刑事裁判

2008年10月19日

本の宣伝を一つ。

朝日新書から木村晋介監修『激論!「裁判員」問題』が発売されました。

本書は、木村晋介氏の挑発に乗って、裁判員制度反対派の西野喜一氏と賛成派の私が文字通り「激論」を闘わせた本です。一般読者向けの本ですから、憲法の制定過程とか証拠法の議論とかはあまり詳しく述べられていませんが、反対派と賛成派の主要な論点についてこれほど深く議論を展開したものはないのではないかと思います。どうぞご購読を。定価777円。全国書店で発売中。

本書の目次:
プロローグ 木村晋介
第一部 なにが問題か
・裁判員制度の概要  山本紘之
・賛成派、反対派の主張
(賛成派)高野隆  「裁判員の力で、世界最悪の日本の刑事裁判は今よりましになる」
(反対派)西野喜一 「裁判員制度は憲法違反で、国民に大迷惑な制度」
第二部 激論、裁判員!
第1章 市民生活と裁判員制度
(1) 冤罪は減るのか
1)被告人に不利にならないか
2)なぜ米国のように選択制でないのか
3)米国では「無罪なら裁判官裁判、有罪なら陪審裁判が有利」というのは本当か
(2)重罰化とメディアと裁判員
4)光市の事件は何を示したのか
5)メディア規制をすべきか
6)裁判員は重罰化の歯止めになるか
7)弁護団はなぜメディアを信頼しないのか
8)裁判員制度は刑事事件をわかりやすくするか
(3)死刑と裁判員
9)死刑廃止論者は裁判員になれるか
10)死刑廃止論者は裁判員を辞退すべきか
(4)裁判員制度は何のために
11)陪審派と反陪審派の妥協の産物だったのか
12)重罪でなく軽微な事件から始めるべきだったのか
13)現場の裁判官、検察官、弁護士はこの制度をどう見ているのか
14)裁判所のホンネは「誤判の責任を国民に転嫁する制度」なのか
15)痴漢など、すべての否認事件に裁判員を適用すべきでないのか
16)裁判官を事実認定のプレッシャーから解放すべきなのか
17)事実認定と法令適用を切り離すことはできるのか
18)日本の裁判は有罪判決が多すぎるのか
19)裁判官は無罪判決より有罪判決の方が書きやすいのは本当か
第2章 あなたが裁判員に選ばれたら
(5)裁判員の負担
20)負担はどの程度になるのか
21)裁判員になると人生が暗転するのか
22)国民として負担を引受けるべきか
23)記憶か書面か
(6)裁判員制度は憲法違反か
24)裁判員は「意に反する苦役」か
25)「あなたが裁く」とは
26)評決を棄権できるのか
27)目撃者の証言義務とはどう違うのか
28)民意は裁判員制度に賛成か
(7)裁判員の守秘義務
29)やらせておいて言わせないとは
30)なぜ評議の内容を公開できないのか
31)裁判員に守秘義務を課すのは憲法違反か
(8)裁判員に選ばれるリスク
32)リストラや廃業の危機なのか
33)裁判員になったことを上司に言っても大丈夫か
34)辞退を認めると残るのは公務員と主婦ばかりにならないか
第3章 日本の裁判はどうなる
(9)負担軽減と粗雑司法のジレンマ
35)短期集中型でずさんな裁判にならないか
36)集中審理で裁判はわかりやすくなるのか
37)ハードスケジュールに裁判員はついていけるのか
38)弁護士の尋問技術養成は間に合うのか
(10)刑事手続きの反人権的状況を変える突破口になるか
39)裁判員制度で捜査は民主化するか
40)取調べの可視化は進んだか
41)裁判用語はわかりやすくなるか
42)裁判員を前にして証言者に心理的圧迫はないのか
(11)よりよい裁判にするために裁判員にできることは何か
43)弁護士はどういう戦略を練っているのか
44)裁判員は裁判官に「ノー」と言えるか
(12)裁判員の判断力は信頼できるか
45)裁判官に量刑判断を任せられるか
46)過去の裁判の積み重ねた「量刑相場」に根拠はあるか
47)検事控訴を認めなくすべきか
(13)要するによくなるのか、悪くなるのか
48)裁判官は変われるのか
49)大変だけどやりがいはあるのか
50)市民を権力に取り込む制度なのか
総括 木村晋介 
激論!「裁判員」問題 (朝日新書 142)
激論!「裁判員」問題 (朝日新書 142)


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2008年03月21日

法務省は、「裁判員が参加する裁判に限定して」、拘禁されている(保釈が認められていない)被告人が法廷でネクタイを着用し、革靴を履くこと、さらに、弁護人の隣に着席することを認める方針を発表した(読売オンライン2008年3月20日03時05分http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080319-OYT1T00897.htm)。「ネクタイ」と言っても「結び目がほどけない取り付け式のもの」であり、「革靴」も「革靴に見えるが実際にはかかとの部分がない形状のもの」という代物であるが、SBM運動(注1)の提唱者である私にしてみると、「一歩前進」には違いなく、多少の感慨はある。

しかし、なぜこの新方針を「裁判員が参加する裁判」に限定する必要があるのだろうか。この限定の背後には、「裁判官はプロだから、被告人の服装や着席位置などに心証を左右されることはないが、素人はそうした要素に影響されやすい」という発想が窺える。

しかし、この裁判官/裁判員二分法に実証的な根拠があるようには見えない。裁判官もおなじ人間である以上、腰縄手錠で法廷に引き立てられ一人だけラフな服装にサンダル履き、全身を衆目に曝してベンチに座っている被告人の姿に影響を受けているに違いない、と私は思う。いや、むしろ、職業裁判官の方が、そうした被告人の服装や着席位置が示す「有罪シグナル」に過敏に反応しているのではないかと思える節がある。

これまで私は何度も裁判官に「被告人にスーツとネクタイを着用させ、弁護人席の私の隣に着席することを認めてほしい」という申し入れをしてきたが、これを認める裁判官はほとんどいなかった。裁判官は「被告人の身柄に対する戒護上の問題がある」などと説明するが、これが本当の理由でないことは今回の法務省の方針転換がはっきりと示している。そもそも、身柄拘束されていない被告人には「戒護上の問題」などありえないのだから、これが被告人を弁護人の隣に座らせない理由でないことは明らかだ。

ある裁判官は「長年にわたる法廷慣行」を理由に被告人を弁護人の隣に座らせることを拒否した。裁判所の慣例の方が、被告人が弁護人と自由に意思疎通することよりも大切だというのだ。しかし、これも本当の理由ではないと私は思う。もしこれが本当だとしたら、職業裁判官たちは「法廷慣行に違反する」と言って今回の法務省の方針をも拒否するはずだが、彼らは決してそうはしないであろう。まるでこれまでずっとそうして来たかのように、「裁判員が参加する裁判に限定して」被告人を弁護人席に着席させるだろう。

日本の職業裁判官たちが、被告人にきちんとした格好で法廷に来ることを拒み、当事者席の弁護人の隣に座ることを拒否して、スエット・スーツにサンダル履きで全身をさらしてベンチに座ることを強制する本当の理由は何だろうか。私はこう思う。日本の職業裁判官は刑事被告人を訴訟の当事者とは考えていない。被告人は争いの当事者ではなく、お白州で裁きを受ける「罪人」でなければならないのだ。私の友人の萩原猛(弁護士・大宮法科大学院大学教授)がさいたま地裁でSBMの申立てをしたところ、裁判官はこう答えてそれを拒否したそうである――「被告人は訴訟の客体でもありますから」と。「客体」というのは法律家のジャーゴンで「主体」の対をなす言葉、つまり、訴訟の「対象」という意味である。多くの裁判官はこれほど正直に表現することはないまでも、本音ではそう考えている。日本の職業裁判官が被告人を裁判の当事者ではなく、「対象」と考えていることを示すもう一つの例をあげよう。民事裁判では、第1審で原告であった人であれ、被告であった人であれ、控訴をすると控訴審では「控訴人」と呼ばれ、控訴された側は「被控訴人」と呼ばれる。アメリカでは刑事裁判でも、被告人が控訴すると彼/彼女は「控訴人」と呼ばれ、政府は「被控訴人」と呼ばれる。被告人が上告すれば彼は「上告人」であり、政府が上告すれば「被上告人」になる。ところが、日本の刑事裁判では被告人は地裁から最高裁まで一貫して「被告人」と呼ばれ続ける。日本の被告人は、自ら控訴しても上告しても、決して「控訴人」「上告人」と呼ばれることはないのである(注2)。

要するに、日本の職業裁判官の意識の中では、刑事被告人は権利を主張する紛争の当事者ではなく、自分たち(判官)の裁きを受ける個人(罪人)にすぎない、そうでなくては困る。だから、民事裁判の当事者のようにきちんとした身なりをして、弁護士の隣に座ることなどもってのほかなのである。

裁判員として刑事裁判にかかわることに国民が躊躇する理由の一つとして「自分に人を裁くことができるか不安だ」というものがある。多くの国民が刑事裁判というのは「人を裁く」ことだと思っている。しかし、ここに大きな問題がある。近代国家において司法は「人を裁く」ものであってはならないからである。近代国家においては、神の代理人として特別の権限を与えられた人物はいてはならないのであり、したがって「人を裁く人」は存在してはならないのである。地上にいる人はみな同じ権利義務の主体であって、一部の人間が他の人間を裁くことなど許されるはずがない。

民事裁判も刑事裁判も、国家が運営する紛争解決装置である。刑事裁判官は、刑事訴追をめぐって存在する当事者同士(政府と被告人)の間にある紛争――有罪か無罪か、死刑か無期か、実刑か執行猶予か――を証拠と法に基づいて判断し、決着をつける役割を担っている国家機関にすぎない。裁判官は、決して、全体(神、正義)の代弁者として個人を裁いているのではない。

ところが、日本の職業裁判官の意識は、いまだに「近代」に至っていないのである。彼らの意識は江戸時代のお白州を主宰する与力のそれとほとんど変わりがない。そして、実際のところ、この意識は職業裁判官だけではなく、検事や弁護士の中にも蔓延している。「裁判員制度は現代の赤紙だ」とか「人を裁くことを国民に強制するのは国民の良心の自由を侵害する」などと言って裁判員制度を批判する論者は、一見リベラルな日本国憲法の擁護者のようにふるまっているが、実はそうではなく、この前近代的な刑事裁判思想にとらわれているのである。

被告人に裁判というパブリック・フォーラムに参加する当事者にふさわしい格好をすることを認め、自分の代弁者たる弁護人の隣に着席することを認めるというのは、被告人の諸権利を実質化することに役立つだけではなく、刑事裁判というものに対する前近代的な意識を打破する契機となるだろう。しかし、一度巨大な権限を手にした人はそれを容易に手放そうとはしないものである。被告人が弁護人の隣に座ることをかたくなに拒否している現在の職業裁判官たちや、裁判員制度を憲法違反だと言ってその実施を阻止しようとしている法律家たちの存在がそれを良く示している。法務省が、まがいもののネクタイやスリッパもどきの革靴の着用にこだわるのも、いわば「最後の抵抗」であろう。

(注1)SBM運動:被告人を自分の隣に座らせることを裁判所に要求する弁護士の運動。SBMは”Sit By Me”(私のそばに座って)の略。その考え方と実践については高野隆・金岡繁裕「弁護人の隣に座る権利――SBM運動の意義と実践」季刊刑事弁護52号(2007年)を参照。
(注2)被告人を「控訴人」「上告人」と呼んではいけないという決まりはない。だから、私は「控訴人」「上告人」という表記をすることがある。


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2007年01月03日

ソクラテスが「涜神の罪」で告発されたころ、すなわち紀元前400年ころのアテネでは、「民衆裁判」と呼ばれるべきものが行なわれていた。訴訟指揮を行なう裁判官はおらず、法的な論点も事実認定も量刑もすべて籤で選ばれた200人から500人の市民(陪審員)の投票で決められた。検察官制度はなく、刑事訴追も私人によって行なわれた。法廷では訴追人と被告人が陪審員の前で自ら弁論を行ない、それを聞いた後直ちに投票が行なわれ、多数決によって被告人の有罪無罪が決められた(同数の場合は無罪とされた)。

第三者が告訴人や被告人に代わって弁論することは原則として認められていなかった。訴追人も被告人も、自分の主張を自分で述べなければならなかった。ソクラテスのような人ならば、法的な論点についても事実上の論点についても自ら十分に弁じ立てることが出来たかもしれないが、普通の訴訟当事者にとってそれはかなり難しい仕事であっただろう。両当事者は弁論のなかで法を論じ、証拠を引用し、時には証人尋問を行う。かなりの熟練を要する作業である。そこで経済的に余裕のある訴訟当事者はロゴグラフォス(logographos)と呼ばれる弁論作家を依頼し、弁論を書いてもらい、その内容を暗記して法廷に臨んだ(Roscoe Pound, THE LAWYER FROM ANTIQUITY TO MODERN TIMES (West, 1953), p33)。

当時のアテネには数百人のロゴグラフォスがいたと言われる(Michael Gagarin, Series Introduction, Vol. 1, The Oratory of Classical Greece (University of Texas Press, Austin, 1998), xii )。しかし、今日までその作品が伝えられているのはわずか10人であり、弁論の数にして約150と言われている(id., xvi)。弁論作家は訴追人・被告人いずれの依頼も受ける。そして、依頼人自身が法廷で弁論するためのいわば「台本」を書くわけだから、その作品で「私」というのは弁論家ではなく、依頼人たる訴訟当事者である(弁論作家自身が訴追人あるいは被告人として弁論する例もある。例えばアンドキデスの現存作品は全てそうである)。

そして、弁論作家は、自分の意見ではなく、依頼人の身になって依頼人に有利な主張を説得的に訴えようと努力した。例えば、最古の弁論作家アンティフォン(前480年ころ−411年)の作といわれる6編の弁論のうち、1編は告発側、2編は被告側で、3編は告発側・被告側が2回ずつ弁論の応酬を行なう「4部作集」(テトラロギア)と呼ばれる弁論の習作である。告発側の弁論である『毒殺容疑での義母告発』の中で、アンティフォンは奴隷に対する拷問尋問(市民に対する拷問は認められていなかった)について

「奴隷どもが否定したり、筋の通らないことを言ったりすれば、拷問尋問によって事実を申し述べることを余儀なくされるでありましょう。何故なら、拷問尋問は嘘を話そうと用意している者にさえ真実を述べるようにさせるからです。」

と論じている(高畠純夫訳「アンティフォン弁論集」富山医科薬科大学一般教育研究紀要14−1(1992年)、4頁)。しかし、被告側の弁論『ヘローデース殺害に関して』では、拷問による供述の偏頗性を次のように指摘している。

「皆さんは次のことをご存知のことと思います。すなわち、拷問される者は拷問尋問の最大の責任者の側に立ち、結局はそうした者を喜ばせるようなことを話してしまうということをです。なにせそうした者の中にのみ救いはあるのですから。そしてそれはとりわけ自分が嘘の非難をなそうとする者がその場にいない場合にそうなるでありましょう。」(同前、37頁)

弁論作家自身が法廷に赴き、被告人のために被告人に代わって弁論を行うということが絶対になかったかというと、そうでもないらしい。例外的に、被告人の親や友人、出身部族の仲間に弁論してもらうことが認められる場合があり、このようにして法廷に同席する弁論者のことをシネゴロス(synegoros)と呼んでいた(Pound, supra. pp31-32)。

前340年のアテネ。美貌のヘタイラ(高級娼婦)、フリュネ−が涜神の罪で訴追された。

訴追人は彼女の元恋人ユーティアス。彼は弁論作家アナクスメネスの告発弁論を引っさげて出頭した。対する弁護人は雄弁家ヒュパリデス、彼もフリュネーの恋人であり、つまりユーティアスの恋敵であった。ソクラテスの先例を引くまでもなく、涜神の罪で有罪になれば死刑である。形勢は被告人側に不利であり、ヒュパリデスはなかなか弁論を進められなかった。このままでは陪審員たちは有罪の評決をするに違いない。

と、そのとき彼は、何を思ったか、依頼人を法廷の中央に突き出し、彼女の衣服をはぎ取った。陪審員たちは思わず目を見張った。彼らは、彼女の汚れなき裸身にアフロディーテを重ね畏れて、フリュネーに無罪の評決を言い渡した。

最近の研究によるとフリュネーが訴追されヒュパリデスが彼女の弁護をしたのは事実のようだが、2人が恋人同士であったとか弁護人が被告人の衣服を剥いだというのは、後の伝記作家の創造だとのことである(Craig R. Cooper, “Hyperides and the Trial of Phryne” Phoenix 49 (1995), pp303-318)。

フリュネーは当時のアテネで最も著名なヘタイラであった。彼女の顧客は各界の著名人ばかりであり、また、彫刻家プロクシテネスのモデルでもあった。彼のアフロディーテ像のモデルはフリュネーとされる。当時のアテネの裁判では女性はたとえ刑事訴追を受けても法廷に出頭することが許されなかった。法廷に出られるのは男性だけだった。しかし、フリュネーはアテネ市民にとっては特別な存在であり、法廷に出ることが許されたのだ。


ウィニペグ大学の古典学者クレイグ・クーパー博士の解説によると、フリュネーが訴追された罪は涜神罪(アセベイア)であるが、具体的には、?アポロ神殿(リュケイム)でどんちゃん騒ぎしたこと、?新たな神を紹介したこと、そして?違法に男女の宗教的集会(タイアソイ)を開いたこと、である(Craig R. Cooper, Hyperides, in Vol. 5, The Oratory of Classical Greece (University of Texas Press, Austin, 2001, at p147)。いずれにしても、この当時アセベイアによる訴追は政治的に利用されていた。というのは前430年の法令で、無信仰や異端の意見に対してこの罪が適用されることになったからだ。プロタゴラス、ソクラテス、アリストテレスというような哲学者もこの訴追を受けている。著名な女性で政界にも影響力があったと思われるフリュネーに対する訴追も政治的な動機が背後にあったと考えられる。

いずれにしても、ヒュパリデスによるフリュネーの弁護は後の弁論家や芸術家たちにインスピレーションを与えた。前2世紀の修辞学者アルシフロンは、フリュネーが胸をはだけたから裁判に勝ったと考えるべきではなく、ヒュパリデスの弁論によってその行動の適切さがもたらされ、その結果、裁判の成功をもたらしたのだ、と論じた。ローマの雄弁家クインティリアーヌスは、「ヒュパリデスの雄弁は確かに賞賛に値するが、しかし、フリュネーを救ったのはそれではなく、彼女の身体の優美であった」と述べた。18世紀新古典派の巨匠ジャック・ルイ・ダビッドや19世紀フランスアカデミズムの画家兼彫刻家ジャン・レオン・ジェロームが「フリュネーの裁判」を描いている。Jerome Phryne on Trial

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2006年12月29日

月曜日(12月25日)に、周防正行監督の新作「それでもボクはやってない」(2007年1月20日公開)の日弁連試写会があった。上映後に監督を交えてのパネルディスカッションがあり、私は光栄にもパネリストの1人として周防監督と言葉を交わす機会を得た。

一映画ファンとしてこの映画を見ることは、私にはできなかった。やっぱり。
「身も蓋もない映画だなあ。」
日弁連の控え室で周防監督自身に向って思わずそう口走ってしまった。開口一番こんな失礼な挨拶をしたことをちょっと後悔した。
「私にはあまりにもリアルな映画なんで……観客として見ることができませんでした。」
私は正直に弁解した。

まさにこれが日本の刑事裁判である。これが現実である。これがいま全国津々浦々の裁判所で毎日繰り返されている出来事である。「有罪率99%」とはこういうことなんだよ。

刑事弁護士というこの国の司法におけるマイノリティにとっての生の現実が、これほどまでにあけすけに隠し事なく端から端までドラマになり映像になり言葉になったことは、これまでなかった。これまでの日本の裁判映画・法廷ドラマ・事件小説はどれもこれも、一方的な思い込み、過剰な賛美、こっけいな熱弁、作者の無知とぼやけた細部の寄せ集めであり、真実は竹薮の中に転がっていた。この映画は徹底的に現実にこだわっている。表現者にとって「現実」とは際限のないものである。例えば、集中押送で地検管内の警察署を廻るバスのなかで数珠繋ぎになっている被疑者や検察庁の地下留置場で被疑者たちが一列に並んで長い捕縄を外される場面の映像や音を、監督は微細かつ正確に再現している。この「正確さ」のために費やされた膨大なエネルギーを私にはなんとなく想像できる。このシーンが映画になったというのはわが国の刑事裁判にとって歴史的な事件と言うべきである。取調室も法廷も判事室も法律事務所も、傍聴マニアの視線も刑事裁判官の所作も、全てが一つ一つこのように作りこまれている。

私には映画を批評する資格はないが、「アラバマ物語」や「12人の怒れる男」やヒッチコックの「間違われた男」や黒澤の「羅生門」が傑作だというのならば、この映画はもっと傑作である。私はそう思う。しかし、それは私にとっては重要ではない。私にとって重要なのはこの現実が映画になったということだ。

私は映画を見てこれほどまでに打ちのめされたことはない。


plltakano at 06:52コメント(6)トラックバック(0)  このエントリーをはてなブックマークに追加
先日ある事件で、被告人の着席位置に関する申し立てを行った。こちらは、「被告人は当事者であり、公判中自分の弁護人と自由にコミュニケーションする権利がある。弁護人席の前に座ったのでは、不自然な姿勢を取らなければ弁護人とコミュニケーションできない。したがって、被告人は弁護人の横に着席する権利がある。民事裁判では原告も被告も弁護士の横に座っている。そのことに誰も苦情を言わない。刑事裁判の被告だけ弁護士の隣に座ってはいけないという理由はどこにもないはずだ」と主張した。これに対して検察官は、「公判中は常に被告人の言動が観察されていなければならず、そのためには被告人は弁護人の前に座らさなければならない」などと、筋の通らない主張をした。刑事裁判は被告人を観察する手続ではない。被告人は刑事裁判という紛争の当事者である。訴訟の当事者が法廷で自分の弁護士の隣に座るのは自然なことである。

裁判長は、公判開始早々、5分間にわたってこの問題についてコメントした。彼は、「検察官の主張よりも、弁護人の主張の方が筋が通っていると思う」と言った。しかし、それに続けてこう言った。「けれども、裁判官は、学者ではなく、実務家である。」そう言って、裁判長は、結局、私の依頼人を私の隣ではなく、前のベンチに座らせた。

裁判官とは何だろうか。憲法によれば、裁判官は、法と良心に従って、紛争を解決するための判断をすることになっている。自分にとって「筋の通らない」ことであっても、検察官が言うことには従う、不合理なことであっても長年にわたって行われてきたことには従う。このようなことが彼らの「良心」だというのならば、それは事なかれ主義の小役人根性と同義である。そのような人間に税金を払って正義の判断を委ねているわれわれは実際すごく間抜けな国民ではないだろうか。


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