刑事弁護の歴史

2010年09月13日

20世紀の初め、ニューヨークの縫製工場で火災が発生し、その結果、10代の女工たちばかり400人(ヨーロッパからの移民の子供たち)が焼け死ぬという大惨事が起こった。縫製会社の社長は、女工たちがときどき非常階段の踊り場に出てタバコを吸って休憩するのを防ぐために(当時子供たちは週7日1日17時間の労働をする契約をしていた。)、非常階段に通じるドアをすべて釘付けしてしまったのだ。

社長は400件の過失致死罪で起訴された。検察側の証人にたった17歳の少女は、検事から「それで火事の日に何があったか話してください」と言われると、よどみなく、なめらかに、そして切々と、その悲劇を物語った。

反対尋問に立ったのは当代切っての公判弁護士マックス・ストゥア(Max Steuer 1870-1940)だった。彼の強みはその驚異的な記憶力である。彼は少女にこう言った。
「ソフィー、君の物語をもう一度言ってごらん」。

ソフィーはもう一度彼女の物語を繰り返した。その内容は、主尋問で彼女が語ったことと一言一句違わなかった。まったく同じ話を彼女は繰り返したのだった。

ソフィーが語り終えると、ストゥアは「もう1回話して」と言った。彼女がまた悲劇を語り終えると、ストウアは「じゃあ、もう1回」と告げた。

こうして証人が4度目の話を語り終えたとき、社長の弁護人はしかつめらしく、こう言った。
「ソフィー、君は、that というところを今回whichと言い間違いしましたね?」

証人はあわてて、「ごめんなさい。確かに間違えてしまいました。」と答え、また物語を繰り返そうとした。

弁護人は「反対尋問は以上です」と述べて着席した。

マックス・ストウアは、この事件の最終弁論でこう述べた。
「陪審員の皆さん、検察側は、皆さんが証人の真実の声を聞くのを妨害しました。彼は、証人の真実の声ではなく、あらかじめ覚えこまされた、お仕着せの物語を皆さんに聞かせようとしたのです。」

陪審は、8階建てビルの全ての非常口の扉を釘付けした社長を無罪放免した。

今日の法廷技術の考え方からすると、このような反対尋問はほとんどあり得ない。
「オープンな質問をするな」
「主尋問を繰り返すな」
というのは反対尋問のもっとも基本的な作法である。私もそう教えている。俳句の世界に自由律俳句があり、ジャズの世界にアヴァンギャルドやフリージャズがあり、現代音楽に無調や12音階技法があるように、法廷技術の世界にも基本的な掟を無視した世界があるようである。しかし、決して良い子は真似してはいけない。十分に基本をマスターした後で挑戦すべき領域というべきだろう。

むしろ今日の日本の法廷には、基本的なルールを全く知らないままに、自由に聞きたいことを脈絡なく聞きたい方法で聞いているとしか思えないような、反対尋問が横行している。それは、戦略も何もないただの時間つぶしであり、依頼人を含む多くの人の貴重な時間と財産を奪っている。こうした尋問者にとってもマックス・ストゥアの反対尋問は無縁の世界の話である。



参考文献:
Irving younger, “The Art of Cross-Examination” ( American Bar Association, 1976).


plltakano at 22:17コメント(1)トラックバック(0)  このエントリーをはてなブックマークに追加

2009年02月14日

アール・ロジャーズの父はメソジスト教会の牧師だった。父はアールにも説教師になって欲しかったが、アールは医者になりたかった。しかし、学費が工面できずその夢は果せなかった。若くして結婚した彼は、ロサンゼルスで新聞記者として働いた。裁判の取材をしたことがきっかけで弁護士を志す。19世紀のアメリカには司法試験などというものはなかった。弁護士の下で一定期間修行を積んで地元の法曹協会への所属が認められれば弁護士として仕事ができた。

彼は刑事事件が嫌いで民事弁護士を志した。彼の運命を変えたのは1899年地元の有力弁護士ジェイ・ハンターを射殺した配管工ウィリアム・アルフォードの事件だった。弁護士になって2年目の彼が弁護人に任命された。依頼人は拳銃を持っていたのに対して、被害者は杖をもっていただけだ。依頼人は被害者からいきなり杖で叩きつけられて転倒し、さらに襲い掛かってくる被害者に夢中で拳銃を向けたと正当防衛を主張した。しかし、検視官は、銃弾はハンターの体内を「下に向けて」貫通していると証言し、アルフォードの言い分を否定した。

ロジャーズはハンターの小腸がアルコール漬けで保管されていることを知った。彼は裁判所に腸を取調べることを要求した。ハンターの腸が法廷に持ち込まれ、法医学の専門家はそれを点検して、「銃弾は上から下ではなく、前かがみになっているハンターの下から上に向けて発射されたと考えられる」と証言した。アルフォードは無罪放免され、ロジャーズは一躍有名になった。

彼は25年間の弁護士人生で189件の無罪評決を獲得した。有罪評決は20件足らずと言われている。77件の殺人の公判で74件の無罪を得ている。

彼のモットーは「われわれは誰の弁護でもする」(“We defend everybody.”)というものだった。

妻を娼婦として働かせたうえ、別の女性と懇ろになり、邪魔になった妻を殺したという嫌疑で起訴された被告人の弁護では、二人が言い争いをしているのが聞こえその直後に銃声がしたという証言に対して、妻は耳が良く聞こえないので、被告人はいつも妻と怒鳴り声で話していた、妻は自分の境遇を気に病んで自殺したのだという弁論を行った。無罪の評決を得て放免された依頼人はロジャーズに握手を求めた。ロジャーズは手を引っ込めてこう叫んだ。

「近寄るな。薄汚いヒモ野郎!君が有罪だってことは分かっているだろう!」

密室の中で3人の男が口論となった。銃声に続いて2人の男が部屋から飛び出してきた。部屋の中には一人の男の遺体と凶器となった拳銃が残された。拳銃に指紋はなく、二人の男はお互いにもう一人の男が犯人だと言い合った。ロジャーズは二人から依頼を受け、別々の公判で二人とも無罪にした。

「もしもあなたが有罪なら、アール・ロジャーズを弁護人に雇え」

世間ではそういうことになっていた。

あるとき彼の事務所を中国人の男が訪れ、殺人の弁護に幾らかかるかと尋ねた。ロジャーズの返事を聞いたその男は財布の中身を数えて、安心した様子で事務所を出て行こうとした。
「ちょっと待ちなさい。一体どういうことなんだ」、ロジャーズが尋ねると、男はこう答えた。
「奴を殺してくるから、ちょっと待っててくれ」。

アール・ロジャーズは徹底的な準備をして法廷に臨んだ。「どんな役者も彼ほどリハーサルをしない」と言われた。しかし、彼は自分が準備をしていることを同僚にも判らないようにしていた。全く無防備に法廷に臨んでいるように見せたがった。彼はいつもきちんと散髪し、上等の三つ揃えを着て法廷に臨んだ。トレードマークの鼻眼鏡をマジシャンのように扱って、相手の証人を見据えて、情け容赦のない反対尋問で血祭りにあげた。

フランシス・ウェルマンは「アール・ロジャーズは今日反対尋問の技術として知られているものを発明した」と称えた。

ロジャーズは再現証拠(demonstrative evidence)の創始者としても有名である。バーのポーカーテーブルで起った殺人事件の公判で「被告人が拳銃で被害者を撃つのを見た」という検察側証人を反対尋問するために、ロジャーズは血に染まったポーカーテーブルと椅子を法廷に持ち込もうとした。「トリックだ」「茶番劇だ」と言って検察官は異論を唱えた。裁判長にこの「前例のない暴挙」を認めさせるために、ロジャースは熱弁を振るった。

「かつては裁判をすることもなく人の首が刎ねられました。スターチェンバーの閉ざされた扉の中で、被告人は、弁護を受けることもなく、有罪を宣告されて、そして広場で絞首刑にされました。人間性に根ざした偉大な歩みの幾つかが踏み出された結果、最初の、公正で自由で開かれた陪審裁判が行われたのです。幸いなことに、何人も、前例がないという理由でこの偉大なる考えから後退しようとすることはありませんでした。本件が陪審のために正確な犯罪現場を法廷に再現した最初の事例だからと言って、検察官にはそれを『トリック』と呼ぶ権利があるでしょうか。神の名において私の答はNOです。

「ジョンソン証人はこの空間とこの時間においてある出来事が起ったと証言しました。しかし、私はそれを信じませんし、それは不可能なことなのです。私には、その現場を再現して、彼が宣誓のもとで起ったという出来事をその場で再現させる権利と義務があるのです。そうすることで陪審はジョンソンの語る物語が信じられるかどうかを自ら確認することができるのです。」

裁判長はロジャーズの要請を認めた。ロジャーズはジョンソンを事件のときと同じ席に座らせて、被告人と被害者の位置には彼らが被っていたのと同じシルクハット――被害者のものには穴が開いている――をおき、被告人の懐中時計、凶器となった拳銃などを次々に繰り出していき、ひとつひとつ出来事を再現する尋問をしていった。恐ろしいほどの臨場感と緊張感のなかで、弁護人が巧妙に組み立てた尋問の結果、ジョーンズは、被告人が被害者を殺害した後、今度は自分に銃口を向けたといいながら、何も言葉を発せず動揺もせずその場にいたという不自然な供述に固執し、自ら拳銃を手に取ったことを認めた。そしてついには、トイレで手についた火薬火傷を洗ったのではないかという問に、「私は、洗ったのかな?」と自問してしまった。被告人は無罪放免された。

1912年、陪審を買収したことで起訴された偉大な労働弁護士クラレンス・ダローはアール・ロジャーズを自分の弁護人に選んだ。ロジャーズは、気落ちしがちがダローを勇気づけながら、彼を「人民のために身命をささげるヒーロー」として描くことに努めた。証拠は圧倒的にダローに不利であったが、ダローは無罪となった。

ダローはロジャーズを「すべての時代を通じて最も偉大な刑事弁護士」と称賛した。

ロジャースの弱点はその破天荒な私生活と酒であった。依頼人をおいて酒場に行き、明け方まで飲み続けて、トルコ風呂でアルコールを抜いて法廷に行く、などという生活を続けていた。「酔っ払ったロジャーズは、この国のどんな弁護士が素面のときにやる弁護よりもましな弁護をする」という人もいた。

「長生きなんかしたくない。『老いぼれアール・ロジャーズ』なんて言われたくない」

娘のアデラに、彼はそうぼやいていたという。アデラは小学校に上がる前から彼の公判に付き添い、ロジャーズの相談相手にもなっていた。彼女は、1920年代から30年代にかけてジャーナリストとして活躍し、その後はハリウッド映画の脚本家、小説家として多くの作品を残している。父の生涯を描いたFinal Verdictはベストセラーとなり映画化もされている。

晩年のロジャーズはますます酒びたりになり、公判予定を忘れてしまうほどになった。父の生活を案じたアデラは禁治産宣告の申立てを行った。ロジャースは法廷で娘を反対尋問した。

ロジャーズは証言台の娘に近づき例の鼻眼鏡を取り出すと、ほんの数秒だけそれを揺らめかせるとすぐに内ポケットにしまい込んだ。

「ノラ[アデラの愛称]、私の顔を見てくれるかい。」彼女は父の顔を見た。
「ノラ、君は本当に私が狂っていると思っているのか?」
「いいえ、違うの、パパ。……そんなこと……。」
「じゃあ、君は」、ロジャーズは裁判長の机の上の書類を示して、言った、「この茶番を続けて私を拘束しておきたいのか。」
「違うわ、パパ……」。証人は泣き崩れた。

ロジャーズは嗚咽する娘の肩を抱いて、親族や記者連中が見守るなかを歩いて法廷を出て行った。娘は申立てを取り下げた。

1922年2月22日ロサンゼルスの安宿でアール・ロジャーズは52歳の生涯をとじた。

ロサンゼルスの弁護士でもある小説家アール・スタンレー・ガードナーはアール・ロジャーズをモデルに「ペリー・メイソン」を創り出したと言われている。

参考文献:
Alfred Cohn & Joe Chisholm, “Take the Witness!” (The New Home Library, New York, 1943, Originally Published in 1934).
Adela Rogers St. Johns, Final Verdict (Signet, New York, 1972, Originally Published in 1962).
Michael Lance Trope, Once Upon a Time in Los Angeles: The Trials of Earl Rogers (The Arthur H. Clark Company, Spokane, Washington, 2001).

plltakano at 20:17コメント(2)トラックバック(0)  このエントリーをはてなブックマークに追加

2007年01月03日

ソクラテスが「涜神の罪」で告発されたころ、すなわち紀元前400年ころのアテネでは、「民衆裁判」と呼ばれるべきものが行なわれていた。訴訟指揮を行なう裁判官はおらず、法的な論点も事実認定も量刑もすべて籤で選ばれた200人から500人の市民(陪審員)の投票で決められた。検察官制度はなく、刑事訴追も私人によって行なわれた。法廷では訴追人と被告人が陪審員の前で自ら弁論を行ない、それを聞いた後直ちに投票が行なわれ、多数決によって被告人の有罪無罪が決められた(同数の場合は無罪とされた)。

第三者が告訴人や被告人に代わって弁論することは原則として認められていなかった。訴追人も被告人も、自分の主張を自分で述べなければならなかった。ソクラテスのような人ならば、法的な論点についても事実上の論点についても自ら十分に弁じ立てることが出来たかもしれないが、普通の訴訟当事者にとってそれはかなり難しい仕事であっただろう。両当事者は弁論のなかで法を論じ、証拠を引用し、時には証人尋問を行う。かなりの熟練を要する作業である。そこで経済的に余裕のある訴訟当事者はロゴグラフォス(logographos)と呼ばれる弁論作家を依頼し、弁論を書いてもらい、その内容を暗記して法廷に臨んだ(Roscoe Pound, THE LAWYER FROM ANTIQUITY TO MODERN TIMES (West, 1953), p33)。

当時のアテネには数百人のロゴグラフォスがいたと言われる(Michael Gagarin, Series Introduction, Vol. 1, The Oratory of Classical Greece (University of Texas Press, Austin, 1998), xii )。しかし、今日までその作品が伝えられているのはわずか10人であり、弁論の数にして約150と言われている(id., xvi)。弁論作家は訴追人・被告人いずれの依頼も受ける。そして、依頼人自身が法廷で弁論するためのいわば「台本」を書くわけだから、その作品で「私」というのは弁論家ではなく、依頼人たる訴訟当事者である(弁論作家自身が訴追人あるいは被告人として弁論する例もある。例えばアンドキデスの現存作品は全てそうである)。

そして、弁論作家は、自分の意見ではなく、依頼人の身になって依頼人に有利な主張を説得的に訴えようと努力した。例えば、最古の弁論作家アンティフォン(前480年ころ−411年)の作といわれる6編の弁論のうち、1編は告発側、2編は被告側で、3編は告発側・被告側が2回ずつ弁論の応酬を行なう「4部作集」(テトラロギア)と呼ばれる弁論の習作である。告発側の弁論である『毒殺容疑での義母告発』の中で、アンティフォンは奴隷に対する拷問尋問(市民に対する拷問は認められていなかった)について

「奴隷どもが否定したり、筋の通らないことを言ったりすれば、拷問尋問によって事実を申し述べることを余儀なくされるでありましょう。何故なら、拷問尋問は嘘を話そうと用意している者にさえ真実を述べるようにさせるからです。」

と論じている(高畠純夫訳「アンティフォン弁論集」富山医科薬科大学一般教育研究紀要14−1(1992年)、4頁)。しかし、被告側の弁論『ヘローデース殺害に関して』では、拷問による供述の偏頗性を次のように指摘している。

「皆さんは次のことをご存知のことと思います。すなわち、拷問される者は拷問尋問の最大の責任者の側に立ち、結局はそうした者を喜ばせるようなことを話してしまうということをです。なにせそうした者の中にのみ救いはあるのですから。そしてそれはとりわけ自分が嘘の非難をなそうとする者がその場にいない場合にそうなるでありましょう。」(同前、37頁)

弁論作家自身が法廷に赴き、被告人のために被告人に代わって弁論を行うということが絶対になかったかというと、そうでもないらしい。例外的に、被告人の親や友人、出身部族の仲間に弁論してもらうことが認められる場合があり、このようにして法廷に同席する弁論者のことをシネゴロス(synegoros)と呼んでいた(Pound, supra. pp31-32)。

前340年のアテネ。美貌のヘタイラ(高級娼婦)、フリュネ−が涜神の罪で訴追された。

訴追人は彼女の元恋人ユーティアス。彼は弁論作家アナクスメネスの告発弁論を引っさげて出頭した。対する弁護人は雄弁家ヒュパリデス、彼もフリュネーの恋人であり、つまりユーティアスの恋敵であった。ソクラテスの先例を引くまでもなく、涜神の罪で有罪になれば死刑である。形勢は被告人側に不利であり、ヒュパリデスはなかなか弁論を進められなかった。このままでは陪審員たちは有罪の評決をするに違いない。

と、そのとき彼は、何を思ったか、依頼人を法廷の中央に突き出し、彼女の衣服をはぎ取った。陪審員たちは思わず目を見張った。彼らは、彼女の汚れなき裸身にアフロディーテを重ね畏れて、フリュネーに無罪の評決を言い渡した。

最近の研究によるとフリュネーが訴追されヒュパリデスが彼女の弁護をしたのは事実のようだが、2人が恋人同士であったとか弁護人が被告人の衣服を剥いだというのは、後の伝記作家の創造だとのことである(Craig R. Cooper, “Hyperides and the Trial of Phryne” Phoenix 49 (1995), pp303-318)。

フリュネーは当時のアテネで最も著名なヘタイラであった。彼女の顧客は各界の著名人ばかりであり、また、彫刻家プロクシテネスのモデルでもあった。彼のアフロディーテ像のモデルはフリュネーとされる。当時のアテネの裁判では女性はたとえ刑事訴追を受けても法廷に出頭することが許されなかった。法廷に出られるのは男性だけだった。しかし、フリュネーはアテネ市民にとっては特別な存在であり、法廷に出ることが許されたのだ。


ウィニペグ大学の古典学者クレイグ・クーパー博士の解説によると、フリュネーが訴追された罪は涜神罪(アセベイア)であるが、具体的には、?アポロ神殿(リュケイム)でどんちゃん騒ぎしたこと、?新たな神を紹介したこと、そして?違法に男女の宗教的集会(タイアソイ)を開いたこと、である(Craig R. Cooper, Hyperides, in Vol. 5, The Oratory of Classical Greece (University of Texas Press, Austin, 2001, at p147)。いずれにしても、この当時アセベイアによる訴追は政治的に利用されていた。というのは前430年の法令で、無信仰や異端の意見に対してこの罪が適用されることになったからだ。プロタゴラス、ソクラテス、アリストテレスというような哲学者もこの訴追を受けている。著名な女性で政界にも影響力があったと思われるフリュネーに対する訴追も政治的な動機が背後にあったと考えられる。

いずれにしても、ヒュパリデスによるフリュネーの弁護は後の弁論家や芸術家たちにインスピレーションを与えた。前2世紀の修辞学者アルシフロンは、フリュネーが胸をはだけたから裁判に勝ったと考えるべきではなく、ヒュパリデスの弁論によってその行動の適切さがもたらされ、その結果、裁判の成功をもたらしたのだ、と論じた。ローマの雄弁家クインティリアーヌスは、「ヒュパリデスの雄弁は確かに賞賛に値するが、しかし、フリュネーを救ったのはそれではなく、彼女の身体の優美であった」と述べた。18世紀新古典派の巨匠ジャック・ルイ・ダビッドや19世紀フランスアカデミズムの画家兼彫刻家ジャン・レオン・ジェロームが「フリュネーの裁判」を描いている。Jerome Phryne on Trial

plltakano at 14:52コメント(1)トラックバック(0)  このエントリーをはてなブックマークに追加
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