裁判官

2013年07月10日

法廷で裁判官の訴訟指揮や尋問を聞いていると、だいたい彼/彼女の考えていることが分かる。あまりにも予断偏見に満ちている尋問や一方的な訴訟指揮をされて腹が立ってくることは決して少なくない。しかし、法廷で裁判官の立ち居振る舞いや発言に対して異議申立てをすることは、絶対にないわけではないが、ほとんどない。当の裁判官に異議を言ってもそれが通る訳はない。上訴理由に取り上げても、高裁の裁判官がそれを受け入れることはまず期待できない。さらに、裁判官の発言が予断に満ちているというだけでは具体的な証拠の採否や証拠の評価に直結するわけではないから、「判決に影響を及ぼすことが明らかとは言えない」などと言って一蹴されるのが落ちだ。

昔の弁護士はよく「地獄部」「極楽部」などと言って、裁判官を評価した。被告人の言い分には一切耳を傾けず、切って捨てるように被告人の主張を退ける、そんな裁判長の合議体を「地獄部」と言い、被告人の話に耳を傾け、その言い分や証拠を良く評価してくれる裁判長の合議体を「極楽部」と言っていた。最近は、「極楽部」というものは存在しない。絶滅した。さまざまな程度・種類の地獄があるだけである。いずれにしても、裁判官ごとに一定の傾向がある。同じ裁判官があるときは地獄の閻魔様になり、別の事件では仏様になるということはない。被告人に対する予断偏見というものは裁判官ごとに恒常的に認めらる。

裁判官ごとの被告人に対する予断偏見の傾向を、知能テストや被暗示性テストのように、客観的な指標によって数値化できないだろうか。そうすれば、「A裁判官は予断指数が12で、Bさんより公正だ」とか、「C裁判官は、去年は40だったが、今年は20に下がった」というような議論ができる。弁護士会に提出する「裁判官評価票」につける資料としても使えるのではないか。訴訟指揮を数値化するのはかなり難しいが、裁判官の証人尋問ならば数値化できそうな気がする。

このような発想から思いついたのが、ここに紹介する「裁判官予断尋問指数」(Judge’s Prejudicial Question Index: JPQI)である。

裁判官が証人や被告人に対して行った尋問を次の5種類に分類する。
1)検察側証人を助ける尋問(FP)
2)被告側証人・被告人を弾劾する尋問(AD)
3)どちらとも言えない尋問(N)
4)検察側証人を弾劾する尋問(AP))
5)被告側証人・被告人を助ける尋問(FD)


各種の尋問に次の点数を配点する。
FPとADは1点;Nは0点;APとFDは−1点

裁判官の質問の合計点(n)を全質問数(N)で割り、最後に100を掛けて得られた数字が裁判官予断尋問指数(JPQI)である。

JPQI=n×100/N
−100≦JPQI≦100

最も被告人に有利な裁判官の指数は−100
最も被告人に不利な裁判官の指数は+100

ということになる。

試しに、私がかかわった何人かの裁判官についてJPQIを計算してみた。
毎回被告側の証人や被告人を弾劾し、時にはあからさまに不快の念を示すある裁判長はJPQI=88.2だった。
高裁で逆転無罪を出した事件のある陪席裁判官の場合は、JPQI=−30だった。

こうしたデータが集積されて、この国の刑事裁判官のキャラクターに対する幻想がなくなれば良い。


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2013年03月02日

ある人がある犯罪を行った犯人ではないかと信じる相当の根拠(相当の嫌疑probable cause )があるならば、その人を逮捕することは正しい。相当の嫌疑があれば裁判官は逮捕状を発行すべきだし、その令状に基づいて警察官が個人を逮捕することは極めて正しい。あとでその人が犯人ではないことが分かって不起訴になったり、裁判で無罪になったりしても、だからと言って遡って逮捕が間違いだったということにはならない。こうした場合に「誤認逮捕だ」と言って警察を批判するのは、逮捕という制度の目的と機能を無視した議論であり、誤りである。

逮捕というのは政府が個人を訴追するための手続の1つに過ぎない。個人を刑事司法のシステムに乗せるためにその個人の身柄を確保して裁判官の前に連れて行くというのが逮捕の意味である。何のために裁判官の前に連れて行くのか。それは、第1に政府が個人に訴追の用意があることを知らせるためであり、第2にそれに対する個人の弁解を聞くためであり、第3にその逮捕が相当の嫌疑に基づく正しいものだったのかを審査するためであり、そして第4に、その個人を身体拘束すべきか釈放すべきかを決定するためである。

要するに、逮捕は刑事訴追のスタートであって、ゴールではないのである。逮捕された個人(被疑者)のうちにその後の手続の過程で刑事訴追の対象から外され、無罪放免される者がいることを前提としているのである。実際問題として、逮捕をゴールとすることには無理がある。警察には強力な捜査権限が与えられているが、それでも彼らに無罪の証拠を含むあらゆる証拠を収集し、かつ、それらを公正無私な視点から冷静に評価して被疑者が有罪か無罪かを正しく判断する、などということを期待することはできない。そのようなことができる人間はそもそも存在しない。捜査――証拠の収集――というものは、人間がやる以上、一定の仮説に立ってそれに沿うものを探すということにならざるを得ない。被疑者の言い分を聞く前に無罪方向の証拠を集めろなどというのは無理な注文である。また、警察が集めた証拠の中に無罪を示す証拠があったとしても、逮捕状を請求する段階でそのことに気がつかない警察官を無能であるとか、一方的であるなどといって非難することはできない。人間はそれほど万能ではない。

逮捕は個人を刑事システムに正式に乗せるために被疑者を裁判官の前に連れてくる手続きである。被疑者を受け取った裁判官はここで最初の重要な選別を行わなければならない。すなわち、被疑者には刑事訴追を行うに足りるだけの「相当の嫌疑」があるのか、これがあるとして、刑事裁判を適正に行うために彼/彼女の身柄を拘束すべきなのか、を決定する仕事である。ここの場面で、欧米の実務と日本の実務は大きく異なる。

欧米とりわけコモンロー系諸国(英米やカナダ、オーストラリアなど英連邦諸国)では、この手続は公開の法廷で行われる。逮捕された被疑者は速やかに――通常は24時間ないし48時間以内に――公開の法廷に連れて来られなければならない。この手続をイニシャル・アピアランス(initial appearance最初の出頭)という。この法廷には検察官と弁護人が立ち会う。検察官は逮捕が相当な嫌疑に基づくことを示す警察官の宣誓供述書などを裁判官に提出する。そのうえで、嫌疑の内容が告げられる。被疑者は弁護人の助言を得ながら、嫌疑に対して答弁をする。答弁の内容は「有罪」(guilty)か「有罪ではない」(not guilty)である。検察官が反対しない限りここで保釈が決定される。双方が提出した資料と弁論に基いて裁判官が保釈金や条件(定期的に一定の場所に出頭するとか、「被害者」宅の何メートル以内に近づかないとか、GPS装置を装着するとか)を設定して、保釈を決定する。お金のある人は即金で保釈金を納めて釈放される。お金のない被疑者は、裁判所の近くにある保釈金立替業者(bondsman)に手数料を払って保釈金を立て替えてもらう。手数料すら用意できない被疑者は拘束されることになる。アメリカやイギリスの統計によると、重罪で逮捕された被疑者の7割以上が逮捕から48時間以内に釈放される。

「相当の嫌疑」に疑問を感じている被疑者は、予備審問(preliminary hearing)という公開審理手続を開いて検察官に相当の嫌疑の存在を証明することを要求できる。検察官は証人を呼んで相当の嫌疑を証明しなければならない。弁護人は検察側の証人を反対尋問することができる。この審問は陪審ではなく裁判官だけの法廷で行われる。裁判官が被疑者を訴追して公判手続を行うのに充分な嫌疑がないと判断すれば、この段階で公訴は棄却される。

被疑者が保釈によって釈放されるべきではない――逃亡するおそれがあるとか、証人予定者に危害を加える可能性があるので勾留すべきである――と考える検察官は、そのための審問手続(detention hearing勾留審問)を要求して、被疑者の勾留をすべき理由を証明しなければならない。公開の法廷で証人尋問が行われる。この審問が行われて勾留されるのは、死刑や終身刑が予想されるような極めて重大な事案に限られる。
要するに、英米では逮捕された被疑者の多くは、数日以内に釈放され、それまでと変わらない社会生活を送ることができる。家族とともに生活し、仕事を続けながら、刑事裁判に臨むことができる。名実ともに逮捕は刑事システムのスタートに過ぎず、ゴールではない。「有罪判決を受けるまでは無罪と推定される権利」が実質的に保障されたシステムだといえる。たとえ警察が無実の人を逮捕したとしても、彼女の悲劇は1日か2日で終わる。裁判で有罪になるまではそれまでと変わらない生活を送れるのだ。

日本ではどうか。日本でも逮捕された被疑者はやや長いが一定の時間(72時間)以内に裁判官の下に連れて行かなければならないことになっている。しかし、そこで釈放される被疑者ほとんどいない。逮捕された被疑者の99%以上がその後20日間身体拘束されることになる。この審査は公開されない。弁護人も立ち会わない。証人尋問も行われない。検察官が用意した書類を読んだ裁判官が裁判所の一室で被疑者と5分くらい面談して勾留を決める。保釈も認められない。すなわち、日本では、お金持ちも貧乏人も、一旦逮捕されたら最低20日間は社会から隔離されることになる。

勾留された個人のうち正式に訴追されるのは6割弱である。起訴されると制度上は保釈の権利が与えられている。しかし、起訴と同時に保釈される人は殆どいない。それどころか、起訴されて1年たっても2年たっても保釈されない人が8割以上いる。この保釈の審査も非公開の書面審理である。裁判官は検察官が送ってきた書類にざっと目を通すだけで――被告人の顔を見ることもなく――「被告人には罪証を隠滅すると疑うに足りる相当の理由がある」と判断して被告人の保釈請求を却下するのである。

こうして、この国で逮捕された個人の多くは、家族から切り離され、仕事を失い、人生における時間を奪われる。日本でもアメリカでもイギリスでも、逮捕は罪を犯したという「相当の嫌疑」を根拠として行われる。それは個人を刑事司法のシステムに乗せるための手続に過ぎない。逮捕は刑事システムのスタートにすぎない。決してゴールではない。この点も同じである。ところが、日本の現実では刑事システムの始まりは人生の終わりなのである。ここに日本における「誤認逮捕」問題の深刻さの根源がある。

「誤認逮捕」問題の根源は警察や検察にあるではない。「誤認逮捕」問題を作っているのは裁判官なのである。公開の法廷で検察官に勾留の要件を証明させることをせずに、捜査書類を読むだけで勾留状を発行する裁判官。保釈を権利として保障している法律や国際人権規約の条文を無視して「罪証隠滅のおそれ」という曖昧な例外規定を極限的にゆるやかに解釈する裁判官。検察官の言いなりに接見禁止決定を乱発する裁判官。こうした現代の裁判官たちが「誤認逮捕」問題を作っているのである。

彼らはその気になりさえすれば、英米の勾留審問や予備審問と同じように、勾留審査や保釈審査のために公開の法廷で証人尋問をしたり、被告人や弁護人の意見陳述を聞いたりすることができる。刑事訴訟法や刑事訴訟規則にはそれを認める規定がある。誰もそれを違法だと言って止めることはできないはずだ。ところがそれをやろうという裁判官は日本には一人もいない。周りの裁判官がやらないから、自分もそれをやらない。こうした小役人的な官僚裁判官しかいないことが「誤認逮捕」問題の根源的な原因なのである。


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2011年06月10日

【三行半・三下半】江戸時代、簡略に三行半で書いたからいう、夫から妻に出す離縁状の俗称。(広辞苑第3版)

最高裁から薄い封筒が届いた。
「ああ、やっぱりね。ちょうど2週間じゃねえか。予想通りだ!」
と嘯いてみたものの、胸の奥の方で小さな筋肉が収縮するのを感じる。顔の表面がざわざわする。

確かにこれは今まで何百回も繰り返してきたことである。しかし、毎回毎回何がしかの期待を抱き、ダメに違いないと思い、けれど、「もしかして」と期待する。そして、結局ダメなのだ。

クリニックの学生と一緒に何日もかけて調査をし、議論を重ねて、睡眠時間を削って、精魂込めて書いた特別抗告申立書に対する最高裁判所第1小法廷の返事は、ワン・センテンスであった。
「……所論引用の判例は事案を異にするもので本件に適切でなく、憲法違反の主張は、実質は単なる法令違反の主張であって、刑訴法433条の抗告理由に当たらない。」

原決定は、刑訴法89条1号と4号は合憲であると判断した。そして、われわれはこれらの条文の立法の経緯を詳しく調べ、その立法目的からしてとうてい憲法が容認しうるような自由制限規定ではなく、憲法34条に違反すると主張した。イギリスの類似の規定を人権条約違反としたヨーロッパ人権裁判所の判例も引用した。同じ文言の自由権規約9条3項に違反するとも主張した。どうしてこれが「単なる法令違反の主張」なんだろうか。

毎度のことながら最高裁の三行半決定には心の底から怒りを覚える。この怒りは何に対してなんだろうか。最高裁判事の知的不正直に対して。彼らの「自由」というものへの不感症ぶりに対して。彼らの税金の無駄遣いに対して。彼らの無能に対して。

アメリカ連邦最高裁の9人の老人は、1人の浮浪者が刑務所の図書館で鉛筆で便箋3枚に書いた申立てに答えるようにと、フロリダ州知事に督促し、浮浪者のためにニュー・ヨークの著名な弁護士を国選弁護人に選任して口頭弁論を開いた。そして、40ページの憲法解釈論を書いて、刑事司法の歴史を作った。

日本の最高裁の老人たちは、私とロースクールの学生が何日もかけてパソコンで書いた23頁の申立てに対して、まるで暑中見舞いに対する返事のように、三行半の一文を送ってきた。

これでは才能のある人が刑事弁護から去ってしまい、変わり者か閑人だけしかこの業界に残らなくなってしまうだろう。

もう20年以上こんなことをやってきたが、あと何年やれるんだろうか。
【2005年10月5日記】


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2009年06月09日

報道によると、秋田地裁の馬場純夫裁判官は、窃盗事件の共犯者の一人に懲役1年2か月の実刑を、もう一人に懲役1年6か月執行猶予4年の刑を言い渡した後で、休廷し、再開後にそれぞれの刑を宣告し直し、改めてそれぞれ懲役2年の実刑と懲役2年執行猶予4年の刑を言い渡した。馬場裁判官が刑の宣告し直しをした理由は、検事の求刑を聞き間違えたから(懲役2年6か月の求刑を1年6か月に聞き間違えた)ということである(MSN産経ニュース2009年6月9日http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/090608/trl0906081948007-n1.htm)。

判決の言い渡しは公開の法廷における宣告つまり口頭の言渡しによって行われる(刑事訴訟法342条)。判決書というものが作られるが、それは言い渡した判決の内容を記録し証明する文書にすぎない。したがって、口頭で言い渡した内容と判決書の内容に食い違いがあるときは、口頭で言い渡した方が判決であるということになる。判決は宣告が完了した時点で完成する。宣告が終わった後でその内容に誤りがあることが分かっても、言渡しをした裁判官にはそれを訂正することはできない。上訴審の裁判官が当事者の上訴に基づいて原判決を破棄して訂正できるだけである。唯一の例外は最高裁判所が言い渡す判決である。最高裁判決には上訴できない。そのかわり、最高裁自ら判決の訂正をするという制度がある(刑事訴訟法415条)。

けれども、最高裁判所の判例によると、第1審裁判所が判決を言い渡す公判期日が終わるまでは――裁判長が「それでは刑の言い渡しを終わります。閉廷します」と言うまでは――、いったん言い渡した刑を訂正し、その言い渡しをやり直すことができる(最判昭51・11・4刑集30‐10‐1887)。今回の手続が実際どうだったのか分からないが、おそらく、馬場裁判官が閉廷を宣言する前に、検事が発言したので(「裁判長、すいません。私の求刑は1年6カ月ではなく、2年6カ月でした」というような感じで)、馬場氏は聞き間違いに気がついて、休廷をして一旦法廷の外に退いたのだろう。そうだとすれば、まだ、公判期日は続いていることになるので、言渡しのやり直しはできることになる。

しかし、問題は、「検事の求刑の聞き違い」ということが言い渡しやり直しの正しい理由となるのか、ということである。この点でも前出の最高裁判例は参考になる。事案はこうである。窃盗事件の判決宣告期日に裁判官が懲役1年6カ月・5年間の保護観察付執行猶予の判決を朗読した。すると、立ち会っていた裁判所書記官が裁判官に、被告人の犯行は前の刑の保護観察期間中のものだと指摘した。すると、裁判官は、約5分間検討したのち、「先に宣告した主文は間違いであったので言い直す」と告げて、改めて懲役1年6か月の実刑を言い渡した。このケースについて、最高裁判所は、先に指摘したように、判決言渡しのやり直し自体は有効だと述べたが、しかし、それと同時に、最高裁判所は、この裁判官の量刑判断は甚だしく不当なものであって、破棄しなければ著しく正義に反すると言って、判決を破棄して、あらためて懲役1年6か月・5年間保護観察付執行猶予の言渡しを行った。最高裁が量刑不当を理由に判決を破棄し自判した非常に珍しい先例となった。最高裁判所は次のように述べている。

「被告人には、前記のとおり、保護観察付き刑の執行猶予の懲役刑の前刑があったが、第1審の判決宣告期日以前に執行猶予期間が経過し、刑の言渡しが効力を失っていたため、本件において被告人に対して刑の執行猶予を言い渡すことには法律上の支障はなかった。……第1審裁判官が保護観察付き刑の執行猶予を実刑に変更したのは、前者が実質的にみて妥当でないとの判断に基づくものではなく、前刑の保護観察中に犯した犯行であるため法律上執行猶予とすることが許されないとの誤解に基づくものと解するほかない。……これらの諸点を総合して考察するときは、第1審裁判官が当初に宣告した刑をもって被告人に臨むのが正義にかなうものというべきであ[る]。」(刑集30‐10、1892頁)

つまり、当初に言い渡した刑を変更した実質的な理由が、法律の誤解というようなそれ自体根拠のないものであるならば、その量刑変更は不当であり、著しく正義に反するというのである。

さて、検事の求刑の“聞き間違い”は量刑を変更する正当な根拠といえるんだろうか。それはありえない。私はそう思う。法律の定めによれば、被告人の刑を決めるのは裁判官である(裁判員対象事件では裁判官と裁判員。裁判員法6条1項3号)。検察官にも弁護人にも、刑を決める権限はない。検察官と弁護人は証拠調べが終わった後に事実と法律の適用について意見を述べることができる(刑事訴訟法293条)。検察官はこの意見陳述の最後に、どのような刑が相当であるかの意見を述べるのが慣例であり、これを「求刑」と呼び習わしている。しかし、裁判官が検事の求刑に拘束される法的な根拠はどこにもない。それを参考にするかどうかは法的には裁判官の全くの自由にゆだねられている。求刑の10分の1の量刑をしても良いし、求刑を超える刑を言い渡すのも裁判官の自由である。

求刑を正しく聞こうが聞き間違えようが、裁判官は判決を言い渡す前にいくらの刑が正義にかなったものなのかを考えたはずである。実際に考え、そして、その判断に専門家としての自信があるならば、検事の求刑などどうでもいいはずである。法廷で検察官から指摘があっても、「ああそうですか」と受け流すことができたはずである。

しかし、馬場裁判官はそうしなかった。求刑の聞き間違いを指摘されるや直ちに考え直し、そして、量刑を検事の求刑に寄り添うように重く言い直した。

世間では良く、裁判官の量刑は検事の求刑の八掛けだと言われている。もしもそれが本当だとすれば、日本の刑事被告人は裁判官による裁判を受けていないことになる。なぜなら、量刑を実質的に決めているのは検事だからである。被告人を懲役8年にしたければ検事は10年を求刑すれば良い。4年にしたければ5年。簡単な算数だ。日本の職業裁判官はそれが現実であることを決して認めない。馬場純夫裁判官も認めないだろう。しかし、行動は言葉よりも雄弁である。立会検事から「それ違いますよ」と指摘されるや、すごすごと引っ込んで刑を変えるというのは、あまりにも見事に誰が刑を決めているのかを示している。まるでカリカチャーそのものだが、これは紛れもなく日本の司法の現実である。


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2008年03月21日

法務省は、「裁判員が参加する裁判に限定して」、拘禁されている(保釈が認められていない)被告人が法廷でネクタイを着用し、革靴を履くこと、さらに、弁護人の隣に着席することを認める方針を発表した(読売オンライン2008年3月20日03時05分http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080319-OYT1T00897.htm)。「ネクタイ」と言っても「結び目がほどけない取り付け式のもの」であり、「革靴」も「革靴に見えるが実際にはかかとの部分がない形状のもの」という代物であるが、SBM運動(注1)の提唱者である私にしてみると、「一歩前進」には違いなく、多少の感慨はある。

しかし、なぜこの新方針を「裁判員が参加する裁判」に限定する必要があるのだろうか。この限定の背後には、「裁判官はプロだから、被告人の服装や着席位置などに心証を左右されることはないが、素人はそうした要素に影響されやすい」という発想が窺える。

しかし、この裁判官/裁判員二分法に実証的な根拠があるようには見えない。裁判官もおなじ人間である以上、腰縄手錠で法廷に引き立てられ一人だけラフな服装にサンダル履き、全身を衆目に曝してベンチに座っている被告人の姿に影響を受けているに違いない、と私は思う。いや、むしろ、職業裁判官の方が、そうした被告人の服装や着席位置が示す「有罪シグナル」に過敏に反応しているのではないかと思える節がある。

これまで私は何度も裁判官に「被告人にスーツとネクタイを着用させ、弁護人席の私の隣に着席することを認めてほしい」という申し入れをしてきたが、これを認める裁判官はほとんどいなかった。裁判官は「被告人の身柄に対する戒護上の問題がある」などと説明するが、これが本当の理由でないことは今回の法務省の方針転換がはっきりと示している。そもそも、身柄拘束されていない被告人には「戒護上の問題」などありえないのだから、これが被告人を弁護人の隣に座らせない理由でないことは明らかだ。

ある裁判官は「長年にわたる法廷慣行」を理由に被告人を弁護人の隣に座らせることを拒否した。裁判所の慣例の方が、被告人が弁護人と自由に意思疎通することよりも大切だというのだ。しかし、これも本当の理由ではないと私は思う。もしこれが本当だとしたら、職業裁判官たちは「法廷慣行に違反する」と言って今回の法務省の方針をも拒否するはずだが、彼らは決してそうはしないであろう。まるでこれまでずっとそうして来たかのように、「裁判員が参加する裁判に限定して」被告人を弁護人席に着席させるだろう。

日本の職業裁判官たちが、被告人にきちんとした格好で法廷に来ることを拒み、当事者席の弁護人の隣に座ることを拒否して、スエット・スーツにサンダル履きで全身をさらしてベンチに座ることを強制する本当の理由は何だろうか。私はこう思う。日本の職業裁判官は刑事被告人を訴訟の当事者とは考えていない。被告人は争いの当事者ではなく、お白州で裁きを受ける「罪人」でなければならないのだ。私の友人の萩原猛(弁護士・大宮法科大学院大学教授)がさいたま地裁でSBMの申立てをしたところ、裁判官はこう答えてそれを拒否したそうである――「被告人は訴訟の客体でもありますから」と。「客体」というのは法律家のジャーゴンで「主体」の対をなす言葉、つまり、訴訟の「対象」という意味である。多くの裁判官はこれほど正直に表現することはないまでも、本音ではそう考えている。日本の職業裁判官が被告人を裁判の当事者ではなく、「対象」と考えていることを示すもう一つの例をあげよう。民事裁判では、第1審で原告であった人であれ、被告であった人であれ、控訴をすると控訴審では「控訴人」と呼ばれ、控訴された側は「被控訴人」と呼ばれる。アメリカでは刑事裁判でも、被告人が控訴すると彼/彼女は「控訴人」と呼ばれ、政府は「被控訴人」と呼ばれる。被告人が上告すれば彼は「上告人」であり、政府が上告すれば「被上告人」になる。ところが、日本の刑事裁判では被告人は地裁から最高裁まで一貫して「被告人」と呼ばれ続ける。日本の被告人は、自ら控訴しても上告しても、決して「控訴人」「上告人」と呼ばれることはないのである(注2)。

要するに、日本の職業裁判官の意識の中では、刑事被告人は権利を主張する紛争の当事者ではなく、自分たち(判官)の裁きを受ける個人(罪人)にすぎない、そうでなくては困る。だから、民事裁判の当事者のようにきちんとした身なりをして、弁護士の隣に座ることなどもってのほかなのである。

裁判員として刑事裁判にかかわることに国民が躊躇する理由の一つとして「自分に人を裁くことができるか不安だ」というものがある。多くの国民が刑事裁判というのは「人を裁く」ことだと思っている。しかし、ここに大きな問題がある。近代国家において司法は「人を裁く」ものであってはならないからである。近代国家においては、神の代理人として特別の権限を与えられた人物はいてはならないのであり、したがって「人を裁く人」は存在してはならないのである。地上にいる人はみな同じ権利義務の主体であって、一部の人間が他の人間を裁くことなど許されるはずがない。

民事裁判も刑事裁判も、国家が運営する紛争解決装置である。刑事裁判官は、刑事訴追をめぐって存在する当事者同士(政府と被告人)の間にある紛争――有罪か無罪か、死刑か無期か、実刑か執行猶予か――を証拠と法に基づいて判断し、決着をつける役割を担っている国家機関にすぎない。裁判官は、決して、全体(神、正義)の代弁者として個人を裁いているのではない。

ところが、日本の職業裁判官の意識は、いまだに「近代」に至っていないのである。彼らの意識は江戸時代のお白州を主宰する与力のそれとほとんど変わりがない。そして、実際のところ、この意識は職業裁判官だけではなく、検事や弁護士の中にも蔓延している。「裁判員制度は現代の赤紙だ」とか「人を裁くことを国民に強制するのは国民の良心の自由を侵害する」などと言って裁判員制度を批判する論者は、一見リベラルな日本国憲法の擁護者のようにふるまっているが、実はそうではなく、この前近代的な刑事裁判思想にとらわれているのである。

被告人に裁判というパブリック・フォーラムに参加する当事者にふさわしい格好をすることを認め、自分の代弁者たる弁護人の隣に着席することを認めるというのは、被告人の諸権利を実質化することに役立つだけではなく、刑事裁判というものに対する前近代的な意識を打破する契機となるだろう。しかし、一度巨大な権限を手にした人はそれを容易に手放そうとはしないものである。被告人が弁護人の隣に座ることをかたくなに拒否している現在の職業裁判官たちや、裁判員制度を憲法違反だと言ってその実施を阻止しようとしている法律家たちの存在がそれを良く示している。法務省が、まがいもののネクタイやスリッパもどきの革靴の着用にこだわるのも、いわば「最後の抵抗」であろう。

(注1)SBM運動:被告人を自分の隣に座らせることを裁判所に要求する弁護士の運動。SBMは”Sit By Me”(私のそばに座って)の略。その考え方と実践については高野隆・金岡繁裕「弁護人の隣に座る権利――SBM運動の意義と実践」季刊刑事弁護52号(2007年)を参照。
(注2)被告人を「控訴人」「上告人」と呼んではいけないという決まりはない。だから、私は「控訴人」「上告人」という表記をすることがある。


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2007年03月25日

7、8年も前のこと、地裁刑事部で修習している司法修習生の模擬裁判に弁護士会を代表して立会い、講評をしたことがある。司法修習生が1日かけて行う刑事模擬裁判の様子を傍聴して、指導担当の裁判官、検事、弁護士が彼らの仕事ぶりを次々に論評するというものだ。

裁判の冒頭で、検察官が起訴状を朗読して、それに対して被告人が陳述の機会を与えられて意見を述べる手続(「罪状認否」などと呼ばれている)がある。裁判長は被告人を正面に起立させて、「起訴状に書かれている事実に間違いはないか」などと問う手続である。この時の模擬裁判では、裁判長は、被告人の意見陳述が終わったにもかかわらず、彼を正面に立たせっぱなしにしてその後の手続――弁護人の意見陳述や検察官の冒頭陳述など――を進めた。

訴訟指揮に不慣れな修習生は良くそういうことをする。被告人は立ちっぱなしで落ち着かないし、疲れる。着席させてあげるべきである。実際の裁判では被告人を立ちっぱなしにする裁判官は殆どいないが、被告人を尋問するときは立たせたままにする裁判官がいる。そういうとき、私は裁判長に被告人を証言席の椅子に座らせてくれるように求める。殆どの裁判官はその申立てを認める。しかし、一度だけ「いや、私は被告人質問は起立させたままやることにしています」と言って、突っぱねられことがある。明治大正のころの刑事裁判では被告人尋問は起立したまま行われ、長時間にわたって尋問が続いて疲れた被告人がふらついたり倒れたりするのを防止するために、被告人の陳述台には手すりがあったという話を長老の弁護士から聞いたことがある。

さて、模擬裁判の講評の席上で、地裁刑事部の総括判事が、被告人を立たせっぱなしにして手続を進めたことをたしなめた。この判事は最近転勤してきたばかりでどんな人か私はまだ良く知らなかった。被告人を着席させなかったことを問題にしたので、この人は被告人の気持ちが多少は理解できる良い裁判官なんだと思った。しかし、それは一瞬で打ち砕かれた。

「立たせたままだと被告人が逃げることがあるんですよ。だから、必要なとき以外は被告人を着席させて刑務官に両側から戒護させるようにしなければいけません。」

裁判長はそう説明した。私はちょっと衝撃を受けた。これまでいろんな裁判官を見てきたが、「立たせたままだと被告人は逃げる」と公言する裁判官は初めてだった。だから私はこの時のことをずっと覚えている。

つい最近、これと同じ発言をする裁判官の話を聞いた。修習生の模擬裁判ではなく、ロースクールの模擬裁判でのことだ。正確に言うと「裁判官」ではなく、「元裁判官」で現在はロールクールの教授の話である。学生の模擬裁判の練習に立ち会ったその元裁判官は、冒頭手続で被告人を立たせっぱなしにしたことを指摘して、「立たせたままでは逃げるでしょ」と言ったそうである。この発言を聞いた学生は昔の私と同じ衝撃を受けた。この点が司法修習生の反応と違うところだ。私が見た修習生は裁判長の説明を聞いて素直に納得しているようであった。

保釈を認められた被告人の中にはまれに逃亡する人がいる。拘禁状態で裁判を受ける被告人の中にもまれに、公判中あるいは押送の途中で突然逃げ出す人がいる。それは事実だ。しかし、だからと言って、被告人というものは逃げるものだという命題は成り立たないし、いま目の前にいるこの被告人が、すきあらば逃げようとする人物だということにはならない。世界人権宣言にもあるように、すべての被告人は裁判で有罪とされるまでは無罪の者と推定される権利を保障されなければならない。目の前の被告人は立たせておくと逃げるような人物だと思っている人に「無罪の推定」などなんの意味があろうか。

実は、このような思考パターンの裁判官は決して少数派ではない。少数派でないどころか、「被告人は逃げるものだ」と考える裁判官の方が圧倒的に多い。勾留の要件は「逃亡すると疑うに足りる相当な理由」あるいは「罪証を隠滅すると疑うに足りる相当な理由」であるが、毎年15万人の勾留請求に対して裁判官がそれを却下するのは500人あまり(0.33%)に過ぎない。保釈を不許可とする理由の最大のものは「罪証を隠滅すると疑うに足りる相当な理由」である。地方裁判所で公判中の被告人のうち保釈を認められるのは13%ほどである。罪を争うとこの割合はさらに低くなる。

要するに、日本の裁判官は被疑者や被告人というものは逃げたり、証拠を隠滅するものだと考えている。そのような裁判官に「無罪の推定」を実践して公正な訴訟手続や正しい事実認定をすることを期待することなどできるだろうか。彼らは、検察官が起訴した以上被告人は有罪に違いないと思っている。だから、いま自分の前にいる、罪をあえて争っている被告人は、嘘つきであり、釈放すれば逃げたり、有罪の証拠を隠匿したり、関係者を脅迫したり偽証を教唆するに違いないと思っているのだ。

「無罪の推定」がただの言葉ではなく、実質を持つべき権利だとすれば、現在の職業裁判官には事実認定者たるべき資格はないといわなければならない。自分の目の前にいる被告人を嘘つきで放っておくと逃げるような人間だと考えるような人には刑事裁判をする資格はない。目の前にいる被告人は自分と同じ心と身体を持った人間であるという共感ができる人が裁判をするとき、初めて「無罪の推定」は意味を持つ。


plltakano at 19:08コメント(2)トラックバック(0)  このエントリーをはてなブックマークに追加

2006年12月29日

先日ある事件で、被告人の着席位置に関する申し立てを行った。こちらは、「被告人は当事者であり、公判中自分の弁護人と自由にコミュニケーションする権利がある。弁護人席の前に座ったのでは、不自然な姿勢を取らなければ弁護人とコミュニケーションできない。したがって、被告人は弁護人の横に着席する権利がある。民事裁判では原告も被告も弁護士の横に座っている。そのことに誰も苦情を言わない。刑事裁判の被告だけ弁護士の隣に座ってはいけないという理由はどこにもないはずだ」と主張した。これに対して検察官は、「公判中は常に被告人の言動が観察されていなければならず、そのためには被告人は弁護人の前に座らさなければならない」などと、筋の通らない主張をした。刑事裁判は被告人を観察する手続ではない。被告人は刑事裁判という紛争の当事者である。訴訟の当事者が法廷で自分の弁護士の隣に座るのは自然なことである。

裁判長は、公判開始早々、5分間にわたってこの問題についてコメントした。彼は、「検察官の主張よりも、弁護人の主張の方が筋が通っていると思う」と言った。しかし、それに続けてこう言った。「けれども、裁判官は、学者ではなく、実務家である。」そう言って、裁判長は、結局、私の依頼人を私の隣ではなく、前のベンチに座らせた。

裁判官とは何だろうか。憲法によれば、裁判官は、法と良心に従って、紛争を解決するための判断をすることになっている。自分にとって「筋の通らない」ことであっても、検察官が言うことには従う、不合理なことであっても長年にわたって行われてきたことには従う。このようなことが彼らの「良心」だというのならば、それは事なかれ主義の小役人根性と同義である。そのような人間に税金を払って正義の判断を委ねているわれわれは実際すごく間抜けな国民ではないだろうか。


plltakano at 06:12コメント(1)  このエントリーをはてなブックマークに追加
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