死体

2009年03月06日

江東区の女性殺害事件(星島事件)の公判で検察官は切断された被害者の肉片や骨片の写真200枚以上を法廷内のモニターに映して冒頭陳述や被告人質問を行い、姉の証人尋問では被害者の元気だったころのスナップ写真を使ったスライドショーを行ったということである。報道によると、これらは「裁判員制度を強く意識した立証」であり(日本経済新聞1月26日夕刊21頁)、東京地検はこの公判を裁判員裁判のモデルと位置づけ、「裁判員にも法廷で見てもらうというメッセージを込めた」と説明したそうである(MSN産経ニュース2009年1月20日http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/trial/214068/)。しかし、裁判員裁判ではこうした人の感情をかきたてて理性的な判断を誤らせる可能性のある証拠の利用は慎重であるべきである。陪審裁判が行われているアメリカではこうした証拠の利用を裁判官が拒否することは珍しくない。わが国においても現行法の運用としてこうした証拠を排除することは可能なことであり、そうすべきである。

関連性のルール

裁判で提出される証拠は紛争の解決に役立つものでなければならない。裁判で争われている事実の解明に役立つものであって初めて証拠としての資格がある。たとえば、被告人が被害者を殺したのか、被告人の行為によって被害者は亡くなったのか、犯行は計画的なものか、衝動的なものか。事実認定者の前に提出することが許されるのは、このような事実の存否の認定に役立つものでなければならないのである。すなわち、訴訟の帰結に影響を与える事実の蓋然性を高めたり低めたりする傾向を持つものでなければ証拠としては使えないのである。このような傾向のことを法律家は「関連性」(“relevance”)、あるいは次に述べる「法律的関連性」と区別する意味で、「自然的関連性」(“natural relevance”)と呼んでいる。

事実の存否の判断に多少なりとも影響を及ぼすもの――自然的関連性のある証拠――であっても、その証拠を見聞きすることによって却って事実認定者を真相から遠ざける危険性のある証拠というものが存在する。たとえば、被告人の前科や悪評というような証拠は、いま起訴されている犯罪の証明にとって多少の意味を持つかもしれないが、被告人が特定の犯罪を犯した証拠としての意味は小さい。その半面、被告人に対する予断や偏見をもたらし、さらに裁判の争点を混乱させることにもなりかねない。だから前科や悪評は起訴されている犯罪を証明する証拠としては使えないのである。一般的に、訴訟の帰結に影響を与える事実の認定に役立つ程度(証拠価値)とその証拠によってもたらされる予断・偏見、争点の混乱、重複・時間の無駄というような弊害の程度を比較して、後者の弊害が前者の価値よりも実質的に重いときには、その証拠を裁判で使うべきではない。この価値と弊害の比較考量の結果を法律家は「法律的関連性」(“legal relevance”)と言い、法律的関連性が「ある」とか「ない」とか言って、証拠の採否を決めるのである。

アメリカでは、連邦でも州でも、この自然的関連性と法律的関連性のルールが制定法によって定められている(例えば、連邦証拠規則401、403)。日本には関連性の一般原理を定めた条文は存在しない。しかし、ある資料が証拠として裁判で利用されるためには「関連性」が必要であるという考えは昔から実務で認められており、前科や悪性格は犯罪認定の証拠にならないというのは大審院以来の判例でもある(大判昭2・9・3新聞2750−9、和歌山地決平13・10・10判タ1122−132)。だから「法律的関連性」というルールはわが国でも一般的に承認されていると言える。訴訟関係人が「事件に関係のない事項」や「重複」する事項の陳述をすることを制限し、当事者が冒頭陳述で「偏見又は予断を生ぜしめる虞のある事項」を述べることを禁止している法律の条文(刑事訴訟法295条、296条)に関連性のルールの制定法上の根拠を認める考えもある。

感情をかきたてる証拠

さて、アメリカの刑事裁判では、法律的関連性のルール――証拠価値と弊害の比較考量――が適用されるべき典型的な場面の一つとして、「感情をかきたてる証拠」(inflammatory evidence)の問題がある。しばしば問題となるのが、殺人事件における被害者の腐敗したり酷く損傷した死体の写真や解剖写真、そしてそれと対比させられる生前の被害者の健康的な写真である。

陪審員の感情をかきたてる写真だというだけでは排除されない。裁判官はその写真が陪審の感情をかきたてて理性的な判断を妨げる危険性の度合いと、事実認定のための証拠としての価値を比較検討しなければならない。そして、証拠価値よりも危険性の方が実質的に上回っているときには、裁判官はその証拠を採用せず陪審に見せない――証拠排除する――のである。この危険性と価値の比較考量は裁判官の裁量的な判断とされている。したがって、上訴審の審査においても、裁判官の判断は尊重される。しかし、判断の誤りの程度が大きいときには、裁量権を濫用して被告人の公正な裁判を受ける権利を侵害したとされる。

アメリカの判例集にはこの問題を論じた判例がたくさんある。1979年のカンサス州最高裁判所の判例は次のようなケースである。殺人事件の公判で検察官が被害者の遺体の写真14枚を提出したが、そのうちの一枚は解剖写真であり「顎から股間にかけて切り開かれ、臓物を抜き取られた食肉加工場の牛のように横たえられている。胸の皮の一部は遺体の顔を覆い、胸部と腹部の臓器が曝け出されている」というものであった。この事件では被害者の死因については実質的に争われておらず、政府側の専門家証人が死因は刃物の刺し傷による出血死であると明言している。確かにいくつかの写真は凶器が体内に侵入した角度や深さを陪審が判断する助けにはなるが、同じ点を重ねて立証するために解剖写真を何枚も見る必要性はない。こう述べて、裁判所は「この証拠の唯一の可能な目的は、陪審員の心をかきたてることである。」と結論し、有罪判決を破棄して差し戻した。State v. Boyd, 532 P.2d 1064 (Kan. 1975), at1068.

強盗殺人の現場に横たわる被害者の写真――「被害者の破壊された顔、頭部の傷、血痕、そして、雪の上の頭の周囲に散らばる肉片と脳の一部」――について、訴追側は、銃で頭部を撃たれたとき被害者の頭部が地面に近い位置にあったこと、そして、強盗が終わった後に被害者を殺害するだけの目的で殺人が行われたことを立証するために必要であると主張したが、ペンシルベニア州最高裁判所は次のように述べてこの主張を退けた。

「写真が感情をかきたてるもの(inflammatory)とみなされるときには、裁判所は、その写真の本質的な証拠価値が高度のものであり、それを取調べる必要性が、陪審の精神と情緒をかき乱す可能性を明らかに上回るものであるのかどうかを比較考量(balancing test)しなければならない。……確かに、ペンシルベニア州警察のマコモンズ刑事は公判でその写真を見て、被害者が撃たれたとき、その頭部は地面に近いところで地面と平行の状態だったという意見を述べた。しかし、刑事はそう証言するためにその写真を見る必要はなかったのである。なぜなら、彼は事件後に現場で死体とその状態を観察しているからである。実際のところ、マコモンズ刑事は、わざわざ写真を見なくても実際に見たことを述べ、自らの観察に基づいて意見を言うことができたのである。」Commonwealth v. Rogers, 401 A.2d 329 (Pa. 1979), at 330.

反対に、その写真が被害者の身元や死因を明らかにしたり、さらには犯行態様や被告人の意図を証明する証拠として価値をもち、その価値が陪審の感情をかきたてて理性的な判断を妨げる危険性よりも大きいときには、証拠として採用される。See, e.g., State v. Needs, 591 P.2d 130 (Idaho 1979); State v. Watts, 441 N.W. 2d 395 (Iowa 1989).

被害者の生前の写真についても、同様の証拠価値とリスクの比較考量が行われる。被害者の身元や身長などの身体的特徴を証明する証拠として価値がある場合は許容されるが、陪審の感情に訴えるだけのものであれば、許容されない。See, e.g., Ricci v. State, P.2d 79 (Nev. 1975); State v. Finch, 975 P.2d 967 (Wash. 1999).

星島事件の場合

法律的関連性のルールがわが国にも妥当することは先に述べた通りである。そして、アメリカ人の感情をかきたてる死体の写真はやはり、日本人の感情をもかきたてるだろう。そうすると、アメリカの裁判官が行わなければならない比較考量を日本の裁判官もやらなければならないということである。

星島事件の場合どうなるだろうか。この事件の訴因は殺人と死体損壊遺棄である。被告人は訴因を全く争っていない。星島貴徳氏は東城瑠璃香さんを殺してその死体をバラバラに切り刻んで捨てたことを争っていない。被害者の身元も争点になっていない。したがって、被害者の肉片や骨片の写真や彼女の生前のスナップ写真は、訴因を証明する証拠としてはほとんど価値がない。

訴因を裏付ける客観的な証拠として骨や肉片などの物的証拠が必要だとしても、それらを発見した捜査官の供述やそれらのDNA鑑定をした専門家の意見があれば十分であり、むしろそれらの方が証拠価値が高い。そしてこれらはすでに証拠として取り調べられている。

それでは、これらの写真は量刑事情を証明する証拠として価値を持つだろうか。この事件では量刑――死刑にすべきかどうか――がまさに争点である。だから、瑠璃香さんの肉片や骨片や生前の写真が被告人に死刑を選択させる証拠として価値を持つならば、それを採用することも許されるだろう。しかし、これらの証拠が死刑選択のための証拠として価値を持つことはありえない。

本件において検察側は死刑を正当化するほどの「犯行態様の残虐さ」を証明するものとしてこれらの証拠が必要だと言うのかもしれない。しかし、死刑の適用基準を示した永山事件最高裁判決が基準の一つとして掲げているのは「殺害の手段方法の執拗性・残虐性」であって、死体の処理方法については問題にしていない(最2小判昭58・7・8刑集37‐6‐609)。骨の写真にしろ肉片の写真にしろ、それらはすべて死体損壊の態様を示すものにすぎない。星島氏は瑠璃香さんの首に包丁を刺して殺害したのであって、生きている彼女を切り刻んで殺したわけではない。

最高裁は「犯行後の情状」を死刑適用基準の一つとして挙げている。しかし、死体損壊の方法はこれに含めることはできない。なぜなら、死体損壊罪は殺人とは別の犯罪なのであり、どのような方法で死体を傷付けても懲役3年を超える量刑をすることはできない。法律はそれを許していないのである(刑法190条)。とうてい死刑を正当化することはできない。

被害者の生前の写真は、殺人によって失われたものが何だったのかを示す証拠だと言える。しかし、殺人罪の量刑を正当化するのは人の命を奪ったという事実である。その人が具体的にどのような人生を歩んでいたのかによって、量刑に差が出ることは今日の社会では正当化できない。家族や仕事に恵まれ幸福な人生を送った人を殺した場合と、暗く凄惨な生活を重ねてきた人を殺した場合とで、量刑に差があって良いという理屈はない。

要するに、本件における被害者の写真の利用はいずれも、訴訟の争点を理性的に解決するための証拠ではない。それらは事実認定者の感情に訴えるだけの意味しかないのである。わが国における「法律的関連性のルール」が適用されるならば、この裁判において被害者の肉片や骨片そして生前の写真を利用することは許されなかったのである。

冒頭陳述や弁論における写真の利用

仮に写真の証拠価値が認められて証拠として許容されたとして、その写真を冒頭陳述や最終弁論でどのように使っても良いということにはならない。法律的関連性が認められて採用された写真であっても、最終弁論でその写真を本来の目的のために使うのではなく、事実認定者の感情をかきたてるために用いるのであれば、その手続は違法である。

この点についてもアメリカにはいくつかの先例がある。強盗事件の最終弁論で検察官が被害者の死体(被害者は事件の後に他殺体で発見された。しかし、被告人は殺人では起訴されていない。)の写真を示して「ジョン・ウィリアムズ[被害者]はもはやこの世にはいません。彼はまさに人生の花の時代を奪われたのです」と述べたことについて、インディアナ州最高裁判所は、次のように述べて、これは被告人の公正な裁判を受ける権利を奪ったものであるとして有罪判決を破棄した。

「これは殺人事件ではない。上訴人による強盗事件の成否が問われているのである。……ウィリアムズの死体の写真を示して、彼の死の責任が上訴人にあることを強調する検察官の熱狂的な最終弁論は、上訴人が公正な裁判を受けなかったとわれわれに信じさせる状況の一つというべきである。」Adler v. State, N.E.2d 171 (Ind. 1967), at 173.

星島事件において、被害者の写真が有罪無罪の証拠としても、量刑の証拠としても証拠価値がないことはすでに述べた。検察官は、冒頭陳述で被害者の肉片や骨の写真を示して「これは……捜索で見つかった肉片の一部です。真ん中のくぼんだ所はおへそです。へその上には、東城さんが生前開けていたというピアスの穴と一致します。……下に映っているメジャーからも分かるように、すべて5センチ角程度に切り刻まれています。これは、指の一部です」などと述べた(MSN産経ニュース1月13日http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/trial/212005/)。また、検察官は最終弁論の中で次のように述べて被害者の遺体が切り刻まれたことをことさらに強調した。

「[星島被告は]東城さんの手足から肉をそぎ取り、まな板の上で切り刻みました。その翌晩には、東城さんの胴体から腹や胸の肉をそぎ取り、臓器をまな板の上で切り刻みました。さらに翌晩…、耳をそぎ、頭蓋骨(ずがいこつ)をのこぎりで切りました。骨はゴミ袋に入れて隠していましたが、腐らせて強烈な腐臭が発生したため、犯行が発覚しないように鍋でゆでました。星島被告は東城さんの遺体を、自己の生活と体面を守るために邪悪な“物”として無残に扱いました。」「1カ月以上も汚水の水流に耐えた骨片は、忍耐強かった東城さんの悔しさ、無念さを訴えかけているかのようです。」MSN産経ニュース2009年1月26日、http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/090126/trl0901261449015-n1.htm

この最終弁論の意図は、死刑選択の基準に照らして本件では死刑を選択することが合理的であることを論証するというようなものではなく、事実認定者の感情をかきたて燃え盛る怒りに基づく判断を求めるものである。このような弁論は公正な裁判の対極にあるものである。

結論

これまでの刑事裁判は、「裁判官はプロフェッショナルであり、感情に流されず理性的に裁判をするものである」という前提で行われていた。この前提が正しいのかは大いに疑問がある。しかし、証拠の許容性の判断をするのが当の裁判官であるから、「この証拠は裁判官(すなわち自分自身)の理性を狂わせる」などというストイックなルールの適用を期待すべくもなかった。しかし、裁判員裁判ではこのフィクションはなくなる。評議室の中で正義と理性に基づく評議が行われるためには、法廷に提出される証拠の選別が必要である。すなわち、裁判員裁判が成功するためには、法律家が証拠法の厳格な適用に意を用いることが不可欠なのである。
以上


plltakano at 22:59コメント(6)トラックバック(0)  このエントリーをはてなブックマークに追加
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