。ハンターの腸が法廷に持ち込まれ、法医学の専門家はそれを点検して、「銃弾は上から下ではなく、前かがみになっているハンターの下から上に向けて発射されたと考えられる」と証言した。アルフォードは無罪放免され、ロジャーズは一躍有名になった。
彼は25年間の弁護士人生で189件の無罪評決を獲得した。有罪評決は20件足らずと言われている。77件の殺人の公判で74件の無罪を得ている。
彼のモットーは「われわれは誰の弁護でもする」(“We defend everybody.”)というものだった。
妻を娼婦として働かせたうえ、別の女性と懇ろになり、邪魔になった妻を殺したという嫌疑で起訴された被告人の弁護では、二人が言い争いをしているのが聞こえその直後に銃声がしたという証言に対して、妻は耳が良く聞こえないので、被告人はいつも妻と怒鳴り声で話していた、妻は自分の境遇を気に病んで自殺したのだという弁論を行った。無罪の評決を得て放免された依頼人はロジャーズに握手を求めた。ロジャーズは手を引っ込めてこう叫んだ。
「近寄るな。薄汚いヒモ野郎!君が有罪だってことは分かっているだろう!」
密室の中で3人の男が口論となった。銃声に続いて2人の男が部屋から飛び出してきた。部屋の中には一人の男の遺体と凶器となった拳銃が残された。拳銃に指紋はなく、二人の男はお互いにもう一人の男が犯人だと言い合った。ロジャーズは二人から依頼を受け、別々の公判で二人とも無罪にした。
「もしもあなたが有罪なら、アール・ロジャーズを弁護人に雇え」
世間ではそういうことになっていた。
あるとき彼の事務所を中国人の男が訪れ、殺人の弁護に幾らかかるかと尋ねた。ロジャーズの返事を聞いたその男は財布の中身を数えて、安心した様子で事務所を出て行こうとした。
「ちょっと待ちなさい。一体どういうことなんだ」、ロジャーズが尋ねると、男はこう答えた。
「奴を殺してくるから、ちょっと待っててくれ」。
アール・ロジャーズは徹底的な準備をして法廷に臨んだ。「どんな役者も彼ほどリハーサルをしない」と言われた。しかし、彼は自分が準備をしていることを同僚にも判らないようにしていた。全く無防備に法廷に臨んでいるように見せたがった。彼はいつもきちんと散髪し、上等の三つ揃えを着て法廷に臨んだ。トレードマークの鼻眼鏡をマジシャンのように扱って、相手の証人を見据えて、情け容赦のない反対尋問で血祭りにあげた。
フランシス・ウェルマンは「アール・ロジャーズは今日反対尋問の技術として知られているものを発明した」と称えた。
ロジャーズは再現証拠(demonstrative evidence)の創始者としても有名である。バーのポーカーテーブルで起った殺人事件の公判で「被告人が拳銃で被害者を撃つのを見た」という検察側証人を反対尋問するために、ロジャーズは血に染まったポーカーテーブルと椅子を法廷に持ち込もうとした。「トリックだ」「茶番劇だ」と言って検察官は異論を唱えた。裁判長にこの「前例のない暴挙」を認めさせるために、ロジャースは熱弁を振るった。
「かつては裁判をすることもなく人の首が刎ねられました。スターチェンバーの閉ざされた扉の中で、被告人は、弁護を受けることもなく、有罪を宣告されて、そして広場で絞首刑にされました。人間性に根ざした偉大な歩みの幾つかが踏み出された結果、最初の、公正で自由で開かれた陪審裁判が行われたのです。幸いなことに、何人も、前例がないという理由でこの偉大なる考えから後退しようとすることはありませんでした。本件が陪審のために正確な犯罪現場を法廷に再現した最初の事例だからと言って、検察官にはそれを『トリック』と呼ぶ権利があるでしょうか。神の名において私の答はNOです。
「ジョンソン証人はこの空間とこの時間においてある出来事が起ったと証言しました。しかし、私はそれを信じませんし、それは不可能なことなのです。私には、その現場を再現して、彼が宣誓のもとで起ったという出来事をその場で再現させる権利と義務があるのです。そうすることで陪審はジョンソンの語る物語が信じられるかどうかを自ら確認することができるのです。」
裁判長はロジャーズの要請を認めた。ロジャーズはジョンソンを事件のときと同じ席に座らせて、被告人と被害者の位置には彼らが被っていたのと同じシルクハット――被害者のものには穴が開いている――をおき、被告人の懐中時計、凶器となった拳銃などを次々に繰り出していき、ひとつひとつ出来事を再現する尋問をしていった。恐ろしいほどの臨場感と緊張感のなかで、弁護人が巧妙に組み立てた尋問の結果、ジョーンズは、被告人が被害者を殺害した後、今度は自分に銃口を向けたといいながら、何も言葉を発せず動揺もせずその場にいたという不自然な供述に固執し、自ら拳銃を手に取ったことを認めた。そしてついには、トイレで手についた火薬火傷を洗ったのではないかという問に、「私は、洗ったのかな?」と自問してしまった。被告人は無罪放免された。
1912年、陪審を買収したことで起訴された偉大な労働弁護士クラレンス・ダローはアール・ロジャーズを自分の弁護人に選んだ。ロジャーズは、気落ちしがちがダローを勇気づけながら、彼を「人民のために身命をささげるヒーロー」として描くことに努めた。証拠は圧倒的にダローに不利であったが、ダローは無罪となった。
ダローはロジャーズを「すべての時代を通じて最も偉大な刑事弁護士」と称賛した。
ロジャースの弱点はその破天荒な私生活と酒であった。依頼人をおいて酒場に行き、明け方まで飲み続けて、トルコ風呂でアルコールを抜いて法廷に行く、などという生活を続けていた。「酔っ払ったロジャーズは、この国のどんな弁護士が素面のときにやる弁護よりもましな弁護をする」という人もいた。
「長生きなんかしたくない。『老いぼれアール・ロジャーズ』なんて言われたくない」
娘のアデラに、彼はそうぼやいていたという。アデラは小学校に上がる前から彼の公判に付き添い、ロジャーズの相談相手にもなっていた。彼女は、1920年代から30年代にかけてジャーナリストとして活躍し、その後はハリウッド映画の脚本家、小説家として多くの作品を残している。父の生涯を描いたFinal Verdictはベストセラーとなり映画化もされている。
晩年のロジャーズはますます酒びたりになり、公判予定を忘れてしまうほどになった。父の生活を案じたアデラは禁治産宣告の申立てを行った。ロジャースは法廷で娘を反対尋問した。
ロジャーズは証言台の娘に近づき例の鼻眼鏡を取り出すと、ほんの数秒だけそれを揺らめかせるとすぐに内ポケットにしまい込んだ。
「ノラ[アデラの愛称]、私の顔を見てくれるかい。」彼女は父の顔を見た。
「ノラ、君は本当に私が狂っていると思っているのか?」
「いいえ、違うの、パパ。……そんなこと……。」
「じゃあ、君は」、ロジャーズは裁判長の机の上の書類を示して、言った、「この茶番を続けて私を拘束しておきたいのか。」
「違うわ、パパ……」。証人は泣き崩れた。
ロジャーズは嗚咽する娘の肩を抱いて、親族や記者連中が見守るなかを歩いて法廷を出て行った。娘は申立てを取り下げた。
1922年2月22日ロサンゼルスの安宿でアール・ロジャーズは52歳の生涯をとじた。
ロサンゼルスの弁護士でもある小説家アール・スタンレー・ガードナーはアール・ロジャーズをモデルに「ペリー・メイソン」を創り出したと言われている。
参考文献:
Alfred Cohn & Joe Chisholm, “Take the Witness!” (The New Home Library, New York, 1943, Originally Published in 1934).
Adela Rogers St. Johns, Final Verdict (Signet, New York, 1972, Originally Published in 1962).
Michael Lance Trope, Once Upon a Time in Los Angeles: The Trials of Earl Rogers (The Arthur H. Clark Company, Spokane, Washington, 2001).
彼は刑事事件が嫌いで民事弁護士を志した。彼の運命を変えたのは1899年地元の有力弁護士ジェイ・ハンターを射殺した配管工ウィリアム・アルフォードの事件だった。弁護士になって2年目の彼が弁護人に任命された。依頼人は拳銃を持っていたのに対して、被害者は杖をもっていただけだ。依頼人は被害者からいきなり杖で叩きつけられて転倒し、さらに襲い掛かってくる被害者に夢中で拳銃を向けたと正当防衛を主張した。しかし、検視官は、銃弾はハンターの体内を「下に向けて」貫通していると証言し、アルフォードの言い分を否定した。
ロジャーズはハンターの小腸がアルコール漬けで保管されていることを知った。彼は裁判所に腸を取調べることを要求した。ハンターの腸が法廷に持ち込まれ、法医学の専門家はそれを点検して、「銃弾は上から下ではなく、前かがみになっているハンターの下から上に向けて発射されたと考えられる」と証言した。アルフォードは無罪放免され、ロジャーズは一躍有名になった。
彼は25年間の弁護士人生で189件の無罪評決を獲得した。有罪評決は20件足らずと言われている。77件の殺人の公判で74件の無罪を得ている。
彼のモットーは「われわれは誰の弁護でもする」(“We defend everybody.”)というものだった。
妻を娼婦として働かせたうえ、別の女性と懇ろになり、邪魔になった妻を殺したという嫌疑で起訴された被告人の弁護では、二人が言い争いをしているのが聞こえその直後に銃声がしたという証言に対して、妻は耳が良く聞こえないので、被告人はいつも妻と怒鳴り声で話していた、妻は自分の境遇を気に病んで自殺したのだという弁論を行った。無罪の評決を得て放免された依頼人はロジャーズに握手を求めた。ロジャーズは手を引っ込めてこう叫んだ。
「近寄るな。薄汚いヒモ野郎!君が有罪だってことは分かっているだろう!」
密室の中で3人の男が口論となった。銃声に続いて2人の男が部屋から飛び出してきた。部屋の中には一人の男の遺体と凶器となった拳銃が残された。拳銃に指紋はなく、二人の男はお互いにもう一人の男が犯人だと言い合った。ロジャーズは二人から依頼を受け、別々の公判で二人とも無罪にした。
「もしもあなたが有罪なら、アール・ロジャーズを弁護人に雇え」
世間ではそういうことになっていた。
あるとき彼の事務所を中国人の男が訪れ、殺人の弁護に幾らかかるかと尋ねた。ロジャーズの返事を聞いたその男は財布の中身を数えて、安心した様子で事務所を出て行こうとした。
「ちょっと待ちなさい。一体どういうことなんだ」、ロジャーズが尋ねると、男はこう答えた。
「奴を殺してくるから、ちょっと待っててくれ」。
アール・ロジャーズは徹底的な準備をして法廷に臨んだ。「どんな役者も彼ほどリハーサルをしない」と言われた。しかし、彼は自分が準備をしていることを同僚にも判らないようにしていた。全く無防備に法廷に臨んでいるように見せたがった。彼はいつもきちんと散髪し、上等の三つ揃えを着て法廷に臨んだ。トレードマークの鼻眼鏡をマジシャンのように扱って、相手の証人を見据えて、情け容赦のない反対尋問で血祭りにあげた。
フランシス・ウェルマンは「アール・ロジャーズは今日反対尋問の技術として知られているものを発明した」と称えた。
ロジャーズは再現証拠(demonstrative evidence)の創始者としても有名である。バーのポーカーテーブルで起った殺人事件の公判で「被告人が拳銃で被害者を撃つのを見た」という検察側証人を反対尋問するために、ロジャーズは血に染まったポーカーテーブルと椅子を法廷に持ち込もうとした。「トリックだ」「茶番劇だ」と言って検察官は異論を唱えた。裁判長にこの「前例のない暴挙」を認めさせるために、ロジャースは熱弁を振るった。
「かつては裁判をすることもなく人の首が刎ねられました。スターチェンバーの閉ざされた扉の中で、被告人は、弁護を受けることもなく、有罪を宣告されて、そして広場で絞首刑にされました。人間性に根ざした偉大な歩みの幾つかが踏み出された結果、最初の、公正で自由で開かれた陪審裁判が行われたのです。幸いなことに、何人も、前例がないという理由でこの偉大なる考えから後退しようとすることはありませんでした。本件が陪審のために正確な犯罪現場を法廷に再現した最初の事例だからと言って、検察官にはそれを『トリック』と呼ぶ権利があるでしょうか。神の名において私の答はNOです。
「ジョンソン証人はこの空間とこの時間においてある出来事が起ったと証言しました。しかし、私はそれを信じませんし、それは不可能なことなのです。私には、その現場を再現して、彼が宣誓のもとで起ったという出来事をその場で再現させる権利と義務があるのです。そうすることで陪審はジョンソンの語る物語が信じられるかどうかを自ら確認することができるのです。」
裁判長はロジャーズの要請を認めた。ロジャーズはジョンソンを事件のときと同じ席に座らせて、被告人と被害者の位置には彼らが被っていたのと同じシルクハット――被害者のものには穴が開いている――をおき、被告人の懐中時計、凶器となった拳銃などを次々に繰り出していき、ひとつひとつ出来事を再現する尋問をしていった。恐ろしいほどの臨場感と緊張感のなかで、弁護人が巧妙に組み立てた尋問の結果、ジョーンズは、被告人が被害者を殺害した後、今度は自分に銃口を向けたといいながら、何も言葉を発せず動揺もせずその場にいたという不自然な供述に固執し、自ら拳銃を手に取ったことを認めた。そしてついには、トイレで手についた火薬火傷を洗ったのではないかという問に、「私は、洗ったのかな?」と自問してしまった。被告人は無罪放免された。
1912年、陪審を買収したことで起訴された偉大な労働弁護士クラレンス・ダローはアール・ロジャーズを自分の弁護人に選んだ。ロジャーズは、気落ちしがちがダローを勇気づけながら、彼を「人民のために身命をささげるヒーロー」として描くことに努めた。証拠は圧倒的にダローに不利であったが、ダローは無罪となった。
ダローはロジャーズを「すべての時代を通じて最も偉大な刑事弁護士」と称賛した。
ロジャースの弱点はその破天荒な私生活と酒であった。依頼人をおいて酒場に行き、明け方まで飲み続けて、トルコ風呂でアルコールを抜いて法廷に行く、などという生活を続けていた。「酔っ払ったロジャーズは、この国のどんな弁護士が素面のときにやる弁護よりもましな弁護をする」という人もいた。
「長生きなんかしたくない。『老いぼれアール・ロジャーズ』なんて言われたくない」
娘のアデラに、彼はそうぼやいていたという。アデラは小学校に上がる前から彼の公判に付き添い、ロジャーズの相談相手にもなっていた。彼女は、1920年代から30年代にかけてジャーナリストとして活躍し、その後はハリウッド映画の脚本家、小説家として多くの作品を残している。父の生涯を描いたFinal Verdictはベストセラーとなり映画化もされている。
晩年のロジャーズはますます酒びたりになり、公判予定を忘れてしまうほどになった。父の生活を案じたアデラは禁治産宣告の申立てを行った。ロジャースは法廷で娘を反対尋問した。
ロジャーズは証言台の娘に近づき例の鼻眼鏡を取り出すと、ほんの数秒だけそれを揺らめかせるとすぐに内ポケットにしまい込んだ。
「ノラ[アデラの愛称]、私の顔を見てくれるかい。」彼女は父の顔を見た。
「ノラ、君は本当に私が狂っていると思っているのか?」
「いいえ、違うの、パパ。……そんなこと……。」
「じゃあ、君は」、ロジャーズは裁判長の机の上の書類を示して、言った、「この茶番を続けて私を拘束しておきたいのか。」
「違うわ、パパ……」。証人は泣き崩れた。
ロジャーズは嗚咽する娘の肩を抱いて、親族や記者連中が見守るなかを歩いて法廷を出て行った。娘は申立てを取り下げた。
1922年2月22日ロサンゼルスの安宿でアール・ロジャーズは52歳の生涯をとじた。
ロサンゼルスの弁護士でもある小説家アール・スタンレー・ガードナーはアール・ロジャーズをモデルに「ペリー・メイソン」を創り出したと言われている。
参考文献:
Alfred Cohn & Joe Chisholm, “Take the Witness!” (The New Home Library, New York, 1943, Originally Published in 1934).
Adela Rogers St. Johns, Final Verdict (Signet, New York, 1972, Originally Published in 1962).
Michael Lance Trope, Once Upon a Time in Los Angeles: The Trials of Earl Rogers (The Arthur H. Clark Company, Spokane, Washington, 2001).