表現の自由
2022年07月14日
永沢真平氏が私に対して提起した著作権侵害訴訟について、最高裁判所第二小法廷は、7月6日付で同氏の上告受理申立てを棄却する決定をしました。これで、私がこのブログで永沢氏の懲戒請求に反論するにあたって、彼の実名を公表したことが永沢氏の「プライバシー権が違法に侵害されるということにはならない」と言い、さらに私が彼の懲戒請求書全文を公開したことは「本件懲戒請求に対する反論を公にする方法として相当なものであった」とした知財高裁判決が確定しました。
永沢氏の懲戒請求書全文を公開した私のブログ記事は、永沢氏の申立てによって、ライブドア・ブログを運営するLINE株式会社によって削除されていました。私の勝訴確定によってこの削除が誤りであることが明らかになりました。そこで私は同社に私の投稿記事の復元を求めました。これに対して同社は、「弊社にて復元・再公開することはできかねます。再公開される場合は、お客様のご判断でご対応等いただくようお願いいたします」という回答を寄越しました。
この回答は全く無責任であり、表現活動のプラットフォームを提供する企業としての自覚に欠けるものです。その責任は別途追求したいと思います。しかし、記事を復元して皆さんが閲覧できる状況にすることが肝要ですから、とりあえず自分で復元しました。
復元した記事はこちら:
「知財高裁判決:懲戒請求書の全文引用は正当」(2021年12月23日)
「懲戒不相当決定」(2021年7月1日)
「被告高野隆の陳述」(2020年7月31日)
「懲戒請求に対する弁明書」(2020年2月4日)
永沢氏の懲戒請求書全文を公開した私のブログ記事は、永沢氏の申立てによって、ライブドア・ブログを運営するLINE株式会社によって削除されていました。私の勝訴確定によってこの削除が誤りであることが明らかになりました。そこで私は同社に私の投稿記事の復元を求めました。これに対して同社は、「弊社にて復元・再公開することはできかねます。再公開される場合は、お客様のご判断でご対応等いただくようお願いいたします」という回答を寄越しました。
この回答は全く無責任であり、表現活動のプラットフォームを提供する企業としての自覚に欠けるものです。その責任は別途追求したいと思います。しかし、記事を復元して皆さんが閲覧できる状況にすることが肝要ですから、とりあえず自分で復元しました。
復元した記事はこちら:
「知財高裁判決:懲戒請求書の全文引用は正当」(2021年12月23日)
「懲戒不相当決定」(2021年7月1日)
「被告高野隆の陳述」(2020年7月31日)
「懲戒請求に対する弁明書」(2020年2月4日)
2022年06月26日
最高裁判所第2小法廷は、6月24日、旅館の女性浴場の脱衣所に侵入したという建造物侵入罪で逮捕され略式起訴されて罰金を納付した男性が、ツイッター社に対して彼の逮捕報道を引用したツイートの削除を求めた事件で、男性の請求を棄却した東京高裁判決を破棄して、削除を認める判決をした。第2小法廷は、逮捕されたという事実は「他人にみだりに知られたくない上告人のプライバシーに属する事実である」と断定したうえ、逮捕から長期間(原審口頭弁論終結まで約8年)経過しているとか、上告人が公的立場にある者ではないなどの事情をあげて、「上告人の本件事実[逮捕事実]を公表されない法的利益が本件各ツイートを一般の閲覧に供し続ける理由に優越するものと認めるのが相当である」として、ツイートの削除を認めた。
この判断の手法は、『逆転』事件最高裁判決(最3小1994・2・8民集48-2-149)の手法とよく似ている。『逆転』は、復帰前の沖縄で行われていた陪審裁判を描いたノンフィクションで大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した作品である。作者伊佐千尋氏は、その事件の陪審員の一人であり、本作において被告人を実名で表記した。被告人の一人が、刑事裁判で有罪となり服役したという前科にかかわる事実が公表され精神的苦痛を被ったと主張して、伊佐氏に慰謝料を請求した事件である。最高裁第3小法廷は、「プライバシー」という表現は使わなかったものの、前科について「公表されない利益が法的保護に値する場合がある」と言った。そして、公表の利益よりも「前科等にかかわる事実を公表されない法的利益が優越するとされる場合には」不法行為が成立し、公表による精神的苦痛に対する慰謝料請求ができるという利益衡量基準を設定したうえでこれを適用して、事件及び裁判から12年以上経過し、被告人が公的立場になく、服役後新たな生活環境を形成していたなどの事情を述べて、不法行為の成立を認めたのである。
私は、「『逆転』事件」についても、今回の「ツイート削除命令事件」についても、最高裁判決は誤りであり、表現の自由に対する不合理な制約であって、刑事手続に関する情報の検閲制度を自ら創設したのであって、憲法に違反すると考えている。
犯罪の容疑で逮捕されたり、起訴され刑事裁判を受けるという出来事を「私生活」(private life)というのはおよそ不可能である。犯罪捜査や刑事訴追は国家の統治機構の中核の一つであり、国家権力の行使そのものである。それらをその対象者である被疑者・被告人そして犯罪被害者のプライベートな出来事であるなどということはできない。こうした国家権力の行使について、主権者である国民は何が行われているのか関心を持つべきであり、何が行われているのかを知る権利がある。国民主権を標榜する民主主義国家において犯罪捜査や刑事訴追そして刑事裁判が「ブラックボックス」であることは許されない。そして、これらを記録した情報は、いわば「公共財」としての公的記録(public record)であり、すべての国民がアクセスできなければならない。
今回のツイート削除事件判決に付された草野耕一裁判官の補足意見は、犯罪者が「政治家等の公的立場にある者」でない場合は、犯罪者の氏名等は「原則として、犯罪事件の社会的意義に影響を与える情報ではない。よって、犯罪者の特定を可能とするこのような情報を、保全されるべき報道内容から排除しても報道の保全価値が損なわれることはほとんどないといってよいであろう」という。しかし、前科情報は選挙権行使の際の判断材料になれば良いというものではない。自分の交際相手や従業員として採用しようとしている人がどのような人物なのか、彼らに逮捕歴や前科があるのかを知ることが、選挙の際の立候補者のそれを知る必要性よりも軽いなどとは言えないだろう。相手と結婚するかどうか、採用するかどうかは、もちろんそれぞれの個人の判断である。前科があったとしても政治家として国民のために有用な仕事をしてくれる人もいるだろうし、前科があっても立派に更生していて会社のために有意な人材だと経営者に認められて採用される人も少なくはないだろう。選挙の際の立候補者の場合以外は、人物評価は前科や逮捕歴を除いてしなければならないなどというルールはない。
刑事訴追制度に対する国民の知る権利は、こうした個別的な国民の選択にとって重要だというだけではもちろんない。犯罪捜査や刑事訴追に携わる公務員の権力の行使が公正かつ適切に行われているのかを国民が常時監視するために必要なのである。そのためには、われわれ国民は、抽象的な統計や傾向や政府の発表ではなく、個々の具体的な事実を知る必要がある。どの警察官が、誰を、何時、どのような被疑事実で逮捕したのか。その被疑者はいつまでどのような理由で身柄拘束されたのか。裁判では誰が証言したのか。結果はどうだったのか。これらの事実を評価するためには、被疑者や被告人が誰なのか、被害者として訴えたのは誰なのかを知らなければならない。登場人物が特定されることで、初めて、その人の属するコミュニティがどんなものなのか、およそ犯罪とは無縁の生活を送ってきたのか、自称被害者の話は信頼できるのか、被告人の無実の訴えは信頼できるのかを考えることができる。さらには、無実を知る人物が名乗りを上げるということもある。刑事裁判が真実に達するためにも、登場人物の実名を伴った、刑事訴追に関する情報の流通が必要なのである(証拠法の父・ウィグモアは証拠法の教科書のなかでそうした実例を多数あげている)。
公正な刑事手続を確保するための情報の流通の必要性が、事件から数年で消滅するなどということはない。刑事手続に関する情報は、いわば国民の歴史の一部なのである。国民はいつでもそこにアクセスして検証を繰り返すことができなければならない。
草野裁判官は、実名報道には「制裁的機能」や「社会防衛機能」があるとか、「他人の不幸に嗜虐的快楽を覚える心性」に答える機能(「外的選好機能」)があると指摘したうえ、それらは社会的利益として価値がないかあるいは低い価値しかないと指摘している。草野裁判官の指摘に特に異存はない。これまで述べたように、刑事手続情報における実名の重要さは、そういうところにあるのではない。
草野裁判官が言う「外的選好機能」について一つだけ指摘したい。草野裁判官は「負の外的選好が、豊かで公正で寛容な社会の形成を妨げるものであることは明白であ[る]」と言っている。本当にそうだろうか?確かに、裁判官が指摘するように、逮捕されたり起訴されたりした個人やその家族の実名を知って「嗜虐的快楽を覚える」(「隣りの不幸は蜜の味」)人がいるかも知れない。しかし、そういう人が相当な数を占めて、裁判官がいうような「サブカルチャー」といえるほどの実態をなしているとはとうてい言えないと私は考える。私は、これまでの人生でそうした「嗜虐的快楽」を覚えたことはないし、私の周囲にもそういう人がいるようには思えない。むしろ、被告人や有罪判決を受けた人やその家族のために、経済的利害を度外視して様々な奉仕活動をしている人々が少なくない。前科者を積極的に雇い入れている経営者もいる。結局のところ、草野裁判官の指摘は、刑事訴追に携わっている国家機関だけが被告人の実名情報を独占している分には問題ないが、一般国民がそれを知ると、彼らはみな「嗜虐的快楽」に溺れてしまい、この国は貧困で不寛容で不公正な社会に堕落してしまうだろうと言っているのである。これは愚民思想以外のなにものでもない。
個人の逮捕歴や前科がその人の「プライバシー」に属するということは、要するに、そうした情報がすべて国家権力――警察官と検察官――に独占されるということである。われわれ国民は、自分の所属するコミュニティにいる隣人たちに前科があるのか、あるとしてどんな前科なのか、全く知るすべがない。ところが、警察官や検察官はそれを知っている。刑事裁判では必ず、検察官はわれわれの依頼人である被告人の前科調書を証拠請求してくる。ところが、検察側の証人の前科情報が弁護側に開示されることはない。弁護人が証人の基本的な情報として知る必要があると言っても、裁判所は弁護人の訴えをほぼ必ず退ける。弁護士法に基づいて前科の照会をしたのに答えた自治体は損害賠償責任を負うというのが最高裁の判例である。こうした判断で検察官や裁判官が使う理屈も「プライバシー」である。
私が学生のころには、刑事裁判や冤罪をテーマにしたノンフィクション作品がたくさんあった。それらはみな実名で書かれていた。実名で書かれることによって作品が「ノンフィクション」であることが保証される。作者は「事実」にこだわり、間違いのない事実を物語るために最善の努力をする。登場人物の周辺にいる人たちは事実に違いがあれば、それを指摘できる。実際に指摘された例もある。現在は「匿名」が主流である。そのために、登場人物の隣人ですら誰のことを書いているのか分からない。誤りを指摘することもできない。作品は事実の物語というより、架空の設例のような感じすら受けることがある。ウェブサイトでよく見かける匿名の「裁判傍聴記」などを読むと特にそう感じる。匿名であるからなおさら「嗜虐的快楽」「隣りの不幸は蜜の味」に奉仕しているとしか思えないような代物も多い。
しかし、このプライバシーの考え方は根本的におかしい。前科や裁判情報というのは「公的記録」の典型例であり、公的記録に搭載された情報を「プライベート」と名付けるのは甚だしい形容矛盾と言わなければならない。最近では、犯罪情報に限らず、身分に関する個人情報すらも個人のアクセスが原則として禁じられている(戸籍はかつて「身分登記簿」と言って身分関係を公示するためのものであったが、現在は原則として他人の戸籍を見ることが禁じられている)。その結果、われわれは犯罪情報だけではなく、われわれの隣人の身分関係を知ることもできない。けれども、国家はすべて知っているのだ。現在の日本社会は、ジェレミー・ベンサムが設計した刑務所――「パノプティコン」――のようなものになっている。
この判断の手法は、『逆転』事件最高裁判決(最3小1994・2・8民集48-2-149)の手法とよく似ている。『逆転』は、復帰前の沖縄で行われていた陪審裁判を描いたノンフィクションで大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した作品である。作者伊佐千尋氏は、その事件の陪審員の一人であり、本作において被告人を実名で表記した。被告人の一人が、刑事裁判で有罪となり服役したという前科にかかわる事実が公表され精神的苦痛を被ったと主張して、伊佐氏に慰謝料を請求した事件である。最高裁第3小法廷は、「プライバシー」という表現は使わなかったものの、前科について「公表されない利益が法的保護に値する場合がある」と言った。そして、公表の利益よりも「前科等にかかわる事実を公表されない法的利益が優越するとされる場合には」不法行為が成立し、公表による精神的苦痛に対する慰謝料請求ができるという利益衡量基準を設定したうえでこれを適用して、事件及び裁判から12年以上経過し、被告人が公的立場になく、服役後新たな生活環境を形成していたなどの事情を述べて、不法行為の成立を認めたのである。
私は、「『逆転』事件」についても、今回の「ツイート削除命令事件」についても、最高裁判決は誤りであり、表現の自由に対する不合理な制約であって、刑事手続に関する情報の検閲制度を自ら創設したのであって、憲法に違反すると考えている。
犯罪の容疑で逮捕されたり、起訴され刑事裁判を受けるという出来事を「私生活」(private life)というのはおよそ不可能である。犯罪捜査や刑事訴追は国家の統治機構の中核の一つであり、国家権力の行使そのものである。それらをその対象者である被疑者・被告人そして犯罪被害者のプライベートな出来事であるなどということはできない。こうした国家権力の行使について、主権者である国民は何が行われているのか関心を持つべきであり、何が行われているのかを知る権利がある。国民主権を標榜する民主主義国家において犯罪捜査や刑事訴追そして刑事裁判が「ブラックボックス」であることは許されない。そして、これらを記録した情報は、いわば「公共財」としての公的記録(public record)であり、すべての国民がアクセスできなければならない。
今回のツイート削除事件判決に付された草野耕一裁判官の補足意見は、犯罪者が「政治家等の公的立場にある者」でない場合は、犯罪者の氏名等は「原則として、犯罪事件の社会的意義に影響を与える情報ではない。よって、犯罪者の特定を可能とするこのような情報を、保全されるべき報道内容から排除しても報道の保全価値が損なわれることはほとんどないといってよいであろう」という。しかし、前科情報は選挙権行使の際の判断材料になれば良いというものではない。自分の交際相手や従業員として採用しようとしている人がどのような人物なのか、彼らに逮捕歴や前科があるのかを知ることが、選挙の際の立候補者のそれを知る必要性よりも軽いなどとは言えないだろう。相手と結婚するかどうか、採用するかどうかは、もちろんそれぞれの個人の判断である。前科があったとしても政治家として国民のために有用な仕事をしてくれる人もいるだろうし、前科があっても立派に更生していて会社のために有意な人材だと経営者に認められて採用される人も少なくはないだろう。選挙の際の立候補者の場合以外は、人物評価は前科や逮捕歴を除いてしなければならないなどというルールはない。
刑事訴追制度に対する国民の知る権利は、こうした個別的な国民の選択にとって重要だというだけではもちろんない。犯罪捜査や刑事訴追に携わる公務員の権力の行使が公正かつ適切に行われているのかを国民が常時監視するために必要なのである。そのためには、われわれ国民は、抽象的な統計や傾向や政府の発表ではなく、個々の具体的な事実を知る必要がある。どの警察官が、誰を、何時、どのような被疑事実で逮捕したのか。その被疑者はいつまでどのような理由で身柄拘束されたのか。裁判では誰が証言したのか。結果はどうだったのか。これらの事実を評価するためには、被疑者や被告人が誰なのか、被害者として訴えたのは誰なのかを知らなければならない。登場人物が特定されることで、初めて、その人の属するコミュニティがどんなものなのか、およそ犯罪とは無縁の生活を送ってきたのか、自称被害者の話は信頼できるのか、被告人の無実の訴えは信頼できるのかを考えることができる。さらには、無実を知る人物が名乗りを上げるということもある。刑事裁判が真実に達するためにも、登場人物の実名を伴った、刑事訴追に関する情報の流通が必要なのである(証拠法の父・ウィグモアは証拠法の教科書のなかでそうした実例を多数あげている)。
公正な刑事手続を確保するための情報の流通の必要性が、事件から数年で消滅するなどということはない。刑事手続に関する情報は、いわば国民の歴史の一部なのである。国民はいつでもそこにアクセスして検証を繰り返すことができなければならない。
草野裁判官は、実名報道には「制裁的機能」や「社会防衛機能」があるとか、「他人の不幸に嗜虐的快楽を覚える心性」に答える機能(「外的選好機能」)があると指摘したうえ、それらは社会的利益として価値がないかあるいは低い価値しかないと指摘している。草野裁判官の指摘に特に異存はない。これまで述べたように、刑事手続情報における実名の重要さは、そういうところにあるのではない。
草野裁判官が言う「外的選好機能」について一つだけ指摘したい。草野裁判官は「負の外的選好が、豊かで公正で寛容な社会の形成を妨げるものであることは明白であ[る]」と言っている。本当にそうだろうか?確かに、裁判官が指摘するように、逮捕されたり起訴されたりした個人やその家族の実名を知って「嗜虐的快楽を覚える」(「隣りの不幸は蜜の味」)人がいるかも知れない。しかし、そういう人が相当な数を占めて、裁判官がいうような「サブカルチャー」といえるほどの実態をなしているとはとうてい言えないと私は考える。私は、これまでの人生でそうした「嗜虐的快楽」を覚えたことはないし、私の周囲にもそういう人がいるようには思えない。むしろ、被告人や有罪判決を受けた人やその家族のために、経済的利害を度外視して様々な奉仕活動をしている人々が少なくない。前科者を積極的に雇い入れている経営者もいる。結局のところ、草野裁判官の指摘は、刑事訴追に携わっている国家機関だけが被告人の実名情報を独占している分には問題ないが、一般国民がそれを知ると、彼らはみな「嗜虐的快楽」に溺れてしまい、この国は貧困で不寛容で不公正な社会に堕落してしまうだろうと言っているのである。これは愚民思想以外のなにものでもない。
個人の逮捕歴や前科がその人の「プライバシー」に属するということは、要するに、そうした情報がすべて国家権力――警察官と検察官――に独占されるということである。われわれ国民は、自分の所属するコミュニティにいる隣人たちに前科があるのか、あるとしてどんな前科なのか、全く知るすべがない。ところが、警察官や検察官はそれを知っている。刑事裁判では必ず、検察官はわれわれの依頼人である被告人の前科調書を証拠請求してくる。ところが、検察側の証人の前科情報が弁護側に開示されることはない。弁護人が証人の基本的な情報として知る必要があると言っても、裁判所は弁護人の訴えをほぼ必ず退ける。弁護士法に基づいて前科の照会をしたのに答えた自治体は損害賠償責任を負うというのが最高裁の判例である。こうした判断で検察官や裁判官が使う理屈も「プライバシー」である。
私が学生のころには、刑事裁判や冤罪をテーマにしたノンフィクション作品がたくさんあった。それらはみな実名で書かれていた。実名で書かれることによって作品が「ノンフィクション」であることが保証される。作者は「事実」にこだわり、間違いのない事実を物語るために最善の努力をする。登場人物の周辺にいる人たちは事実に違いがあれば、それを指摘できる。実際に指摘された例もある。現在は「匿名」が主流である。そのために、登場人物の隣人ですら誰のことを書いているのか分からない。誤りを指摘することもできない。作品は事実の物語というより、架空の設例のような感じすら受けることがある。ウェブサイトでよく見かける匿名の「裁判傍聴記」などを読むと特にそう感じる。匿名であるからなおさら「嗜虐的快楽」「隣りの不幸は蜜の味」に奉仕しているとしか思えないような代物も多い。
しかし、このプライバシーの考え方は根本的におかしい。前科や裁判情報というのは「公的記録」の典型例であり、公的記録に搭載された情報を「プライベート」と名付けるのは甚だしい形容矛盾と言わなければならない。最近では、犯罪情報に限らず、身分に関する個人情報すらも個人のアクセスが原則として禁じられている(戸籍はかつて「身分登記簿」と言って身分関係を公示するためのものであったが、現在は原則として他人の戸籍を見ることが禁じられている)。その結果、われわれは犯罪情報だけではなく、われわれの隣人の身分関係を知ることもできない。けれども、国家はすべて知っているのだ。現在の日本社会は、ジェレミー・ベンサムが設計した刑務所――「パノプティコン」――のようなものになっている。
2022年04月27日
このブログのプロバイダであるLINE株式会社は、2022年4月25日、このブログから以下の4つの記事を削除しました。
1)「知財高裁判決:懲戒請求書の全文引用は正当」(2021年12月23日)
2)「懲戒不相当決定」(2021年7月1日)
3)「被告高野隆の陳述」(2020年7月31日)
4)「懲戒請求に対する弁明書」(2020年2月4日)
記事の削除は私に対して懲戒請求と民事訴訟を提起したS・N氏の要請によるものです。S・N氏は削除請求する理由として「[S・N氏の]氏名を掲載している」と指摘しています。私は、「私のブログの記事が削除されるようなことがあれば、それは表現の自由に対する甚だしい侵害」であり、かつ、「自分は匿名のまま弁護士に対する無責任な懲戒請求を行うことを許すことにな[る]」「他人を名指ししてその非違行為を公的に訴えるのであれば、当然自分も公的に名を名乗るべき」である、知財高裁も彼の削除請求を棄却したと述べて、削除に異議を唱えました。
しかし、LINE株式会社は、「『権利が侵害されたことが明らか』(プロバイダ責任制限法第3条第2項第1号)であると判断しました」と言って、私のブログ記事をタイトルも含め全文削除しました。
この措置は、現代における表現活動の事実上のインフラ――「プラットフォーム」――を提供する企業の基本的な使命に反するのではないかと私は考えます。今回の記事削除措置に対してどうするかは未定ですが、このブログの読者の皆さんに経過報告をした次第です。
1)「知財高裁判決:懲戒請求書の全文引用は正当」(2021年12月23日)
2)「懲戒不相当決定」(2021年7月1日)
3)「被告高野隆の陳述」(2020年7月31日)
4)「懲戒請求に対する弁明書」(2020年2月4日)
記事の削除は私に対して懲戒請求と民事訴訟を提起したS・N氏の要請によるものです。S・N氏は削除請求する理由として「[S・N氏の]氏名を掲載している」と指摘しています。私は、「私のブログの記事が削除されるようなことがあれば、それは表現の自由に対する甚だしい侵害」であり、かつ、「自分は匿名のまま弁護士に対する無責任な懲戒請求を行うことを許すことにな[る]」「他人を名指ししてその非違行為を公的に訴えるのであれば、当然自分も公的に名を名乗るべき」である、知財高裁も彼の削除請求を棄却したと述べて、削除に異議を唱えました。
しかし、LINE株式会社は、「『権利が侵害されたことが明らか』(プロバイダ責任制限法第3条第2項第1号)であると判断しました」と言って、私のブログ記事をタイトルも含め全文削除しました。
この措置は、現代における表現活動の事実上のインフラ――「プラットフォーム」――を提供する企業の基本的な使命に反するのではないかと私は考えます。今回の記事削除措置に対してどうするかは未定ですが、このブログの読者の皆さんに経過報告をした次第です。