検察官
2019年04月12日
4月8日付で東京地検検事正あてに以下の申し入れ書を送付しました。
私どもは4月4日早朝に会社法違反により逮捕されたカルロス・ゴーン・ビシャラ氏の弁護人です。
ご承知のとおり、ゴーン氏は当初から、検察官の取調べに対して、私ども弁護人の助言にしたがって一切供述しないこと、そして、検察官から要求されるいかなる文書にも署名しないことを明確に表明しております。それにもかかわらず、御庁特別捜査部の検事は、逮捕当日から今日に至るまで、休みなく東京拘置所内の取調室を訪れ、数々の持病のある高齢の被疑者に対して、弁護人の立会もないままに、連日2時間以上にわたって尋問し続けています。
ゴーン氏は、検事の執拗な尋問に対して、「弁護士の助言に従う」「お話しすることはなにもない」「これは時間の無駄ではないか」と述べて、尋問をやめるように求めています。にもかかわらず、検事は直ちに尋問をやめるどころか、話題を変えるなどして質問を繰り返し、彼が供述をするまでいつまでも尋問を続けるという気勢を示して、ゴーン氏に供述を強要しようとしています。
このような取調べのやり方は、ゴーン氏の憲法上の権利である黙秘権・供述拒否権を甚だしく侵害する違法な捜査であることは明らかです。また、それは、拷問禁止条約が定義する「拷問」(1) にほかなりません。
私どもは貴職に対し、このような非人道的な行為を直ちに中止するよう申し入れます。本人が供述拒否の意思を鮮明に示しているにもかかわらず、狭い取調室のなかで供述することを執拗に「説得」すること自体が黙秘権の侵害であり、拷問にほかなりません。取調室にゴーン氏を連行すること自体をやめて、あるいは、せめて弁護人を立ち会わせて、ゴーン氏の黙秘の意思を確認した段階で取調べを中止して彼を居室に戻していただきたい。
[注]
(1)「身体的なものであるか精神的なものであるかを問わず人に重い苦痛を故意に与える行為であって、本人若しくは第三者から情報若しくは自白を得ること***を目的として***公務員により***行われるもの」(拷問禁止条約1条1項)。
※ なお、東京地検特捜部検事による取調べは本日(4月12日)まで連日連夜休みなく行われています。検察官は黙秘権を行使する65歳の被疑者に対して、毎日5時間近く取調べを続行しています。
被疑者取調べに関する申入書
私どもは4月4日早朝に会社法違反により逮捕されたカルロス・ゴーン・ビシャラ氏の弁護人です。
ご承知のとおり、ゴーン氏は当初から、検察官の取調べに対して、私ども弁護人の助言にしたがって一切供述しないこと、そして、検察官から要求されるいかなる文書にも署名しないことを明確に表明しております。それにもかかわらず、御庁特別捜査部の検事は、逮捕当日から今日に至るまで、休みなく東京拘置所内の取調室を訪れ、数々の持病のある高齢の被疑者に対して、弁護人の立会もないままに、連日2時間以上にわたって尋問し続けています。
ゴーン氏は、検事の執拗な尋問に対して、「弁護士の助言に従う」「お話しすることはなにもない」「これは時間の無駄ではないか」と述べて、尋問をやめるように求めています。にもかかわらず、検事は直ちに尋問をやめるどころか、話題を変えるなどして質問を繰り返し、彼が供述をするまでいつまでも尋問を続けるという気勢を示して、ゴーン氏に供述を強要しようとしています。
このような取調べのやり方は、ゴーン氏の憲法上の権利である黙秘権・供述拒否権を甚だしく侵害する違法な捜査であることは明らかです。また、それは、拷問禁止条約が定義する「拷問」(1) にほかなりません。
私どもは貴職に対し、このような非人道的な行為を直ちに中止するよう申し入れます。本人が供述拒否の意思を鮮明に示しているにもかかわらず、狭い取調室のなかで供述することを執拗に「説得」すること自体が黙秘権の侵害であり、拷問にほかなりません。取調室にゴーン氏を連行すること自体をやめて、あるいは、せめて弁護人を立ち会わせて、ゴーン氏の黙秘の意思を確認した段階で取調べを中止して彼を居室に戻していただきたい。
以上
[注]
(1)「身体的なものであるか精神的なものであるかを問わず人に重い苦痛を故意に与える行為であって、本人若しくは第三者から情報若しくは自白を得ること***を目的として***公務員により***行われるもの」(拷問禁止条約1条1項)。
※ なお、東京地検特捜部検事による取調べは本日(4月12日)まで連日連夜休みなく行われています。検察官は黙秘権を行使する65歳の被疑者に対して、毎日5時間近く取調べを続行しています。
2010年10月03日
報道によると、大阪地検特捜部で前田恒彦検事と一緒に仕事をしていた女性検事は、前田検事が証拠物のフロッピーディスクを改ざんしたことを知って、「上司」である特捜部副部長らに「前田検事と刺し違えてもいい。公表すべきだ」と訴えたということだ(毎日新聞2010年10月2日朝刊)。
マスコミは、どうやらこの話を一つの「美談」として語りはじめているように見える。一部の週刊誌は彼女を「美女検事」と表現し、腐敗した組織に立ち向かった勇敢な内部告発者として描いている。
しかし、私はそうは思わない。
この「美談」が成立する前提として、検察庁という国家機関が、普通の役所や会社のようなもので、その一員である検察官は「上司」の意向を無視しては如何なる公的な活動をする権限もない;外部に向けて発言できるのは「上司」だけだという思い込みがある。だから彼女はその組織の原理の枠内で勇敢にふるまったということになるのだろう。
しかし、検察官は普通の役人や会社員ではないし、検察庁は普通の役所でも会社でもない。
検察官は「独任制の官庁」と言われる。どういうことかと言うと、内閣総理大臣や県知事のように、一人の人間が――機関的な決定によらずに、個人の見識と判断に基づいて――法によって与えられた職務権限を行使することができるということである。たとえば、「検察官は、いかなる犯罪についても捜査することができる」(検察庁法6条1項、刑事訴訟法191条1項)、「検察官は、刑事について、公訴を行[う]」(検察庁法4条、刑事訴訟法247条)と法律は定めている。要するに、犯罪を捜査して被告人を刑事訴追し公判活動を行う権限は「検察官」にあるのであって、「検察庁」にあるのではない。検察官は一人で――「上司」に相談することなく――犯罪捜査や公訴の提起ができるし、一人でこれらのことをやらなければならないのである。それが法律の考え方である。
一人ひとりの検察官が外部からはもちろん組織内部の圧力をもはねのけて独立して職務を行えるように、法は検察官に対して裁判官とほぼ同じ身分保障を与えた。検察官は、定年退官や検察官適格審査会の議決によって罷免される場合を除いて、「その意思に反して、その官を失い、職務を停止され、又は俸給を減額されることはない」(検察庁法25条)。
検察官が法律のとおりに仕事をし、検察庁という組織が法律の通りに運営されているならば、「女性検事」は「上司」に訴える必要などなかった。資料をそろえて、自分で前田検事の逮捕状を取り、自分で記者会見を開いて、「本日、私は、大阪地検特捜部検事前田恒彦を証拠隠滅の被疑事実で逮捕しました」と発表すればよい。法は、疑問の余地なく、このような権限を彼女に与えている。
しかし、現実の日本の検察官は、法律のとおりに「独任制の官庁」として仕事をすることは決してない。そして、現実の日本の検察庁は、法律のとおりの組織ではなく、普通のお役所や会社と同じ程度に、あるいはそれ以上に、「上命下服」的な組織である。検察官が個人の判断で別の検察官を逮捕することなど現実にはあり得ない。それどころか、日常的なありふれた職権の行使ですら、常に「上司」の「決裁」なしには行えない。
たとえば、つい数日前にもこんなことを法廷で経験した。公判中にある証拠の取り調べ方法を巡って、検察官が異議を述べた。弁護人である私は検事の異議に反対の意見を述べ、裁判所は検察官の異議を棄却した。すると検察官は、「休廷を求める」と言ってきた。私は「休廷する理由はないので、手続を進めてください」と言い、裁判長は休廷を認めなかった。すると検察官は、さらに「休廷を認めない裁判長の処分に対して異議を申し立てる」と言って、こう述べた。
「われわれは検察庁として、組織として行動しています。今回の事態に対して今後どう対処するかは私の一存では決められません。上司と協議する必要があります。」
今回の裁判長は毅然として検察官の異議を却下し、訴訟を進行させたが、裁判官の中には、こうした「組織」を持ち出すやり方に乗っかり、非常に物わかりよく対応してしまう人が少なくない。組織的背景の全くない個人営業者である弁護士には理解できないやり取りが裁判官と検察官の間で繰り広げられるのを目撃することが良くある。
話を元にもどそう。要するに、現実の検察官は「独任制の官庁」などでは決してなく、個人として職権を行使しようなどとは全く考えていない。彼らにはそのような発想は微塵もない。彼らは組織の中で仕事をし、組織を通じて、組織の後ろ盾によって自らの「正義」を実現しようとするのである。
彼女は、2009年7月に前田さんの証拠改ざんの事実を知った。しかし、村木局長の事件の第1回公判が始まった後の今年1月末まで何もしなかったようである。報道によれば、彼女が「上司」に訴えたのは今年の1月30日である(毎日新聞2010年10月2日朝刊)。もしも第1回公判で偽証明書の作成日について弁護人から釈明が求められたりしなかったら、彼女は「上司」に訴えたのだろうか。そもそも彼女が「上司」に訴えなかったとしたら、前田さんはフロッピーディスク改ざんの顛末を書いた「上申書」を「上司」に出しただろうか。
今回のような「不祥事」を契機として、検察庁の役所的な締め付けが強化され、ただでさえ少ない検察官の個人的な権限がますます小さくなるとしたら、それは却って逆の効果をもたらすのではないか、と私は危惧する。むしろ、検察官個人に自由にその職権を行使させる方向への改革が必要である。個々の検事が、自分の仕事に選択の自由と責任を持ち、地域社会に対して説明責任を果たす。それこそが法が予定した検察官の姿であり、また、そうした独立自営の検察官が検察庁という組織のなかで協働し批判し合うことによって、たとえば今回のような事件を予防したり、不祥事を迅速に世間に伝え法に則った処理をオープンに行うことにつながっていくのではないかと思うのである。
マスコミは、どうやらこの話を一つの「美談」として語りはじめているように見える。一部の週刊誌は彼女を「美女検事」と表現し、腐敗した組織に立ち向かった勇敢な内部告発者として描いている。
しかし、私はそうは思わない。
この「美談」が成立する前提として、検察庁という国家機関が、普通の役所や会社のようなもので、その一員である検察官は「上司」の意向を無視しては如何なる公的な活動をする権限もない;外部に向けて発言できるのは「上司」だけだという思い込みがある。だから彼女はその組織の原理の枠内で勇敢にふるまったということになるのだろう。
しかし、検察官は普通の役人や会社員ではないし、検察庁は普通の役所でも会社でもない。
検察官は「独任制の官庁」と言われる。どういうことかと言うと、内閣総理大臣や県知事のように、一人の人間が――機関的な決定によらずに、個人の見識と判断に基づいて――法によって与えられた職務権限を行使することができるということである。たとえば、「検察官は、いかなる犯罪についても捜査することができる」(検察庁法6条1項、刑事訴訟法191条1項)、「検察官は、刑事について、公訴を行[う]」(検察庁法4条、刑事訴訟法247条)と法律は定めている。要するに、犯罪を捜査して被告人を刑事訴追し公判活動を行う権限は「検察官」にあるのであって、「検察庁」にあるのではない。検察官は一人で――「上司」に相談することなく――犯罪捜査や公訴の提起ができるし、一人でこれらのことをやらなければならないのである。それが法律の考え方である。
一人ひとりの検察官が外部からはもちろん組織内部の圧力をもはねのけて独立して職務を行えるように、法は検察官に対して裁判官とほぼ同じ身分保障を与えた。検察官は、定年退官や検察官適格審査会の議決によって罷免される場合を除いて、「その意思に反して、その官を失い、職務を停止され、又は俸給を減額されることはない」(検察庁法25条)。
検察官が法律のとおりに仕事をし、検察庁という組織が法律の通りに運営されているならば、「女性検事」は「上司」に訴える必要などなかった。資料をそろえて、自分で前田検事の逮捕状を取り、自分で記者会見を開いて、「本日、私は、大阪地検特捜部検事前田恒彦を証拠隠滅の被疑事実で逮捕しました」と発表すればよい。法は、疑問の余地なく、このような権限を彼女に与えている。
しかし、現実の日本の検察官は、法律のとおりに「独任制の官庁」として仕事をすることは決してない。そして、現実の日本の検察庁は、法律のとおりの組織ではなく、普通のお役所や会社と同じ程度に、あるいはそれ以上に、「上命下服」的な組織である。検察官が個人の判断で別の検察官を逮捕することなど現実にはあり得ない。それどころか、日常的なありふれた職権の行使ですら、常に「上司」の「決裁」なしには行えない。
たとえば、つい数日前にもこんなことを法廷で経験した。公判中にある証拠の取り調べ方法を巡って、検察官が異議を述べた。弁護人である私は検事の異議に反対の意見を述べ、裁判所は検察官の異議を棄却した。すると検察官は、「休廷を求める」と言ってきた。私は「休廷する理由はないので、手続を進めてください」と言い、裁判長は休廷を認めなかった。すると検察官は、さらに「休廷を認めない裁判長の処分に対して異議を申し立てる」と言って、こう述べた。
「われわれは検察庁として、組織として行動しています。今回の事態に対して今後どう対処するかは私の一存では決められません。上司と協議する必要があります。」
今回の裁判長は毅然として検察官の異議を却下し、訴訟を進行させたが、裁判官の中には、こうした「組織」を持ち出すやり方に乗っかり、非常に物わかりよく対応してしまう人が少なくない。組織的背景の全くない個人営業者である弁護士には理解できないやり取りが裁判官と検察官の間で繰り広げられるのを目撃することが良くある。
話を元にもどそう。要するに、現実の検察官は「独任制の官庁」などでは決してなく、個人として職権を行使しようなどとは全く考えていない。彼らにはそのような発想は微塵もない。彼らは組織の中で仕事をし、組織を通じて、組織の後ろ盾によって自らの「正義」を実現しようとするのである。
彼女は、2009年7月に前田さんの証拠改ざんの事実を知った。しかし、村木局長の事件の第1回公判が始まった後の今年1月末まで何もしなかったようである。報道によれば、彼女が「上司」に訴えたのは今年の1月30日である(毎日新聞2010年10月2日朝刊)。もしも第1回公判で偽証明書の作成日について弁護人から釈明が求められたりしなかったら、彼女は「上司」に訴えたのだろうか。そもそも彼女が「上司」に訴えなかったとしたら、前田さんはフロッピーディスク改ざんの顛末を書いた「上申書」を「上司」に出しただろうか。
今回のような「不祥事」を契機として、検察庁の役所的な締め付けが強化され、ただでさえ少ない検察官の個人的な権限がますます小さくなるとしたら、それは却って逆の効果をもたらすのではないか、と私は危惧する。むしろ、検察官個人に自由にその職権を行使させる方向への改革が必要である。個々の検事が、自分の仕事に選択の自由と責任を持ち、地域社会に対して説明責任を果たす。それこそが法が予定した検察官の姿であり、また、そうした独立自営の検察官が検察庁という組織のなかで協働し批判し合うことによって、たとえば今回のような事件を予防したり、不祥事を迅速に世間に伝え法に則った処理をオープンに行うことにつながっていくのではないかと思うのである。
2009年06月23日
先月21日の裁判員法施行から1カ月間の裁判員対象事件の起訴件数は135件ということである。http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20090623AT1G2302G23062009.html これはどう考えても異常な数字である。最高裁判所のHPに掲載されている「裁判員対象事件数(平成16〜20年)によると、裁判員法が成立した平成16年以降の裁判員対象事件数は次のとおりである。http://www.saibanin.courts.go.jp/shiryo/pdf/04.pdf
平成16年 3,800件 月平均 316.6件
平成17件 3,633件 月平均 302.7件
平成18年 3,111件 月平均 259.2件
平成19年 2,645件 月平均 220.4件
平成20年 2,324件 月平均 193.7件
裁判員法が成立してから起訴件数が年々減少している。そのこと自体、甚だ不自然なものを感じるが、それにしても、裁判員法施行後1か月の起訴件数が135件と言うのは、それ以前と比較しても特異な減少率である。
これまで起訴された135件の中に否認事件は1件でもあるのだろうか。
このままでは、裁判員対象事件になるような重罪事件では被疑者は自白さえしなければ起訴されず、放免されてしまうことになるだろう。裁判員の仕事は、検察の有罪判断を確認するだけの実に退屈な仕事になってしまうだろう。
平成16年 3,800件 月平均 316.6件
平成17件 3,633件 月平均 302.7件
平成18年 3,111件 月平均 259.2件
平成19年 2,645件 月平均 220.4件
平成20年 2,324件 月平均 193.7件
裁判員法が成立してから起訴件数が年々減少している。そのこと自体、甚だ不自然なものを感じるが、それにしても、裁判員法施行後1か月の起訴件数が135件と言うのは、それ以前と比較しても特異な減少率である。
これまで起訴された135件の中に否認事件は1件でもあるのだろうか。
このままでは、裁判員対象事件になるような重罪事件では被疑者は自白さえしなければ起訴されず、放免されてしまうことになるだろう。裁判員の仕事は、検察の有罪判断を確認するだけの実に退屈な仕事になってしまうだろう。
2009年06月14日
最近同業者から次のような話を立て続けに聞かされた。
「強盗致傷の事件で、勾留満期まで数日あるのに、5月20日付で突然起訴された。」
「強盗致傷の否認事件で、裁判員事件になると意気込んでいたが、不起訴になった。」
「強制わいせつ致傷事件で……(以下同文)。」
「強盗致傷事件だったが、強盗だけで起訴された。」
どうやら検察は、裁判員裁判になる事件のえり好みを始めたらしい。もともと日本の検察官はとても負けず嫌いであり、間違いなく有罪判決が取れると確信しない限り起訴しないし、起訴した以上何が何でも有罪にしようとあらゆる手を尽くす。5月21日の裁判員法の施行は、日本検察の有罪至上主義を刺激して、起訴事件のさらなる厳選に拍車をかけているようである。
この出来事が示しているのは、検察官が、職業裁判官よりも一般市民の方が有罪の証明責任を重くとらえるだろうと予想していることである。裁判官なら有罪にしてくれそうな事件でも、市民は無罪に投票するかもしれない。だから、その可能性のある事件は、多少無理してでも裁判員法が施行されるまでに起訴してしまう、あるいは起訴を控える、さらには罪名を軽くして裁判員対象事件から外してしまう。そういうことである。
弁護士のなかには検察が起訴事件を厳選することを良いことだと考えている人が多い。犯罪捜査の対象になるだけでなく、刑事裁判の被告人になることは個人にとって非常に大きな負担である。まして、保釈が認められずに何か月も、ときには何年も身柄を拘束されて刑事裁判を受ける個人の悲惨さは、多くの弁護士が目の当たりにしている。だから、できるだけ早く個人を刑事システムの網から解放することは良いことだというのは理解できる。しかし、被疑者個人の利益を離れて刑事司法全体の健全さということに目を転じると、この現象を「良いことだ」と喜んでばかりはいられない。むしろ、この現象は非常に不健全な現象だというべきではないだろうか。
事件が不起訴になるということは、その事件が裁判所という公共的審判機関によって判断を受けないということである。誰でも傍聴できる公開の法廷で証人尋問が行われ、証言に基づいて司法機関である裁判官や裁判員が、被告人が有罪なのか無罪なのか、そして有罪ならばどのような刑が相当なのかを判断するというプロセスが一切行われない。手続が打ち切られ被疑者は解放されるが、その判断は捜査訴追の一方当事者である検察官だけのものであり、その判断の根拠となる資料は検察官の事件ファイルの中に封印される。通常の市民はそのファイル(不起訴事件記録)にアクセスすることはできず、したがって、検察官の判断のプロセスを公共の場で議論することは不可能となる。犯罪被害者が不起訴処分を不当として検察審査会に審査の申立てをしたとしても、検察審査会の審査は非公開であるから、事件と検察の判断が公共的に議論されないという事態は変わらない。要するに、不起訴というのは事件を公共的なフォーラムで議論することを回避し、事件の情報を検察に独占させる装置なのである。
検察官は刑事事件の捜査と訴追の専門家である。だから、彼らが「有罪判決が取れるに違いない」と判断した事件の多くは裁判官によって有罪の認定を受けるであろう。確かに、最終的に有罪無罪の判断をするのは裁判官である。しかし、検察官が事件を厳選すればするほど、裁判官は検察官の判断を信頼するようになる。そして、多くの事件を一定期間の間に――したがって効率的に――処理しなければならない裁判官は、検察官の判断への信頼なしには生活できなくなる。「検察官が起訴した以上、よほどのことがない限り有罪に違いない」「この程度の事件を一から審査するのは時間の無駄だ」「どうせ間違いないのに、なぜこの弁護人はわざわざ証人尋問を要求するのだろうか。迷惑な話だ」。
しかし、人間の仕事は完ぺきではありえない。とりわけ、情報を独占し他者からの批判にさらされない仕事は、独善に陥りがちである。検察官が「有罪判決がとれる」と確信する事件の中には必ず無罪の事件が含まれている。裁判官が検察官の確信は必ずしも事件の真相を反映していないということを理解しているならば、裁判官は弁護人の指摘にも耳を傾け、無罪の発見のための努力をしようとするだろう。けれども、はじめから「検察が事件を厳選して起訴したのだから、まず間違いない」という予断をもって裁判をするならば、弁護人の意見や被告人の弁解を真摯に受け止めることはできなくなる。証拠を検察の描いた有罪の構図によってしか見られなくなる。その結果、無実の人に有罪の判決を言い渡しても、そのことを自覚できず、何度でも同じ過ちを繰り返すことになる。
裁判員裁判では、一つの事件だけのために、裁判の経験が全くない市民が6名加わることになる。彼らによって職業裁判官の「有罪バイアス」は緩和されるだろう。しかし、職業裁判官が裁判員の身近にいて「同僚」として仕事をする。普通の市民は裁判官を尊敬し、評議室の中でも裁判官の言動を重く受け止めるだろう。したがって、裁判官の「有罪バイアス」は多かれ少なかれ裁判員に伝播せざるをえない。
検察が裁判員対象事件を厳選し、通常の事件以上に有罪証拠の豊富な事件ばかり起訴するようになれば、裁判員がその市民感覚を事実認定に注入する余地は、完全になくならないまでも、非常に少なくなるだろう。どうせ有罪なんだという意識は、裁判員のやりがいを削ぎ、長期的には裁判員制度を形骸化させる危険性を生み出すだろう。被告人の犯罪とそれへの刑罰は、結局、検事がきめるのであって、裁判員の仕事はそれを追認するだけだ。これでは何のために市民が刑事裁判に参加するのか分からない。
犯罪被害者の立場に立ってみよう。本当は強盗致傷や強制わいせつ致傷の被害者なのに、検事が臆病で有罪至上主義であるために、ワン・ランクもツー・ランクも下の窃盗や条例違反の被害者と認定される。場合によって、犯人は刑事司法から完全に解放されてしまう。これで正義が実現されたと言えるだろうか。
検察庁法によれば、検察官の仕事は「公益の代表者」として「公訴を行い、裁判所に法の正当な適用を請求[する]」ことである(検察庁法4条)。刑事手続における検察官の目標は、裁判に勝つこと(有罪判決を獲得すること)ではなく、正義を実現することである。国民は彼らの自意識やメンツのために税金を払っているのではない。当事者主義の訴訟を通して真実に根ざした正義が行われ、その営為を通じて自由と秩序が保たれることを期待して、高度の能力をもった専門家を雇っているのである。
われわれはこれから数年間の検察統計と司法統計に着目すべきである。裁判員対象事件の起訴率と他の事件の起訴率の変化に特に注意しよう。もしも、裁判員対象事件の起訴率が、他の事件と比較して、有意に減少したとしたら、それは、日本の検察が国民の福祉よりも自分たちの面目を保つ方が重要だと考えていることを示している。そして、それは、裁判員裁判の健全な発展にとって大きな障害物になる可能性がある。
「強盗致傷の事件で、勾留満期まで数日あるのに、5月20日付で突然起訴された。」
「強盗致傷の否認事件で、裁判員事件になると意気込んでいたが、不起訴になった。」
「強制わいせつ致傷事件で……(以下同文)。」
「強盗致傷事件だったが、強盗だけで起訴された。」
どうやら検察は、裁判員裁判になる事件のえり好みを始めたらしい。もともと日本の検察官はとても負けず嫌いであり、間違いなく有罪判決が取れると確信しない限り起訴しないし、起訴した以上何が何でも有罪にしようとあらゆる手を尽くす。5月21日の裁判員法の施行は、日本検察の有罪至上主義を刺激して、起訴事件のさらなる厳選に拍車をかけているようである。
この出来事が示しているのは、検察官が、職業裁判官よりも一般市民の方が有罪の証明責任を重くとらえるだろうと予想していることである。裁判官なら有罪にしてくれそうな事件でも、市民は無罪に投票するかもしれない。だから、その可能性のある事件は、多少無理してでも裁判員法が施行されるまでに起訴してしまう、あるいは起訴を控える、さらには罪名を軽くして裁判員対象事件から外してしまう。そういうことである。
弁護士のなかには検察が起訴事件を厳選することを良いことだと考えている人が多い。犯罪捜査の対象になるだけでなく、刑事裁判の被告人になることは個人にとって非常に大きな負担である。まして、保釈が認められずに何か月も、ときには何年も身柄を拘束されて刑事裁判を受ける個人の悲惨さは、多くの弁護士が目の当たりにしている。だから、できるだけ早く個人を刑事システムの網から解放することは良いことだというのは理解できる。しかし、被疑者個人の利益を離れて刑事司法全体の健全さということに目を転じると、この現象を「良いことだ」と喜んでばかりはいられない。むしろ、この現象は非常に不健全な現象だというべきではないだろうか。
事件が不起訴になるということは、その事件が裁判所という公共的審判機関によって判断を受けないということである。誰でも傍聴できる公開の法廷で証人尋問が行われ、証言に基づいて司法機関である裁判官や裁判員が、被告人が有罪なのか無罪なのか、そして有罪ならばどのような刑が相当なのかを判断するというプロセスが一切行われない。手続が打ち切られ被疑者は解放されるが、その判断は捜査訴追の一方当事者である検察官だけのものであり、その判断の根拠となる資料は検察官の事件ファイルの中に封印される。通常の市民はそのファイル(不起訴事件記録)にアクセスすることはできず、したがって、検察官の判断のプロセスを公共の場で議論することは不可能となる。犯罪被害者が不起訴処分を不当として検察審査会に審査の申立てをしたとしても、検察審査会の審査は非公開であるから、事件と検察の判断が公共的に議論されないという事態は変わらない。要するに、不起訴というのは事件を公共的なフォーラムで議論することを回避し、事件の情報を検察に独占させる装置なのである。
検察官は刑事事件の捜査と訴追の専門家である。だから、彼らが「有罪判決が取れるに違いない」と判断した事件の多くは裁判官によって有罪の認定を受けるであろう。確かに、最終的に有罪無罪の判断をするのは裁判官である。しかし、検察官が事件を厳選すればするほど、裁判官は検察官の判断を信頼するようになる。そして、多くの事件を一定期間の間に――したがって効率的に――処理しなければならない裁判官は、検察官の判断への信頼なしには生活できなくなる。「検察官が起訴した以上、よほどのことがない限り有罪に違いない」「この程度の事件を一から審査するのは時間の無駄だ」「どうせ間違いないのに、なぜこの弁護人はわざわざ証人尋問を要求するのだろうか。迷惑な話だ」。
しかし、人間の仕事は完ぺきではありえない。とりわけ、情報を独占し他者からの批判にさらされない仕事は、独善に陥りがちである。検察官が「有罪判決がとれる」と確信する事件の中には必ず無罪の事件が含まれている。裁判官が検察官の確信は必ずしも事件の真相を反映していないということを理解しているならば、裁判官は弁護人の指摘にも耳を傾け、無罪の発見のための努力をしようとするだろう。けれども、はじめから「検察が事件を厳選して起訴したのだから、まず間違いない」という予断をもって裁判をするならば、弁護人の意見や被告人の弁解を真摯に受け止めることはできなくなる。証拠を検察の描いた有罪の構図によってしか見られなくなる。その結果、無実の人に有罪の判決を言い渡しても、そのことを自覚できず、何度でも同じ過ちを繰り返すことになる。
裁判員裁判では、一つの事件だけのために、裁判の経験が全くない市民が6名加わることになる。彼らによって職業裁判官の「有罪バイアス」は緩和されるだろう。しかし、職業裁判官が裁判員の身近にいて「同僚」として仕事をする。普通の市民は裁判官を尊敬し、評議室の中でも裁判官の言動を重く受け止めるだろう。したがって、裁判官の「有罪バイアス」は多かれ少なかれ裁判員に伝播せざるをえない。
検察が裁判員対象事件を厳選し、通常の事件以上に有罪証拠の豊富な事件ばかり起訴するようになれば、裁判員がその市民感覚を事実認定に注入する余地は、完全になくならないまでも、非常に少なくなるだろう。どうせ有罪なんだという意識は、裁判員のやりがいを削ぎ、長期的には裁判員制度を形骸化させる危険性を生み出すだろう。被告人の犯罪とそれへの刑罰は、結局、検事がきめるのであって、裁判員の仕事はそれを追認するだけだ。これでは何のために市民が刑事裁判に参加するのか分からない。
犯罪被害者の立場に立ってみよう。本当は強盗致傷や強制わいせつ致傷の被害者なのに、検事が臆病で有罪至上主義であるために、ワン・ランクもツー・ランクも下の窃盗や条例違反の被害者と認定される。場合によって、犯人は刑事司法から完全に解放されてしまう。これで正義が実現されたと言えるだろうか。
検察庁法によれば、検察官の仕事は「公益の代表者」として「公訴を行い、裁判所に法の正当な適用を請求[する]」ことである(検察庁法4条)。刑事手続における検察官の目標は、裁判に勝つこと(有罪判決を獲得すること)ではなく、正義を実現することである。国民は彼らの自意識やメンツのために税金を払っているのではない。当事者主義の訴訟を通して真実に根ざした正義が行われ、その営為を通じて自由と秩序が保たれることを期待して、高度の能力をもった専門家を雇っているのである。
われわれはこれから数年間の検察統計と司法統計に着目すべきである。裁判員対象事件の起訴率と他の事件の起訴率の変化に特に注意しよう。もしも、裁判員対象事件の起訴率が、他の事件と比較して、有意に減少したとしたら、それは、日本の検察が国民の福祉よりも自分たちの面目を保つ方が重要だと考えていることを示している。そして、それは、裁判員裁判の健全な発展にとって大きな障害物になる可能性がある。
2008年06月13日
東京地方検察庁は、裁判員裁判の対象となるすべての事件の捜査と公判を「特別公判部」に所属する同じ検事に担当させることにしたそうである。「事件の捜査から裁判まで同じ検事が一貫して担当することで、迅速で、一般から選ばれる裁判員にもわかりやすい裁判が期待できる」と言うことである(NHKニュース2008年3月6日)。
このやりかたはこれまでにも例があった。検察官の数が少ない地方では、捜査検事が公判にも立ち会うといのがむしろ一般的である。しかしこのやりかたには問題がある。
捜査検事は被疑者の取り調べを行う。さらには被害者や共犯者など、将来の裁判で検察側証人となる人の取り調べも行い、彼らの供述調書を作る。そうすると、たとえばこんなことが起こる。被告人が公判廷で事実関係を争い、「認めなければ死刑を求刑するぞと検事に脅されて、恐ろしくなって自白調書にサインした」と言って自白を翻したとしよう。こういう場合、公判に立ち会っている検事(公判検事)は、取り調べをした検事(捜査検事)を証人喚問する。捜査検事は、法廷に出てきて、取り調べの様子を証言することになる。「私は死刑の話なんかした覚えはありません」と言って、被告人との間で「水掛け論」を展開する。検察側の証人が公判廷で検事調書と異なる内容の証言をした場合も、同じようなことが起こる。気が変わった検察側証人は「検事から『あなた1人の仕事とは思えない。山田から命令されたんだろ』と言われた。『捜査に協力したということで、求刑もそれなりに考える。執行猶予もあり得る』とほのめかされた」というような証言をする。証人に呼ばれた捜査検事は、穏やかに微笑みながら「日頃から取り調べ中に量刑の話しはしないように心がけています」と言う。
この「証言合戦」において、日本の職業裁判官はほとんど例外なく、捜査検事に軍配をあげる。彼らは「被告人の供述は、○○検事の証言に照らして信用できない」という決まり文句を言って検事調書を採用するのが常である。じかし、ごくまれに、検事の証言にほころびが出ることがあり、検事調書が却下されるということが起こる。
けれども、特別公判部の事件ではこうした事態も起こらなくなるであろう。特別公判部が担当する事件では、捜査検事が公判に立ち会う。いや、公判が始まるずっと前、公判前整理手続の段階から裁判官と顔を会わせ、弁護人側の証拠を含むすべての証拠を検討する。公判では全ての証人尋問に立ち会い、自ら尋問もする。要するに、この検事は、誰よりも事件の争点と証拠に精通している。その同じ検事が自分自身を証人申請するのである。これほど有利な証人はないだろう。刑事訴訟規則123条2項は、証人予定者が在廷するときは退廷させなければならないとしている。これは、他の証拠や証言の内容を知ってしまうと、証人はその影響を受けて証言を変更したり偽証したりすることがあるからである。捜査検事を公判に立ち会わせることは、この規定に違反するのではなかろうか。ちなみに、アメリカ法曹協会(ABA)の法律家の職務に関する模範規則(弁護士と検察官に適用される)は、自分が証人になることが予想される事件について訴訟代理を行うことを禁じている(ABA Model Rules of Professional Conducts, Rule3.7(a))。
このやりかたはこれまでにも例があった。検察官の数が少ない地方では、捜査検事が公判にも立ち会うといのがむしろ一般的である。しかしこのやりかたには問題がある。
捜査検事は被疑者の取り調べを行う。さらには被害者や共犯者など、将来の裁判で検察側証人となる人の取り調べも行い、彼らの供述調書を作る。そうすると、たとえばこんなことが起こる。被告人が公判廷で事実関係を争い、「認めなければ死刑を求刑するぞと検事に脅されて、恐ろしくなって自白調書にサインした」と言って自白を翻したとしよう。こういう場合、公判に立ち会っている検事(公判検事)は、取り調べをした検事(捜査検事)を証人喚問する。捜査検事は、法廷に出てきて、取り調べの様子を証言することになる。「私は死刑の話なんかした覚えはありません」と言って、被告人との間で「水掛け論」を展開する。検察側の証人が公判廷で検事調書と異なる内容の証言をした場合も、同じようなことが起こる。気が変わった検察側証人は「検事から『あなた1人の仕事とは思えない。山田から命令されたんだろ』と言われた。『捜査に協力したということで、求刑もそれなりに考える。執行猶予もあり得る』とほのめかされた」というような証言をする。証人に呼ばれた捜査検事は、穏やかに微笑みながら「日頃から取り調べ中に量刑の話しはしないように心がけています」と言う。
この「証言合戦」において、日本の職業裁判官はほとんど例外なく、捜査検事に軍配をあげる。彼らは「被告人の供述は、○○検事の証言に照らして信用できない」という決まり文句を言って検事調書を採用するのが常である。じかし、ごくまれに、検事の証言にほころびが出ることがあり、検事調書が却下されるということが起こる。
けれども、特別公判部の事件ではこうした事態も起こらなくなるであろう。特別公判部が担当する事件では、捜査検事が公判に立ち会う。いや、公判が始まるずっと前、公判前整理手続の段階から裁判官と顔を会わせ、弁護人側の証拠を含むすべての証拠を検討する。公判では全ての証人尋問に立ち会い、自ら尋問もする。要するに、この検事は、誰よりも事件の争点と証拠に精通している。その同じ検事が自分自身を証人申請するのである。これほど有利な証人はないだろう。刑事訴訟規則123条2項は、証人予定者が在廷するときは退廷させなければならないとしている。これは、他の証拠や証言の内容を知ってしまうと、証人はその影響を受けて証言を変更したり偽証したりすることがあるからである。捜査検事を公判に立ち会わせることは、この規定に違反するのではなかろうか。ちなみに、アメリカ法曹協会(ABA)の法律家の職務に関する模範規則(弁護士と検察官に適用される)は、自分が証人になることが予想される事件について訴訟代理を行うことを禁じている(ABA Model Rules of Professional Conducts, Rule3.7(a))。
2007年04月04日
北方事件(注1)の無罪が確定した。福岡高検の次席検事は「憲法違反や判例違反などの適法な上告理由を見出せなかった」と説明し、「被害者や遺族の皆さんには真相解明に至らず申し訳なく思っている」と謝罪した。しかし、次席検事はその一方で、「証拠に照らして十分有罪を立証できると判断した」「主張が受け入れられなかったのは残念」ともコメントした。法務検察当局は、今年に入って鹿児島県志布志市の選挙違反事件や北方事件など無罪判決が続いたことを受けて、今月5日に全国の高検検事長を集めた「検事長会同」を開催して今後の対策を協議するということである(日経新聞2007年4月3日朝刊13版39頁)。
1980年代にも無罪の件数がほんの少し増えたことがあった。また、そのころいわゆる「4大死刑再審事件」がすべて無罪で終結した。そのころの法務検察当局も、無罪が増えたことに対する危機感を募らせ、無罪事件を徹底的に調査検討した(注2)。法務検察当局を無罪事件の調査へと動かした動機は非常にはっきりしている。要するに、無罪判決という事態は「被告人、被害者等の事件関係者のみならず、国民一般をして、捜査機関はもとより、刑事司法そのものに対する信頼を失わせることにつながる」ものであり(注3)、「無罪判決が惹起する国民の刑事司法に対する不信感は、国民の捜査への非協力につながる」のであって、それゆえに刑事事件はすべからく「無罪という結果にならないように万全の捜査をしなければならない」(注4)というものである。
しかし、無罪判決が「国民の刑事司法に対する不信感」や「捜査への非協力」をもたらすという意見に実証的根拠があるとは思えない。もしそれが本当だとすれば、陪審裁判による無罪率が30%近いアメリカでは司法への不信が蔓延し市民は犯罪捜査に全く非協力的であるはずであるが、実際にはアメリカの司法は国民から非常に高く尊敬されているし、市民が警察を忌み嫌っているということもない。そもそも裁判というものは、事実関係に争いがあり、その争いに決着をつけるためにある。当事者いずれの側の言い分にも一理あり、簡単には甲乙付け難いからこそ裁判は行われる。すなわち、裁判というものは、いずれの当事者にもその主張が認められる可能性があるということを前提としてはじめて成り立つのである。刑事裁判に限って常に一つの結論=有罪が正しいなどと言うのはおかしい。双方の当事者に対して十分に主張立証・攻撃防御の機会が公正に与えられた結果到達した裁判の結論は、いずれであったとしても正義の実現と言えるはずであり、そうであるかぎり、国民はその結果を喜んで受け入れるはずである。要するに、裁判の結果が無罪だからと言って国民がその裁判に不信感を抱くなどと言うことはないのである。
なぜ日本の法務省や検察庁はこれほどまでに無罪に対して過敏に反応するのだろうか。私の知る限り日本の検察官ほど無罪が嫌いな検察官がいる国はない。アメリカの検察官は裁判の結果無罪評決が出されることを「検察の失点」とは考えていない。検察官は公益の代表者であり、彼らの仕事は訴訟に勝つことが目標なのではなく、正義が行われることが目標なのだ、と彼らはよく言う。これは「負け惜しみ」などではなく、政府という多大の権力を持つ当事者を代表する法律家であることの自覚と刑事司法の目的への忠誠心のようなものをそこに見て取ることができる。
法の建前は日本でも同じはずである。日本の検察官も「公益の代表者」であり、彼らの職責は訴訟に勝つことではなく「刑事について、公訴を行い、裁判所に法の正当な適用を請求」することである(検察庁法4条)。だから、裁判の結果、有罪とすることに合理的な疑問が残る被告人に無罪判決がなされたのだとすれば、それは彼らの仕事の失敗を意味するのではないことは勿論であるし、正義が実現されたという意味でその検察官は立派にその職責を果したというべきなのである。無罪判決を受けた検察官は、無罪判決を出した裁判官を祝福すべきであり、自分が立派に仕事を成し遂げたことを誇るべきである。
現実の検察官はこれとは全く異なる。彼らは徹底的に当事者的である。公訴を提起した以上何が何でも有罪に持ち込むのだという執念のようなものに突き動かされているとしか思えないことがしばしばある。黙秘権の行使を勧める弁護人の悪口を繰り返す;無罪を主張する被告人の保釈には絶対に反対する;手持ち証拠の弁護人への開示には極力反対する;法廷で十分な証言をしなかったり捜査段階の供述を覆す証人を徹底的に糾弾する;ひどい場合には偽証罪で逮捕する;弁護側の反証が成功したかに見えると警察に徹底的な「補充捜査」をさせてつぶしにかかる。彼らには自分たちが非常に強大な権力を持っていて、その権力を用いて何の権力も権威もない一個人を相手にしているのだという自覚が全くないかのようである。勝つためならどんなに小さなシミもほころびも一切許さず、岩も小石も残らずひっくり返す。そのような権限行使の結果無実の被告人に有罪判決がなされるという不正義が行われる危険性が高まるということなど、彼らの眼中にはない。
無罪を「失点」と考え、訴訟の勝敗に徹底的にこだわる日本の検察はいつどのようにして出来上がったのか、私には判らない。しかし、私が弁護士になったばかりのころ(25年前)の検察官はもっと大らかで大局的な見地からことに当たっていたと思う。年代が下がるにしたがって、「当事者的」検事が多くなっているような気がする。
日本のマスメディアは無罪判決が出ると判で押したように捜査訴追機関を非難する。確かに、北方事件では、別件で起訴された人の起訴後勾留を利用して連日深夜や未明に至る長時間の取調べを行って自白させるということが行われており、そのことは批判されるべきである。しかし、それは被告人が無罪であるかどうかに関係なく批判されるべきことがらである。有罪の人ならばそのような取調べが許されるという理屈はない。むしろ、裁判の結果違法な捜査が明らかになり、無実の人に有罪判決をすることが回避されたということは、刑事裁判システムが正常に機能した証拠であって、冤罪の発生が防止されたことをメディアも祝福するべきなのである。有罪判決と無罪判決とで捜査機関に対して手のひらを返したような姿勢をとる日本のマスメディアのあり方も、法務検察の無罪過敏症の原因となっているのではないだろうか。
80年代のイギリスでも60年代後半から70年代初頭のテロリスト裁判で有罪となった受刑者の冤罪が次々と明らかになったことがあった。そのとき、イギリス政府は警察の捜査のあり方について徹底的な調査を行い、その結果、被疑者の取調べをすべて録音・録画するという法律(1984年警察刑事証拠法)が作られるに至った。日本の法務検察もその頃「捜査の適正」を唱えたが、結局、何らの改善策も制度改革も打ち出すことはなかった。今回はどうなのだろうか。北方事件や志布志事件の捜査のあり方を徹底的に検討し、イギリス政府がやったように、取調べをすべて録音・録画するというような立法提案を日本の法務省もすべきではないだろうか。無罪判決をなくすことよりも、より人間的な捜査方法を実現することの方が、刑事司法に対する国民の信頼を高めることになるのではないだろうか。
(注)
(1) 1989年に佐賀県北方町(現武雄市)で女性3人の死体が発見された。警察は覚せい剤取締法違反で起訴され勾留中の男性を連日のように深夜にわたる取調べをしたすえ、犯行を認める上申書を獲得したが、その後男性は否認に転じ、結局、立件はできなかった。しかし、2002年夏時効の6時間前に男性を逮捕し、佐賀地検は彼の上申書群を主要な有罪証拠として起訴した。第1審の佐賀地裁は、被告人の上申書は任意捜査の限界を超える違法な取調べによるものであり、かつ、任意性にも疑いがあるとして、その証拠として採用することを拒否し(佐賀地決平16・9・16判時1947-3)、2002年5月無罪判決を言渡した(佐賀地判平17・5・10判時1947-23)。検察官が控訴したが、先月19日福岡高裁は控訴を棄却した。
(2) 最高検察庁『再審無罪事件検討結果報告』(1986)、司法研修所検察教官室『適正なる捜査のために――無罪事例の検討』(令文社1988)、同『無罪事件に学ぶ――捜査実務の基本』(令文社1992)、
(3) 吉村徳則「はしかぎ」、前掲『無罪事件に学ぶ』。
(4) 馬場義宣「はしがき」、前掲『適正なる捜査のために』。
1980年代にも無罪の件数がほんの少し増えたことがあった。また、そのころいわゆる「4大死刑再審事件」がすべて無罪で終結した。そのころの法務検察当局も、無罪が増えたことに対する危機感を募らせ、無罪事件を徹底的に調査検討した(注2)。法務検察当局を無罪事件の調査へと動かした動機は非常にはっきりしている。要するに、無罪判決という事態は「被告人、被害者等の事件関係者のみならず、国民一般をして、捜査機関はもとより、刑事司法そのものに対する信頼を失わせることにつながる」ものであり(注3)、「無罪判決が惹起する国民の刑事司法に対する不信感は、国民の捜査への非協力につながる」のであって、それゆえに刑事事件はすべからく「無罪という結果にならないように万全の捜査をしなければならない」(注4)というものである。
しかし、無罪判決が「国民の刑事司法に対する不信感」や「捜査への非協力」をもたらすという意見に実証的根拠があるとは思えない。もしそれが本当だとすれば、陪審裁判による無罪率が30%近いアメリカでは司法への不信が蔓延し市民は犯罪捜査に全く非協力的であるはずであるが、実際にはアメリカの司法は国民から非常に高く尊敬されているし、市民が警察を忌み嫌っているということもない。そもそも裁判というものは、事実関係に争いがあり、その争いに決着をつけるためにある。当事者いずれの側の言い分にも一理あり、簡単には甲乙付け難いからこそ裁判は行われる。すなわち、裁判というものは、いずれの当事者にもその主張が認められる可能性があるということを前提としてはじめて成り立つのである。刑事裁判に限って常に一つの結論=有罪が正しいなどと言うのはおかしい。双方の当事者に対して十分に主張立証・攻撃防御の機会が公正に与えられた結果到達した裁判の結論は、いずれであったとしても正義の実現と言えるはずであり、そうであるかぎり、国民はその結果を喜んで受け入れるはずである。要するに、裁判の結果が無罪だからと言って国民がその裁判に不信感を抱くなどと言うことはないのである。
なぜ日本の法務省や検察庁はこれほどまでに無罪に対して過敏に反応するのだろうか。私の知る限り日本の検察官ほど無罪が嫌いな検察官がいる国はない。アメリカの検察官は裁判の結果無罪評決が出されることを「検察の失点」とは考えていない。検察官は公益の代表者であり、彼らの仕事は訴訟に勝つことが目標なのではなく、正義が行われることが目標なのだ、と彼らはよく言う。これは「負け惜しみ」などではなく、政府という多大の権力を持つ当事者を代表する法律家であることの自覚と刑事司法の目的への忠誠心のようなものをそこに見て取ることができる。
法の建前は日本でも同じはずである。日本の検察官も「公益の代表者」であり、彼らの職責は訴訟に勝つことではなく「刑事について、公訴を行い、裁判所に法の正当な適用を請求」することである(検察庁法4条)。だから、裁判の結果、有罪とすることに合理的な疑問が残る被告人に無罪判決がなされたのだとすれば、それは彼らの仕事の失敗を意味するのではないことは勿論であるし、正義が実現されたという意味でその検察官は立派にその職責を果したというべきなのである。無罪判決を受けた検察官は、無罪判決を出した裁判官を祝福すべきであり、自分が立派に仕事を成し遂げたことを誇るべきである。
現実の検察官はこれとは全く異なる。彼らは徹底的に当事者的である。公訴を提起した以上何が何でも有罪に持ち込むのだという執念のようなものに突き動かされているとしか思えないことがしばしばある。黙秘権の行使を勧める弁護人の悪口を繰り返す;無罪を主張する被告人の保釈には絶対に反対する;手持ち証拠の弁護人への開示には極力反対する;法廷で十分な証言をしなかったり捜査段階の供述を覆す証人を徹底的に糾弾する;ひどい場合には偽証罪で逮捕する;弁護側の反証が成功したかに見えると警察に徹底的な「補充捜査」をさせてつぶしにかかる。彼らには自分たちが非常に強大な権力を持っていて、その権力を用いて何の権力も権威もない一個人を相手にしているのだという自覚が全くないかのようである。勝つためならどんなに小さなシミもほころびも一切許さず、岩も小石も残らずひっくり返す。そのような権限行使の結果無実の被告人に有罪判決がなされるという不正義が行われる危険性が高まるということなど、彼らの眼中にはない。
無罪を「失点」と考え、訴訟の勝敗に徹底的にこだわる日本の検察はいつどのようにして出来上がったのか、私には判らない。しかし、私が弁護士になったばかりのころ(25年前)の検察官はもっと大らかで大局的な見地からことに当たっていたと思う。年代が下がるにしたがって、「当事者的」検事が多くなっているような気がする。
日本のマスメディアは無罪判決が出ると判で押したように捜査訴追機関を非難する。確かに、北方事件では、別件で起訴された人の起訴後勾留を利用して連日深夜や未明に至る長時間の取調べを行って自白させるということが行われており、そのことは批判されるべきである。しかし、それは被告人が無罪であるかどうかに関係なく批判されるべきことがらである。有罪の人ならばそのような取調べが許されるという理屈はない。むしろ、裁判の結果違法な捜査が明らかになり、無実の人に有罪判決をすることが回避されたということは、刑事裁判システムが正常に機能した証拠であって、冤罪の発生が防止されたことをメディアも祝福するべきなのである。有罪判決と無罪判決とで捜査機関に対して手のひらを返したような姿勢をとる日本のマスメディアのあり方も、法務検察の無罪過敏症の原因となっているのではないだろうか。
80年代のイギリスでも60年代後半から70年代初頭のテロリスト裁判で有罪となった受刑者の冤罪が次々と明らかになったことがあった。そのとき、イギリス政府は警察の捜査のあり方について徹底的な調査を行い、その結果、被疑者の取調べをすべて録音・録画するという法律(1984年警察刑事証拠法)が作られるに至った。日本の法務検察もその頃「捜査の適正」を唱えたが、結局、何らの改善策も制度改革も打ち出すことはなかった。今回はどうなのだろうか。北方事件や志布志事件の捜査のあり方を徹底的に検討し、イギリス政府がやったように、取調べをすべて録音・録画するというような立法提案を日本の法務省もすべきではないだろうか。無罪判決をなくすことよりも、より人間的な捜査方法を実現することの方が、刑事司法に対する国民の信頼を高めることになるのではないだろうか。
(注)
(1) 1989年に佐賀県北方町(現武雄市)で女性3人の死体が発見された。警察は覚せい剤取締法違反で起訴され勾留中の男性を連日のように深夜にわたる取調べをしたすえ、犯行を認める上申書を獲得したが、その後男性は否認に転じ、結局、立件はできなかった。しかし、2002年夏時効の6時間前に男性を逮捕し、佐賀地検は彼の上申書群を主要な有罪証拠として起訴した。第1審の佐賀地裁は、被告人の上申書は任意捜査の限界を超える違法な取調べによるものであり、かつ、任意性にも疑いがあるとして、その証拠として採用することを拒否し(佐賀地決平16・9・16判時1947-3)、2002年5月無罪判決を言渡した(佐賀地判平17・5・10判時1947-23)。検察官が控訴したが、先月19日福岡高裁は控訴を棄却した。
(2) 最高検察庁『再審無罪事件検討結果報告』(1986)、司法研修所検察教官室『適正なる捜査のために――無罪事例の検討』(令文社1988)、同『無罪事件に学ぶ――捜査実務の基本』(令文社1992)、
(3) 吉村徳則「はしかぎ」、前掲『無罪事件に学ぶ』。
(4) 馬場義宣「はしがき」、前掲『適正なる捜査のために』。