2022年10月08日

刑訴法321条1項2号は憲法に違反する(2)

�� 再検討が必要である


 日本国憲法の施行(1947年)から数年しか経過していない時期においては、まだ、憲法の制定過程に関する資料は十分に公開されておらず、また、憲法37条2項のもとになった合衆国憲法の修正条項の研究も十分ではなかった。

 1949年大法廷判決は、憲法37条2項前段の証人審問権は法廷に喚問された証人に対して被告人の反対尋問権を保障しただけである(「出廷したら尋問させれば良い」テーゼ)から、伝聞排除法則とは全く関係のない規定であると言う一方で、被告人において伝聞供述の供述者を尋問したければ、同項後段の強制手続権を行使して供述者を証人尋問すれば良いのだから、伝聞証拠を採用しても被告人の権利保護に欠けるところはない、と言った。しかし、この憲法解釈は、憲法の沿革に対する無知に由来する、まさに「独自の見解」である。すなわち、日本国憲法の制定過程から明らかなように、37条2項前段の証人審問権は合衆国憲法第6修正の対決権条項(confrontation clause)を承継するものであるのに対して、同項後段の強制手続権は同修正の強制手続条項(compulsory process clause)を承継するものなのである。前者は自己に不利益な供述をする人物と法廷で対決して反対尋問を行う権利であるのに対して、後者は自己に有利な供述をする人物を法廷に呼ぶために強制手続を利用する権利である[32] 。当時の最高裁裁判官は、この両者の違いを理解せず、前者を単なる法廷での尋問権と決めつけ、後者を敵対証人に対する反対尋問のための権利であると位置づけてしまったのである。

 1949年大法廷判決は、何一つ論証を試みることなく、憲法の歴史的沿革を無視した独自の見解――「出廷したら尋問させれば良い」テーゼにもとづいて、伝聞排除の憲法的基礎であるべき条項を伝聞排除とは無関係の規定であると宣言してしまった。その後の判例は、この説示の信憑性について自ら再検討しようとせず、金科玉条の如くにこの判例を引用して、被告人の違憲の主張を繰り返し退けてきたのである。

 1949年大法廷判決はそもそも刑訴法321条1項2号の合憲性を審査した判例ですならない。それは刑訴応急措置法に関する先例である。刑訴応急措置法は、旧刑訴法から新刑訴法への過渡期において、新憲法の要求をとりあえず必要最小限の範囲で満足させようと意図したものに過ぎない。文字通り「応急的措置」なのである。当時はそもそも反対尋問なるものについて法曹一般が理解しておらず、実際にも行われていなかったのである。このような時代的な制約のなかで、憲法の施行に間に合わせるために不十分ながらもその要求に応じようとするしかなかったのである。この意味で、応急措置法の合憲性をもって直ちに新刑訴法の合憲性を理由づけることはできないと言わなければならない [33]。

 憲法が施行された直後から1950年代中頃にかけての最高裁判例を概観して感じるのは、その議論の内容の希薄さと速やかに刑事手続の合憲判断をしなければならないという性急な意識である。一国の法令の憲法適合性を決定する「最終審裁判所」(“the court of last resort”)(憲法81条)である最高裁判所の行うものとして、その議論の内容のあまりの貧困さは目を覆いたくなるほどである。憲法の解釈をする以上、まずもって当該規定の歴史的沿革や制定過程を調査すべきであるが、最高裁判所の法廷意見は全くこれを行っていない。憲法37条2項の歴史的な沿革に多少なりとも触れたのは、1948年大法廷判決における栗山裁判官の反対意見のみである。

 当時は、まだ、憲法の制定過程に関する資料は十分に公開されておらず、憲法37条2項前段のもとになった対決権条項の研究も十分ではなかった。後述するように、その後に公開された憲法制定過程に関する文献や対決権条項の沿革に関する文献などを参照していれば、同項は、被告人を訴追する目的で行われ、被告人に対決・尋問の機会を与えずになされた尋問の結果を排除することを主眼とする規定であることが理解できたであろう。しかし、1949年大法廷判決は、そのような憲法解釈[34] を「独自の見解」[35] と言って排斥したのである。

 1949年大法廷判決の「出廷したら尋問させれば良い」テーゼには、いかなる意味でも論証というものが存在しない。要するに、「憲法の文言をそのように読むことができる」というだけである。また、同判決は、実質的根拠として、「もし被告人に不審不満の点があれば、憲法上の権利として、[…]其供述者の喚問を請求し、充分反対訊問をなし、その内容を明らかにすることができるのであるから」と言っているが、これが憲法の沿革に関する無知に由来すること、そして、実際には最高裁は被告人が請求すれば必ず証人喚問するつもりなどなかったこと(「最高裁の二枚舌」)は、前述した。これらの点をさておいても、被告人不在の場所で作成された法廷外供述を採用しても、供述者を後で法廷で尋問する機会を与えれば反対尋問権は十分保障されたと言えるということについても、論証はなされていない。法廷外の供述に対して、法廷で十分な反対尋問をするためには、供述者が法廷で、問題の法廷外供述を自己の供述であると認める必要がある[36] 。ところが、2号後段によって証拠請求される検察官調書の供述者のほとんどは、調書における供述を自己の真意に基づく供述であるとは認めないのである。要するに、事後的な反対尋問は、同時的な反対尋問の代用とはなり得ないのである。こうした点についても、1949年大法廷判決はもとより、今日までわが国の最高裁判事たちは全く検討したことがない。

 判例データベースで1948年以降の刑事事件に関する最高裁判所の憲法判断の件数を調べてみる[37] と、表1のとおりである。その推移をグラフにすると次のとおりである。


グラフ1刑事に関する最高裁憲法判例件数



 1948年には刑事事件に関して大法廷判決が83件、小法廷判決が112件、合計195件の最高裁判決があった。その後も1953年まで毎年100件を超える憲法判例があった(例外は1952年の79件)[38] 。年間200件の憲法判断をするということは、2日に1回以上のペースで憲法判断を示していることになる。きちんとした調査をする暇などなかったことは想像に難くない。刑訴応急措置法や新刑訴法制定直後の時期の諸判例は、憲法違反の上告が山積した時代に、「『適正手続』の原則に対する理解が十分でない中で、刑事司法・刑事手続の安定を図るため、急速に最高裁判所の判断を示す必要があり、暫定的に憲法判断を次々に示した」ものなのである[39] 。このような暫定的で拙速な憲法判断によってその後の実務が支配されている現状は不幸である。

 1995年に平場安治教授は次のように指摘した――「50年の経験を踏まえ、刑事手続に対する内外の批判もあることでもあり、新法施行直後の一連の最高裁判決を腰を据えて再検討すべきときにきている」[40] 。それからさらに30年近く経っているのに、そして「刑事手続に対する内外の批判」はますます大きくなっているのに、日本の最高裁は全く動く気配がない。われわれは、この国で刑事司法に携わっている職業人として、このままいつまでも手をこまねいている訳にはいかないとわたしは考える。われわれは今こそ、1940年末期から50年代前半にかけて最高裁判所が大量生産した刑事手続合憲判例を見直すべきである。
(つづく)

【脚注】
[32]田中・前注4、136頁は、この点を指摘していた。
[33]江家義男『刑事証拠法の基礎理論(訂正版)』(有斐閣1952)、100頁参照。
[34]1949年大法廷判決の上告趣意であると同時に、1948年大法廷判決の栗山裁判官の反対意見の趣旨でもあった。
[35]刑集3-6、790頁。
[36]後述の連邦最高裁のダグラス対アラバマ判決(1965年)を参照。
[37]TKC LEX/DBで「憲法」を検索語にして、各年の最高裁判所の刑事判例を検索した。
[38]2000年代以降、最高裁の憲法判断は最大で年間26件であり、大法廷判決は2011年に2件、2017年に1件あっただけで、あとはゼロ件である。
[39]平場安治「刑事訴訟法学と現実の刑事手続」季刊刑事弁護3‐12(1995)、13頁。
[40]同前。



plltakano at 23:23│コメント(1)│憲法的刑事手続 | 対決権  このエントリーをはてなブックマークに追加

コメント一覧

1. Posted by デルモンテル   2022年12月26日 11:45
5 我が国の刑事司法を良くすることに対してどうして先生はそれほど熱心なのですか?

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