アメリカの刑事司法
2007年08月02日
John Grisham, The Innocent Man: Murder and Injustice in a Small Town (Doubleday, 2006)
ジョン・グリシャムが書いたノンフィクション作品。1982年にオクラホマ州の田舎町エイダで起った強姦殺人事件の犯人として、その6年後に逮捕され、起訴され、有罪を宣告され、死刑を言渡され、死と隣り合わせの裁判闘争の末に再審開始決定を獲得し、DNA鑑定で無実を証明して、12年間の死刑囚監房暮らしの後にようやく無罪放免された男、ロナルド・キース・ウィリアムソンの波乱に満ちた生涯の物語。
捜査や公判、拘禁施設を巡る多くの問題を、そこに生きる人間のドラマとして描き切る。説明的な叙述はほとんどまったくないにもかかわらず、というより、それゆえにこそ、システムの問題が非常なリアリティをもってわれわれの心に伝わってくる。第1級のストーリー・テラーによるノンフィクション作品とはこういうものなのかと感心させられた。
登場人物をまったく偶像化せず、様々な欠陥をもった生身の人間として描いている点も、この作品に深みを与えている。犯罪被害者や冤罪被害者を「ヒーロー」として持ち上げ、彼らに被害をもたらした人間を「悪役」として叩くことが多い、日本の「犯罪物」「冤罪物」ノンフィクションが浅薄なプロパガンダの臭みを持っているのとは、ここが一番違うところだろう。
そうでありながら、ロニーや彼を支え続けた二人の姉妹に対するあふれるばかりの共感と、DNAの結果が出ても彼に対する訴追を諦めず、決して謝罪の言葉を述べることのなかった地方検事や、執拗な尋問で「夢自白」(dream confession)を創り上げた刑事たちに対する燃えるような憤りは、読者にひしひしと伝わってくる。
あとがきの中でグリシャムは言っている。
「これはオクラホマ特有の問題ではない。それどころか、誤った有罪判決は、この国では毎月のように全ての州で起っている。その原因は様々であるが、いつも同じだ。警察のずさんな捜査、インチキ科学、誤った識別証言、ずさんな弁護、怠惰な検察、傲慢な検察。」
日本も状況は同じだ。すべての地方裁判所で毎月のように誤った有罪判決が下されている。その原因も、グリシャムが挙げるものと同じだが、もう一つ加える必要がある。被告人に対する予断と偏見に満ちた職業裁判官の存在である。日本の刑事裁判の特色である「有罪率99.9%」を力強く支えているのは彼らである。
さらに、アメリカと日本とでは冤罪救済のシステムも大いに異なる。日本には「再審請求」という制度があるが、再審開始決定を得るためには、被告人の無罪を証明する新しい証拠を発見しなければならない。アメリカにおける主要な冤罪救済システムは連邦人身保護制度である。囚人に対して有罪を言渡しその拘禁を決定した裁判手続に、連邦憲法に対する違反があれば、州政府は、もう一度裁判をやり直して適法な手続で囚人の有罪を決定するか、彼や彼女の身柄を釈放するかの選択をしなければならない。
ウィリアムソン事件でも、有罪確定から6年経過した1994年にオクラホマ州東部地区連邦裁判所のフランク・シャイ裁判官の下に申し立てられた人身保護請求が、彼の命を救ったのである。シャイ裁判官の3人の調査官は、ロニーの弁護人の申立書を読んで、エイダの裁判所の手続に疑問を抱き、膨大な公判記録を読み、判例や文献を徹底的に調査した。1年後の1995年9月、シャイ判事は再審開始を決定した。判事は50ページに達する決定書の最後に「エピローグ」を書いている。
「この事件の判決をどうするか考えているとき、私は、ある素人の友人に、事実と法が、有罪を宣告され死刑を言渡されたある男に対して再審を認めることを私に要求しているようだ、と言った。
『彼は殺っているのか』とその友人は尋ねた。
私はただこう答えた。『彼が公正な裁判を受けるまでは、それはわからない』と。
この偉大な国において、公正な裁判を受けていない人々が処刑されようとしているときにわれわれがそれから目を背けてしまうようなことは、決してあってはならない。この事件ではまさにそれが起ろうとしていたのだ。」
「彼が公正な裁判を受けるまでは、それはわからない」。これこそが、真実というものに対する畏敬の念と裁判の使命を理解する、あるべき法曹の姿ではないだろうか。わが国の多くの裁判官は、手続が多少イレギュラーであっても、被告人は有罪であり、その結論に変わりはない、と信じている。だから、「相当ではないが、違法ではない」などとわけのわからない言葉遊びで手続を正当化してしまう。再審の法もそのような裁判官の姿勢を正すことはできない。
本書は有名なベストセラー作家の本だから遠からず翻訳が出るだろう。できるだけ早くその日が来ることを望みたい。
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ジョン・グリシャムが書いたノンフィクション作品。1982年にオクラホマ州の田舎町エイダで起った強姦殺人事件の犯人として、その6年後に逮捕され、起訴され、有罪を宣告され、死刑を言渡され、死と隣り合わせの裁判闘争の末に再審開始決定を獲得し、DNA鑑定で無実を証明して、12年間の死刑囚監房暮らしの後にようやく無罪放免された男、ロナルド・キース・ウィリアムソンの波乱に満ちた生涯の物語。
捜査や公判、拘禁施設を巡る多くの問題を、そこに生きる人間のドラマとして描き切る。説明的な叙述はほとんどまったくないにもかかわらず、というより、それゆえにこそ、システムの問題が非常なリアリティをもってわれわれの心に伝わってくる。第1級のストーリー・テラーによるノンフィクション作品とはこういうものなのかと感心させられた。
登場人物をまったく偶像化せず、様々な欠陥をもった生身の人間として描いている点も、この作品に深みを与えている。犯罪被害者や冤罪被害者を「ヒーロー」として持ち上げ、彼らに被害をもたらした人間を「悪役」として叩くことが多い、日本の「犯罪物」「冤罪物」ノンフィクションが浅薄なプロパガンダの臭みを持っているのとは、ここが一番違うところだろう。
そうでありながら、ロニーや彼を支え続けた二人の姉妹に対するあふれるばかりの共感と、DNAの結果が出ても彼に対する訴追を諦めず、決して謝罪の言葉を述べることのなかった地方検事や、執拗な尋問で「夢自白」(dream confession)を創り上げた刑事たちに対する燃えるような憤りは、読者にひしひしと伝わってくる。
あとがきの中でグリシャムは言っている。
「これはオクラホマ特有の問題ではない。それどころか、誤った有罪判決は、この国では毎月のように全ての州で起っている。その原因は様々であるが、いつも同じだ。警察のずさんな捜査、インチキ科学、誤った識別証言、ずさんな弁護、怠惰な検察、傲慢な検察。」
日本も状況は同じだ。すべての地方裁判所で毎月のように誤った有罪判決が下されている。その原因も、グリシャムが挙げるものと同じだが、もう一つ加える必要がある。被告人に対する予断と偏見に満ちた職業裁判官の存在である。日本の刑事裁判の特色である「有罪率99.9%」を力強く支えているのは彼らである。
さらに、アメリカと日本とでは冤罪救済のシステムも大いに異なる。日本には「再審請求」という制度があるが、再審開始決定を得るためには、被告人の無罪を証明する新しい証拠を発見しなければならない。アメリカにおける主要な冤罪救済システムは連邦人身保護制度である。囚人に対して有罪を言渡しその拘禁を決定した裁判手続に、連邦憲法に対する違反があれば、州政府は、もう一度裁判をやり直して適法な手続で囚人の有罪を決定するか、彼や彼女の身柄を釈放するかの選択をしなければならない。
ウィリアムソン事件でも、有罪確定から6年経過した1994年にオクラホマ州東部地区連邦裁判所のフランク・シャイ裁判官の下に申し立てられた人身保護請求が、彼の命を救ったのである。シャイ裁判官の3人の調査官は、ロニーの弁護人の申立書を読んで、エイダの裁判所の手続に疑問を抱き、膨大な公判記録を読み、判例や文献を徹底的に調査した。1年後の1995年9月、シャイ判事は再審開始を決定した。判事は50ページに達する決定書の最後に「エピローグ」を書いている。
「この事件の判決をどうするか考えているとき、私は、ある素人の友人に、事実と法が、有罪を宣告され死刑を言渡されたある男に対して再審を認めることを私に要求しているようだ、と言った。
『彼は殺っているのか』とその友人は尋ねた。
私はただこう答えた。『彼が公正な裁判を受けるまでは、それはわからない』と。
この偉大な国において、公正な裁判を受けていない人々が処刑されようとしているときにわれわれがそれから目を背けてしまうようなことは、決してあってはならない。この事件ではまさにそれが起ろうとしていたのだ。」
「彼が公正な裁判を受けるまでは、それはわからない」。これこそが、真実というものに対する畏敬の念と裁判の使命を理解する、あるべき法曹の姿ではないだろうか。わが国の多くの裁判官は、手続が多少イレギュラーであっても、被告人は有罪であり、その結論に変わりはない、と信じている。だから、「相当ではないが、違法ではない」などとわけのわからない言葉遊びで手続を正当化してしまう。再審の法もそのような裁判官の姿勢を正すことはできない。
本書は有名なベストセラー作家の本だから遠からず翻訳が出るだろう。できるだけ早くその日が来ることを望みたい。
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2007年03月02日
刑事手続に関するアメリカの憲法判例集
【最終更新日 2007年3月1日】
取調べと自白
エスコビード対イリノイ(1964年)
――弁護人との面会を拒否して獲得された自白を被告人に不利益な証拠として採用することは弁護権を保障した合衆国憲法第6修正に違反する。
ミランダ対アリゾナ(1966年)――身柄拘束下の取調べにおいて、被疑者は取調べを拒否しあるいは弁護人立会いのうえで供述する権利があるのであって、これらの権利を告知せずに取調べることは黙秘権を保障した合衆国憲法第5修正に違反する。
ミニック対ミシシッピ(1990年)――身柄拘束下の取調べにおいて、被疑者が弁護人を要請したならば取り調べは停止されなければならず、その後は、被疑者が彼の弁護人と相談したか否かにかかわらず、弁護人の在席なしに捜査官は取り調べを再聞することはできない。
ステファン対州(1985年アラスカ州最高裁判所)――身柄拘束下の取調べは可能な限り全てテープに記録しなければならないとの規則は、アラスカ州憲法のデュープロセス条項の要請であり、この規則に違反して得られた自白は証拠から排除されなければならない。
弁護権
パウエル対アラバマ(1932年)――死刑事件において、被告人が自ら弁護人を依頼することが出来ない場合には、要求があるかどうかにかかわらず、州政府は彼のために弁護人を任命することが第14修正の法の正当な過程(due process of law)の要求であり、かつ、その任命は、被告人が公判において効果的な援助を実質的に受けることができるような仕方でなされなければならない。
ギデオン対ウェインライト(1963年)――弁護人の援助を受ける権利を保障する第6修正は第14修正を通じて州政府にも適用されるのであり、重罪事件において、自ら弁護人を依頼することができない被告人に対して、州政府は弁護人を任命する義務を負う。
対決権
バーバー対ページ(1968年)
――政府は証人の出廷確保のために善意の努力をしなければならず、証人が法域の外にいるというだけでは「召喚不能」とは言えず、その者の従前の証言を採用することは憲法が保障する対決権を侵害する。
コイ対アイオワ(1988年)
――被害者証人を保護するために遮へい措置をとることは、その個別具体的な必要性が認められないかぎり、対決権を保障した憲法に違反する。
クロフォード対ワシントン(2004年)
――公判に出廷しない者の証言的伝聞供述(testimonial hearsay)は、たとえその者が召喚不能であっても、供述当時に被告人に反対尋問の機会が与えられていたのでない限り、これを証拠として許容することは対決権を保証した合衆国憲法第6修正に違反する。
証拠法
ドーバート対メレル・ダウ薬品会社(1993年)
――科学的証拠の許容性の基準
【最終更新日 2007年3月1日】
取調べと自白
エスコビード対イリノイ(1964年)
――弁護人との面会を拒否して獲得された自白を被告人に不利益な証拠として採用することは弁護権を保障した合衆国憲法第6修正に違反する。
ミランダ対アリゾナ(1966年)――身柄拘束下の取調べにおいて、被疑者は取調べを拒否しあるいは弁護人立会いのうえで供述する権利があるのであって、これらの権利を告知せずに取調べることは黙秘権を保障した合衆国憲法第5修正に違反する。
ミニック対ミシシッピ(1990年)――身柄拘束下の取調べにおいて、被疑者が弁護人を要請したならば取り調べは停止されなければならず、その後は、被疑者が彼の弁護人と相談したか否かにかかわらず、弁護人の在席なしに捜査官は取り調べを再聞することはできない。
ステファン対州(1985年アラスカ州最高裁判所)――身柄拘束下の取調べは可能な限り全てテープに記録しなければならないとの規則は、アラスカ州憲法のデュープロセス条項の要請であり、この規則に違反して得られた自白は証拠から排除されなければならない。
弁護権
パウエル対アラバマ(1932年)――死刑事件において、被告人が自ら弁護人を依頼することが出来ない場合には、要求があるかどうかにかかわらず、州政府は彼のために弁護人を任命することが第14修正の法の正当な過程(due process of law)の要求であり、かつ、その任命は、被告人が公判において効果的な援助を実質的に受けることができるような仕方でなされなければならない。
ギデオン対ウェインライト(1963年)――弁護人の援助を受ける権利を保障する第6修正は第14修正を通じて州政府にも適用されるのであり、重罪事件において、自ら弁護人を依頼することができない被告人に対して、州政府は弁護人を任命する義務を負う。
対決権
バーバー対ページ(1968年)
――政府は証人の出廷確保のために善意の努力をしなければならず、証人が法域の外にいるというだけでは「召喚不能」とは言えず、その者の従前の証言を採用することは憲法が保障する対決権を侵害する。
コイ対アイオワ(1988年)
――被害者証人を保護するために遮へい措置をとることは、その個別具体的な必要性が認められないかぎり、対決権を保障した憲法に違反する。
クロフォード対ワシントン(2004年)
――公判に出廷しない者の証言的伝聞供述(testimonial hearsay)は、たとえその者が召喚不能であっても、供述当時に被告人に反対尋問の機会が与えられていたのでない限り、これを証拠として許容することは対決権を保証した合衆国憲法第6修正に違反する。
証拠法
ドーバート対メレル・ダウ薬品会社(1993年)
――科学的証拠の許容性の基準