2022年06月19日
医療行為の刑事責任追求は、医療安全の役に立っているのか?
【*本稿は、2022年6月11日浜松で行われた「第8回日本医療安全学会学術総会」での講演の記録に加筆したものである。】
今日は、お医者さんが犯罪の訴追を受けるという話をさせていただきます。お医者さんであれ弁護士であれ誰であれ、物を盗んだり、人を傷つけたり、お金を横領したりしたら、犯罪として訴追されます。今日はそういう話ではありません。医療に従事する皆さんに特有の犯罪についてお話をします。どういうことかというと、医療に従事する皆さんがその医療行為をしていくなかで、不注意、過失を犯したということで刑事訴追を受けるということです。刑法211条の業務上過失致死傷罪という罪です。
刑法211条はこう言っています――「業務上必要な注意を怠り、よって人を死傷させた者は、5年以下の懲役若しくは禁錮又は100万円以下の罰金に処する」。医療従事者にとって「業務上必要な注意を怠「った」」つまり業務上の過失というのはいったい何なのでしょうか。
医療は死と隣合わせ
医療従事者の過失というのは少し特殊なものです。まずその話をしましょう。
過失というのはあらゆる職業につきものです。われわれ弁護士も良く間違えます。たとえば、時効を徒過してしまって、依頼人の債権が消滅してしまったとか、法律の解釈を間違えたり、新しい判例のことを知らないで、全く頓珍漢な主張をしたために依頼人が訴訟で負けてしまう。検察官が持っている証拠の開示請求をちゃんとやらなかったために、無罪を証明できる証拠があるにもかかわらず、有罪になってしまった。こういう場合でも、弁護士は刑法犯に問われることはないのです。損害賠償を請求されたり、懲戒請求を受けるかもしれないけれど、それで刑事訴追されることはない。
下手な弁護のために冤罪が確定して、死刑が執行されて依頼人が亡くなったとしても、その弁護士が業務上過失致死罪に問われたということはいまだかつてない。問われてもいいような感じがちょっとしますけれど、ないですね。
お医者さんの場合は違います。どう違うか。医療従事者の仕事は常に人の死と隣り合わせなのです。そこが最大の違いです。医療従事者の些細なミスが人の死に直結する可能性があります。注射する薬の種類を間違えたとか、量の計算を間違えて1000分の1グラム多く点滴してしまったとか、メスを入れる部位を1ミリずらしてしまったというような微妙なエラーによって大惨事が起こります。
注意義務が一義的ではない
人の死に直結するといえば、自動車運転もそうですね。自動車運転をしている中で、注意を怠り不注意で人を轢いてしまった。その結果人が亡くなったという場合に業務上過失致死罪、今は別の法律になって自動車運転過失致死罪ですけれど、そういう罪が問われる。過失が人の死と直結するという意味では、医療上の過失と似た面があります。
しかし、医療と自動車運転との間には決定的な違いがあります。それはどういうことかというと、自動車運転上の過失、自動車運転における注意義務違反というのは明瞭です。お酒を飲んだら運転してはいけないとか、時速60キロの速度制限であるとか、ハンドルを持っている時は必ず前を見ていなければいけないとか、曲がったり車線変更するときはウィンカーを出さなきゃいけないとか、そういう決まりがあって、その決まりに違反したら、それが過失だということになるわけですね。安全運転という大きな枠組みの中で、過失=注意義務違反というのは非常にクリアです。
お医者さんの場合は必ずしもクリアではないわけです。マニュアルがあって、それに沿う医療をやっていれば責任を問われないという話ではないわけです。たとえば、帝王切開をしているときに、前置胎盤だというのがわかった。術後の処置としてその胎盤を剥離しなければいけない。出血する。どこまで剥離するのか。最後までやるのか。途中で止めるのか。子宮全部を摘出するべきなのか。これは一義的に決められないですよね。子供が救急搬送されてきた。その子供は転んで口の中に割りばしが刺さっちゃった。それを自力で抜いたと言われた。その子供を見たお医者さんは必ず頭部のCTを撮って、割りばしのかけらが脳の中に残っているかどうか確認しなきゃいけないのか。それは一義的に決められないですよね。そうすると、医療関係者は、常に人の死と隣合わせで仕事をしながらも、何をしたらいいのか、何をしてはいけないのかを、時々刻々の活動のなかで、マニュアルによらずに自らの判断で決めていかなければならないということです。
チーム医療
自動車を運転するのはひとりですよね。たぶん複数の人で自動車を運転することはできないと思います。自動車を運転する人はひとりです。だから、自動車事故が起こったときには、運転した1人の人の過失を問えばいいわけですね。その人は法定速度を守っていた、前方をちゃんと見ていたのか、ということを検討すればいい。ところが、医療の場合は1人でやるということはない。医療は「チーム」で行われます。
単純な薬品の取り違え事件をみても、関与しているのは1人ではありません。薬品の保管はきちんとされていたか、その責任者はちゃんと薬品のラベルを明確にしていたのか、医師の投薬指示書はきちんと判読できたか、薬剤師の処方に間違いはなかったか、看護師はラベルを読み間違えなかったのか、病棟の看護師は正しい患者に正しい薬品を注射したのか、というように、単純な薬の注射をめぐっても、複数の人間が常に関与しています。手術が行われて、術後管理のためにICUで鎮静が行われる。そうしたプロセスでも、看護師さん、薬剤師さん、麻酔科医、当直の先生などが関わります。そういう人たちのコミュニケーションのどこか一つに齟齬があっただけで、重大な問題が起こりえます。たったひとりの医師、あるいはたったひとりの看護師の責任を考えれば良いというような問題ではないわけです。それはシステムの問題です。
ところが、刑法はあくまでも一人ひとりの医療者の責任を問います。関与した複数の医療者のなかから、「業務上の過失」があると検察官が考えた一部の個人だけが刑事責任を問われ、裁判にかけられます。決して医療機関そのものの刑事責任が問われるということはありません。
自動車事故や医療事故に限らず、原発事故とか航空機事故のような大きな被害をもたらした事故が起こると、必ず「事故原因」の調査が行われます。その過程で、「ああすればよかった」「これをやったのがいけなかった」というような個人のエラー、ミスが指摘されます。調査を行う人は、実際に何が起こったのかを知っているわけですから、いわば「後知恵」にもとづいて、論理的に――時系列を遡って――事故原因としての人為的なミスを指摘することができます。事故原因を探り、介在したヒューマン・エラーを特定して、その再発を防ぐための対策を考えるというのはとても良いことです。安全で住みやすい世界を構築するためには必要なことです。
しかし、個人の刑事責任を追求するために「後知恵」を利用するということになると、話は別です。実をいうと、現在日本の刑事裁判で行われている刑事過失の認定方法は、後知恵による個人責任追及のパターンに親しみやすい構造になっています。
日本では、刑法上の過失は、人の死傷という結果の「予見義務違反」と「回避義務違反」という2つの要素からなりたっているとされています。自分の行為によって、他人の死亡や傷害という事態が発生することを予見することが「できた」のにそれを「しなかった」;そうした予見があれば、他人の死亡や傷害という事態を回避することが「できた」のにそれを「しなかった」。こうしたことが認定できるときに、刑法上の過失があると認められ、個人は刑事責任を負わせられます。この認定の構造は後知恵による責任追及のパターンそのものです。
事故が起こったあとで、「ああすれば良かった」「これをしたのがまずかった」というのは、難しくありません。つまり、事故という結果を回避するために何をすれば良かったのかを特定するのは容易です。これが容易なのは、われわれが実際に何が起こったのかを知っているからです。まだ事故が発生する前の世界にいる人々は必ずしもその発生を予見できるとは限りません。ところが、後知恵を持っているわれわれは、しばしば、「予見できたはずだ」という結論に飛びつきます。これを「後知恵バイアス」と言います。後知恵に基づいて時系列を論理的にそして冷静に遡れば、次に何が起こるのか容易に予測がつき、そして、その予測に基づいて悪い結果を回避する方策を採ることも容易でしょう。しかし、事故が起こる前の当事者は、次に何が起こるのか予測できるとは限りませんし、論理的で冷静に行動できたとも限らないのです。
先ほど「医療は人の死と隣合わせだ」と言いましたが、これは比喩でもなんでもありません。医師は自分の仕事の結果として患者の死と向き合うことになります。その場合に、出来事の時系列を遡ってあとから冷静に振り返って「こうすれば良かった」「そうすれば患者は死ななかった」と言うのは簡単なことです。そして、人の死という大きな被害が発生したときには、そうした後知恵に基づいて関係者の「責任」を追求しようとする人が必ずいます。後知恵バイアスに基づいて刑法上の過失を認定されてしまう危険に医療関係者は常にさらされていると言っても過言ではありません。
司法の場で後知恵バイアスに基づく過失の認定ということが横行したら、もうお医者さんなんてやってられないですよね。特に生死の境にある患者を扱う医療者はそうでしょう。常に後から、結果から判断されてしまうのでしたら、安心して医者を続けることはできなくなります。ましてや先端的な医療をやろうという意欲は失われてしまうでしょう。
医療関係者の業務上過失というものは非常に複雑で不確定な要素があります。医療の過程で人が亡くなったときの刑事過失の有無を判定するのは決して簡単ではありません。医療水準をめぐってもいろいろな意見があったり、さまざまな症例報告があったりして、それらを総合的に検討してここまでやるのが正しかった、これをやらなかったのは間違いだった、という結論を出すわけですね。その結論によって、医療従事者は犯罪者になるかならないかが決まるのです。
患者さんが亡くなった。遺族が被害届を出す。事故調査が行われる。その結果警察が捜査を開始する。訴えられた医療従事者が、それは間違いない、たしかに自分はやるべきことをやらなかった、やってはいけないことをやってしまった、それは間違いないというのであれば、それほど問題ではありません。そしてそういう事件も確かにないわけではない。もう、ほんとうに「常軌を逸した」としか言いようのない事件というのも確かにあります。全然消毒しないとか、注射器を使いまわししていたとかですね。そういう無謀で大胆で常識外れな業務上過失致死事件というのも存在します。
しかし、実際に刑事訴追を受けるのはそういう事例ばかりではありません。訴えられた医療関係者が無罪を主張することは決して珍しくありません。そうなると、刑事医療過失事件の展開というのは非常に違ったものになります。どう違うのか。
ひとことでいうと、時間がかかるということです。今回皆さんの前でお話しをするにあたって、過去の著名な刑事医療過失事件の時間的な経過をおさらいしてみたんですけれども、事故から判決の確定までとても長い時間を要しています。「都立広尾病院事件」。これはどちらかというと単純な薬剤の取り違えの事件ですけれども、それでも事故が起こってから、1審判決まで、685日間かかっています。2年近くかかっている。これは短い方です。「杏林大学病院割りばし事件」というのがありますけれども、これは事故から一審判決まで、2452日、6年半、かかっています。一審は無罪で、検事が控訴して、控訴審で無罪が確定しましたけれども、控訴審だけでも2年半かかっています。事故から無罪確定まで9年かかっているわけです。「大野病院事件」は1審で無罪が確定しましたが、これも事故が起こってから一審の無罪判決まで3年半かかっています。
現在私がかかわっている事件があります。これは、2歳の子の頸部嚢胞性リンパ腫の手術が行われて、術後ICUに運ばれてプロポフォールによる鎮静をしたわけですけれども、検察官側の主張によれば、幼児に対しては、「相対的禁忌」といわれる、プロポフォールによる鎮静を非常に長くやりすぎたために、プロポフォール吸引性症候群(PRIS)という複雑な病態の病気で亡くなった、という業務上過失致死事件です。この事故が起こったのは2014年2月です。多数の関係者(医師、薬剤師、看護師ら)の中から二人の医師が起訴されたのが昨年2021年の1月です。つまり、起訴までに7年かかっています。で、いま何をやっているかというと、公判前整理手続といって、検察官手持ち証拠の開示のためのやり取りを延々とやっている最中です。捜査機関が集めた大量の、カルテであるとか、医療文献であるとか、各種の専門家の意見書だとか、それから同種の症例についての、大量のカルテであるとか、そういう膨大な証拠をわれわれに開示するように検察官に請求し、ときに検事がそれに反対するので、裁判所に裁定をもとめたり、裁判所が開示命令を出さないので、高裁に即時抗告したりというようなことをやっています。公判がいつ始まるのか分かりません。一体いつになったら裁判が終わるのか。事故から7年以上経ってまったく見通しが立たないという状況になっています。
なぜ、こんなに刑事医療過失事件は時間がかかるのか。一つは法律家の怠慢です。日本国憲法には被告人には「迅速な裁判」を受ける権利があるとされています(憲法37条1項)。これはアメリカ合衆国憲法(第6修正)を直輸入したものです。アメリカでは憲法の「迅速な裁判」(speedy trial)の保障を実現するために制定法が定められています。それによると、この“speedy trial”というのは、90日とか180日とかいうような単位なのです。その間に裁判を始めないと、訴追は却下されるというのがルールなのです。日本の法律家は「迅速」という言葉の意味を、普通の日本人の理解とは全然違う感覚で理解しています。5年6年は当たり前、10年くらい立っているのに「迅速な裁判」に違反しないと裁判官は平気で言います。
こうした法曹関係者の問題もありますが、刑事医療過失事件の遅延の原因をなしているのは、やはり法律家が医学の専門家ではないということです。警察もこういう事件の捜査をするときは専門家の意見を聞きながらやります。文献を集めたり専門家の意見を聞いてやります。そのうえで、事件を検察庁に送致する。検察官も専門家の意見を聞く。検察官はだいたい2年ないし3年に一回くらい転勤しちゃうんですね。だから、それまで、一生懸文献を読んだり専門家の意見を聞きながらやっていた捜査も、そこで終わってしまいます。新しい検事がきて、新しい検事もまた一から勉強しなおす。実に非効率的なことをやっています。弁護士もまったく素人ですから、まず専門家の意見を聞いてその指導を受けながら、病院で起こった出来事の流れとその医学的意味を理解しようとします。当然時間がかかってしまいます。
こうした素人による捜査、素人による訴追、素人による防御のあとに、素人による判決というのが続くわけです。そうしたプロセスによって一番割を食うのは、刑事訴追の対象になっている医療関係者、お医者さん、看護師さん、そういう方たちです。いつまで経っても捜査が終わらない。起訴されるのかどうかもわからない。いつまで経っても裁判がはじまらない。そういう状態がずっと続くわけですね。そういう状況に追い込まれること自体が、非常な苦痛であり負担なわけですね。裁判で有罪になるか無罪になるかということよりも、そういうものに巻き込まれて、そのために生活が大きく制約されてしまう。そのこと自体の負担が非常に大きなものに違いありません。
何年か後に判決が確定するわけですけれども、刑事医療過失事件の有罪率は普通の刑事裁判の有罪率よりも低いというデータがあります。普通の否認事件、罪を争う事件の刑事事件の無罪率というのは、だいたい1.7%前後です【1】 。1950年から2017年までの刑事医療事件を調査した文献によると、刑事医療過失事件の無罪率は18%ということです【2】。つまり、普通の刑事事件の10倍くらいの割合で無罪になる可能性があるというわけです。
萎縮医療・防衛医療
多大な負担・時間・労力をかけて1人の医療従事者を刑事訴追して、彼女が有罪か無罪かを決める。そのことによって、医療全体の質は高まっているのでしょうか。一部の刑法の先生とか検察官や裁判官の中には、役に立っているんだと言う人が言います。刑事責任の追及があることによって医療は進歩する、あるいは、医療過誤が防止されるのだ言うのです。われわれ法律家は「一般予防」というわけですけども、医療行為を刑事訴追することには一般予防の効果はあるんだというふうに言われています。私は疑問に思います。事故から10年経って刑事裁判の決着がついた、忘れたころに判決が出て昔のことが少し報道される。そんなことによって、医療は進歩するんだろうかと思います。
むしろ、ちょっと先端的なこと、あるいは患者の命を守るためにちょっと冒険的な医療をやって失敗したために、刑事訴追されて膨大な時間や費用が費やされる、そのリスクを避けるために、そんなことはやらないでおこう、危険性のない分野で危険性のない仕事をしよう、というふうな方向に働いてしまう可能性の方がむしろ大きいんじゃないかと思います。この問題はもっと科学的に議論する必要があるのだろうとは思いますけれども、率直に申し上げて、微妙な医療水準が問題になるような医療事故について、関係者の刑事責任を追及することにどれほどの意味があるのか疑問です。むしろそれは医療関係者を防衛的にしてしまい、かえって医療安全の推進を阻害しているのではないかと感じます。
刑事医療過失事件が潜在的にもっているこうしたリスクつまり萎縮効果・防衛医療の弊害について、厚労省の研究会が検討結果を発表しています。厚労省の中に設けられた「医療行為と刑事責任の研究会」が2019年3月に「医療行為と刑事責任について」という報告書を出しています。これは、1999年から2016年までの、刑事医療裁判を集約して評価したものですけれども、結論的にこう言っています――「医療従事者の方々に対しては、医療従事者として一般に求められる注意を怠ることがなければ、必要なリスクをとった医療行為の結果、患者が死亡した場合であっても、刑事責任を問われることはないことを理解していただき、安心して日々の診療に従事していただきたいと考えている」と【3】 。
これはちょっとミスリーディングだと私は思います。この報告書の中身をよく読んでみると、刑事裁判の統計を出している部分があるんですけれども、そのデータ分析をしている箇所では、こう言っています――「診療現場においては、一定の確率で死亡のリスクを伴う治療法がある場合、原疾患による死亡のリスクと比較考量して、あえて当該治療を行うようなケースも存在するが、安全性有効性が検証されない治療法を採用しているような場合でない限り、必要なリスクを取った医療行為の結果、患者が死亡したケースにおいて、刑事裁判で有罪となった事例は見当たらなかった。」【4】 結論部分と表現がちょっと違いますよね。結論部分では、「刑事責任を問われることはない」と言っているのですが、分析のところでは、「有罪となった事例は見当たらなかった」と言っているのです。つまり、捜査を受けて、訴追されて、何年も裁判を受けるかもしれないけど、有罪になることはあまりないよ、って言ってるだけなんですよね。
罪を問われる危険性はあるわけです。そして、実際に有罪になった事件はまったく問題ないのかについて、検証は何一つなされていません。検察官がどういう主張をして、弁護側がどういう証拠を出した、それはなぜ受け入れられなかったのか、受け入れられなかったのは正しいのか、というような分析はどこにもされていないのです。
この中間報告にもありますけれども 、2005年をピークに刑事医療過失事件の訴追件数は減っているというふうに言われています。しかし、それも、正確な統計があるわけではありません。この中間報告のベースになった事件の件数も網羅的とは到底いえません。刑事医療過失事件のすべてが判例集に載っているわけでもないです。判例集に載っていない事件はたくさんあると思います。ですから、現段階で、よほどのことがない限り刑事医療過失で訴追されることはないと判断するのは無理があると私は思います。
事故調査制度
刑事医療過失の訴追と医療安全との関係をもう少し別の角度から検討したいと思います。医療安全の考え方というのは、要するに、こういうことです。結局、人はミスをする、エラーをする。そういう人的なエラーの原因や構造を分析して、再発防止策を構築する。そうすることによって安全で有効な医療の発展を目指す。これが医療安全という考え方、コンセプトの中心にあるんだと思います。
2015年に医療事故調査制度というのがはじまりました。この制度はいま申し上げた医療安全の考え方を実践するものだというふうに言われています。医療事故調査制度の中核を担う、一般社団法人日本医療安全調査機構というところのホームページをみると、こう言っています――「本制度の目的は、医療の安全を確保するために医療事故の再発防止を行うことであり、責任追及を目的としたものではありません」 【5】。何が問題だったのかを明らかにして、再発を防止するために調査するのであって、医療関係者の責任追及はしないんだということです。
実態はどうなのでしょうか。事故調査委員会の調査やその報告書が責任追及の道具にならないという保障はあるのかということです。残念ながら、法律をみても、現実の調査をみても、そういう保障はないですね。私自身が経験した範囲でしかものを言えませんが、現実には、事故調査が医師の責任追及の場と化しているとしか思えないような調査報告が存在しています。まるで検察官の論告じゃないかと思われるような調査報告書に出会ったことがあります。
真相究明するためには、関係した医療従事者から正しい事実を提供してもらう必要があるわけですね。そのためには、その情報が医療関係者の責任追及の道具にならないという保障をしなければいけません。医療事故調査委員会の事情聴取に応じた供述や提供した資料を、民事裁判の原告となりうる遺族や刑事訴追をする可能性のある捜査機関に提供することはない(提供したとしても裁判の証拠として利用することは許されない)という保障が必要です。実際そういう制度が海外にはあります。例えば、2005年にアメリカで、Patient Safety and Quality Improvement Act of 2005(患者の安全及び医療品質の向上のための法律)という連邦法が制定されました。これは日本の医療事故調査制度にある意味で良く似ているんですね。医療従事者は患者安全機構(Patient Safety Organization: PSO)に医療事故に関する情報を提供する;PSOは情報を集約して、何が問題だったのか、そしてなにを改善すべきか、という報告をしたり、データベースを構築したりする。しかし、ここで提供された情報は、医療関係者の民事責任・刑事責任を追及する証拠として使ってはいけないということが明文で書かれています【6】 。これに違反した場合には、10,000ドル以下の罰金が科されることになります【7】 。
こういう保障があって初めて、事故を体験した医療従事者は安心して情報提供できるわけです。そして、正しい情報提供によって、正しい医療安全の仕組み、再発防止の方法というのが構築されるわけです。日本の事故調査制度はそこの部分が全く欠落しています。そのために、医療従事者は、自分は刑事訴追されるんじゃないか、あるいは民事の損害賠償請求を受けるのではないかということを恐れて、きちんとした話ができないのです。それは正しい選択ですよね。自分で自分を訴追する証拠を提供しないというのは極めて合理的な選択です。「黙秘権」というのはまさにそのために存在するのです。
黙秘権っていうのは、あたかも悪いことをした人が、こそこそ逃げるための権利だって皆さん思うかもしれないけれども、そうじゃありません。警察や検察に供述を提供するということは、訴追機関に自分の弁解や供述をそこで記録されるということです。あとから思い返したら、間違っていたとか、思い出したことがあると言って供述を変えると、裁判官はこの被告人は供述を変えているから、全体的にその弁解は信頼できないという判断をします。だから、捜査とか訴追の過程で、自分の弁解や情報を捜査機関に提供しないというは、正しい裁判をするためにも必要なことです。被告人が自分を防衛するためにも必要なことです。これは正しい選択なんです。
その正しい選択をしたことに対して、ある事故調査報告書は「非協力的な態度が調査を困難にした」とか「無責任な言動」と言って非難しました。さらに、その報告書は遺族に提供されて、民事裁判の原告側の証拠として提出されました。そしてさらに、刑事事件の方でも、検察官はその報告書を証拠請求してきました。これは、いろいろな意味で間違っているわけですけれども、現在の事故調査制度が、一番肝心な保障を欠いているために、制度本来の目的を達することができない状態になっていることは明らかだと思います。
刑事訴追の可能性があることで、医療事故に関する情報提供がはばかられるという問題は、事故調査制度だけの問題ではありません。診療や症状の経過を症例報告として医学ジャーナルに発表することすらできなくなります。事故原因の究明と再発防止は、医療安全だけの問題ではなく、医学全体の問題でもあるわけですが、医療行為の刑事訴追は、医学というものの学問的な発展にも障害となる可能性があるのです。
じゃあどうあるべきか、ということを最後に申し上げたいと思います。ちょっと法律の話になります。過失による人の死亡、これは医療過失に限らないですけれども、過失によって人を死亡させることを犯罪として刑罰を科するという刑法の考え方について、若干の検討をしてみたいと思います。これにはいろんな考え方が実はありまして、日本では、明治に近代法制を取り入れて以降、ずっとこの過失犯に関する議論をしているんです。いまだにしているわけです。どういう場合が刑事上の過失として罰則の対象になるのか、そもそも過失なんて罰してはいけないんじゃないかというような議論もあるわけです。
そういう過失犯の議論の中で、この刑事医療過失についても議論する必要があると思います。実際に、現在、刑法学者の先生方は、医療行為に対する刑事責任をどうやって限定するかということを盛んに議論しています。
コモンローの刑事過失致死:「故殺」
一つ参考になるのは、アメリカとかイギリスのコモンロー系諸国の刑事過失致死についての考え方です。コモンロー系の諸国では、単純な過失、業務上の過失も含めてですけれども、不注意によって人を死なせてしまったということを犯罪として処罰することはありません。普通の不注意や業務上の注意義務違反で人が亡くなったとしても、イギリスでもアメリカでも刑事訴追されることはありません。
ある行為を犯罪として刑罰を科するためには、道徳的に強い非難が与えられて当然だという精神状態、mens reaというんですけれども、そういう精神状態が立証されなければなりません。人の死に関していうと、それは二種類あります。一つは murder、もう一つはmanslaughterです。murderは日本語で「謀殺」と訳されています。人の死を計画し、人を死なせる目的をもって、意図的に人を殺すことです。manslaughterというのは、そういう意味での積極的に人を殺す意思がない場合です。日本語では「故殺」と訳されています。このmanslaughterには二種類あって、一つはvoluntary manslaughter(自発的故殺)、もう一つはinvoluntary manslaughter(非自発的故殺)です。“voluntary”というのは自主的にその状態を受け入れる、積極的に殺そうというんじゃないけれども、死んでもかまわない的な要素がある場合をvoluntary manslaughter(自発的故殺)というのです。”involuntary”というのは、自発的な意思がない場合ですが、単なる過失致死とは違います。やはり道徳的に強い非難に値する精神状態が必要です。無謀(recklessness)とか勝手気まま(wantonness)というような要素が必要です。そういう精神状態があることが合理的な疑いを超えて証明されない限り、被告人の行為によって人がなくなったとしても刑事責任は問われないのです。
医療行為に基づく患者の死亡の場合は、involuntary manslaughter(非自発的故殺)にあたるかどうかが問題になります。医学的な常識を無視したような無謀な(reckless)医療行為、たとえば、これまで一度もメスを持ったことがないような、知識も技量もない医師が最先端の手術をやろうとして患者を死なせてしまったというようなケースです。そこまでいかなくとも、標準的な治療の基準から甚だしく逸脱した(gross departure from standard)医療を行った結果患者が亡くなったというようなケースです。医療水準がどこにあるのか微妙なケースであるとか、無謀・勝手気ままというような要素のない、単純なケアレスミスや思い違いによる、薬品の取り違えや患者の取違えのようなケースが非自発的故殺罪になることはないでしょう。
こうした刑事訴追制度があるので、「アメリカの医師や病院は刑事手続への危惧を抱いていない」と言われるのです【8】 。
刑事上の過失を「認識ある過失」に限定する
日本の刑法学者の人たちは、日本法の枠組みの中で、お医者さんの刑事責任、刑事過失を限定しようとしています。ひとつは、刑事責任の対象となる過失は「認識ある過失」に限られるという考え方です【9】 。過失には二種類があって、「認識ある過失」と「認識のない過失」です。これどういうことかというと、人が死ぬ危険性がある、こういうことをやったら事故が起こって人が死ぬかもしれない、だけどそれは起こらないだろうと思って、やるような場合が「認識ある過失」。そういう危険があることを全然知らないでやってしまう場合が「認識のない過失」です。
過失致死傷罪の過失は認識のある過失の場合を指すのであって、認識のない過失は犯罪ではないという議論があるわけですね。虫垂切除術をする際に手術部位をきちんと確認せずに手探りでメスをあて、盲腸じゃないかもしれないが、まず盲腸だろうと考えて切断したら、盲腸じゃなくて大腸壁の一部だったというような場合です。これはコモンローで言うところの「無謀」とか「勝手気まま」に当たるような気がしますね。
しかし、認識のない過失は悪質ではないとか道徳的な非難の程度が常に低いかというと、必ずしもそうでないと思います。認識があるということは、それなりに慎重な人なわけです。全く無謀な人間っていうのは、認識がないわけですよね。例えば先程の盲腸の例で言うと、盲腸と大腸壁の組織の区別を考えもせず、手で触っただけで盲腸に間違いないと考えてメスを入れてしまうような人の方が、盲腸じゃない可能性を考えた人よりも「無謀」の程度は大きいと思います。「認識のない過失」を除外するという考え方は、何も考えない、なんでもオッケーというような意味での無謀な人が、罰せられなくなる可能性があるような気がします。
逆に、医療の現場では、患者の死亡を早めるリスクがあることを認識しながら、救命のために治療をするということは珍しくありません。こうした医療の結果患者が死亡したケースはすべて「認識ある過失」にあたると言われてしまう可能性があります。
「重大な過失」に限定する
刑法211条の業務上の過失というのを重大な過失に限定するという考え方です【10】 。というのは、刑法211条自身が、業務上の過失を罰すると言っているのと同時に、「重大な過失の場合も同様とする」と言っているのです。刑法は、業務上の過失と重大な過失をパラレルに考えている。だから、刑事医療過失も重大な過失である必要があるという議論です。これは今とても有力な議論になっています。
ただ、一つ問題があります。この、刑法学者の人たちの議論をみると、重大な過失の典型例として、「初歩的なミス」や「基本的なミス」を挙げています。例えば薬品の取り違えや患者の取り違えとかです【11】 。私はここは疑問です。初歩的で単純なミスというのは実際のところ、「ヒューマン・エラー」といって、誰にでも起こり得るミスです。それまでどんなに慎重にやっていた人でも、ふと間違えることがある。100回に1度いや1000回に1度はそういう瞬間があります。問題は、それがチーム医療の中で見過ごされてしまい、惨事に至ることです。
そういうヒューマン・エラーを刑事過失にする意味はあまりないと思います。むしろ、そういう初歩的で基本的なミスというのは、それが大事に至らないようにするシステムを作っていくことが重要です。例えば、患者の腕にバーコード付きのタグをつけて、必ずそのバーコードをスキャンすることで患者や薬品の取り違えを防ぐというようなことです。それを「重大な過失」というのは、私は違うのではないかと思います。さきほども言ったようにコモンローでは、そういう単純な過失は、無謀でもないし勝手気ままとも言えませんから、その結果事故が起きて人が死んでも、それを犯罪と言うことはできないのです。
いずれにしても、刑法の先生がたが医療行為に対する刑事責任の追及を限定しようとしていることは間違いないです。それは良いことだと私は思います。
医療安全ということを考えたときに、単に業務上過失致死罪が成立するかどうかという議論だけではなくて、刑事訴追のあり方全体を議論する必要があると思います。長い時間をかけて最後に無罪になれば良いという話ではないと思います。このあたりのことを学者の先生がたはあまり議論してくれていません。訴追される医療関係者にとってはそこが一番の関心事ではないかと思います。
最後に、これまでに少し触れたヒューマン・エラーというものについてお話したいと思います。「人は間違える」ということです。そうした間違いの可能性を前提にシステムはつくられるべきではないか、というふうに思うわけです。個人の刑事責任、間違えた人や間違いを見逃してしまった人の刑事責任を問うというのは、いろいろな意味で問題があると思います。このヒューマン・エラーの問題については、実は、日本の最高裁の判例で議論されたことがあります。「日航機ニアミス事件」の最高裁決定です。
どういう事件かというと、一つの飛行機が3万7千フィートの高度で巡行している。別の飛行機が離陸して3万9000フィートを目指して上昇している。2つの飛行機が徐々に接近していく。このままだとぶつかってしまう。緊急事態を知らせる警報を受けた航空管制官は、セオリーにしたがって上空を巡航している飛行機に降下指示を出そうとします。ところが指示を伝える便名を言い間違えてしまいました。「358便」と言うべきところを「309便」言ってしまった。つまり、離陸したばかりの飛行機に下降せよと指示を出してしまいました。旅客機には、TCASという装置が備えられています。異常接近すると双方のTCASがそれぞれの機長に上昇と下降の指示を自動的に出すんですね(この指示をRAと言います)。309便のTCASは上昇の指示を出し、358便のTCASは下降の指示を出しました。ところが、309便の機長は、TCASの指示を無視して、管制官の指示にしたがって、下降したのです。そのために、両方が下降して、非常に危ない状態になった。それで、ぎりぎりのところで機長が、上昇に転じて、衝突は免れたんですけれども、中に乗っている多数の乗客が怪我をしてしまった。この管制官が業務上過失致傷罪で起訴されたのです。
結論としては、最高裁は被告側の上告を棄却して、管制官の有罪が確定しました。けれども、この最高裁決定に対して1人反対意見を述べた裁判官がいます。櫻井龍子裁判官です。櫻井裁判官の反対意見の中につぎのような言葉があります。
この櫻井裁判官は、裁判官出身ではなく、労働省の官僚出身ということです。非常に立派な反対意見だと思います。この反対意見の考え方がこれからの日本の司法の主流になることを私は希望しています。
ありがとうございました。
【注】
1 令和2(2020)年の司法統計年報(刑事事件編)によると、通常第1審(地裁・簡裁)の否認人員は4,254人(25表)で、無罪人員は72人(21表)であり、無罪率は1.69%である。
2 木内淳子ほか「医療刑事裁判において無罪となった23名の医療事故の検討」日臨麻会誌41-7-632(2021)。
3 医療行為と刑事責任の研究会「医療行為と刑事責任について(中間報告)」(2019年3月29日)、16頁。
4 同前、14頁(強調は引用者)。
5 https://www.medsafe.or.jp/modules/about/index.php?content_id=24
6 42 U.S.C. §299b-22.
7 42 U.S.C. §299b-22(f)(1).
8 ロバート・B・レフラー(三瀬朋子訳)「医療安全と法の日米比較」ジュリスト1323-8(2006)、17頁。
9 沢登佳人「すべての過失は認識ある過失である」植松還暦記念『刑法と科学 法律編』(1971)、p321、338頁以下;田宮裕「過失に対する刑法の機能」『刑事法の理論と現実』87-109所収(岩波書店2000[1966])、104、107頁;甲斐克則『責任原理と過失犯論』(成文堂2005)、120頁。
10 甲斐克則「刑事医療過誤と注意義務論」年報医事法学23号(2008)、96頁;高アンナ「日米における刑事医療過誤」北大法学論集63-6-363(2013)、414頁;萩原由美恵「医療過誤における刑事責任の限定」中央学院大学法学論叢24-1/2-123(2011)、146頁。
11 萩原・前注、134頁;高・前注、416〜417頁。
12 最1小決2008・10・26刑集64-7-1019、1032頁。
今日は、お医者さんが犯罪の訴追を受けるという話をさせていただきます。お医者さんであれ弁護士であれ誰であれ、物を盗んだり、人を傷つけたり、お金を横領したりしたら、犯罪として訴追されます。今日はそういう話ではありません。医療に従事する皆さんに特有の犯罪についてお話をします。どういうことかというと、医療に従事する皆さんがその医療行為をしていくなかで、不注意、過失を犯したということで刑事訴追を受けるということです。刑法211条の業務上過失致死傷罪という罪です。
刑法211条はこう言っています――「業務上必要な注意を怠り、よって人を死傷させた者は、5年以下の懲役若しくは禁錮又は100万円以下の罰金に処する」。医療従事者にとって「業務上必要な注意を怠「った」」つまり業務上の過失というのはいったい何なのでしょうか。
1 医療上の過失の特徴
医療は死と隣合わせ
医療従事者の過失というのは少し特殊なものです。まずその話をしましょう。
過失というのはあらゆる職業につきものです。われわれ弁護士も良く間違えます。たとえば、時効を徒過してしまって、依頼人の債権が消滅してしまったとか、法律の解釈を間違えたり、新しい判例のことを知らないで、全く頓珍漢な主張をしたために依頼人が訴訟で負けてしまう。検察官が持っている証拠の開示請求をちゃんとやらなかったために、無罪を証明できる証拠があるにもかかわらず、有罪になってしまった。こういう場合でも、弁護士は刑法犯に問われることはないのです。損害賠償を請求されたり、懲戒請求を受けるかもしれないけれど、それで刑事訴追されることはない。
下手な弁護のために冤罪が確定して、死刑が執行されて依頼人が亡くなったとしても、その弁護士が業務上過失致死罪に問われたということはいまだかつてない。問われてもいいような感じがちょっとしますけれど、ないですね。
お医者さんの場合は違います。どう違うか。医療従事者の仕事は常に人の死と隣り合わせなのです。そこが最大の違いです。医療従事者の些細なミスが人の死に直結する可能性があります。注射する薬の種類を間違えたとか、量の計算を間違えて1000分の1グラム多く点滴してしまったとか、メスを入れる部位を1ミリずらしてしまったというような微妙なエラーによって大惨事が起こります。
注意義務が一義的ではない
人の死に直結するといえば、自動車運転もそうですね。自動車運転をしている中で、注意を怠り不注意で人を轢いてしまった。その結果人が亡くなったという場合に業務上過失致死罪、今は別の法律になって自動車運転過失致死罪ですけれど、そういう罪が問われる。過失が人の死と直結するという意味では、医療上の過失と似た面があります。
しかし、医療と自動車運転との間には決定的な違いがあります。それはどういうことかというと、自動車運転上の過失、自動車運転における注意義務違反というのは明瞭です。お酒を飲んだら運転してはいけないとか、時速60キロの速度制限であるとか、ハンドルを持っている時は必ず前を見ていなければいけないとか、曲がったり車線変更するときはウィンカーを出さなきゃいけないとか、そういう決まりがあって、その決まりに違反したら、それが過失だということになるわけですね。安全運転という大きな枠組みの中で、過失=注意義務違反というのは非常にクリアです。
お医者さんの場合は必ずしもクリアではないわけです。マニュアルがあって、それに沿う医療をやっていれば責任を問われないという話ではないわけです。たとえば、帝王切開をしているときに、前置胎盤だというのがわかった。術後の処置としてその胎盤を剥離しなければいけない。出血する。どこまで剥離するのか。最後までやるのか。途中で止めるのか。子宮全部を摘出するべきなのか。これは一義的に決められないですよね。子供が救急搬送されてきた。その子供は転んで口の中に割りばしが刺さっちゃった。それを自力で抜いたと言われた。その子供を見たお医者さんは必ず頭部のCTを撮って、割りばしのかけらが脳の中に残っているかどうか確認しなきゃいけないのか。それは一義的に決められないですよね。そうすると、医療関係者は、常に人の死と隣合わせで仕事をしながらも、何をしたらいいのか、何をしてはいけないのかを、時々刻々の活動のなかで、マニュアルによらずに自らの判断で決めていかなければならないということです。
チーム医療
自動車を運転するのはひとりですよね。たぶん複数の人で自動車を運転することはできないと思います。自動車を運転する人はひとりです。だから、自動車事故が起こったときには、運転した1人の人の過失を問えばいいわけですね。その人は法定速度を守っていた、前方をちゃんと見ていたのか、ということを検討すればいい。ところが、医療の場合は1人でやるということはない。医療は「チーム」で行われます。
単純な薬品の取り違え事件をみても、関与しているのは1人ではありません。薬品の保管はきちんとされていたか、その責任者はちゃんと薬品のラベルを明確にしていたのか、医師の投薬指示書はきちんと判読できたか、薬剤師の処方に間違いはなかったか、看護師はラベルを読み間違えなかったのか、病棟の看護師は正しい患者に正しい薬品を注射したのか、というように、単純な薬の注射をめぐっても、複数の人間が常に関与しています。手術が行われて、術後管理のためにICUで鎮静が行われる。そうしたプロセスでも、看護師さん、薬剤師さん、麻酔科医、当直の先生などが関わります。そういう人たちのコミュニケーションのどこか一つに齟齬があっただけで、重大な問題が起こりえます。たったひとりの医師、あるいはたったひとりの看護師の責任を考えれば良いというような問題ではないわけです。それはシステムの問題です。
ところが、刑法はあくまでも一人ひとりの医療者の責任を問います。関与した複数の医療者のなかから、「業務上の過失」があると検察官が考えた一部の個人だけが刑事責任を問われ、裁判にかけられます。決して医療機関そのものの刑事責任が問われるということはありません。
2「後知恵」による過失の認定
自動車事故や医療事故に限らず、原発事故とか航空機事故のような大きな被害をもたらした事故が起こると、必ず「事故原因」の調査が行われます。その過程で、「ああすればよかった」「これをやったのがいけなかった」というような個人のエラー、ミスが指摘されます。調査を行う人は、実際に何が起こったのかを知っているわけですから、いわば「後知恵」にもとづいて、論理的に――時系列を遡って――事故原因としての人為的なミスを指摘することができます。事故原因を探り、介在したヒューマン・エラーを特定して、その再発を防ぐための対策を考えるというのはとても良いことです。安全で住みやすい世界を構築するためには必要なことです。
しかし、個人の刑事責任を追求するために「後知恵」を利用するということになると、話は別です。実をいうと、現在日本の刑事裁判で行われている刑事過失の認定方法は、後知恵による個人責任追及のパターンに親しみやすい構造になっています。
日本では、刑法上の過失は、人の死傷という結果の「予見義務違反」と「回避義務違反」という2つの要素からなりたっているとされています。自分の行為によって、他人の死亡や傷害という事態が発生することを予見することが「できた」のにそれを「しなかった」;そうした予見があれば、他人の死亡や傷害という事態を回避することが「できた」のにそれを「しなかった」。こうしたことが認定できるときに、刑法上の過失があると認められ、個人は刑事責任を負わせられます。この認定の構造は後知恵による責任追及のパターンそのものです。
事故が起こったあとで、「ああすれば良かった」「これをしたのがまずかった」というのは、難しくありません。つまり、事故という結果を回避するために何をすれば良かったのかを特定するのは容易です。これが容易なのは、われわれが実際に何が起こったのかを知っているからです。まだ事故が発生する前の世界にいる人々は必ずしもその発生を予見できるとは限りません。ところが、後知恵を持っているわれわれは、しばしば、「予見できたはずだ」という結論に飛びつきます。これを「後知恵バイアス」と言います。後知恵に基づいて時系列を論理的にそして冷静に遡れば、次に何が起こるのか容易に予測がつき、そして、その予測に基づいて悪い結果を回避する方策を採ることも容易でしょう。しかし、事故が起こる前の当事者は、次に何が起こるのか予測できるとは限りませんし、論理的で冷静に行動できたとも限らないのです。
先ほど「医療は人の死と隣合わせだ」と言いましたが、これは比喩でもなんでもありません。医師は自分の仕事の結果として患者の死と向き合うことになります。その場合に、出来事の時系列を遡ってあとから冷静に振り返って「こうすれば良かった」「そうすれば患者は死ななかった」と言うのは簡単なことです。そして、人の死という大きな被害が発生したときには、そうした後知恵に基づいて関係者の「責任」を追求しようとする人が必ずいます。後知恵バイアスに基づいて刑法上の過失を認定されてしまう危険に医療関係者は常にさらされていると言っても過言ではありません。
司法の場で後知恵バイアスに基づく過失の認定ということが横行したら、もうお医者さんなんてやってられないですよね。特に生死の境にある患者を扱う医療者はそうでしょう。常に後から、結果から判断されてしまうのでしたら、安心して医者を続けることはできなくなります。ましてや先端的な医療をやろうという意欲は失われてしまうでしょう。
3 刑事医療過失事件の捜査・訴追・裁判
医療関係者の業務上過失というものは非常に複雑で不確定な要素があります。医療の過程で人が亡くなったときの刑事過失の有無を判定するのは決して簡単ではありません。医療水準をめぐってもいろいろな意見があったり、さまざまな症例報告があったりして、それらを総合的に検討してここまでやるのが正しかった、これをやらなかったのは間違いだった、という結論を出すわけですね。その結論によって、医療従事者は犯罪者になるかならないかが決まるのです。
患者さんが亡くなった。遺族が被害届を出す。事故調査が行われる。その結果警察が捜査を開始する。訴えられた医療従事者が、それは間違いない、たしかに自分はやるべきことをやらなかった、やってはいけないことをやってしまった、それは間違いないというのであれば、それほど問題ではありません。そしてそういう事件も確かにないわけではない。もう、ほんとうに「常軌を逸した」としか言いようのない事件というのも確かにあります。全然消毒しないとか、注射器を使いまわししていたとかですね。そういう無謀で大胆で常識外れな業務上過失致死事件というのも存在します。
しかし、実際に刑事訴追を受けるのはそういう事例ばかりではありません。訴えられた医療関係者が無罪を主張することは決して珍しくありません。そうなると、刑事医療過失事件の展開というのは非常に違ったものになります。どう違うのか。
ひとことでいうと、時間がかかるということです。今回皆さんの前でお話しをするにあたって、過去の著名な刑事医療過失事件の時間的な経過をおさらいしてみたんですけれども、事故から判決の確定までとても長い時間を要しています。「都立広尾病院事件」。これはどちらかというと単純な薬剤の取り違えの事件ですけれども、それでも事故が起こってから、1審判決まで、685日間かかっています。2年近くかかっている。これは短い方です。「杏林大学病院割りばし事件」というのがありますけれども、これは事故から一審判決まで、2452日、6年半、かかっています。一審は無罪で、検事が控訴して、控訴審で無罪が確定しましたけれども、控訴審だけでも2年半かかっています。事故から無罪確定まで9年かかっているわけです。「大野病院事件」は1審で無罪が確定しましたが、これも事故が起こってから一審の無罪判決まで3年半かかっています。
現在私がかかわっている事件があります。これは、2歳の子の頸部嚢胞性リンパ腫の手術が行われて、術後ICUに運ばれてプロポフォールによる鎮静をしたわけですけれども、検察官側の主張によれば、幼児に対しては、「相対的禁忌」といわれる、プロポフォールによる鎮静を非常に長くやりすぎたために、プロポフォール吸引性症候群(PRIS)という複雑な病態の病気で亡くなった、という業務上過失致死事件です。この事故が起こったのは2014年2月です。多数の関係者(医師、薬剤師、看護師ら)の中から二人の医師が起訴されたのが昨年2021年の1月です。つまり、起訴までに7年かかっています。で、いま何をやっているかというと、公判前整理手続といって、検察官手持ち証拠の開示のためのやり取りを延々とやっている最中です。捜査機関が集めた大量の、カルテであるとか、医療文献であるとか、各種の専門家の意見書だとか、それから同種の症例についての、大量のカルテであるとか、そういう膨大な証拠をわれわれに開示するように検察官に請求し、ときに検事がそれに反対するので、裁判所に裁定をもとめたり、裁判所が開示命令を出さないので、高裁に即時抗告したりというようなことをやっています。公判がいつ始まるのか分かりません。一体いつになったら裁判が終わるのか。事故から7年以上経ってまったく見通しが立たないという状況になっています。
なぜ、こんなに刑事医療過失事件は時間がかかるのか。一つは法律家の怠慢です。日本国憲法には被告人には「迅速な裁判」を受ける権利があるとされています(憲法37条1項)。これはアメリカ合衆国憲法(第6修正)を直輸入したものです。アメリカでは憲法の「迅速な裁判」(speedy trial)の保障を実現するために制定法が定められています。それによると、この“speedy trial”というのは、90日とか180日とかいうような単位なのです。その間に裁判を始めないと、訴追は却下されるというのがルールなのです。日本の法律家は「迅速」という言葉の意味を、普通の日本人の理解とは全然違う感覚で理解しています。5年6年は当たり前、10年くらい立っているのに「迅速な裁判」に違反しないと裁判官は平気で言います。
こうした法曹関係者の問題もありますが、刑事医療過失事件の遅延の原因をなしているのは、やはり法律家が医学の専門家ではないということです。警察もこういう事件の捜査をするときは専門家の意見を聞きながらやります。文献を集めたり専門家の意見を聞いてやります。そのうえで、事件を検察庁に送致する。検察官も専門家の意見を聞く。検察官はだいたい2年ないし3年に一回くらい転勤しちゃうんですね。だから、それまで、一生懸文献を読んだり専門家の意見を聞きながらやっていた捜査も、そこで終わってしまいます。新しい検事がきて、新しい検事もまた一から勉強しなおす。実に非効率的なことをやっています。弁護士もまったく素人ですから、まず専門家の意見を聞いてその指導を受けながら、病院で起こった出来事の流れとその医学的意味を理解しようとします。当然時間がかかってしまいます。
こうした素人による捜査、素人による訴追、素人による防御のあとに、素人による判決というのが続くわけです。そうしたプロセスによって一番割を食うのは、刑事訴追の対象になっている医療関係者、お医者さん、看護師さん、そういう方たちです。いつまで経っても捜査が終わらない。起訴されるのかどうかもわからない。いつまで経っても裁判がはじまらない。そういう状態がずっと続くわけですね。そういう状況に追い込まれること自体が、非常な苦痛であり負担なわけですね。裁判で有罪になるか無罪になるかということよりも、そういうものに巻き込まれて、そのために生活が大きく制約されてしまう。そのこと自体の負担が非常に大きなものに違いありません。
何年か後に判決が確定するわけですけれども、刑事医療過失事件の有罪率は普通の刑事裁判の有罪率よりも低いというデータがあります。普通の否認事件、罪を争う事件の刑事事件の無罪率というのは、だいたい1.7%前後です【1】 。1950年から2017年までの刑事医療事件を調査した文献によると、刑事医療過失事件の無罪率は18%ということです【2】。つまり、普通の刑事事件の10倍くらいの割合で無罪になる可能性があるというわけです。
4 刑事訴追は医療安全の役に立っているのか
萎縮医療・防衛医療
多大な負担・時間・労力をかけて1人の医療従事者を刑事訴追して、彼女が有罪か無罪かを決める。そのことによって、医療全体の質は高まっているのでしょうか。一部の刑法の先生とか検察官や裁判官の中には、役に立っているんだと言う人が言います。刑事責任の追及があることによって医療は進歩する、あるいは、医療過誤が防止されるのだ言うのです。われわれ法律家は「一般予防」というわけですけども、医療行為を刑事訴追することには一般予防の効果はあるんだというふうに言われています。私は疑問に思います。事故から10年経って刑事裁判の決着がついた、忘れたころに判決が出て昔のことが少し報道される。そんなことによって、医療は進歩するんだろうかと思います。
むしろ、ちょっと先端的なこと、あるいは患者の命を守るためにちょっと冒険的な医療をやって失敗したために、刑事訴追されて膨大な時間や費用が費やされる、そのリスクを避けるために、そんなことはやらないでおこう、危険性のない分野で危険性のない仕事をしよう、というふうな方向に働いてしまう可能性の方がむしろ大きいんじゃないかと思います。この問題はもっと科学的に議論する必要があるのだろうとは思いますけれども、率直に申し上げて、微妙な医療水準が問題になるような医療事故について、関係者の刑事責任を追及することにどれほどの意味があるのか疑問です。むしろそれは医療関係者を防衛的にしてしまい、かえって医療安全の推進を阻害しているのではないかと感じます。
刑事医療過失事件が潜在的にもっているこうしたリスクつまり萎縮効果・防衛医療の弊害について、厚労省の研究会が検討結果を発表しています。厚労省の中に設けられた「医療行為と刑事責任の研究会」が2019年3月に「医療行為と刑事責任について」という報告書を出しています。これは、1999年から2016年までの、刑事医療裁判を集約して評価したものですけれども、結論的にこう言っています――「医療従事者の方々に対しては、医療従事者として一般に求められる注意を怠ることがなければ、必要なリスクをとった医療行為の結果、患者が死亡した場合であっても、刑事責任を問われることはないことを理解していただき、安心して日々の診療に従事していただきたいと考えている」と【3】 。
これはちょっとミスリーディングだと私は思います。この報告書の中身をよく読んでみると、刑事裁判の統計を出している部分があるんですけれども、そのデータ分析をしている箇所では、こう言っています――「診療現場においては、一定の確率で死亡のリスクを伴う治療法がある場合、原疾患による死亡のリスクと比較考量して、あえて当該治療を行うようなケースも存在するが、安全性有効性が検証されない治療法を採用しているような場合でない限り、必要なリスクを取った医療行為の結果、患者が死亡したケースにおいて、刑事裁判で有罪となった事例は見当たらなかった。」【4】 結論部分と表現がちょっと違いますよね。結論部分では、「刑事責任を問われることはない」と言っているのですが、分析のところでは、「有罪となった事例は見当たらなかった」と言っているのです。つまり、捜査を受けて、訴追されて、何年も裁判を受けるかもしれないけど、有罪になることはあまりないよ、って言ってるだけなんですよね。
罪を問われる危険性はあるわけです。そして、実際に有罪になった事件はまったく問題ないのかについて、検証は何一つなされていません。検察官がどういう主張をして、弁護側がどういう証拠を出した、それはなぜ受け入れられなかったのか、受け入れられなかったのは正しいのか、というような分析はどこにもされていないのです。
この中間報告にもありますけれども 、2005年をピークに刑事医療過失事件の訴追件数は減っているというふうに言われています。しかし、それも、正確な統計があるわけではありません。この中間報告のベースになった事件の件数も網羅的とは到底いえません。刑事医療過失事件のすべてが判例集に載っているわけでもないです。判例集に載っていない事件はたくさんあると思います。ですから、現段階で、よほどのことがない限り刑事医療過失で訴追されることはないと判断するのは無理があると私は思います。
事故調査制度
刑事医療過失の訴追と医療安全との関係をもう少し別の角度から検討したいと思います。医療安全の考え方というのは、要するに、こういうことです。結局、人はミスをする、エラーをする。そういう人的なエラーの原因や構造を分析して、再発防止策を構築する。そうすることによって安全で有効な医療の発展を目指す。これが医療安全という考え方、コンセプトの中心にあるんだと思います。
2015年に医療事故調査制度というのがはじまりました。この制度はいま申し上げた医療安全の考え方を実践するものだというふうに言われています。医療事故調査制度の中核を担う、一般社団法人日本医療安全調査機構というところのホームページをみると、こう言っています――「本制度の目的は、医療の安全を確保するために医療事故の再発防止を行うことであり、責任追及を目的としたものではありません」 【5】。何が問題だったのかを明らかにして、再発を防止するために調査するのであって、医療関係者の責任追及はしないんだということです。
実態はどうなのでしょうか。事故調査委員会の調査やその報告書が責任追及の道具にならないという保障はあるのかということです。残念ながら、法律をみても、現実の調査をみても、そういう保障はないですね。私自身が経験した範囲でしかものを言えませんが、現実には、事故調査が医師の責任追及の場と化しているとしか思えないような調査報告が存在しています。まるで検察官の論告じゃないかと思われるような調査報告書に出会ったことがあります。
真相究明するためには、関係した医療従事者から正しい事実を提供してもらう必要があるわけですね。そのためには、その情報が医療関係者の責任追及の道具にならないという保障をしなければいけません。医療事故調査委員会の事情聴取に応じた供述や提供した資料を、民事裁判の原告となりうる遺族や刑事訴追をする可能性のある捜査機関に提供することはない(提供したとしても裁判の証拠として利用することは許されない)という保障が必要です。実際そういう制度が海外にはあります。例えば、2005年にアメリカで、Patient Safety and Quality Improvement Act of 2005(患者の安全及び医療品質の向上のための法律)という連邦法が制定されました。これは日本の医療事故調査制度にある意味で良く似ているんですね。医療従事者は患者安全機構(Patient Safety Organization: PSO)に医療事故に関する情報を提供する;PSOは情報を集約して、何が問題だったのか、そしてなにを改善すべきか、という報告をしたり、データベースを構築したりする。しかし、ここで提供された情報は、医療関係者の民事責任・刑事責任を追及する証拠として使ってはいけないということが明文で書かれています【6】 。これに違反した場合には、10,000ドル以下の罰金が科されることになります【7】 。
こういう保障があって初めて、事故を体験した医療従事者は安心して情報提供できるわけです。そして、正しい情報提供によって、正しい医療安全の仕組み、再発防止の方法というのが構築されるわけです。日本の事故調査制度はそこの部分が全く欠落しています。そのために、医療従事者は、自分は刑事訴追されるんじゃないか、あるいは民事の損害賠償請求を受けるのではないかということを恐れて、きちんとした話ができないのです。それは正しい選択ですよね。自分で自分を訴追する証拠を提供しないというのは極めて合理的な選択です。「黙秘権」というのはまさにそのために存在するのです。
黙秘権っていうのは、あたかも悪いことをした人が、こそこそ逃げるための権利だって皆さん思うかもしれないけれども、そうじゃありません。警察や検察に供述を提供するということは、訴追機関に自分の弁解や供述をそこで記録されるということです。あとから思い返したら、間違っていたとか、思い出したことがあると言って供述を変えると、裁判官はこの被告人は供述を変えているから、全体的にその弁解は信頼できないという判断をします。だから、捜査とか訴追の過程で、自分の弁解や情報を捜査機関に提供しないというは、正しい裁判をするためにも必要なことです。被告人が自分を防衛するためにも必要なことです。これは正しい選択なんです。
その正しい選択をしたことに対して、ある事故調査報告書は「非協力的な態度が調査を困難にした」とか「無責任な言動」と言って非難しました。さらに、その報告書は遺族に提供されて、民事裁判の原告側の証拠として提出されました。そしてさらに、刑事事件の方でも、検察官はその報告書を証拠請求してきました。これは、いろいろな意味で間違っているわけですけれども、現在の事故調査制度が、一番肝心な保障を欠いているために、制度本来の目的を達することができない状態になっていることは明らかだと思います。
刑事訴追の可能性があることで、医療事故に関する情報提供がはばかられるという問題は、事故調査制度だけの問題ではありません。診療や症状の経過を症例報告として医学ジャーナルに発表することすらできなくなります。事故原因の究明と再発防止は、医療安全だけの問題ではなく、医学全体の問題でもあるわけですが、医療行為の刑事訴追は、医学というものの学問的な発展にも障害となる可能性があるのです。
5 医療過失の刑事訴追はどうあるべきか
じゃあどうあるべきか、ということを最後に申し上げたいと思います。ちょっと法律の話になります。過失による人の死亡、これは医療過失に限らないですけれども、過失によって人を死亡させることを犯罪として刑罰を科するという刑法の考え方について、若干の検討をしてみたいと思います。これにはいろんな考え方が実はありまして、日本では、明治に近代法制を取り入れて以降、ずっとこの過失犯に関する議論をしているんです。いまだにしているわけです。どういう場合が刑事上の過失として罰則の対象になるのか、そもそも過失なんて罰してはいけないんじゃないかというような議論もあるわけです。
そういう過失犯の議論の中で、この刑事医療過失についても議論する必要があると思います。実際に、現在、刑法学者の先生方は、医療行為に対する刑事責任をどうやって限定するかということを盛んに議論しています。
コモンローの刑事過失致死:「故殺」
一つ参考になるのは、アメリカとかイギリスのコモンロー系諸国の刑事過失致死についての考え方です。コモンロー系の諸国では、単純な過失、業務上の過失も含めてですけれども、不注意によって人を死なせてしまったということを犯罪として処罰することはありません。普通の不注意や業務上の注意義務違反で人が亡くなったとしても、イギリスでもアメリカでも刑事訴追されることはありません。
ある行為を犯罪として刑罰を科するためには、道徳的に強い非難が与えられて当然だという精神状態、mens reaというんですけれども、そういう精神状態が立証されなければなりません。人の死に関していうと、それは二種類あります。一つは murder、もう一つはmanslaughterです。murderは日本語で「謀殺」と訳されています。人の死を計画し、人を死なせる目的をもって、意図的に人を殺すことです。manslaughterというのは、そういう意味での積極的に人を殺す意思がない場合です。日本語では「故殺」と訳されています。このmanslaughterには二種類あって、一つはvoluntary manslaughter(自発的故殺)、もう一つはinvoluntary manslaughter(非自発的故殺)です。“voluntary”というのは自主的にその状態を受け入れる、積極的に殺そうというんじゃないけれども、死んでもかまわない的な要素がある場合をvoluntary manslaughter(自発的故殺)というのです。”involuntary”というのは、自発的な意思がない場合ですが、単なる過失致死とは違います。やはり道徳的に強い非難に値する精神状態が必要です。無謀(recklessness)とか勝手気まま(wantonness)というような要素が必要です。そういう精神状態があることが合理的な疑いを超えて証明されない限り、被告人の行為によって人がなくなったとしても刑事責任は問われないのです。
医療行為に基づく患者の死亡の場合は、involuntary manslaughter(非自発的故殺)にあたるかどうかが問題になります。医学的な常識を無視したような無謀な(reckless)医療行為、たとえば、これまで一度もメスを持ったことがないような、知識も技量もない医師が最先端の手術をやろうとして患者を死なせてしまったというようなケースです。そこまでいかなくとも、標準的な治療の基準から甚だしく逸脱した(gross departure from standard)医療を行った結果患者が亡くなったというようなケースです。医療水準がどこにあるのか微妙なケースであるとか、無謀・勝手気ままというような要素のない、単純なケアレスミスや思い違いによる、薬品の取り違えや患者の取違えのようなケースが非自発的故殺罪になることはないでしょう。
こうした刑事訴追制度があるので、「アメリカの医師や病院は刑事手続への危惧を抱いていない」と言われるのです【8】 。
刑事上の過失を「認識ある過失」に限定する
日本の刑法学者の人たちは、日本法の枠組みの中で、お医者さんの刑事責任、刑事過失を限定しようとしています。ひとつは、刑事責任の対象となる過失は「認識ある過失」に限られるという考え方です【9】 。過失には二種類があって、「認識ある過失」と「認識のない過失」です。これどういうことかというと、人が死ぬ危険性がある、こういうことをやったら事故が起こって人が死ぬかもしれない、だけどそれは起こらないだろうと思って、やるような場合が「認識ある過失」。そういう危険があることを全然知らないでやってしまう場合が「認識のない過失」です。
過失致死傷罪の過失は認識のある過失の場合を指すのであって、認識のない過失は犯罪ではないという議論があるわけですね。虫垂切除術をする際に手術部位をきちんと確認せずに手探りでメスをあて、盲腸じゃないかもしれないが、まず盲腸だろうと考えて切断したら、盲腸じゃなくて大腸壁の一部だったというような場合です。これはコモンローで言うところの「無謀」とか「勝手気まま」に当たるような気がしますね。
しかし、認識のない過失は悪質ではないとか道徳的な非難の程度が常に低いかというと、必ずしもそうでないと思います。認識があるということは、それなりに慎重な人なわけです。全く無謀な人間っていうのは、認識がないわけですよね。例えば先程の盲腸の例で言うと、盲腸と大腸壁の組織の区別を考えもせず、手で触っただけで盲腸に間違いないと考えてメスを入れてしまうような人の方が、盲腸じゃない可能性を考えた人よりも「無謀」の程度は大きいと思います。「認識のない過失」を除外するという考え方は、何も考えない、なんでもオッケーというような意味での無謀な人が、罰せられなくなる可能性があるような気がします。
逆に、医療の現場では、患者の死亡を早めるリスクがあることを認識しながら、救命のために治療をするということは珍しくありません。こうした医療の結果患者が死亡したケースはすべて「認識ある過失」にあたると言われてしまう可能性があります。
「重大な過失」に限定する
刑法211条の業務上の過失というのを重大な過失に限定するという考え方です【10】 。というのは、刑法211条自身が、業務上の過失を罰すると言っているのと同時に、「重大な過失の場合も同様とする」と言っているのです。刑法は、業務上の過失と重大な過失をパラレルに考えている。だから、刑事医療過失も重大な過失である必要があるという議論です。これは今とても有力な議論になっています。
ただ、一つ問題があります。この、刑法学者の人たちの議論をみると、重大な過失の典型例として、「初歩的なミス」や「基本的なミス」を挙げています。例えば薬品の取り違えや患者の取り違えとかです【11】 。私はここは疑問です。初歩的で単純なミスというのは実際のところ、「ヒューマン・エラー」といって、誰にでも起こり得るミスです。それまでどんなに慎重にやっていた人でも、ふと間違えることがある。100回に1度いや1000回に1度はそういう瞬間があります。問題は、それがチーム医療の中で見過ごされてしまい、惨事に至ることです。
そういうヒューマン・エラーを刑事過失にする意味はあまりないと思います。むしろ、そういう初歩的で基本的なミスというのは、それが大事に至らないようにするシステムを作っていくことが重要です。例えば、患者の腕にバーコード付きのタグをつけて、必ずそのバーコードをスキャンすることで患者や薬品の取り違えを防ぐというようなことです。それを「重大な過失」というのは、私は違うのではないかと思います。さきほども言ったようにコモンローでは、そういう単純な過失は、無謀でもないし勝手気ままとも言えませんから、その結果事故が起きて人が死んでも、それを犯罪と言うことはできないのです。
6 ヒューマン・エラーは裁けるか
いずれにしても、刑法の先生がたが医療行為に対する刑事責任の追及を限定しようとしていることは間違いないです。それは良いことだと私は思います。
医療安全ということを考えたときに、単に業務上過失致死罪が成立するかどうかという議論だけではなくて、刑事訴追のあり方全体を議論する必要があると思います。長い時間をかけて最後に無罪になれば良いという話ではないと思います。このあたりのことを学者の先生がたはあまり議論してくれていません。訴追される医療関係者にとってはそこが一番の関心事ではないかと思います。
最後に、これまでに少し触れたヒューマン・エラーというものについてお話したいと思います。「人は間違える」ということです。そうした間違いの可能性を前提にシステムはつくられるべきではないか、というふうに思うわけです。個人の刑事責任、間違えた人や間違いを見逃してしまった人の刑事責任を問うというのは、いろいろな意味で問題があると思います。このヒューマン・エラーの問題については、実は、日本の最高裁の判例で議論されたことがあります。「日航機ニアミス事件」の最高裁決定です。
どういう事件かというと、一つの飛行機が3万7千フィートの高度で巡行している。別の飛行機が離陸して3万9000フィートを目指して上昇している。2つの飛行機が徐々に接近していく。このままだとぶつかってしまう。緊急事態を知らせる警報を受けた航空管制官は、セオリーにしたがって上空を巡航している飛行機に降下指示を出そうとします。ところが指示を伝える便名を言い間違えてしまいました。「358便」と言うべきところを「309便」言ってしまった。つまり、離陸したばかりの飛行機に下降せよと指示を出してしまいました。旅客機には、TCASという装置が備えられています。異常接近すると双方のTCASがそれぞれの機長に上昇と下降の指示を自動的に出すんですね(この指示をRAと言います)。309便のTCASは上昇の指示を出し、358便のTCASは下降の指示を出しました。ところが、309便の機長は、TCASの指示を無視して、管制官の指示にしたがって、下降したのです。そのために、両方が下降して、非常に危ない状態になった。それで、ぎりぎりのところで機長が、上昇に転じて、衝突は免れたんですけれども、中に乗っている多数の乗客が怪我をしてしまった。この管制官が業務上過失致傷罪で起訴されたのです。
結論としては、最高裁は被告側の上告を棄却して、管制官の有罪が確定しました。けれども、この最高裁決定に対して1人反対意見を述べた裁判官がいます。櫻井龍子裁判官です。櫻井裁判官の反対意見の中につぎのような言葉があります。
そもそも本件ニアミスの発生原因を総合的に判断すると,航空管制では間に合わないような接近事例における衝突等回避のためのいわば最後の砦として,TCASを一定規模以上の航空機に搭載することが義務付けられたにもかかわらず,管制指示とRA[TCASの指示]が相反した場合の優先関係という最も重要かつ基本的な運用事項が明確に定められていなかったことが,本件ニアミスに関連することは明らかである(TCAS開発を主導した米国の航空マニュアル等にはRAが管制指示に優先することが明記されていた。)。航空機の運航のように複雑な機械とそれを操作する人間の共同作業が不可欠な現代の高度システムにおいては,誰でも起こしがちな小さなミスが重大な事故につながる可能性は常にある。それだからこそ,二重,三重の安全装置を備えることが肝要であり,その安全装置が十全の機能を果たせるよう日々の努力が求められるというべきである。また,[弁護人の]所論は,本件のようなミスについて刑事責任を問うことになると,将来の刑事責任の追及をおそれてミスやその原因を隠ぺいするという萎縮効果が生じ,システム全体の安全性の向上に支障を来す旨主張するが、これは今後検討すべき重要な問題提起であると考える【12】 。
この櫻井裁判官は、裁判官出身ではなく、労働省の官僚出身ということです。非常に立派な反対意見だと思います。この反対意見の考え方がこれからの日本の司法の主流になることを私は希望しています。
ありがとうございました。
【注】
1 令和2(2020)年の司法統計年報(刑事事件編)によると、通常第1審(地裁・簡裁)の否認人員は4,254人(25表)で、無罪人員は72人(21表)であり、無罪率は1.69%である。
2 木内淳子ほか「医療刑事裁判において無罪となった23名の医療事故の検討」日臨麻会誌41-7-632(2021)。
3 医療行為と刑事責任の研究会「医療行為と刑事責任について(中間報告)」(2019年3月29日)、16頁。
4 同前、14頁(強調は引用者)。
5 https://www.medsafe.or.jp/modules/about/index.php?content_id=24
6 42 U.S.C. §299b-22.
7 42 U.S.C. §299b-22(f)(1).
8 ロバート・B・レフラー(三瀬朋子訳)「医療安全と法の日米比較」ジュリスト1323-8(2006)、17頁。
9 沢登佳人「すべての過失は認識ある過失である」植松還暦記念『刑法と科学 法律編』(1971)、p321、338頁以下;田宮裕「過失に対する刑法の機能」『刑事法の理論と現実』87-109所収(岩波書店2000[1966])、104、107頁;甲斐克則『責任原理と過失犯論』(成文堂2005)、120頁。
10 甲斐克則「刑事医療過誤と注意義務論」年報医事法学23号(2008)、96頁;高アンナ「日米における刑事医療過誤」北大法学論集63-6-363(2013)、414頁;萩原由美恵「医療過誤における刑事責任の限定」中央学院大学法学論叢24-1/2-123(2011)、146頁。
11 萩原・前注、134頁;高・前注、416〜417頁。
12 最1小決2008・10・26刑集64-7-1019、1032頁。