2012年09月09日

前科の証拠能力(口頭弁論)

【これは最高裁判所第2小法廷平成24年9月7日判決の弁護側口頭弁論の記録である。】

近代証拠法の父ジョン・ヘンリー・ウィグモアはこう言っています。

「[前科]が排斥されるのは、それによって感受されるべき証拠価値がないからなのではなく、それが過大に受け取られるからなのである。裁判官であれ陪審であれ、裁判機関は、その自然かつ不可避的な傾向として、呈示された悪辣な犯罪の記録を過大に評価して、それが現在の起訴事実を証明する効果を必要以上に強く認めてしまうか、あるいは現在の起訴事実について有罪かどうかにかかわらず処罰することを正当化する証拠として受け取ってしまうのである」[1]。

20世紀のはじめに有名な誤判の研究を発表したエドウィン・ボーチャード教授は、多くの誤判事例において、被告人の前科が裁判で許容され陪審に示されたことが「致命的であった」と指摘しています[2]。ベンジャミン・カードーゾ判事も前科というものは「無実の被告人にとっての災厄である」と述べています[3]。

現代のアメリカで最も頻繁にその著作が引用される証拠法研究者であり、『訴追対象外非行の証拠』(Uncharged Misconduct Evidence)というタイトルの大著[4]を出版しているエドワード・イムウィンケルリード教授は、陪審裁判の法社会学的研究成果を振り返って、こう述べています。

「現在までのすべての研究は、刑事被告人の訴追対象外の犯罪の証拠が検察官の兵器庫のなかで最も破壊力のある武器であることを証明している。訴追対象となっていない非行の証拠によって、被告人は極悪人として描かれ、陪審は有罪評決に導かれるのである」[5]。

ここで研究者や裁判官が指摘している危険性は、訴追の対象となっていない犯罪や非行が、誤って違法に証拠となってしまった場合のみを指しているのではありません。むしろコモンローが伝統的に認める例外に該当するとして、前科や前歴が適法に採用された場合のことを指摘しているのです。すなわち、被告人の前科や前歴というものは、如何なる場合においても、事実認定者のなかに被告人に対する敵意や反感、予断、偏見を生み出すものであり、彼らをして事件の証拠によってではなく、被告人の悪性格や行動傾向によって誤った有罪判決を下させる危険性を常に持っているものなのです。

したがって、前科や前歴が例外的に訴因を証明する証拠として採用される場合というのは、前科・前歴という性格証拠の持つ恐ろしい危険性――冤罪の危険性――を無視できるほどに、その証拠価値が高度な場合に限られなければなりません。

本件で、私の依頼人OK氏は、木造アパートの1室に侵入して、そこにあった石油ストーブの灯油を室内に撒いて火をつけて放火したという現住建造物等放火の罪で起訴されました。彼はこの罪を一貫して否定しています。しかし、彼にはおよそ20年前に11件の放火を犯したという前科があります。そのうちの10件は侵入した室内に灯油を撒いて火をつけたものです。そしてその10件のうちの7件では室内にあった灯油を利用したものです。
本件においてわれわれが直面しているのは、このO氏の11件の放火の前科を、彼に対する現在の訴因である放火事件の有罪を証明する証拠として採用して良いかという問題です。

「11件もの放火を犯した被告人、しかも起訴状と同じように室内にあった灯油を部屋に撒いて火をつけた事件を7回もやった被告人だから、今回もやったに違いない」――われわれはこのようなロジックでO氏を有罪とすることはできません。それこそ、まさに許されない「性格証拠」としての前科の利用にほかならないからです。しかしまた、この11件の前科を証拠として採用すれば、裁判官や裁判員は――意識するとしないとにかかわらず――このロジックにとらわれる危険性にさらされることになります。O氏の11件の放火の前科を証拠として採用するためには、この危険性を乗り越えて余りあるほどの証拠価値がそこになければなりません。

原判決は、O氏の前科は「犯人の同一性を立証する証拠として関連性がある」と言っています。すなわち、彼の前科は本件の犯人を識別する証拠として、性格証拠の危険性を乗り越えるほどの高い証拠価値があるというのです。本当にそう言えるでしょうか。原判決の説明を見ていくことにしましょう。

原判決は、まず、O氏の前科と本件との間には放火の手段方法の点で「特徴的な類似性」があると言っています。

「前刑放火の大半(10件)と本件放火は、侵入した居室内において灯油を散布して行われるという、その犯行の手段方法に類似性が認められる。そのような手段方法で放火をすることは、住宅への放火という類型の一部分に限定される上、前刑放火においては、そのような手段方法が繰り返され、その行動傾向が固着化していると認められ、それらが、本件放火との間の犯行の手段方法についての類似性をより特徴的なものにしているということができる」(原判決5~6頁)。

まず、居室内に灯油を撒いて火をつけるというタイプの放火は決して珍しいものではありません。上告趣意書の中に幾つかの実証的研究を引用しましたが、そのうちの一つ上野厚氏の研究によれば、油類を使用した放火は15%あり、その64%は「現場又は現場付近にあった」油類が利用されています[6]。長年にわたって刑事裁判に携わってきた元東京高裁部総括判事である門野博教授は、原判決の評釈をした論文の中で「このような態様の放火はほかにも見受けられるむしろありふれた態様というべきではないだろうか」と述べておられます[7]。

原判決が言うように「居室内に灯油を撒く」という犯行形態は確かに「住宅への放火という類型の一部分に限定される」でしょう。しかし、犯人を識別できるような際立った特徴ということはとうてい不可能です。

ところで、原判決は「居室内に灯油を撒く」ということで限定されるだけではなく、その「行動傾向が固着化している」ことがその類似性を「特徴的なものにしている」という説明を付け加えています。これはどういうことでしょうか。

「行動傾向が固着化している」というのは、言い換えれば、そのよう行為が常習化しているというのでしょう。つまり、原判決は、「被告人は居室内に灯油を撒いて火をつけることを常習的に行なっているので、今回も居室内に灯油を撒いて火を放った可能性が高い」と言っているのです。これはまさに、コモンローが禁止し、また、わが国の大審院以来の判例が禁止した「性格証拠」の論理そのものです。つまり、原判決は、性格証拠禁止の例外である「犯人の同一性」のために前科を利用していると言いながら、実際には前科を性格証拠として利用しているのです。

次に、原判決は「犯行に至る契機」の点でも類似性があると述べています。

「前刑放火のいずれもが、窃盗を試みて欲するような金品が得られなかったことに対する腹立ちを解消することを主な動機としており、そのうっぷん晴らしのために他人の住宅への放火を繰り返すという、窃盗から放火の犯行に至る契機の点で、前刑放火における行動傾向が固着化していると認められる。他方、本件放火と接着した時間帯に、被告人がその犯行場所に侵入して窃盗を行ったことについては争いがなく、同窃盗の被害品は500円硬貨2枚とカップ麺1個にとどまっており、被告人を満足させるものであったとは伺われないことからして、その腹いせに被告人が本件放火に及んだ可能性が考えられる。そうすると、前刑放火と本件放火とは、窃盗から放火の犯行に至る契機の点においても、類似性があると認められる。そして、この点に関する前刑放火の行動傾向が固着化していることが、その類似性をより特徴的なものにしているということができる」(同前6頁)。

この原判決の説示は、先に指摘した「手段方法の類似性」よりもさらに大きな問題をはらんでいます。それは、本件放火の動機を充分な金品が得られなかったことに対する「うっぷん晴らし」と決めつけていることです。部屋に侵入して500円硬貨2枚を盗ってカップ麺を食べたことをOさんは認めています。しかし、彼は火を点けたことはないと言っているのです。窃盗と放火が同一人物によって行われたことを示す証拠は何も発見されていません。どうして本件放火が「うっぷん晴らし」であると言えるのでしょうか。

門野博教授はこの点を次のように批判しています。

「今回の放火は他の客観的事実によって被告人の犯行であると確定的に証明されているものではない。ということは、今回の犯行が犯人によってどのような動機によって、どのような契機で行われたのかも解明されていないということである。したがって、前刑の放火の動機や犯行にいたる契機が立証されたからといって、今回の放火の動機、契機と比較対照することはできない。被告人による犯行であることが立証されて、はじめて、共に『窃盗の成果に対する不満のうっぷん晴らし』によって行われたと推認することが可能となる(本判決は、結論を先取りしているといわなければならない。もし、被告人の犯行でないとしたら、その者が窃盗目的で侵入したとか、『窃盗の成果に対するうっぷん晴らし』によって放火したとは、たやすく推認できないはずである。)ここでは、過去の犯行について認められる各犯行の契機の総合によって推認できる被告人の性格(傾向)を基にして、今回の犯行もそのような性格(傾向)を有する被告人が行ったのではないかと推認できるに過ぎないのであって、それはまさに『悪性格の立証』そのものであるように見える」[8]。

原判決はここでもO氏の「行動傾向が固着化している」ことを指摘しています。要するに、「被告人はこれまで何度も窃盗の成果があがらないことのうっぷん晴らしのために放火している。また、今度もそうしたに違いない」というロジックのために前科を使っているのです。原審裁判官は、悪性格立証を受け入れているつもりなど全くなく、「犯人の同一性」のために前科を使っていると思っているのでしょう。しかし、実際には、前科による悪性格立証のロジックに嵌っているのです。被告人の前科のもたらす予断・偏見のとりこになってしまったのです。

ところで、検察官は、私が上告趣意書で引用した放火の実証的研究に関する論文を利用して、次のような論理を展開しています。

屋内放火は全体の56.9%、油類の使用が15.8%、被害者と無関係な者の犯行が44.5%。これらを掛け合わせると確率論的には4.0%である、と。そして、さらに、窃盗と関連あるものの割合である2.1%を掛け合わせると0.84%であるから、これは極めて稀なケースである、と。

しかし、この論理が通用しないことは統計学の初歩を学んだ人には明白なことです。統計上の各条件が完全な独立変数であること、すなわち各条件の間の相関係数が0であることが証明されない限り、検察官が展開する掛け算による確率論は無意味です。それは実態とかけ離れたものとなります。わかりやすいように例を上げて説明します。

目撃証人が「犯人は50歳代の男性で、身長は170センチ、体重は80キロくらい、口ひげとあごひげを生やし、白髪頭だった」と言ったとします。
50歳代は全人口の10分の1
身長170センチの人は150人に1人
男性は全人口の2分の1
体重80キロの人は300人に1人
口ひげとあごひげを生やした人は15,000人に1人
白髪は3500人に1人
だとします。
そうすると、この特徴を持った人は1575億人に1人だということになります。この目撃証言はDNA型鑑定以上の証拠価値を持つ識別証拠だということになります。そんな馬鹿なことはありません。

話をもとに戻しましょう。

原判決は、犯人の同一性を認定するために前科を許容する条件としては「前刑放火と本件放火との間に犯行に至る契機、犯行の手段方法において特徴的な類似性が認められれば足りるというべきである」と言っています(原判決8頁)。しかし、この「特徴的な類似性」という基準は緩やかにすぎます。「特徴的な類似性」という程度では、原判決自身が誤りを犯したように、――「これまで繰り返しやってきたのだから、またやったに違いない」という性格証拠として利用されてしまう危険性が余りにも大きいのです。しかも、本人たちはその危険を回避できたと思い込んでいるだけに余計に危ないと言えます。

確かに、原判決が言うように、住宅への放火という類型のうち、侵入した居室内で放火を行うことは「ある程度限定される」(同前7頁)でしょう。居室内で灯油を散布して放火することは「より一層限定される」(同前)でしょう。しかし、そのような放火犯は――限定されるとしても――少なからず存在するのです。

原判決が言う「特徴的な類似性」という考え方は例えば血液型に似ています。B型の血液型の人物は限定されるでしょう。したがって、血液型鑑定には犯人識別のための証拠価値があるから、許容されると言えるでしょう。しかし、前科は決して血液型と同じようには扱えないのです。血液型というのは客観的な属性であり、その客観的な価値以上に過大評価されることはありません。被告人はB型だから罪を犯しやすいなどと考える人はいません。しかし、前科は客観的で合理的な評価をすることが非常に困難な証拠です。ウィグモアが指摘したように、裁判官であれ陪審であれ、事実認定者は悪辣な犯罪の記録に強く印象づけられてしまい、知らず知らずのうちに過大な評価をしてしまうのです。許されない「悪性格証拠」の罠に落ちてしまうのです。「被告人には今回の訴因と類似した特徴的な前科がある。だから、また、今度もやったに違いない」。そのような心証形成――予断、偏見――の危険がそこに分かちがたく伴うのです。

前科を犯人識別証拠として許容するためには、この危険から自由なものでなければなりません。前科を証拠として許容するためには、性格証拠として利用される危険性を実質的に凌駕するほどに多大な犯人識別証拠としての証拠価値が認められなければなりません。原判決が採用した許容性の基準は緩やかすぎます。

それではわれわれはどのような基準によるべきでしょうか。性格証拠として利用される危険性を凌駕するほどに、高度の犯人識別証拠としての証拠価値が認められるためには前科はどのようなものでなければならないでしょうか。現在世界で最も良く読まれている証拠法の教科書であるマコーミックの教科書にはこう書かれています。

「それは、その方法がほとんど同一(nearly identical)であるため正にそれは被告人の手仕事(handiwork)であると識別できる(earmark)ような、被告人の犯した別の罪を証明する場合である。殺人、強盗やレイプというような同種の犯罪が繰り返されたというだけでは全く足りない。その犯罪のパターンや特徴が、とても異常で際立ったものであるため、署名(signature)にも等しいものでなければならない」[9]。

日本の裁判官である伊藤雅人判事は、このマコーミックと同様の考えを別の表現で述べています。

「注意しなければならないのは、単に犯罪の内容や手口が類似しているというだけで類似事実による立証を許してよいわけではないということである。メルクマールは、被告人が過去に類似の犯罪を犯したという事実自体から、被告人が今回起訴された犯罪の犯人であることを、直接(すなわち悪性格という中間項を介在させることなく)推認できるかどうか、である。そのためには、犯罪の内容や手口が類似しているというだけでは足りず、その内容や手口が犯人に特有のものといえる程度に特殊なものであることを要するであろう」[10]。

マコーミックの表現によれば「犯人の署名と言えるぐらいに異常で際立った特徴がある場合」、伊藤判事の表現によれば「悪性格という中間項を介在させることなく直接犯人と推認できるほどに、その内容や手口が特殊な場合」にはじめて、前科は――性格証拠としてではなく――犯人識別証拠として利用されうるのです。本件で問題になったO氏の11件の放火には、このような際立った特徴はありません。部屋に侵入してその場にあった灯油を撒いて火をつける人はほかにもたくさんいるのです。この手口は彼の署名とは言えません。その犯行から犯人は彼だと直接認定することなどできません。O氏の11件の前科を、今回起訴された事件の犯人が彼であることを認定する証拠として利用することは許されないのです。

原判決は破棄されなければなりません。

長官並びに最高裁判事の皆さん、

大正7年、1918年、いまから94年まえに、大審院は前科による公訴事実の認定は許されないという原則を宣言しました。これはコモンローの性格証拠禁止の法理を採用したものです。爾来、わが国の最終審裁判所は折にふれてこの原則を確認し、また、例外的に前科が証拠となりうる幾つかの場合を示してきました。大審院や最高裁は例外についてもコモンローのルールに沿う判断をしてきました。

いまわれわれが直面しているのは、性格証拠禁止の例外の一つである「犯人識別証拠」としての前科の許容性という問題です。これまでと同じように、われわれは、ここでも人類共通の資産ともいうべきコモンローの法則を充分に参照して厳格で明確なルールを呈示すべきです。決して、性格証拠禁止の法理に風穴をあけるようなことをしてはなりません。

われわれには、性格証拠禁止のルールを守りかつそれを強化すべき理由があります。それは裁判員制度です。裁判員裁判は、刑事裁判の事実認定に市民の健全な社会常識を反映させることを目的としています。そして事実認定は証拠に基づくものでなければなりません。決して、予断や偏見や思い込みによって有罪を認定するようなことがあってはなりません。市民による判断が適正に行われるためにあるのが証拠法です。裁判官が法律の専門家として証拠の選別を適正に行うことが、市民の常識に基づく証拠の評価や事実認定の前提でなければなりません。

ウィグモアが指摘したように、市民であれ裁判官であれ、人間は被告人の前科の証拠価値を過大に評価し、悪辣な犯罪の記録に惑わされがちです。ですから、その危険を知っている裁判官は、このような証拠を厳格に規制しなければならないのです。われわれは産声を上げた新たな市民参加の司法制度を、全世界の人々から信頼される立派なものに育てて行かなければなりません。前科のある被告人はたとえ証拠が薄くても、似たような前科があれば容易に有罪になってしまう。そうした冤罪を生み出すような危ない制度にしてはなりません。

ありがとうございました。


[1] 1Wigmore on Evidence (3d ed 1940),§194.
[2] Edwin M. Borchard, Convicting the Innocence (1932), at 369-370.
[3] People v. Zackowitz, 254 N.Y. 192 (1930), at 198.
[4] Edward J. Imwinkelreid, Uncharged Misconduct Evidence, 2 vols (West, 2009).
[5] Edward J. Imwinkelreid, “Uncharged Misconduct”, 12 Litigation 25 (1985-1986), at 25.
[6]上野厚『都市型放火犯罪――放火犯罪心理分析入門』(立花書房1998)、24、29-30頁。
[7] 門野博「同種前科による公訴事実の立証を許さなかった原審の措置が違法とされた事例」刑事法ジャーナル31−83(2011)、88~89頁。
[8] 門野・前注、88~89頁。
[9] McCormick, On Evidence, 6th ed (Thomson/West, 2006), 315.
[10] 伊藤雅人「類似事実による立証について」『植村立郎判事退官記念論文集(第1巻)』(立花書房2011)、372頁。

plltakano at 23:43コメント(3)トラックバック(0)刑事証拠法   このエントリーをはてなブックマークに追加

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コメント一覧

1. Posted by 水橋孝徳   2012年09月13日 15:00
証拠法そのものの議論ではないかもしれませんが、末尾の部分でぐっと胸が熱くなりました。

弁護人は、私たちの依頼者とともに、この新しい制度を守らなければいけない。そして、それは表裏一体のことなのだと、改めて感じました。

少し遅くなりましたが、おめでとうございます。
差戻審でも、先生の依頼者にとって良い結果が出ることを祈念しています。
2. Posted by 山下瑞木   2012年09月22日 14:56
最高裁での口頭弁論,傍聴させていただきました。
格調の高い,かつ分かりやすい,さすがの弁論でした。

水橋さんがコメントしている点ですが,検察官も裁判員制度に言及していたように記憶しています。

不確かなメモによると,要旨,以下のとおりだったと思います。
一審裁判所は「裁判員に不当な影響を与える」という理由で前科証拠の取調請求を却下したが,それはおかしい。
われわれは裁判員制度を尊重しなければならない。
そして,裁判員制度は,裁判官も裁判員も,同じく証拠を評価する力があることを前提にしている。
ことは裁判員の自由心証の問題である。証拠能力のレベルで解決するべきではない。
裁判員は不当な影響など受けない。それは,裁判官が前科証拠によって不当な影響を受けないのと同じである。
裁判員の能力を軽く見た一審裁判所の判断は間違っており,これを破棄した控訴審裁判所は正当である。

弁護人も検察官も,同じく裁判員制度に留意しながら,しかし,それぞれ異なる結論を導いており,傍聴人としては興味深く思いました。
裁判官であれ裁判員であれ,人は皆惑わされる。
裁判官が惑わされない以上,裁判員も惑わされない。

事実認定を誤らせる証拠を排除する,というのが証拠法の基本だと思います。
これまでの職業裁判官による刑事裁判は,法律のプロは「正しく」証拠を評価することができる,
という過信に基づいて運用され,証拠法を軽視してきたように感じています。
裁判員裁判は,証拠が本来的に持っているあやうさに目を向ける機会を与えていると思います。

長文失礼致しました。
改めて,おめでとうございます。
3. Posted by 遂犯無罪   2013年01月27日 19:01
裁判所と郵政の詐欺事件を特捜に告訴する

一年前、裁判被害者がA氏を囲む勉強会を開いた、各人に共通するのは不正・違法な訴訟手続に基づく裁判所不信である。
参加者の中には、郵便事業本社でのA氏の質疑に窮する担当職員を見ている、A氏は再度の面談からも郵政当局の怯えを確信したという、しかし各人は偽装裁判と郵政の因果関係が釈然として理解し難い。

ある方は、一審敗訴で確定した筈の民事裁判が、密かに控訴されて和解で終結されていた、これは双方の代理人と裁判所が仕組んだ、偽装裁判の典型例である、またこの民事裁判での郵便送達には、贋郵便スタンプが使われて、専門家に拠る科学鑑定でも、郵便局の消印は偽造されたものと結果が出ている。

告訴人である小川氏からは、検察が使う流通されていない偽造料金計器スタンプを提示され、他の参加者から工作された郵便消印、変造切手、プリントした後納郵便スタンプ、消印がない切手など、誰が視ても一目瞭然な犯罪行為が、法曹三者の手によって為されている証拠を目にした参加者は騒然となった。

この犯罪告発と閉塞情況を打開すべく、A氏はこれら景品表示法違反を消費者庁に提訴、また郵便法違反で送達された判決書等は、強制規定違反であり判決には法的効力がなく無効等確認訴訟の提起を提案した。

裁判所・検察庁批判者は多いが、送達される郵便物の真偽まで疑う者はいない、この不正を書留郵便番号を基に、膨大な数字の追跡検索の末に知り得たのである。

このA氏には、電話盗聴・遠隔操作可能な6号保安器の密かな取付け、公安の干渉など生活を脅かされる監視行動がされている。

http://www.suihanmuzai.com/130125.jpg.html

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