2008年07月18日

黙殺、あるいは“情けない”日本の司法

最高裁判所第1小法廷は、「本庄保険金殺人事件」の八木茂被告の上告を棄却する判決を言い渡した。日本中のマスコミが「保険金殺人疑惑」を騒ぎたてはじめたころから今日に至るまで一貫して無実を訴え続けている八木さんに対する死刑判決が確定することになる。

しかし、八木氏は無実である。

彼の殺人を証明するほとんど唯一の証拠は武まゆみの証言である。しかしそれは、検事の脅迫と嘘と約束による虚偽の自白である。「このままでは死刑だ。私はあなたの命を助けたい」という検事の誘導に従って、逮捕から1ヶ月後に、武は森田昭さんに1日15錠の風邪薬を与えて殺したという「風邪薬殺人」を自白した。武は、その後も6カ月間、連日の脅迫に耐えて「佐藤修一さんは利根川に飛び込んで亡くなった」と言い続けた。佐藤さんの溺死を裏付ける鑑定(プランクトン検査)もあった。しかし、検事は「佐藤さんがトリカブトで殺されたことは科学捜査の結果間違いないことだ。このままだとあなたはやっぱり死刑だ」と脅した。さらに「八木はあなたが一人でやったと言っている」と嘘をついた。そしてある日、検事の調べ室のなかでじっと目を閉じていると、武の脳裏に「あんパン」の絵が浮かんだ。その後毎日のように検事室で展開された「記憶回復セラピー」によって武まゆみは「トリカブト殺人」の記憶を「回復」した。他2人の女性も武と同じような取調べを受けてトリカブト殺人の記憶を獲得していった。

この事件の詳細は『偽りの記憶―本庄保険金殺人事件の真相』(現代人文社2003年)に書いた通りである。最近、オランダでこの事件と非常によく似た冤罪事件(プッテン殺人事件)があるのを知った。オランダの最高裁は、被告人や目撃者の取り調べが「偽りの記憶」を創り出した可能性があることを指摘して、1・2審の有罪判決を破棄した。日本の最高裁判所は上告趣意には何も答えないまま死刑判決を是認した。

最高裁に提出した上告趣意書の中でわれわれ弁護団は、1審と2審の手続には7つの憲法違反と判例違反があると主張した。そして、風邪薬殺人事件もトリカブト殺人事件も存在しないことを詳細に論じた。最高裁第1小法廷は、この9つの上告理由を「実質は事実誤認、単なる法令違反の主張であって、刑訴法405条の上告理由に当たらない」と言って退けた。そして「なお、所論にかんがみ記録を精査しても」原審の判断は正当として是認できる、と言った。

それだけである。

2パラグラフ=8行=262文字で、われわれ弁護団が2年前に提出した135頁の上告趣意は退けられた。最高裁の裁判官たちはどの記録を「精査」したのか、われわれの「所論」のどこが間違っているというのか、判決文のどこにも説明がない。

なぜ佐藤修一さんの腎臓からは利根川に生息する珪藻のうち大きさが10μ未満のものだけが発見されたのか(水中で佐藤さんの心臓が動いていて彼の肺胞を通過できる珪藻だけが腎臓に運ばれた――佐藤さんは溺死だった――からではないのか)、なぜ佐藤さんの父親は遺書の筆跡が「息子のものに間違いない」と証言したのか(佐藤さん自身が書いた――そのとき佐藤さんは生きていた;佐藤さんを殺してから住所を書いて投かんしたという武の証言は事実ではないからではないのか)、なぜ武まゆみは「殺害に使用したあんパンは値段が120円と普通のものより高かったので良く覚えている」と――事件当時の値段は他と変わらず100円だった――間違えたのか(武の自白が事実に反するからではないか)、なぜ、「佐藤さんの死体に着せるときに革ジャンの襟首と袖を切った」と武が証言するのに、佐藤さんの同僚が「生前の佐藤さんから袖口を『切っちゃった』と言って刈り取られた袖口を見せられた」と証言するのか(武の自白が間違っているからではないのか)、等々のわれわれの多くの疑問に対して裁判所は何も答えなかった。何も答えず、何も説明せず、最高裁判所はただ上告を棄却し、八木さんの命を奪う決定をした。

「黙殺」という表現がこれほどぴったりすることはない。

最高裁からタクシーを飛ばして東京拘置所に行った。塀の外で私と抱き合って勝利を喜び合うことを楽しみにしていたという彼はさすがに落胆の表情を見せた。一生懸命に笑顔を作ろうとしている。冗談を言おうとしているが、深いため息が何度も漏れた。

「日本の司法は情けないね、先生。終戦直後ならまだしも、平成の世の中にこんなことが起こるなんてね。」

これまで私が無罪判決を獲得したケースと比較してもこの事件は無罪証拠が豊富にある事案である。なのに、なぜ無罪に至らなかったのか。そこに日本の司法の構造的な問題がある。日本の職業裁判官は「間接事実による主要事実の認定」というように、いかにも公正に、冷静な証拠分析に徹して仕事をしているかのように装っているが、実態はそうではない。私は最近そのことに遅ればせながら気がつきはじめた。

いずれにしても、最高裁で冤罪が晴れることを信じて疑わなかった八木さん、そしてこれまでわれわれ弁護団の活動を支援してくれた皆さんには、ご期待にこたえられなかったことをお詫びするしかない。とにかく、この誤った死刑が執行されるような事態を避け、将来必ず八木さんが社会復帰する日が来るのを実現するために、私としてできる最大の努力をする所存です。


plltakano at 09:13コメント(1)トラックバック(0)刑事裁判 | 冤罪  このエントリーをはてなブックマークに追加

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コメント一覧

1. Posted by 高田   2008年07月18日 12:25
昨日、社内で上告棄却の速報を知り、このページを見つけました。立場上、事件や判決へのコメントは差し控えますが、これからも頑張って下さい。

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