刑事司法全般

2016年10月19日

ちょうど70年前に公布された日本国憲法は、すべての個人に黙秘権(自己負罪拒否の特権)があることを認めています。しかし、日本国の現状はこれとは程遠いものであり、江戸時代の御白州のようにお上は刑事訴追された民に罪の告白を強要しています。この現実をなんとか改善しようと考える弁護士のグループが、いまから20年前に「ミランダの会」という団体を作りました。ミランダの会は2000年代の10年間ウェブサイト上でさまざま情報を発信していました。毎月1回トップページに「今月の言葉」を掲載して、刑事司法に思いを致すよすがとして古今の文献の一節を引用しました。ミランダの会は現在その活動を休止し、ウェブサイトも閉鎖されていますが、読者からの要望にお応えして、「今月の言葉」を復刻することにしました。

2010年1月
起訴する、起訴しないは、検察官の権限です。でもそれは、有罪、無罪を決めるという意味ではない。裁判でそれを決めてもらうべき容疑者、つまり、ある程度の証拠が集まっている容疑者をどんどん起訴するのが、検察官の役目のはずです。それが、いつのまにか、裁判権みたいなものにすりかわっている。有罪/無罪の分岐点が、裁判の手前にあることになり、検察が実質的な裁判権をもってしまっている。これを憲法違反と言わなくてなんと言いましょう。
――橋爪大三郎『裁判員の教科書』(ミネルヴァ書房2009)、213頁。

2010年2月
しかし、陪審が評決を宣告するまでは告訴人は告訴人に過ぎないはずである。犯罪が行われたことそして被告人がその犯人であることを陪審が決定するまでは、法律上「被害者」なるものは存在しえない。建国の祖たちは告訴人の氏名が公表されることによって彼らの過去の虚偽告訴や悪行が明らかになることが必須であると考えた。これに対して、今日われわれは、幾つかの州において告訴人を匿名にしてジョンとかジェーンとかの偽名を使うことを許して、対決権を徐々に譲り渡している。今では、裁判官や陪審が告訴人を「本当の」被害者と認定していないにもかかわらず、検察官が告訴人を「被害者」と呼ぶことさえも許されている。自由と秩序の均衡は微妙であり複雑である。政治の風向きが変わるのに合わせてこの均衡は揺れ動くものである。しかし、いまわれわれが目撃しているのは、ただの風ではなく、「即時の満足」司法という新しいモデルを求める無謀な政治的機会主義のすさまじい旋風である。
――ブレア・バーク、ロサンジェルスの刑事弁護士。Blair Berk, “Ruminations on a Doe-Eyed Puppy”, in LARRY KING ED., BEYOND A REASONABLE DOUBT (Phoenix Book, 2006), at p139.

2010年3月
彼[イギリス国王ジョージ3世]は、その任期や俸給の額や支払い方法を通じて、裁判官たちを意のままにした。
 ――アメリカ独立宣言(1776年)

2010年4月
こうして、ある種の被告人のデュー・プロセスの権利は重大な侵害を受けている。手続を同時通訳することが原則となっている国、関連する言語の組み合わせの通訳人に同時通訳を行う訓練が行われ、かつ、通訳人が法廷通訳の職業倫理に精通している国で逮捕されるという幸運を得た人だけが、訴訟手続を理解し自らの防御に積極的に参加する権利を保障されるにすぎない。そのほかの被告人はみな、完全にあるいは部分的に暗闇の中に置かれるのである。
――ホリー・ミッケルソン(アメリカの法廷通訳)Holly Mikkelson, The Court Interpreter as Guarantor of Defendant Rights (1998), http://www.acebo.com/papers/GUARANTR.HTM (last visit on May 15, 2010)

2010年5月
供述調書からは、被疑者の叫び声も、うめき声も、またため息も聞くことはできないのである。涙にぬれた被疑者の顔や、苦痛にゆがめられた表情を見ることもできないのである。供述調書は、取調の経過を記載するものではなく、どのような経過で供述されたにしても、供述されたものを要約して記載するにすぎないのである。そして、要約である限りは、取捨選択の行われることは当然であって、その過程において要約する者の頭脳、すなわちその主観を通して表現された供述となることはやむを得ないのである。
――青木英五郎「事実誤認の実証的研究−自白を中心として」『青木英五郎著作集�機戞陛槌�書店・1986年)236頁)

2010年6月
三月十八日の午後六時十八分、夜の取調べが始まってすぐ、神垣検事が突然取調室を出ていった。二十分ほどして、取調室のドアを勢いよく開け、再び中に入ってくると、バタン! と大きな音を立ててドアを閉めた。私はただならぬ気配を感じた。
検事はすぐに私のそばに寄ってきて、声を荒らげて言った。
「おまえは嘘をついていた。眞藤はさっき落ちた! 眞藤はお前から直接電話を受けたと話している! これまで俺に嘘をついていたな! 俺にこんな態度をとったのはお前が初めてだ!」
言うや否や、私の椅子を窓側の横から蹴り上げた。その勢いでキャスターが横に滑り、私は頭から反対側に転げ落ちかけたが、素早く検事が反対側に回り私の身体を支えた。その身のこなしから、検事の動作は計算ずくだ、と思った。
検事はたたみかけるように怒鳴った。
「立て! 窓側に移れ!」
取調室の窓側で、私は検事と向き合う形となった。
「俺に向って土下座しろ!」
検事は私に殴りかからんばかりの剣幕であった。恐怖心から抵抗できず、私は屈辱的な思いで床に座った。命じられるままに、検事に向かい手をつき、頭を下げた。そのような姿勢を続けているうちに、私は検事のマインドコントロール下に入っていった。
「お前は眞藤に直接電話している。忘れているだけだ。思い出したか。・・・・・
思い出したなら席に着くことを許す」
私はこれまでにずっと真実を述べてきていた。だが、恐怖心に捕らわれた私は、悲しいことに、小声で「分かりました」と答えた。
すると、検事は事務官に口述をして次のような調書を作成した。
「私は、検事に土下座してお詫び申し上げます。いままで検事に対し、眞藤さんに直接声をかけたことはない、村田さん個人にお譲りしたものであるなどと嘘を申し上げてきました」
抵抗する気力を失い、私は言われるままに調書に署名した。私が署名を終えると、「よし、これでよい」と検事は急いで取調室を出ていった。
二時間ほどで戻ってきた検事は満足げな表情で言った。
「よし、調べは終わりだ。下がってよい」
悪夢のような体験だった。房に戻されたが、房はいつもより寒々としていた。

保釈後、房内ノートを見ながら新聞記事のスクラップファイルを操っていたところ、「江副の株譲渡持ちかけ 眞藤に直接だった 収賄罪成立、確実に」という、毎日夕刊の一面トップの大きな見出し記事が目に留まった。
「今までの調べや関係者の証言で明らかになった」との記事だが、日付は三月十四日。私が土下座させられ調書を取られた四日前の報道である。合同会議あたりでそのようなシナリオがあらかじめできていた、と私は思った。
――江副浩正『リクルート事件・江副浩正の真実』(中央公論新社・2009年)155頁〜157頁

2010年7月
御承知の通り、警職法2条1項というものを何度読み返してみましても、職務質問の要件を確認するために職務質問が出来る、という事や、いわんや、その事のために、今申し上げました3つの要件がいる等という事は、どこからも出て来そうにないわけでございます。非常に自由な法解釈でございます。これでは、警職法の条文は、まるで打出の小槌のようなものであるという感想をいだくわけでございます。***ところで、話変わりまして、これも御承知の通りの証拠の事前開示の問題になりますと、この物判りのよさが一変するわけでございます。自由法学がとたんに不自由法学になるわけでございます。最高裁の決定を読んでみますと、要するに、規定がないから証拠閲覧命令は認められない、条文がないからだ、というように云っているわけでございます。自由法学から、非常に厳格な概念法学に一変しているわけです。しかし、別に驚くことはございませんので、結局、秩序維持の結論をとるために、解釈技術を上手に使い分けておるということにすぎないわけです。人権より秩序を重んずるという感覚、そのような裁判官の意識・無意識の態度が、そういった結論をとらせていることは明白だと思います。
――下村幸雄「法曹の人権感覚」同『刑事裁判を問う――在官30年の思索と提言』(勁草書房1989、初出1967)、186〜187頁

2010年8月
裁判官が初めて普通の人にわかる「言葉」で裁判を語り始めたときに、何か変化が起きるんじゃないかとすごく期待しているんです。初めて裁判が一般の人に「開かれる」。今までは「公開が原則」ということで、誰もが傍聴できたわけですが、裁判官も検察官も弁護士も、傍聴人にわかるようには裁判してこなかった。自分たち専門家がしっかりやっているから大丈夫だけど、見たかったらどうぞという、裁判をわかってもらおうとはしていない「公開」だった。裁判は「開かれた」ものではなかったんです。だけど今度は少なくとも裁判官は一般の人を説得しなきゃいけないわけですからね。裁判官が自分の思い通りにやりたかったら、「裁判員」である一般の人を説得しなければいけない。裁判所は、裁判を「開かれた」ものにしなければならないんです。少なくともアメリカの陪審員のように、傍聴人にもわかる裁判が始まる可能性がある。
――周防正行(映画監督)。周防正行『それでもボクはやってない−日本の刑事裁判、まだまだ疑問あり!』(幻冬社2007)、310頁

2010年9月
しかし、適切な問いは、死刑が「相応しい」と思えるケースがあったのかどうかということではなかった。正しい問いは、死刑が相応しい事件だけを捉え、決して死刑が相応しくない事件を誤って捉えてしまうことのない法制度を構築することがわれわれに可能であったのか、というものであった。死刑が相応しくない事件とは、何人かの私の依頼人のように無実の人、あるいはまた別の依頼人のようにいかなる比例の感覚に照らしても死刑に相当する罪を犯したとは言えない人の事件である。われわれは未だにそのような制度を構想できたことがないということに私は気付いた。
――スコット・トゥロー(アメリカの小説家、弁護士)。Scott Turow, “Doubting the Death Penalty”, in LARRY KING ED., BEYOND A REASONABLE DOUBT (Phoenix Book, 2006), at p286.

2010年10月
さらに信用性を持たすために、わざと事実とは違ったことを調書に書き込んでおくわけ。……たとえば椅子の配列があるとする。もちろん、実況見分しているからこっちは正確なデータが分かっているんだけれども、そこをわざとちょっといじるわけね。2つあった椅子をわざと3つにしてみたりだとか、4つあったのを1つにしてみたりだとか。そうやって少しだけ間違いを作っておいたほうがかえって信憑性が増すんだよ。そういうのは図面だけでなくて、調書の文章の中でもやる。たとえば佐藤慶の「優」を「勝」とわざと書き間違えたり、田中森一の「森一」を「守一」としたりするわけだ。その調書を被疑者に読み聞かせれば、被疑者は「いや、佐藤マサルのマサルはこうじゃないんですよ、田中モリカズのモリは違いますよ」と、こうなるじゃない?で、そこを訂正しておけば、もう検察の思うつぼ。というのも、それで実際に裁判が始まって、ある争点に関して被疑者が「いや、私はそんなこと言った覚えはありません。事実はこうなんです」と言ったところで、判事は「あなた、そんなこと言うけども、この中でわざわざこんな誤字脱字まで訂正しているじゃないか。文字の間違いを検事はちゃんと直してくれたんでしょ?名前まで直してくれているじゃない。それなのに自白を強要されたというわけ?」と聞くわね。こうなってしまえば裁判所は検事の調書の信用性を否定することができなくなるんだ。
−田中森一・佐藤優『正義の正体』(集英社インターナショナル・2008年)45〜〜46頁

2010年11月
わたしはと言えば、常々、依頼人が当該の案件についてわたしに詳しく情報を与えてくれるよう努力し、また、その人に自由に語ってもらうためにその場に誰もいないようにするよう努め、さらには、わたしが相手方の立場に立って弁護し、その人には自分の立場に立って弁護してもらったり、依頼人が自分の案件についてどう考えているか胸襟を開いて語ってもらうように努力している。だから、依頼人が去ると、まったく公平な心をもってわたしは1人で3役、つまり、弁護人としてのわたしと、相手方と、陪審員の3役を演じるのである。−キケロー/大西英文訳「弁論家について」『キケロー選集7』(岩波書店・1999年)184頁−

2010年12月
弁護人によって予め与えられた助言でさえ、密室の取調べによって容易に打ち敗かされてしまうのである。したがって、第5修正の特権を保護するための弁護人の必要性というのは、取調べの前に弁護人と相談する権利のみならず、被告人が望むならば取調べの間弁護人を立会わせる権利をも包含するのである。
――アール・ウォレン連邦最高裁首席裁判官、ミランダ対アリゾナ法廷意見


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ちょうど70年前に公布された日本国憲法は、すべての個人に黙秘権(自己負罪拒否の特権)があることを認めています。しかし、日本国の現状はこれとは程遠いものであり、江戸時代の御白州のようにお上は刑事訴追された民に罪の告白を強要しています。この現実をなんとか改善しようと考える弁護士のグループが、いまから20年前に「ミランダの会」という団体を作りました。ミランダの会は2000年代の10年間ウェブサイト上でさまざま情報を発信していました。毎月1回トップページに「今月の言葉」を掲載して、刑事司法に思いを致すよすがとして古今の文献の一節を引用しました。ミランダの会は現在その活動を休止し、ウェブサイトも閉鎖されていますが、読者からの要望にお応えして、「今月の言葉」を復刻することにしました。

2007年1月
どうか私たちをあなたたち自身が裁いて欲しいと思うやり方で裁いてください。わたしのいうことはそれだけです。
――アフェニ・シャクール 元ブラックパンサー党地区代表、トゥーパック・シャクール(ラッパー、1996年9月ラスベガスで何者かに射殺された)の母親。1971年6月、ニューヨーク州最高裁判所(事実審裁判所)にて、警察署に爆弾を仕掛けた容疑でパンサー党員13名が起訴された「パンサーの13人」事件の被告人の1人として、陪審に向けて自ら行った最終弁論の1節。出典:アンジェラ・デービス編著(袖井林二郎監訳)『もし奴らが朝にきたら――黒人政治犯・闘いの声』(現代評論社1972)、311頁)。

2007年2月
We defend everybody.(われわれは誰でも弁護する。)
――アール・ロジャーズ(Earl Rogers 1869-1922アメリカの伝説的な刑事弁護士。21年間の弁護士生活で189件の無罪評決を獲得した。77件の殺人の公判で74件の無罪を得ている。)の口癖。Adela Rogers St. Johns, “Final Verdict” (Doubleday, 1962).

2007年3月
1人の奴隷の根拠のない意見によって人類全体の自由と運命とを片付けてしまうわけにはいかない。
――ジョン・ロック John Loke, The Two Treatises of Government, ed., Peter Laslett (Cambridge University Press, 1988[1698]), p177. 1st Treatise §51.

2007年4月
憲法の保障には何がしかのコストが伴うというのは自明の理である。
――スカリア裁判官Coy v. Iowa, 487 U.S. 1012 (1988), at 1020.

2007年5月
たまたま弁護士資格のある人が法廷で被告人の隣に座っているというだけでは、憲法の要請を満足させるに充分という訳にはいかない。
――サンドラ・D・オコナー判事Strickland v Washington, 466 U.S. 668 (1984), at 685.

2007年6月
裁判の手続は、その古めかしく奇妙であることを旅行者によって賞賛されるべき、歴史的展示物ではない。それは、法の下の正義を推進する力量によって評価されるべき、必須の政府機関である。
――DAVID PANNICK, JUDGES (Oxford University Press, 1987), at p146.

2007年7月
訴訟法は裁判所の執務の安易や簡便のために設けられているものでない。
――小谷勝重最高裁判事。最高裁大法廷昭和28年4月1日判決における補足意見。刑集7-4-713、724頁。

2007年8月
この事件の判決をどうするか考えているとき、私は、ある素人の友人に、事実と法が、有罪を宣告され死刑を言渡されたある男に対して再審を認めることを私に要求しているようだ、と言った。
「彼は殺っているのか」とその友人は尋ねた。
私はただこう答えた。「彼が公正な裁判を受けるまでは、それはわからない」と。
この偉大な国において、公正な裁判を受けていない人々が処刑されようとしているときにわれわれがそれから目を背けてしまうようなことは、決してあってはならない。この事件ではまさにそれが起ろうとしていたのだ。
――フランク・シャイ、オクラホマ東部地区連邦地裁判事、1995年9月19日ロナルド・ウィリアムソン死刑囚の再審を許可する判決において。Williamson v Reynolds, 904 F.Supp. 1529 (E.D.Okla.1995), at 1676-77, cited in, JOHN GRISHAM, THE INNOCENT MAN: MURDER AND INJUSTICE IN A SMALL TOWN (Doubleday, 2006), at 277.この判決の4年後、1999年4月15日、DNA鑑定によってウィリアムソン氏の無実が証明され、彼は死刑囚監房から釈放された。

2007年9月
いったい裁判官が裁判をするにあたっては事件を審理した上で結論が先に出るのだろうか、それとも法文と理屈とが先に出てその推理の結果ようやく結論が出るものだろうかという問題です。この問題は日本の裁判官はもちろん外国の裁判官にもしばしばたずねてみました。ところがこれに対する答えはほとんど常に「結論が直感的に先に出る、理屈はあとからつけるものだ」というものでした。
――末弘厳太郎『嘘の効用』(日本評論社1954[初出1923])、136頁。

2007年10月
刑訴143条は「裁判所はこの法律に特別の定ある場合を除いては何人でも証人としてこれを尋問することができる」と規定し、一般国民に証言義務を課しているのである。証人として法廷に出頭し証言することはその証人個人に対しては多大の犠牲を強いるものである。個人的の道義観念からいえば秘密にしておきたいと思うことでも証言しなければならない場合もあり、またその結果、他人から敵意、不信、怨恨を買う場合もあるのである。
そして、証言を必要とする具体的事件は訴訟当事者の問題であるのにかかわらず、証人にかかる犠牲を強いる根拠は実験的真実の発見によって法の適正な実現を期することが司法裁判の使命であり、証人の証言を強制することがその使命の達成に不可欠なものであるからである。従って、一般国民の証言義務は国民が司法裁判の適正な行使に協力すべき重大な義務であるといわなければならない。
――最高裁大法廷昭和27年8月6日判決(石井記者事件)、最高裁判所刑事判例集6巻8号974頁、976-977頁。

2007年11月
アメリカ人の目からみると、被害者の参加制度が裁判員制度とほぼ同時に採用されるというのは、皮肉であるとともに、まさに衝撃的である。有罪・無罪の判断と量刑判断が段階を分けられておれば、被害者は量刑判断の段階で自らの意見を述べることもありうるだろう。しかし、有罪無罪を判断する段階にまで被害者の積極的な参加を認めるとなると、これは、裁判員と裁判官とを問わず、事実認定者を、偏見を抱かせるような無数の危険にさらすに等しい。これが合衆国であれば、有罪・無罪の判断の段階での被害者の積極的な参加が、被告人に公正な裁判への権利を保護する観点から、違憲審査で認められるとはまず考えられない。
――ダニエル・フット(溜箭将之訳)『名もない顔もない司法−−日本の裁判は変わるのか』(NTT 出版2007)、310 頁。

2007年12月
この地球上でもっとも危険な人物は、あまりにも長いあいだ偏見を持ち続けてきたために偏見がその心根にしっくりと馴染んでしまった独善的な学者気どりたちである。
――ジェリー・スペンスGerry Spence, Win Your Case: How to Present, Persuade, Prevail—Every Place, Every Time (St. Martin’s Press, New York, 2005), at p118.

2009年1月
もし、私が裁判員裁判の弁護人となり、捜査段階での被告人の自白が強制されたものであると主張する場合には、取調べの全過程を録音・録画できるのに、していないことを徹底的に突くであろう。
――後藤昭「裁判員制度をめぐる対立は何を意味しているか」世界2008年6月号90、95頁。

2009年2月
私モ四十三年ノ司法官生活中随分間違ッタ裁判ヲ為シタコトノアルハ勿論ダガ、併シ自分ノ考ガ理屈ニ捉ハレ一種ノ型ニハマリ真相ニ適シナイ事実ノ見方ヲ為シ居ルトハ気付カナカッタノデアル。今ヤ民間ニ下リ局外ヨリ裁判ノ当否ヲ傍観スルニ従来耳ニシタ世間ノ批評モ成程ト肯カルヽコトガアル。古人ノ語ニ「五十年ニシテ四十九年の非ヲ悟ル」ト云ヘルコトアリ。私ノ在野法曹トシテノ感想は全ク此ノ語句ノ通リデアリマス。
――三浦順太郎『陪審裁判松島五人斬事件之弁論』(1931)、60頁。三浦は明治から昭和にかけての裁判官。昭和4年に定年退官して弁護士。

2009年3月
「起訴のタイミングは、私にかかってる。捜査一課長は、急げ、急げ、言うてるけど、そんなもん、関係あらへん。私の事件や、これは。あんたは、私の仕事相手なんや。自分をもっと大事にせんとアカン。誠実に、直向きに生き直すチャンスなんやで。つまらん素人考えで、あんたは、取り返しのつかん間違いを犯そうとしとる。見て見ぬフリはでけんやろ?あとで、あん時、あの刑事の言うこと聴いて、ちゃんと自供しとったらて、どんだけ後悔しても始まらんのやで!完黙なんかしてみたところで、何にもならへん!起訴して、有罪になるだけの証拠はもう揃ってるんやから。今の裁判では、一人殺しただけじゃ死刑にならん。二人殺せば50パーセント。三人殺せば、確実に死刑。――そうなっとる。けど、あんたの場合、事件が事件や。西麻布の死体遺棄事件もあんたが関係してるんかどうか、それは分からん。けど、世論はどんどん、厳罰化の方向に向かっとる。判事もそれに従いだした。あんたも知っとるやろ?態度次第では、死刑だってあり得る。死ぬんやぞ!絞首刑や。想像してみ。どんだけ無惨な死に方か。――死に急ぐことはあらへん。生き延びることをまず考え!すべてはそっからや。きちっと自供すれば、絶対に悪いようにはせえへん。私らはそんな、弁護士みたいに高給取りでもなし、あんたを自供させて懐が温かくなるわけでもなんでもない。けど、刑事とかなんとか言う前に、ひとりの人間として、私の誇りにかけて一生懸命なんや。あんたが、どっちを信じるか。――完黙とか、怠慢な方法であんたを唆して、ほったらかしてる人間を信じるか、あえて恨まれるようなことでも言って、あんたの将来のことを真剣に考えてる私らの方を信じるか。」
――平野啓一郎『決壊(下)』(新潮社2008)、179-180頁。

2009年4月
サード・ディグリーの時代と同じように、取調べを行う警察官の第一の目標は、真実の探求それ自体ではなく、被疑者に罪を認めさせて、有罪の証拠を固めて裁判で有罪判決を獲得する手助けをすることである。また、取調べは依然としてしばしば秘密裡に行われている。現代アメリカの警察官は当事者主義の規律に見事に順応した。しかし彼らは、先人たちと同様に、決して公正中立な事実探究者になろうなどとは考えていない。むしろ、彼らは依然として本質的に検察官の代理人である。そして、彼らは、当事者主義のシステムが用意したチェックとバランスが有効に機能する前に、刑事司法制度の入口において権力をほとんど独占し、被疑者自身を操って自らにとって致命的な供述証拠を引き出すという仕事を続けているのである。
――Richard A. Leo, Police Interrogation and American Justice (Harvard University Press, 2008), at 77.

2009年5月
今の裁判制度では、弁護士が裁判官に対して「無罪の推定」について必死に説いても、裁判官は仕事柄、その言葉の真意について少々マヒしているかもしれない。しかし、これからは裁判員が、弁護士の援助を得ながら、無罪の推定など刑事裁判の本質的な部分をその都度、素人の新鮮な目で見極めるようになれば、裁判員制度は本当に画期的な制度になるかもしれない。
――コリン・P.A.ジョーンズ『アメリカ人弁護士が見た裁判員制度』(平凡社2008)、219-220頁。

2009年6月
罪を自認することを拒否する特権は、われらの自由の発展の歴史において重要な飛躍――人類が自らを文明化するための戦いにおける偉大なる道標の一つ――を示している。それは、われわれの基本的な価値と崇高なる願望の多く――犯罪の嫌疑を受けている人々を、自己弾劾か偽証か法廷侮辱かという過酷な三重苦に追い込むのを避けたいというわれわれの気持ち;糾問的な刑事司法制度よりも弾劾的な刑事司法制度を好むわれわれの選好;非人道的な方法や虐待によって罪を自認する供述が引き出されることへのわれわれの恐怖;介入を正当化する十分な理由が示されるまでは政府は個人に介入してはならず、個人との対決においては政府に全責任を負わせなければならないとすることによって、政府と個人との間に公正なバランスをもたらそうとするわれわれのフェアプレイの感覚;個人の人格や私生活の領域への権利の不可侵性というものへのわれわれの敬意の念;自己批判的な供述というものに対するわれわれの不信感;そして、この特権が、時として「犯罪者の避難所」であるとしても、しばしば「無実の人の防壁」であるというわれわれの認識――を反映している。
――アメリカ連邦最高裁判所、マーフィ対ウォーター・フロント委員会(1964年)、Murphy v. Waterfront Commission, 378 U.S. 52 (1964), 55.

2009年7月
善人の盾となるルールのほとんど全ては、同時に悪人の剣ともなる。これは[表現の自由を保障する]第1修正についての真実であり、また、[黙秘権を保障する]第5修正についての真実でもある。マーティン・ルーザー・キング・ジュニアを保護しながらデービッド・デュークを保護しないルール、あるいは、ジェームズ・ジョイスの盾となりつつ、ラリー・フりントの剣とならないルールを考案できた人はいない。法、とりわけ権利章典は、外科手術用のメスではない。それは斧である。それは過剰に保護するか、不十分に保護するかのどちらかである。
――アラン・ダーショウィッツAlan M. Dershowitz, Is There a Right to Remain Silence?: Coercive Interrogation and the Fifth Amendment After 9/11 (Oxford University Press, 2008), at 141.

2009年8月
通常の語法では「非有罪(Not Guilty)」という言葉はしばしば「無罪(innocent)」と同義と考えられている。しかし、アメリカの刑事法では、これらは同義ではない。「非有罪」というのは、検察官が証明責任を果たさなかったという陪審の法的判断に過ぎないのであり、たとえ彼らがそう信じていたとしても、被告人が無罪であるということを意味しない。被告人が有罪(guilty)なのか無罪(innocent)なのかは明らかにすべての刑事裁判において最も重要な道徳上の論点であり、また、それは法的にも重要な論点であるに違いない(だからもしも陪審が被告人は無罪だと思えば彼らは「非有罪」の評決をしなければならない)。しかし、陪審が決定すべき究極の法的論点は、検察側が合理的な疑問を入れない程度に有罪を証明する責任を果たしたかどうかを決定することである。もし陪審がこの決定的に重要な区別を十分に理解していないならば、彼らは事実認定者としての機能を十全に発揮する能力を損なわれているというほかない。
――ヴィンセント・バグリオシ(ロサンジェルスの検察官・小説家)。

2009年9月
一人の無実の者を罰するよりも、10人の有罪の者を逃す方が良い。
――サー・ウィリアム・ブラックストン(18世紀イギリスの偉大な法律家)。

2009年10月
一人の有罪の者を逃すよりも、10人の無実の者を処刑した方が良い。
――フェリクス・ジェルジンスキー(ロシアの革命家、ソビエト秘密警察の創設者)。

2009年11月
記録を精査し、当審で取調べた証拠を検討したが、被害者の半袖下着に付着していた犯人の精液を資料にして判定されたABO式血液型、ルイス式血液型の2種の血液型ばかりでなく、MCT118法によるDNAの型が、被告人のそれと合致すること、被告人の性向、知的能力、生活振り、本格的事情聴取の初日に早くも被告人が自白し、捜査官の押し付けや誘導などがなかったことを被告人自身認めながら、犯人であればこそ述べ得るような事柄について、客観状況によく符合する具体的で詳細な供述をしたことなど、本件の関係証拠を総合すれば、被告人の原審の審理後半以降当審にいたる犯行否認の供述にもかかわらず、被告人が被害者花子をわいせつ目的で誘拐して殺害し、遺棄したことを認定するについて、合理的疑いを容れる余地はないというべきである。
――裁判長裁判官高木俊夫、裁判官岡村稔、裁判官長谷川憲一(足利事件控訴審判決、東京高裁平成8年5月9日判決)。高木俊夫は、東電OL殺し事件で、一審無罪判決を破棄してゴビンダ氏に無期懲役刑を言い渡した。後に中央大学法科大学院教授に就任した。

2009年12月
実際のところ、刑事弁護士ならだれでも、カクテルパーティで最も頻繁に尋ねられる質問は、「どうしてあんな連中の弁護ができるのか」というものだと言うだろう。この質問は繰り返し何度も尋ねられる。ほかの弁護士がこんな風に答えているのを耳にする。「有罪の人の権利のために立ち上がることは、無実の人の権利を守ることだからだ。」あるいは、「被告人があなたの息子さんや娘さんだったとしたら、あなたはその質問をしないでしょう。」あるいはまた、「裁判は当事者が対立するものだ。私は自分の役割を果たしているに過ぎない。」これらの答えはどれも決して間違ってはいない。
しかし、いずれの答えも、私が毎朝起きあがり仕事に向かう理由の本質的な部分を捕らえてはない。刑事被告人の弁護を30年以上続けてきた現在も、私は、法律家の仕事の中でこの刑事弁護という仕事に対する情熱を失ってはない。そして私は、私がしていること――私がやろうと全力を尽くしていること――が正しいというだけではなく、私の信念の中核をなしているものだと感じている。私の信念とは、すなわち、被告人が誰であれ、どんな容疑で訴追を受けたのであれ、また、被告人が実際何をしたのであれ、彼らの尊厳のために立ち上がること、これこそが私の仕事だということだ。彼らに対して人間としての敬意を払えと要求すること、これこそが私の義務である、そう私は信じている。
***
刑事被告人の尊厳と彼らへの敬意のために立ち上がるということは、つまり、すべての事件を徹底的に繰り返し調査するということであり、調査報告書や記録を丹念に調べることであり、科学的証拠の再検査をすることであり、検察側のケースセオリーを再検討することである。それは、依頼人とその家族の話を聞くことであり、依頼人がどんな人かを知ることである。それはまた、些細な事柄の中に現れる。たとえば、依頼人の手錠を外し、他の事件の当事者と同じように、彼や彼女を弁護人席に着席させよと、裁判官が廷吏に命じるように働きかけるというような、ときとして単純な事柄である。ときには、貧乏な依頼人のためにスーツを買うことである。ときには、著名な依頼人のために公判までの数カ月間、彼らの自宅の平穏を確保してやることである。世論やセンセーショナルな記事にもかかわらず、一人ひとりの依頼人に無罪が推定されるのだという感覚を取り戻させることである。それは、金持ちであれ貧乏人であれ、有名人であれ悪名高い人であれ、すべての依頼人が、まずその弁護人によってついで司法制度によって、尊厳と敬意をもって扱われることを実現することである。
――ロバート・サンガー:カリフォルニアの刑事弁護士。マイケル・ジャクソンの児童に対する性的虐待事件の弁護人の一人。Robert Sanger, Human Dignity and Respect, in Larry King ed., “Beyond a Reasonable Doubt” (Phoenix Book, 2006), at pp111-114.


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ちょうど70年前に公布された日本国憲法は、すべての個人に黙秘権(自己負罪拒否の特権)があることを認めています。しかし、日本国の現状はこれとは程遠いものであり、江戸時代の御白州のようにお上は刑事訴追された民に罪の告白を強要しています。この現実をなんとか改善しようと考える弁護士のグループが、いまから20年前に「ミランダの会」という団体を作りました。ミランダの会は2000年代の10年間ウェブサイト上でさまざま情報を発信していました。毎月1回トップページに「今月の言葉」を掲載して、刑事司法に思いを致すよすがとして古今の文献の一節を引用しました。ミランダの会は現在その活動を休止し、ウェブサイトも閉鎖されていますが、読者からの要望にお応えして、「今月の言葉」を復刻することにしました。

2005年1月
若し単に自白獲得の爲めに勾留が執行されるならば、恐らく冤罪者は、嘘自白を提供して一時的にせよ此責苦より遁げ出でんと踠がくであらう。何となれば勾留は往昔弱者に対して自自搾取の爲めに行はれたる水責、火責等々の怖ろしき拷問と比べて、實質的相違が余り認められないからだ。其形式に於て彼は身體にあり、是れは精紳に關すと雖、人間は物心両界の綜合的統一體の存在であるのみならず日に月に精神生活向上しつゝある現代文明人は、痛苦の肉體的たるよりは寧ろ精神的に受くるを以て一層の激烈さを體験する。彼等は恐らく二・三時間の縛り敲きの肉體的拷問を受くるよりは、数十日間に亘る絶え間無き精神上の痛苦を感ずる事が、どの位耐え難いか判からないだらう。試みに未だ自白をしない現代の被告人をして、「笞杖の拷問」と「二十九日間の警察拘留」と何れかを自由に選択せしめて申出でしめんか、恐らく大多数の者は、一時的の肉體的拷問を志願するでもあらう。それ程實質的に責苦と云ふ点は、両者同様であり、而かも拘留の方が深刻である。
――南波杢三郎『弁護学:科学的弁護と防禦技術』(新光閣1935)452頁。

2005年2月
「ときどき思うんですが、イランでしているように、腕を切り落とすというような厳罰を加えるべきではないでしょうか。そうすれば、私たちも安心でしょう」と彼は言う。「たぶんね。でもそうなったら、あなたはこの国で暮らしたいですか」と私は答えた。
――ワハード・ゼア(西村春夫ほか監訳)『修復的司法とは何か――応報から関係修復へ』(新泉社2003)、198頁。

2005年3月
時には望ましい目的のためでさえ権力を行使できないこともあることを認めないかぎり、権力の濫用を防止することは決してできないだろう。
――F・A・ハイエク(西山千明訳)『隷属への道』(春秋社1992)[1944]、325頁。

2005年4月
弁護人がいない間は、刑事被告人の黙秘する権利はすべての防禦を放棄する権利に他ならなかった。実際のところ、死刑が多用されたシステムにおいては、黙秘する権利は文字通り自殺する権利に等しかった。弁護人が登場して彼らが沈黙する被告人を防禦できるように刑事公判を再構築することに成功したとき、はじめて、自己負罪拒否の特権はコモンロー裁判所の手続において実践可能な権利となり得たのである。現代英米法において知られているその特権は、被告人ではなく第三者証人を保護していた特権を拡張することによって、19世紀を通じて形成されたものである。
-- John H. Langbein, The Origins of Adversary Criminal Trial, (Oxford University Press, 2003), pp278-279.

2005年5月
実際のところ自律的な理性的判断と思っているところのものが、じつは伝統的な法学教育のなかで培われてきて私たちに期せずして押しつけられている概念を、ただ無自覚に操っているだけだ、と言えるようなばあいが少なくない。「リーガルマインド」というとき、じつは専門や経験をおなじくしているサークルにかぎって通用するジャーゴン(仲間うちの隠語)を使用することへの慣れという、それ自体ではとうてい「理性」作用とは言えないものが、まことしやかに混在しているのである。
――奥平康弘『憲法の想像力』(日本評論社2003)、16頁。

2005年6月
私は来た手札を受け入れた。私はそのゲームに最善を尽くした。私は誠実に、男らしく戦おうと努めた。自分のために、そして仲間のために、私はできるかぎりのことをした。この先も私は最後までゲームを続けるだろう。その最後がどのようなものであろうとも。
――クラレンス・ダロウ、1912年8月15日、カリフォルニア州上級裁判所ロス・アンジェルス郡支部にて。陪審に賄賂を渡した嫌疑による彼自身に対する刑事裁判の最終弁論の一節。GEOFFREY COWAN, THE PEOPLE V. CLARENCE DARROW :THE BRIBERY TRIAL OF AMERICA’S GREATEST LAWYER (Times Books, 1993), p425.

2005年7月
自白の問題は、日々の裁判の現実において最も重要な憲法問題の一つである。
――最高裁判所大法廷昭和23年(1948年)7月29日判決(刑集2-9-1012、1014頁)

2005年8月
自由と秩序についての一般的な前提には、もうひとつ誤りがある。ほぼいつの時代も、秩序とは規則と罰、つまり公式なコントロールであると考えられている。だが歴史を振り返ってみると、秩序は非公式なコントロール、すなわち信念の体系、社会的な圧力や義務、同調への報酬によって維持されてきたことを忘れている。このことはまた、日常生活についてもいえる。秩序は単に法と刑罰に由来するものと考えると、社会をまとめているものを見失うことにもなる。
――ワハード・ゼア(西村春夫ほか監訳)『修復的司法とは何か――応報から関係修復へ』(新泉社2003)、198〜199頁。

2005年9月
多くの世人にとって、被嫌疑者の権利と自由は他人事である。将来自らが被嫌疑者となるようなことは危惧していないのが普通である。しかし良く世情を観察すれば、なるほど強、窃盗や殺人の被嫌疑者になることはないにしても、どんな嫌疑で、どんな事件に連座しないとは限らないのである。決して他人事ではない。しかし、仮に他人事であるとしても、被嫌疑者の自由と権利とが正しく保障されている国家においては、一般市民の自由と権利も、必ずよりよく保障されているはずである。最も犯されやすい被嫌疑者の人間的尊厳すら保障されているのであれば、一般市民の人間的尊厳も、必ずよりよく保障されているはずである。憲法第13条前段は、「全て国民は、個人として尊重される。」と規定している。最も尊重され難い個人は被嫌疑者である。その意味で被嫌疑者の尊重は、個人尊重のバロメーターであり、被嫌疑者の自由と権利は、決して他人事ではないのである。人はときに「被嫌疑者の権利よりも、善良なる市民の権利を尊重することが大切である。」などという。まことに近視眼的である。被嫌疑者に自由のない国家においては、一般市民もまた自由が無いことに思いを致さねばならない。
−−毛利与一『刑事訴訟法序説』(法律文化社1959)、12頁。

2005年10月
検察の慎重な公訴提起と相まって、有罪率は年々99パーセントを超え、日本の刑事司法はその効率性を誇ることができた。いわゆる精密司法の正の側面である。しかし、「記録の読み直し」に専心するという裁判はほとんど世界に類がなく、何かおかしいのではないかという疑問が次第に増幅する。19世紀の前半、チャールズ・ダーウィンは、南米大陸から1000キロ離れたガラパゴス諸島を訪ね、どことも異なる独自の生態系が繁栄しているのを見出して強烈な印象を受け、それが後の進化論の構想につながったといわれる。進化論の当否はともかくとして、現在の日本刑事訴訟の「成功」は、その特異性の点で一種のガラパゴス的状況を混在させているのではないかという懸念が払拭しきれない。
――松尾浩也「刑事訴訟の課題」松尾浩也・井上正仁編『刑事訴訟法の争点(第3版)』(有斐閣2002)、4、6〜7頁。

2005年11月
[保釈に関する]現在の実務の流れをどこかでくい止めなければ、今にどうにもならない事態に逢着するのではないかと、私は危惧感を持っています。現状は、いわゆる「人質司法」となっており、このままでは被告人が公訴事実を否認することが事実上できなくなってしまうのではないかと心配しています。
――木谷明『事実認定の適正化:続・刑事裁判の心』(法律文化社2005)93頁。

2005年12月
[終戦直後の10年間は]日本刑事裁判史上最も正しく裁判が行われた時代として顕著であるというように思います。昭和20年8月に日本は敗戦という有史以来の大悲劇を見終わったわけですが、悲劇というものを見終わった時に、人間というものは誰でもが非常に謙虚になる。日本人全部が謙虚になったということを経験しております。裁判官も検察官も警察も例外ではありませんでした。……そこから貧しいながら同胞が互いに抱き合う、人の哀れを自分の哀れとする、人の悲しみを自分の悲しみとすることができました。そこに自他一如、……そういう諦観が生まれたということを私は実感いたしました。多くの裁判官は肩をいからすのはやめまして、そして人の心をもって人の心を見るということができるようになりました。虚心平明に被告人を見る、少なくとも法を正しく運用していこうという、そういう心がありありと見えるようになりました。
――関谷信夫「刑事弁護哲学――自他一如」関谷先生無罪判決集出版委員会編『無罪への道――関谷信夫先生無罪判決集』(ぎょうせい1989)16頁。

2006年1月
米国には今猶私刑の遺習ありて、刑法も亦瞠若たるにあらずや。星移り物変りて、主権者の権威漸くにして強大を加ふるや、政府となり、法廷となり裁判となる。即ち知る、国家司法権の淵源は、民に在りて国家にあらざることを。形式上国家は裁判権を保有すと雖も、実体上民に代りて民を理する所以の根本観念を忘るべからず。古往今来、国民なき国家の存在すべき理由なし。官民不和、上下隔離二者互に相敵するに至らば、国家は遂に分裂破壊すべし。形式に存して実体に空しからん。国民にして国家の司法権に参与するの権なくんば、司法権は有司の私権なり。之を国家の司法権と云ふべからず。嗚呼我司法の現状果して如何。
――花井卓蔵『人生と犯罪』(廣文堂書店1915)、22-23頁。

2006年2月
「自己の情動的な性質の道を踏み外させる影響に」最も強く支配されている裁判官に限って、屡々、最も神妙に威圧的な機械的論理の言葉を用いるものであり、自分はただ現行の規範を発見して、それを実施するだけにすぎないという粧いで巧妙に自己を包みかくすものである。もしすべての判決意見が、判決の実際の根拠となったものを全部さらけ出して述べられるならば、判事席に在る暴君、偏屈者、不正直者は、彼等の仮面を失い、その本性を暴露するであろう。***われわれは、いかに望んでみたところで、所詮司法の運用における情動的要素を除去し得るものではない。われわれが望み得る最上のことは、事実審裁判官の情動が繊細で、平衡がとれており、且つ彼自身の吟味を受けるということである。自己の持つ権能の性格と自分自身の偏見及び弱点とについて、能う限り完全な知識をもった誠実な十分訓練された事実審裁判官こそ、正義の最上の保証となる。賢明な方針は、「個人的要素」が必然的に存在することを認め、それに従って行動することである。
――ジェローム・フランク(古賀正義訳)『裁かれる裁判所(下)(新装版)』(弘文堂1970[1949])、668-669頁

2006年3月
昔、子供だったときに、ある日、川を水死人が流れてくるのを見た。翌日になって新聞を二つ読んでみたら、二つとも水死人の着物の柄をまちまちに書いていた。記者が水死人を見てどんな感想を書こうが、それはその記者の主観の自由であるが、一人の水死人の着物の柄が事実とまったくちがって活字になるというのは、いったいどういうことなのだろう。後世には水死人が消えてこの誤報の記事だけが伝えられてゆく。それがこの水死人についての“歴史”となってのこされてゆく。一人の水死人についてすでにこうであってみれば、一国一世の巨大な事業については、どれほどの嘘の歴史が書かれてゆくことであろうかと考えた。
それ以来、彼は、文字になった“歴史”というものを、子供心に、ことごとく割引いて考えるようになった。
――開高健「阿波踊り」同『路上にて:開高健全ノンフィクション�掘戞癖檎砂媾�1977[1963])、412頁。

2006年4月
私は、37年間の検察官としてキャリアのなかで、陪審の評決に不平を言ったことはただの一度もない。今日はじめてそれを言うつもりもない。
――サンタ・バーバラ・カウンティ地方検事トーマス・スネドン、2005年6月14日、カリフォルニア州上級裁判所の陪審がマイケル・ジャクソンに無罪評決を出した直後のコメント。
http://www.cnn.com/2005/LAW/06/13/jackson.trial/

2006年5月
政府機関が多大のプレッシャーの下で重要な利益を保護するのに必要と判断される臨機の行動をとるのと、裁判所が刑事手続のなかでその行動を回顧的に審査したうえでそれに憲法的な正当性を承認するのとでは、全く意味が異なる。ロバート・H・ジャクソン連邦最高裁判事が第2次世界大戦中の日本人強制収用事件における反対意見の中で述べているように、政府の役人が憲法に違反したとしても、「それは一つの出来事に過ぎない」が、その行動を裁判所が承認したならば、「その一過性の出来事は憲法上の教義になるのである。それは自らの生産力を持ち、それが創り出すものはすべて独自のイメージを持つに至るであろう。」
――アラン・ダーショウィッツAlan M. Dershowitz, “The Best Defense” (Vintage Books, 1983), p80.

2006年6月
いかなる者であれ被告人が告発人と面と向かって対面し、訴追について防禦する機会を与えられないままに彼を処刑するというのは、ローマ人のやり方ではない。
――使徒行伝25章16節

2006年7月
昔或吟味方の役人、予て上手と云はれし者、或日感ずる所ありて、家に帰り、役服のまゝにて、下男を呼び出し、汝は我手許の金子を盗取り、不届けなりと問ひしに下男は驚き、其覚なき旨、申し披きしに段々理非をもって責問ひ、或は憤り、或は諭せしかば、終に下男、申し開き尽き服罪せり。依て役人大に驚き、我は是まで、如何なる囚人にても、白状させずといふ事なかりしに今全く覚なき下男、我調べを受け伏罪せしを見れば、是まで冤罪を出し候事多かるべしと、只今思当れり。余り此方の詞強く、少しもゆるみなく責め問へば、愚人は終に閉口し、罪に落ちる事、此僕の如し。恐るべき事なりとて、其役人は自分と職を辞し、隠居せしと云う事あり。去れば、吟味方程大事の者これ無し、口問ですら斯くの如くなれば、拷問などは尚更に候。
――佐久間長敬『吟味の口伝』原胤昭・尾佐竹猛解題『江戸時代犯罪・刑罰事例集』(柏書房1982[1930])268~169頁。佐久間長敬(1839-1923)は幕末の江戸町奉行与力。明治維新後は裁判官として活躍し、司法権少判事に任ぜられ、足柄裁判所長となり、後に東京裁判所に転勤したが、明治6年12月征韓論のとき同志とともに辞職した。

2006年8月
3 粘りと執念を持って「絶対に落とす」という気迫が必要
   調べ官の「絶対に落とす」という、自信と執念に満ちた気迫が必要である
4 調べ室に入ったら自供させるまで出るな。
○ 被疑者の言うことが正しいのでないかという疑問を持ったり、調べが行き詰まると逃げたくなるが、その時に調べ室から出たら負けである。
***
12 被疑者は、できる限り調べ室に出せ
○ 否認被疑者は朝から晩まで調べ室に出して調べよ。(被疑者を弱らせる意味もある)
――「被疑者取調べ要領」愛媛県警察本部警察学校における講義用レジュメ。http://y-nakamoto.cocolog-nifty.com/docs/miketsu/ehime-manual.html 同本部刑事部捜査1課所属のA警部(42歳)のパソコンから流出したファイルの一つ。愛媛県警察本部平成18年6月16日付「調査結果報告書」 https://www.police.pref.ehime.jp/soumu/ryusyutu_chousa.pdf

2006年9月
実際のところ、私には友愛という言葉を自発的という言葉と分断することができない。自由を法的に破壊せずに、すなわち正義を法的に踏みにじることなしに、友愛を法的に強制する方法があるとは思えない。
――フレデリック・バスティア『法』(1850年パリで出版された)。Frederic Bastiat, “The Law” (Filliqarian Publishing, LLC, 2005), at p23.

2006年10月
私は、決して自分の疑問を押しつけるつもりはありませんが、しかしあえてもう一度お伺いしたいと思います。今まで申しましたようなアメリカの判例の動向を背景として考えますと、私は、日本の憲法上の強制による自白を排除する法則と公判前の勾留・取調の手続とを調和させて考えるのに非常な困難を感じるのであります。もし、私が日本の勾留・取調手続を正しく理解しているとしますならば、私には、取調のため長い間勾留しておけるという手続そのものが、実質的には、一種の強制ではないか、との議論も可能なように思われるのであります。
――ジョン・B・ハールバット、1960年6月21日司法研修所にて。司法研修所編『日米比較刑事訴訟手続――ハールバット教授セミナー記録』(1961年)、131頁。ハールバット(John B. Hurlbut)は、スタンフォード大学ロースクール教授。日米法学交流委員会とフルブライト委員会による交換教授として来日した際に、司法研修所で彼を講師として当時の指導的な裁判官、検察官、弁護士、研修所教官らとのセミナーが開かれた。上記の発言に対して受講者の1人であった横川敏雄(東京地裁部総括判事)は「自白の任意性についてはもう少し裁判所として厳格に解釈する必要があるんじゃないかということは、実践的には非常に感じるのですが、今までの最高裁・高裁の判例で、任意性なしとするには脅迫がある場合とかある程度固まっておりますので、そういう判例の線をはなはだしく逸脱するということは実際上できない」と答えた。

2006年11月
重罰化に、教育機能や、特別予防効果があると考えるのは刑法上のお伽話であり、裁判官が判決を書く際の気休めに過ぎない。そんなことは、刑務所や少年院での実務を経験し、受刑者や非行少年と日々生活を共にすれば、すぐに分ることである。しかし、残念ながら、日本の刑事司法の専門家の多くは、刑罰信仰の中に生きている。
――浜井浩一『刑務所の風景――社会をみつめる刑務所モノグラフ』(日本評論社2006)、iv.

2006年12月
裁判所は犯罪と闘うために存在するのではない。裁判所は正義を実現するために存在するのだ。
――2006年11月、あるアジアの都市で開かれた国際会議で香港のバリスターが中国本土の裁判官に向けて言った言葉。


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ちょうど70年前に公布された日本国憲法は、すべての個人に黙秘権(自己負罪拒否の特権)があることを認めています。しかし、日本国の現状はこれとは程遠いものであり、江戸時代の御白州のようにお上は刑事訴追された民に罪の告白を強要しています。この現実をなんとか改善しようと考える弁護士のグループが、いまから20年前に「ミランダの会」という団体を作りました。ミランダの会は2000年代の10年間ウェブサイト上でさまざま情報を発信していました。毎月1回トップページに「今月の言葉」を掲載して、刑事司法に思いを致すよすがとして古今の文献の一節を引用しました。ミランダの会は現在その活動を休止し、ウェブサイトも閉鎖されていますが、読者からの要望にお応えして、「今月の言葉」を復刻することにしました。

2003年2月
それは何人も自らを訴追することはないという国の法に照らして違法である。それは汝自身にそむくなかれという神の法に照らして違法である。それは全ての人は自らを保持すべしという自然の法に照らして違法である。***訴追を受ける人に対しては、何故に訴追されたかが知らされなければならず、彼を訴追する者を連れてきて彼に対面させなければならない。自らを訴追することを求められたとき、彼の答えは、イエス・キリストのそれと同じでなければならない――「汝ら何故に我に問うか。我を知る者に赴け」。――ジョン・リルバーン、1638年2月9日スターチェンバーにて、キーパー卿から「なぜ宣誓を拒むのか」と尋ねられて。Pauline Gregg, Free Born John: A Biography of John Lilburne (George G. Harrap & Co., 1961), p60.

2003年3月
権利章典の草案者たちは、刑事事件において何人も自らに対立する証人とされてはならないという彼らの禁令を、弾劾主義的な刑事司法制度の中心的な特色の一つとみなしていた。無実の者を処罰する可能性を最小限にする制度を永続させることに深く献身するとともに、少なくともそれと同じ程度に、彼らは基本法が犯罪者に対しても示すべき人間性というものを考慮していたのである。何よりも、[黙秘権を保障する合衆国憲法]第5修正は、個人の尊厳に基礎をおく自由社会においては、有罪無罪の決定は公正な手続によってなされ、訴追を受ける者は自らの有罪のために不本意な貢献をなすべきではないということの方が、有罪の者を処罰することよりも大切であるという彼らの判断を反映しているのである。――Leonard W. Levy, The Origins of the Fifth Amendment: The Right Against Self-Incrimination (Macmillan, 1986), p432.

2003年4月
世に現れた誤判のほとんどは、理解力の欠陥というよりは意思の欠陥によるものであるから、司法を良く運営するためには博識の人よりも高潔の人を選ぶように注意しなければならない。――ジョン・ロック Mark Goldie ed., Locke: Political Essays (Cambridge University Press, 1997), p273.

2003年5月
デラ・ストリートは、椅子から立ちあがって窓まで行き、外を覗いてみた。
「警察の車だわ」彼女はメイソンに言った。
メイソンは顔をしかめた。「タイディングス婦人」彼は言った。
「あなたに約束してもらいたいことが1つあります。絶対に供述をしてはなりません。いかなる質問にも答えを拒否してください。」
「メイソンさん、あなたまさか……。」
窓辺からデラ・ストリートが言った。「ハルコム警部と、もうひとり出てきた。こっちに向かってるわよ。」
「私に約束してくれますか?」メイソンは尋ねた。
「はい。」
「覚えておいてください。あなたの人生はこの約束を守ることにかかっているということを。」
--E. S. Gardner, “The Case of the Baited Hook” (Ballantine Book, 1986; originally published 1940), p170.

2003年6月
自らの肉体を防衛しないことを約束する規約は無効である。したがって――
 主権者が、たとえ正当な目的に発したものであっても、個人に対して、彼自身を殺し傷つけあるいは不具にすることを命じ、あるいは食べ物、空気、薬などそれなしでは彼が生存できない物の利用を禁じる命令を発したとしても、なお、彼にはその命令に従うのを拒否する自由がある。
 個人が自らの犯罪について主権者やその権限をもつ者によって取調べを受けるとき、彼には、恩赦の保障がない限り、それを自白する義務はない。なぜなら、何人も規約によって自らを訴追する義務を負わせられることはないからである。
――トマス・ホッブズ『リヴァイアサン』第21章。

2003年7月
しかし、習慣や伝統というだけでは、憲法上の異議申立に対する十分な回答とは言えない。
――ブラックマン判事 Justice Blackmun, for the court, Bates v. State Bar of Arizona, 433 U.S. 350, 371 (1977).

2003年8月
アメリカの弁護人は制度上有罪無罪の決定に参与する。すなわち、独自に事実関係を調査し中立の事実認定者の前で検察側の証拠に疑義を提起するために、弁護人への意味のあるアクセスが被告人に保障されなければならない。検察側が被告人の有罪を証明する前に刑罰や矯正が開始されることは、憲法に適合するとはいえない。これに対して、日本では、訴追機関が被告人の有罪を信じて自白を引き出した時点で、矯正が始まる。日本の当局者は、自白は「被疑者に道徳的責任を受け入れさせる手段」であり、更生の出発点であると考えている。このアプローチが被告人の弁護権における力点の差を導く。アメリカのモデルを見て、日本の市民、政策担当者そして刑事司法当局者が、取調べへの弁護人の在席は、有罪判決を減少させるだけでなく、望ましい矯正過程を阻害するだろうと考えるのは自然である。要するに、自白に対するいかなる障壁も、被告人が道徳的責任を取ることを妨げ、彼らの社会復帰を阻害すると考えるのである。
――David A. Suess, Paternalism Versus Pugnacity: The Right to Counsel in Japan and United States, 72 Ind. L.J. 291(1996).

2003年9月
我邦今日詞訟ニ代言人ヲ許サルルハ、其能ク詞訟本人ノ情ヲ尽シテ其権利ヲ暢ベ、之ヲシテ枉屈ニ陥ラシムルナキニ在ルナリ。其社会ニ益アル亦少ナカラズ。然リト謂モ、詞訟ノ関係スル所ハ多ク是レ財物金銭ノ得喪ニ過ギズ。之ヲ刑獄ノ関係スル所ニ比スレバ、其軽重大小固ヨリ日ヲ同フシテ語ルベカラズ。抑々刑獄ハ栄辱ノ属スル所、死生ノ岐ルル所、裁判一タビ其當ヲ失フトキハ、人其罪ニ非ズシテ長ク囹圄ニ繋ガルルノ苦ヲ受ケ、其甚キニ至テハ、身首處ヲ殊ニシ、復タ日月ヲ見ザルノ惨ニ遭フヲ致ス。其関係スル所豈至大至重ト謂ハザルベケン哉。然而シテ刑獄ノ原告タル者ハ堂々タル官吏ニシテ、学力知識ニ富ムノ人ナリ。之ニ反シ、其被告タル者ハ大概愚昧卑賎ノ民ナリ。其囚ハレテ獄庭ニ到ルヤ、畏懼ニ勝ヘズ。自ラ其辭ヲ尽シ、其情ヲ明ニシ、以テ原告ノ論ズル所ヲ破ルヲ得ルハ萬ニ一ヲ望ムベカラズ。其ヲシテ呑恨泣冤ナカラシメント欲スルハ蓋シ甚ダ難シトス。知ル可シ、其代言辯護ヲ要スル切ナル、亦詞訟人ノ比ニ非ズ。今ヤ我邦獨リ詞訟ニ代言ヲ許サレ、未ダ刑獄ニ之ヲ許サレズ、豈一大缺典ト謂ハザル可ケンヤ。因テ速ニ刑事代言人ヲ御差許相成度。
――磯辺四郎(司法省修法課起草委員)の明治12年(1879年)6月27日付「刑事代言人ヲ許スノ議上申案」。委員10人中8人の反対で否決された。賛成したもう1人の委員は箕作麟祥。

2003年10月
次に三十九條でありますが、この規定によりますと、弁護人が被疑者にもつくことは許されておるのでありますが、その弁護人が立会人なくして被疑者と接見し、書類とか物の授受ができることが規定されていますが、被疑者の取調べに立会うという規定が書かれていない。この被疑者の取調べに立会うか立会わぬかということは、きわめて重大なことであります。もしも被疑者につけられたる弁護人が、被疑者の取調べに立会えないとすれば、弁護人を被疑者につけるという意味は、大部分抹殺されてしまうだろう、こう考えておるのであります。この点について、政府としてはどう考えていられるか。この点について改正に應ぜられる意思があるや否や、お伺いしたい。
――中村俊夫、1948年6月21日衆議院司法委員会で「刑事訴訟法を改正する法律案」についての質問。政府委員野木新一は「取調べに際しましては、弁護人側を立会わせるということは、今の日本の段階におきましては、そこまでさせることは、捜査の敏活に差支えがあると考えまして、この案ではまだそこまでは至つていないわけであります」と答弁した。

2003年11月
又盗賊火付ケなどを吟味する時、覺えなき者も、拷問せられて、苦痛の甚しきにえたへずして、僞りて我也と白状する事あるを、白状だにすれば、眞僞をばさのみたゞさず、其者を犯人として、其刑に行ふやうの類もありとか、是又甚あるまじき事也
――本居宣長『秘本玉くしげ』天明7年(1787年)

2003年12月
一 重犯−山賊・海賊・夜討・強盗−の輩の事
 右、彼の輩の者は重犯なり、禁ぜざるべからず、須く罪科に處す。但し重犯の者は、贓物を露顯せしめ、證據分明の輩の事なり、嫌疑をもって左右無くその身を搦め捕り、拷訊に及び壓状を責め取り、白状と稱して断罪せしむるの條、甚だ然るべからず。若しこの儀に背き、理不盡の沙汰に致す者は、地頭代と云えども、沙汰人と云えども、その職を改易せしむべきなり。
――建長5年(1253年)10月1日鎌倉幕府「諸國郡��庄園の地頭代、存知せしめ且つ沙汰に致すべく條々」(佐藤進一・池内義資編『中世法制資料集第1巻』(岩波書店1955)171-172頁)。現代語試訳:「一 重犯すなわち山賊・海賊・夜討・強盗について。右にあげた者は重犯であり、しっかりと禁じて、処罰しなくてはならない。但しこれらの重犯者は、贓物を発見され、証拠が明らかになった者のことであり、嫌疑によって無理やりその身柄を拘束し、拷問に及び強引に調書に署名させ、それを白状と称して処罰することは、決してあってはならない。もしこの規則に背いて、理不尽な評定をした者は、地頭代といえども、また、沙汰人といえども、その職を解かれるべきである。」

2004年1月
われわれはまた、歴史から次のような教訓を親しく学んだ――自分の憲法上の権利を知らないために市民がその権利を放棄することに依存してその有効性を保つような刑事司法は永らうことはできないし、また永らうべきでもない、と。弁護士と相談することを許されれば被告人がこれらの権利に気付き、彼らが権利を行使するだろうことを恐れなければならないような制度は、存続するに値しないのである。もしも憲法上の権利の行使によって法執行制度の有効性が阻害されるのだとすれば、その制度の何かが非常に間違っているのである。
――アーサー・J・ゴールドバーグ、アメリカ連邦最高裁判事(Justice Arthur J. Goldberg, in Escobedo v. Illinois, 378 U.S. 478, 490 (1964).)

2004年2月
先例であることそして先例であることのみが裁判所の作り出したルールを支える論拠の全てであるとき、そのときこそ、ルールの作成者自身がそのルールを打ち破るときである。
――ヒューゴー・L・ブラックアメリカ連邦最高裁判事(Justice Hugo L. Black, Francis v. Southern Pacific Co., 333 U.S. 445, 471 (1948) (dissenting opinion).

2004年3月
社会が勝利するのは罪を犯した者が有罪を宣告されるときだけではない。刑事裁判がフェアに行われるときにも社会は勝利するのだ。われわれの司法運営システムは、いかなる被告人がアンフェアに扱われたときにも傷を受ける。***被告人を免罪しあるいはその刑を軽くする傾向を持ちうる証拠をその要求にもかかわらず検察官が秘匿することは、被告人を圧迫する公判手続を作り上げるのを助ける。それは、検察官に正義の基準にそぐわない手続の指揮者としての役回りを割りふるのである。
――ウィリアム・O・ダグラスアメリカ連邦最高裁判事(Justice William O. Douglas, in Brady v. Maryland, 373 U.S. 83, 87-88 (1963))

2004年4月
このヴィデオカメラとテープレコーダーの国において、警察の取調室だけは機械とは無縁の場所である。
――Justice in Japan: The People Come to Court, Economist.com, Mar 4th 2004, http://www.economist.com/world/asia/PrinterFriendly.cfm?Story_ID=2479774

2004年5月
刑事裁判所において法律家は必需品であって贅沢品ではない。
――ヒューゴー・L・ブラック アメリカ連邦最高裁判事Justice Hugo L. Black, in Gideon v. Wainwright, 372 U.S. 335, 344 (1963).

2004年6月
皆さんは次のことをご存知のことと思います。すなわち、拷問される者は拷問尋問の最大の責任者の側に立ち、結局はそうした者を喜ばせるようなことを話してしまうということをです。なにせそうした者の中にのみ救いはあるのですから。そしてそれはとりわけ自分が嘘の非難をなそうとする者がその場にいない場合にそうなるでありましょう。
――アンティフォン(前480年ころ−411年)『ヘローデース殺害に関して』高畠純夫訳「アンティフォン弁論集」富山医科薬科大学一般教育研究紀要14−1(1992)、37頁。

2004年7月
ある種の裁判、すなわちそれは神判であるが、それが行われたのは、上原御嶽(ウイバルウタキ)のなかであった。盗みをしたとかその他、人びとが考えて、悪いことを犯したと判断された被疑者は、一般の人びとにより左縄をめぐらした刳舟にのせられ、イビヌメー[威部の前]までつれて行かれた。イビヌメーに着くと、被疑者たちは一人一人、当時まだあった神屋(カミヤー)に呼ばれ、神人(カミンチュ)たちが居ならぶ前で、尋問が行われた。神屋にはビトローと称する神が祭られており、この神が神人を通して神判を下す神であった。神屋には神人だけしかおらず、一般村民が立ち入ることはできなかった。こうしたなかで被疑者は、神人から被疑内容について尋ねられた。被疑者が真犯人であるならば、かならず白状してしまったという。当時の神への信仰は絶対であり、かつまた殺人を犯したことが世に知られれば、その罪は子々孫々にも及び、子孫の結婚やその他の生活にも及ぶ、厳しい時代であった。真犯人がしかし、神前で罪をみとめたからといって、そこで白状してしまえばその後に罰があったわけではなく、懺悔してしまえば犯人に罰は課されなかった。むしろ真犯人の名を、神人が一般村民にもらしたりすると、神人そのものに死罪という神罰が加えられた、という。
――渡辺欣雄「沖縄の祭礼:祭場・祭司・祭儀に関する東村内諸村落の調査報告」武蔵大学人文学会雑誌18-3-1(1987)、243-244頁。

2004年8月
被疑者の取調べは、取調室という密室内で行われるので、その状況を知るものは、原則として、当該被疑者と取調官及びその補助者以外にはいない。従って、かりに密室内で違法・不当な取調べが行われたとしても、もし捜査官側が、口を合わせてこれを否定する供述をする限り、被告人が自らの供述のみによって、違法・不当な取調べの存在を立証することは、容易なことではない。しかし、このように、被告人側を、ほとんど防禦の方法を与えないに等しい状況のもとに置きながら、その供述が捜査官の供述と抵触し他にこれを支えるべき証拠がないというだけの理由により、これを排斥するのは相当でない。このような事実認定の方法が許されることになると、密室内において行われた不正義(違法・不当な取調べ)を被告人側が自白のもとにさらすことができないまま、無実の被告人が不当に処罰されるという事態の発生を防止し得ないと思われるからである。近時、そのような問題意識に基づき、「捜査の可視化」が提唱され、少なくとも、被疑者の取調べ時間等については、留置人出入簿等の簿冊類により比較的容易に把握し得るようになったが、それ以上の可視化(例えば、取調べ状況のテープ録音、弁護人の立会の許可等)の提案は、捜査官側に容易に受け容れられそうもない。そこで、現状においては、従前どおり、取調べ状況に関する被告人及び取調官の各供述を対比し、その信用性を比較検討するほかないのであるが、もともと、自白の任意性については、これに疑いがないことについても、訴追側が立証責任を負担しているのに、捜査官において、取調べが適正に行われたことを客観的に明らかにすべき可視化の方策を講じていないことなどにかんがみ、右各供述の信用性の比較検討は、特に慎重、かつ、厳密に行う必要がある。
――木谷明判事、浦和地方裁判所平成3年3月25日判決、判例タイムズ760号261頁。

2004年9月
この世の中において皆さんが自分たちの自由を守ることができるのは、ほかの人の自由を皆さんが守ることによってのみです。皆さんが自由なのは私が自由なときだけです。私を捕らえるものは次には皆さんを捕らえために使われるかもしれない。
――クラレンス・ダロウ、1920年7月シカゴ刑事裁判所にて「共産主義者裁判」における最終弁論Arthur Weinberg ed., Attorney For The Damned: Clarence Darrow in the Courtroom, University of Chicago Press, 1989[1957], p140.

2004年10月
人間の弱さに寛大さをもって臨むことは、公正なことである。また、法にではなく、立法者に、つまり、法の条文にではなく、制定した人の立法の精神に注目すること、また、行為そのものではなく、行為の意図するところに目を向け、事の一部ではなくその全体に対して、また、被疑者が今どのようであるかではなく、彼は常に、もしくは大抵の場合どのような者であったか、に目を向けるのが公正というものである。また、蒙った被害よりも受けた恩恵のほうを、自分が与えた恩恵よりも自分が受けた恩恵のほうを想い出すのも、公正なことである。また、不正を受けてもこれに耐える、というのもそうである。また、直接行動に訴えるよりは言論によって黒白をつけようとすることも、公正なことである。また、法廷の判決を仰ぐよりは調停にもって行こうとすることも、そうである。なぜなら、調停に立つ者は公正に目をやるが、裁判官のほうは法に目を向けるからである。調停者の制度が発案されたのも、じつにこの目的、つまり公正さを強固なものにするためなのである。(アリストテレス・戸塚七郎訳『弁論術』岩波文庫138頁)

2004年11月
取調べ状況について、被告人と取調官のとの間での水掛け論に持ち込まれた場合は、捜査官側の負けと割り切る必要がある。
――木谷明『刑事裁判の心――事実認定適正化の方策(新版)』(法律文化社2004)、59頁

2004年12月
法の発展ということがもしあるとすれば、それは、ほとんど常に特殊・具体性を帯びたケースを切り口として「想像力」をはたらかせて橋頭堡を築き、それがやがて一般化され普遍化されるという性格のものである。
――奥平康弘『憲法の想像力』(日本評論社2003)、14頁


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ちょうど70年前に公布された日本国憲法は、すべての個人に黙秘権(自己負罪拒否の特権)があることを認めています。しかし、日本国の現状はこれとは程遠いものであり、江戸時代の御白州のようにお上は刑事訴追された民に罪の告白を強要しています。この現実をなんとか改善しようと考える弁護士のグループが、いまから20年前に「ミランダの会」という団体を作りました。ミランダの会は2000年代の10年間ウェブサイト上でさまざま情報を発信していました。毎月1回トップページに「今月の言葉」を掲載して、刑事司法に思いを致すよすがとして古今の文献の一節を引用しました。ミランダの会は現在その活動を休止し、ウェブサイトも閉鎖されていますが、読者からの要望にお応えして、「今月の言葉」を復刻することにしました。

2001年4月
検察側が証拠方法として強制的な自己開示( compulsory self-disclosure )に頼ることを常とするのを認める司法制度は、それゆえに自ら道徳的に傷つかざるを得ない。この傾向は、もっぱらそのような証拠を信頼し、他の証拠についての捜査が不完全でもかまわないという態度を生み出す。供述を得ようとするための権力の行使は、 その権力の正当な限界を忘却させる。単純で穏やかな訊問の手続が、いじめや腕力あるいは拷問に頼る下地を育む。答えを得る権利があることから、やがて、期待通りの答えを得る権利−−即ち犯罪の自白を得る権利−−もあるように思えてくる。かように、合法的な権限の行使が不正なる濫用と化していく。そしてついには、無実の者が有害な制度に侵害される危険を被る。この特権を認めない法律制度が経験した筋道は、こういうことだったように思える。
−−ジョン・H・ウィグモ ア

2001年5月
「『何人も自らを訴追することを強いられない』(Nemo tenetur prodere seipsum)とは貴職らの法ではないか」――ジョン・ランバート 1532年、異端の嫌疑により宗教裁判所の尋問を受けて。

2001年6月
「沈黙を保つことをもって如何なる法を犯したとすることもできないし、如何なる罪も反逆も成立しない。神のみがわれらが心に秘めた思いの裁き人であるから。」――トーマス・モア 1535年、国王至上法に基づく誓約を拒んだ罪による訴追に対して。

2001年7月
「いかなる種類の自由であれ、それが一挙に失われるということは滅多にありません。自由に慣れ親しんでいる人々にとっては隷従は世にも恐ろしい身の毛のよだつような顔をしています。ですから、そのような人々に受け容れられるようになるためには、隷従は必ず徐々に忍び寄ってゆき、しかも、無数の姿に身をやつさなければなりません。」――デイヴィッド・ヒューム「市民の国について」より

2001年8月
「アテナイ人諸君、私にメレトスの訴状にいうような罪過がないことは、多くの弁明を要すまいと思う。……しかし最初に述べた通り、私に対する多大の敵意が多衆の間に起こっていることが真実であることは確かである。そうしてもし私が滅ぼされるとすれば、私を滅ぼすべきものはこれである。それはメレトスでもなくアニュトスでもなく、むしろ多衆の誹謗と猜忌とである。それは既に多くの善人を滅ぼして来た、思うにまた滅ぼして行くであろう。私がその最後だろうというような心配は決して無用である」(プラトン・久保勉訳「ソクラテスの弁明」岩波文庫34頁)。

2001年9月
「或る問題に関して相対立する意見のうち単に一方のみが弁護者をもっているという場合には、―しかもその双方の意見の間に立って賢明な判決を下すという裁判官的能力ほど稀れな精神的特質はまずないといってもよいのであるから―問題のあらゆる側面、すなわち、真理の断片を体現するあらゆる意見が、単に弁護者をもつというに止まらず、人の傾聴をかちうるように弁護されて、それらの側面の間に均衡を見出すということに比例してしか、真理はその顕現の機会をもちえないのである。」(ジョン・ステュアト・ミル「自由論」岩波文庫106頁)

2001年10月
「もし弁護士が、正義の炎を燃え続けさせることを怠るようなことがあったとしたら、およそ被告人は、いかに憎むべき罪に問われていようと、必ず弁護してもらう権利を有しており、彼のために合法的に弁じうる全てのことが立派に語り尽くされなければならない、という文明国に相応しい考え方を国民に納得させることのできる者は、果たして誰であろうか。もしわれわれが、この理想と戦って護るに価するものであることを国民に納得させることができないとしたら、われわれが知っているような自由はもはや終焉を告げる。」ロイド・ポール・ストライカー(古賀正義訳)「弁護の技術」青甲社215頁

2001年11月
人間というものは、よく見ているつもりで実は何も見てはいない。それなのに、いざ何を見たかとたずねられると、全然でたらめな印象を平気で喋りたてるものなのだ。……そういう目撃者たちが、裁判の証人になるとどうだ?証人たちはつぎつぎに証言台に立って、誰も彼もまるで謄写版で刷った原稿を読み上げるように、同じ言葉を並べ立てる。むろん誰だって全然なんにも見なかったわけじゃないだろう。それを警察に行って喋る。すると警察ではその男に、かれの話と他の証人たちの話の食い違いを指摘してみせる。ばかりではなく、“こうであったに違いない”真相を話して聞かせる。それからもう一度よく考え直してみろと言い、その後であらためて陳述のし直しをさせる。それから他の証人たちと話し合わさせる。つぎに警察は証人たちを事件の現場に連れて行き、“事件を再演”してみせる。というわけで、その証人がいよいよ証人台に立って申し立てることは、事実かれが見たことと、“見たと思う”ことと、他の誰かから見たと“教えられた”ことと、かれが物的な証拠から判断して“見たはずだと思う”こととのよせ集め以外の何ものでもなくなってしまうのだ(E・S・ガードナー/田中融二訳「怪しい花婿」ペリイ・メイスン・シリーズ早川文庫219頁以下)。

2002年1月
逮捕時から弁護士つけよ
米で画期的な判決
被告側の権利を大幅に広げる
〔ワシントン=浜田特派員発〕米最高裁は13日、刑事事件の容疑者に対する警察当局の取調べ権限を大幅に制限する、世界の刑法史上画期的な判決を下した。……民主的な法治国家における基本的人権の一つとして認められた黙秘権の保護を強化し、人権保護を一層前進させたものだが、容疑者を隔離状態においたうえで、尋問を行うという、警察当局の従来の取調べ環境を否認するものだけに、大きな波紋を呼びそうである。……ウォーレン最高裁長官ら多数派が下した判決は、�〕撞深圓蓮⊇蠶蠅亮蠡海鬚悗覆す感愧罎龍―匳颪鬚發箸冒閉匹気譴襪海箸呂覆ぁ↓⇒撞深圓麓萃瓦戮棒萠�ち、黙秘権があること、弁護士を呼ぶ権利があることを通告されねばならない、�M撞深圓呂海譴蕕慮⇒�を自発的にのみ放棄できる、�い靴�し、容疑者が取調べなどの段階ででも、なんらかの形で弁護士と相談したい意思を表明した場合、弁護士との相談の前にはいかなる尋問も許されない、�テ瑛佑僕撞深圓�単独で供述したくないとの意思を表明した場合、当局はそれ以上尋問を行ってはいけない、というもので、関連の4事件につき有罪の証拠となった被告人の自白の法律的有効性を全てくつがえした。……最高裁の多数派がこの歴史的新判例を作った背景には、隔離状態におかれた容疑者の取調べには、まだまだ肉体的・精神的ごう門の要素が残っているとう深い疑問があったものと思われる(『朝日新聞』昭和41年6月15日)

2002年3月
実際のところ、今日殆んどすべての警察官や刑事たちは、ミランダ以外の法を知らない。この30年の間に、警察の取り調べについてなされる道徳的なそして法的な対話を再定義することによって、ミランダはアメリカの警察が身柄拘束下の取調べの法的あるいは道徳的意味について考え、議論し、理解する仕方を永久に変えてしまったのである。要するに、ミランダは警察の感受性を変えたのである。――Richard A. Leo, The Impact of Miranda Revisited, 86 J. Criminal Law & Criminology 621, at 671(1996).

2002年5月
日本の刑事司法は非常に強く自白に依存している。それゆえに、ある種の状況下において、検察官は、自白を得るために、答弁取引、調書の作文、サード・ディグリーというような、あからさまな違法手段を用いる。彼らがそうした行動をとるのには様々な理由があるが、一番の理由は、それが可能だということである。自白を得るために捜査官が殆んどなんでもできるところでは、捜査官は自白を得るために殆んどなんでもするであろう――その「必要」があれば。David T. Johnson, The Japanese Way of Justice, Oxford University Press, 2002, p264.

2002年12月
数年前、ある日本人の学者がミランダの会と呼ばれる日本の弁護士グループに関する新聞記事を私に送ってきた。この弁護士グループは、弁護士の立会いのない取調べを拒否するように一部の依頼人に助言している。***
***その記事はミランダの会を紹介し、彼らの目標の1つが合衆国の基準と似たものを日本に導入しようとするものであると説明している。そして、記事の執筆者は、弁護人が依頼人に黙秘を助言することは違法であると日本の検察官は主張していると報告していた。私はそれまで取調べと自白についての日本の伝統の強さを知っていたつもりであったが、憲法上の権利を行使することを依頼人に助言することが違法だと言われることがあるのを知って、ショックを受けたことを認めなければならない。Daniel H. Foote, Reflections on Japan’s Cooperative Adversary Process, in Malcolm M. Feeley, et. al., ed, The Japanese Adversary System in Context: Controversies and Comparisons (Palgrave, 2002), p30.


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