外国の刑事司法

2020年08月15日

8月10日午後に香港の民主活動家周庭氏や香港紙「アップル・デイリー」社主黎智英氏ら10人の香港市民が、中国本土政府(全国人民代表大会)が6月末に制定した「香港特別行政区における国家安全保護法」違反の罪(外国勢力との結託(同法29条))で逮捕されたが、その翌日全員保釈により釈放された。中国本土政府による香港市民の言論の自由への露骨な弾圧に対して国際世論は注目し批判している。私もそうした国際世論に同調する一人である。しかし、それと同時に、極東の「民主主義国」の一つである日本国の法律家から見ると、逮捕された被疑者がわずか1日拘禁されただけで保釈を認められて釈放されるというのは非常に意外であり、むしろこちらの方がショッキングですらある。ちょうど同じころの日本では、2か月前に公職選挙法違反(買収)の罪で逮捕された前法務大臣河井克行氏と彼の妻で参議院議員の安里氏が申し立てた2度目の保釈請求を東京の裁判官は却下した。日本では逮捕後の保釈という制度すらない。逮捕後3週間身柄を拘束されて起訴された後にしか保釈は認められない。そして、罪を争ったり黙秘している被告人が裁判開始前に保釈を認めれる確率は非常に小さい。仮に周庭さんたちが日本で逮捕されたとしたら、その翌日に釈放されることなどあり得ない。おそらく、少なくとも数ヶ月下手をすると1年以上拘禁されたままであろう。

 香港の民主活動家らがわずか1日留置されただけで釈放されたのはなぜか?中国本土の刑事司法制度が、個人の無罪推定の権利を保障し、身体の自由を手厚く保護しているというわけではもちろんない。中国本土で働く刑事弁護士によれば、保釈が認められるチャンスはほとんどなく、重罪事件では無駄だから請求すらしないということである(1) 。被疑者や被告人どころか、刑事弁護士自身が突然逮捕されて何年間も拘禁されたままである(2) 。また、日本の一部のコメンテーターが言っているような「香港政府が国際世論に配慮して釈放した」というのも違う。

 そうではなく、逮捕された被疑者が1日2日の間に保釈されるというのは、香港では決して珍しいことではないのである。それは、150年以上に渡るイギリス統治の下で根付いた、コモンローに基づく自由主義的な刑事司法がいまでも機能していることを示しているのである。

 香港の返還に関する英中共同宣言(1984年)は、香港における司法の独立を認め、返還当時に行われている司法制度はその後50年間変更されないこと;コモンロー諸国の先例が裁判において適用されることなどを定めた(3) 。英中共同宣言に基づいて制定された香港基本法(1997年7月1日発効)は、香港再終審裁判所(The Court of Final Appeal)が事件に関する最終裁決権を持つこと(82条);他のコモンロー地域から判事を招聘できること(同条);裁判に際してコモンロー地域の先例法を参照できること(84条);従来行われていた陪審裁判は維持されること(86条);刑事・民事の手続法や当事者の権利はそのまま継続されること(87条);そして、刑事裁判においては公正な裁判や無罪の推定が保障されること(同条)などを定めた。

 香港の立法機関は「立法会」(Legislative Council)であり(基本法66条)、立法会が制定する法律は「条例」(Ordinance)と呼ばれる(条例の解釈と一般条項に関する条例8条)。香港人権条例(Hong Kong Bill of Rights Ordinance)はこう規定している:

5条(3):犯罪の容疑によって逮捕されまたは勾留された者は誰でも、速やかに裁判官または法によって裁判権を付与された官憲の前に連れてこられなければならず、相当な期間のうちに裁判を受けるか釈放される権利を与えられなければならない。裁判を待つ者を拘禁することを原則としてはならない。しかし、釈放は裁判その他の司法手続への出頭、または、適切な機会に裁判の執行を確保するために必要な条件を科することができる。
同条(4):逮捕または勾留によって自由を奪われた者は、遅滞することなく拘禁の適法性を審査し、拘禁が不適法なときは釈放を命じられるために、裁判所の面前における手続に付される権利を保障されなければならない。


これはコモンローにおける伝統的な身柄釈放制度である人身保護令状(The Writ of Habeas Corpus)や保釈(bail)の手続を香港市民の基本的権利として保障するものである。

 イギリス連邦諸国やアメリカの各州には2種類の保釈制度がある。一つは警察による保釈(police bail)であり、もう一つは裁判所による保釈(judicial bail)である。香港にもこの両者がある。その内容はほぼイギリスにおけるそれと同じである。香港警察隊条例(Police Force Ordinance)52条は、逮捕された被疑者を可能な限り速やかに(as soon as practicable)、遅くとも48時間以内に治安裁判官(magistrate)の前に連れて行くか、無条件で釈放するか、あるいは相当な額の保証金その他の出頭を確保するための条件をつけて釈放しなければならないと定めている。そして、裁判所に引致された被疑者は、保釈を請求することがでる。裁判所は、被疑者の出頭確保、再犯あるいは証人への妨害行為を防ぐための条件を科して被疑者を保釈しなければならない。保釈は、被疑者に対する起訴の前後を問わず行われる(刑事訴訟条例9条D(2))。出頭、再犯または証人妨害の防止を確保することができないと信じる実質的な根拠(substantial grounds)がある場合に限り裁判官は保釈を拒否することができる(同条例9条G)。

 今回の周氏や黎氏らの保釈は警察による保釈である。香港警察は彼女らを治安裁判官に送致せずに、20,000香港ドル程の保証金と出頭保証書のほかパスポートを提出させて、9月1日に出頭することを命じて釈放した(4) 。こうした保釈は被疑者にとって自由を早期に確保できるというメリットがある反面、起訴・不起訴の決定を先に伸ばす――時間を稼ぐ――という警察にとってのメリットもあると言われている (5)。実際のところ、香港警察は逮捕の際に「アップル・デイリー」のオフィスなどの関係箇所から大量の証拠を押収した。そうした証拠を時間をかけて分析したあとで起訴するかどうかの決定をするのであろう思われる。釈放後どのくらいの期間でこの決定をしなければならないのか。具体的な規定はない。しかし、香港人権条例11条(1)(c)によれば、被疑者には「不相当に遅滞することなく」(without undue delay)裁判を受ける権利が保障されており、この期間は「実務においては、3ヶ月ないし4ヶ月経過すれば、もはや起訴しないことを意味する」と理解されている(6) 。

 これもコモンロー諸国に一般的に認められることであるが、香港においては、被疑者を刑事訴追する権限を独占している公務員――日本では検察官――は存在しない。法的には私人でも刑事訴追することができる。しかし、ほとんどの場合、刑事訴追を求める文書(charge sheet)を発行するのは警察である。そして、刑事訴追を監督するのは香港司法省(Department of Justice)のトップである司法長官(Secretary for Justice)である。しかし、刑事裁判で訴追側を代理するのは公務員――日本では検察官――ではなく、司法省から雇われた法廷弁護士(Barrister)である。被告人側を法廷で弁護するのも法廷弁護士である。すべての法廷弁護士は法廷弁護士協会(Bar Association)に所属し、その倫理規範(Code of Conduct)に従い、違反があるときは協会によって懲戒されるのである。

 今年6月30日に中国本土政府が制定し直ちに施行された国家安全保護法は、同法違反の罪についても原則として香港の裁判所が管轄権を持つと定めている(40条)。しかし、「外国政府または外部の要因が関わるために事案が複雑となり、特別行政区がその管轄権を行使することが困難な場合」には、中国本土政府が設立した「国家安全保障事務所」(The Office for Safeguarding National Security)が同法違反の罪の捜査、訴追、そして裁判を行うことを認めている(55条)。その場合は、香港の刑事手続法ではなく、中国本土の刑事手続法が適用されるのである(56条)。

 今回逮捕された後釈放された方々にとって、国家安全保障事務所が香港刑事司法の管轄権を取り上げるのかどうかは極めて深刻な問題であろうことは、容易に想像できる。そうならないことを私は心から祈っている。

[注]
(1)Mike McConville, Criminal Justice in China (Edward Elgar,2011), pp 56-64.
(2)Sida Liu and Terence C. Halliday, Criminal Defense in China: Politics of Lawyers at Work (Cambridge University Press, 2016), pp 59, 104.
(3)Joint Declaration of the United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland and the Government of the People’s Republic of China on the Question of Hong Kong, §3(3), (12), Annex I, Article III.
(4)South China Morning Post, August 11, 2020 (https://www.scmp.com/news/hong-kong/law-and-crime/article/3096968/hong-kong-media-mogul-jimmy-lais-youngest-son-first-be).
(5)Sunny Cheung Man Kwan「香港における逮捕手続の比較法的検討」岡山大学大学院文化科学研究科紀要13-171(2002)、187〜188。
(6)Sunny Cheung前注、188頁。

plltakano at 23:46コメント(3)  このエントリーをはてなブックマークに追加
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高野隆

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