2007年06月14日
ケーディス氏インタビュー
まえがき
1993年5月、チャールズ・L・ケーディス氏が来日した。ケーディス氏は、連合国軍総司令部(GHQ)民政局次長であり、1946年2月に連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサーが日本政府に提示した憲法草案(「GHQ草案」あるいは「マッカーサー草案」)の起草を指揮し、その後も内閣法制局との交渉などを通じて日本国憲法の制定に深くかかわった人である。
「陪審裁判を考える会」のメンバーから、ケーディス氏のインタビューに付き合わないかと誘われて、私はこのまたとない機会を逃すまいと、何の準備もなく氏の滞在する赤坂プリンスホテルに赴いたのであった。そのころ私は、日弁連接見交通権確立実行委員会の有力メンバーとともに、「日本国憲法の刑事人権規定が想定した刑事手続はどのようなものだったのか」というテーマの共同研究を行っていた。仕事の合間に日本国憲法の制定過程に関する資料を読んでみたところ、その面白さに圧倒されてしまった。ケーディスやラウエル、ハッシーという面々は占領軍の軍人であると同時に、ハーバード・ロースクール卒の気鋭の法律家であり、鋭敏な人権感覚の持主であった。彼ら「運営委員会」の調整の下で、民政局を横断する人材が、青臭い理想に燃えて智慧を出し合って合作したのがGHQ草案であった。対する日本政府側の法務官はアメリカ憲法の基本的なコンセプトについて驚くほどに無知であった。その両者が夜を徹して議論をし、議会の裏舞台で駆け引きを行って出来上がったのが日本国憲法である。
われわれの研究会の問題意識は、刑事人権規定の英語版と日本語版との間に翻訳上の問題以上に事柄の本質にかかわる乖離があるのではないか、ということが出発点であった。制定過程を調べていくうちにこの問題意識は非常に強く裏付けられるとともに、憲法学者たちがこの問題を殆ど無視していることが気になった。英米法学者の田中英夫はこの問題に正面から立ち向かった数少ない学者である。田中は、アメリカ憲法判例の歴史的展開についての深い造詣と日本国憲法の制定過程の研究から、憲法31条はデュー・プロセス保障規定ではないと断定した。憲法学者の通説は、彼の論拠を殆ど黙殺することで、やり過ごそうとしている。この態度には学者的良心が全くない。私にはそう思える。
私は、率直にこの問題をケーディス氏に尋ねてみた。ケーディス氏は当時87歳であったが、語り口は非常にしっかりしていたし、40年以上も前のやり取りを非常に鮮明に記憶しているようであり、驚かされた。
このインタビューの後、私は、田中英夫の説が正しいことを確信した。われわれは、憲法施行50周年の年にわれわれの研究に一区切りをつけ、その一応の成果を発表した(憲法的刑事手続研究会編『憲法的刑事手続』(日本評論社1997))。勿論、憲法学者はわれわれを無視した。日本の憲法学者はそれぞれの政治哲学に引き寄せて憲法の条文を解釈することに忙しく、その条文に込められた人々の願いや格闘の歴史には興味がないらしい。
ケーディス氏は1996年6月18日90年の生涯を閉じた。
以下の資料は、私たちが行ったインタビューの録音テープを私が翻訳したものである。
*****
ケーディス氏インタビュー
1993年5月6日
赤坂プリンスホテル
参加者
チャールズ・L・ケーディス
利谷信義
伊佐千尋
飯室勝彦
鈴木昭典
四宮啓
和田幹彦
高野隆
利谷:私の専門は民事法なのですが、法社会学者として陪審制度の研究をしています。私はとりわけアメリカの陪審制度ならびに戦前の日本の陪審制度に関心を持っています。わたしの質問は、2つしかありません。一つは、憲法草案ははじめ陪審制度に関する規定を持っていたのに、それが削除されたのは何故かと言うことです。それは陪審に関する否定的な評価をGHQが持っていたからですか。
ケーディス:いつの日付の草案ですか。
和田:1946年2月8日付けです。
ケーディス:それは人権に関する委員会のドラフトだ。われわれ運営委員会は陪審制度の要請を削除した。なぜなら、陪審制度は特殊アングローサクソン的な制度であり、一般的にドイツの法制度やナポレオン法典(これらには陪審制度はない)に従っていた日本に押し付けられるべきではないと考えたからだ。
伊佐:われわれは戦前には陪審制度を持っていました。
ケーディス:日本には陪審があったかもしれないが、日本の制度が模範としていた、例えばドイツの法典には陪審制度はない。……われわれは陪審制度を禁止した訳ではない。それを要請はしなかったに過ぎない。われわれが陪審を憲法に盛り込んだとすれば、日本は陪審制を持つことを義務づけられることになる。われわれはただ、問題をオープンにしておいたに過ぎない。あなたがたがそれを欲すれば、持つことができるし、欲しくなければ持つ必要はないということだ。運営委員会は陪審制度を必須の制度として要求すべきとは考えなかったのだ。
利谷:GHQの内部にも陪審制度を日本に入れた方が良いと考えた人もいたのですね
ケーディス:名前は忘れたが、そのような人がいたことは聞違いない。そうでなければドラフトに陪審制度が加えられることはあり得ない。
利谷:私の第2の質問です。裁判所法の審議の最終段階で、GHQは陪審法の将来の可能性を認める規定を挿入することを要求しました。そのことについてご意見を伺いたい。
ケーディス:その条項がどのようなものだったか思い出せないのだが……。
利谷:私が見た記録によると、オプラー博士が日本側に対してそのことを要求しました。
ケーディス:オプラーは日本側に何かを要求するということが殆どなかった。彼はいつも日本側の選択に任せていた。この件も要求したというよりも、一つの提案をしたのだろうと思う。
伊佐:裁判所法3条3項については、かなり強硬で「これは命令だ」と記録されているんです。
ケーディス:彼がそれについて私に話したかどうか、おぼえていない。もしも話したとすれば、私は「命令などするな」と言ったはずだ。
伊佐:私は「命令」に感謝します。それがなかったら、このような規定をわれわれは持つことができなかったでしょう(笑い)。
ケーディス:オプラーも喜んでいるでしょう(笑い)。
利谷:よろしければ、ケーディスさんの陪審制度に対するお考えをお聞きかせください。
ケーディス:一般的に言って、陪審制度は良い制度だと思う。1951年か52年に日本の最高裁判所をアメリカの最高裁判所や多くの裁判官に紹介したことがある。あるとき私は当時第2巡回区連邦控訴裁判所判事をしていたジェローム・フランクを紹介した。ある日本の裁判官はフランク判事に陪審制についての質問をした。すると、フランク判事は非常に長い、説得力のある反陪審論を展開した。
利谷:『裁かれる裁判所』のなかでも彼は、反陪審論を展開していますね。
ケーディス:私は彼のことを個人的にもよく知っているし、大変良い裁判官だ。フランク判事に紹介したすぐ後で、私は日本の裁判官たちをもう一人の裁判官ハロルド・メディナHarold Medina判事に紹介した。彼も大変優れた連邦地裁判事であり、多くの陪審裁判を経験していた。彼はニューヨークで私と同じアパートに住んでいたので、私は彼のこともよく知っていた。私はメディナ判事に、その前日か前々日に行われた日本の裁判官とフランク判事の会話のことを話した。するとメディナ判事は、わたしたちの会談の殆ど全ての時間を費やして、いかに陪審制度が素晴らしいものであり、全ての国がこの制度を持つべきでること、そしてフランク判事の説が如何に誤りであるかを弁じた。わたしは彼の議論にも感銘を受けた(笑い)。
この問題は非常に議論が多い。しかし、私は刑事事件については一般的に言って陪審は良い制度だと思う。民事事件については、よく判らない。1949年から1979年まで実務に携わり、何度も裁判所に出頭したが、陪審裁判を経験したことは一度もない。したがって、陪審制度についての私の意見は、経験に基づくものではない。
利谷:「ロドニー・キング事件」の陪審裁判はどうお感じになりましたでしょうか。
ケーディス:評決は正しかったと思う。私は裁判をテレビでみていました。評決後私は妻に「私も同じ評決をしたと思う」と言いました。
高野:どちらの評決ですか。州のケースですか、連邦のケースですか。
ケーディス:連邦の公民権違反事件の方だ。テレビで、問題のビデオが通常のスピードやスローモーションで何度も再生された。それを見て、私は一人の警察官は明らかに無罪だと思った。しかし、もう一人の警察官は、明らかに過剰な暴行を加えており、監督する立場にあった巡査部長はそれを止めるべきだと私は感じた。評決が出たときには、妻は私を「賢い」と言って誉めてくれた。(笑い)。
私は、この事件はまだ最終的な結論には達していないと思う。有罪になった2人の警察官は控訴すると思う。
四宮:占領当時のことをお伺いします。当時、日本政府の方から陪審制度について、反対若しくは先送りにしたいというような声がケーディスさんたちのところに届いたことはあったでしょうか。
ケーディス:いいえ、当時賛成論も反対論も聞いたことはなかった。
伊佐:陪審制度がなかった方が、占領行政を遂行するのに好都合だったということはないでしょうか。
ケーディス:ワシントンにおいては陪審制に関して、賛成・反対いずれのポリシーもなかったし、この件についてわれわれはいかなる指令も受けていない。われわれはどのような立場にも立たなかったはずだ。われわれは、陪審制を採用するかどうかという問題を完全に日本政府に委ねたのである。オプラーが陪審条項の挿入を「命令した」という皆さんお話しを今日聞くまではそう思っていた。
伊佐:陪審についての当時のディスカッションの議事録があると思うのですが、どこに行けば見ることができるのでしょうか。
ケーディス:そのような記録が取られたのかどうか判らないが、もしもあるとすれば、ワシントン郊外にあるSuitlandと言うこところに保存されている民政局のファイルの中に含まれている筈だ。私はそこに行ったことはないが、合衆国公文書館のように記録が整理されておらず、文書はただ箱の中に入れられているだけなので、目的の文書を探すのは一苦労だと思う。
利谷:ケーディスさんの記憶のなかに、運営委員会で陪審が議論されたということはありますか。
ケーディス:いいえ。運営委員会の記録は高柳、田中、大友らがラウエルから入手した文書に基づいて出版した書物の中にあると思う。
伊佐:あの本は全てをカバーしている訳ではないと思います。
ケーディス:全部カバーしていないって?しかし、ラウエルの全てをカバーしているがね(笑い)。わたしの知る限りもう一つの文書はミシガン大学にある「ハッシー・ペーパー」だ。そのなかにあるかもしれない。しかし私はラウエル・ペーパーは完全なファイルだと思っていた。わたしも幾つかの文書を持っているが、そのほとんどをジャスティン・ウィリアムズに貸した。彼はその文書に基づいて本を執筆したが、この文書はその後メリーランド大学に保存されている。
この文書のなかに陪審制度に関する記述があったかどうかは覚えていない。メリーランド大学にPrangeコレクションという膨大な資料集がある。これは当時の新聞の切り抜きなど多数の文献を収集したもので、この中に問題の文献があるかもしれない。メリーランド大学のMayo教授に半年前に聞いたところ、Prangeコレクションは現在閉鎖されているということだ。多くの学者が文書の一部を勝手に持ち去るという出来事があって、それを防ぐ手だてがないということだ。いつかはまた公開されるだろうが、次の飛行機には間に合わないね(笑い)。
伊佐:これはゴードン夫人から頂いたもので、かなり早い段階の憲法草案だと思うのですが。
ケーディス:これは第3章(人権の章)だ。……ハッシーの筆跡だ。これは2番目か3番目のドラフトだ。最初のドラフトには条文のナンバリングはなかった。
伊佐:ここには陪審制の条項があります。
ケーディス:ここに陪審の条項があり、高柳らの本にその件のディスカッションがないとすれば、それはとても不思議なことで、不完全な資料と言わなければならない。このドラフトに陪審があり、運営委員会がそれを削った際に人権に関する委員会からなんらの異論もないとすれば不思議なことだ。もしかしたら、これが最初のドラフトなのかもしれない。というのは、このドラフトはTOP SECRETと分類されているが、私の記憶では、TOP SECRETというのは高すぎる分類なので、ただのSECRETにするように指示したことがあるからだ。
このドラフトが最初で後からナンバリングをしたのかも知れない。それから、ここにハッシーの筆跡でOriginal Reportと書いてあることも、これが最初の草案であると考える理由となるだろう。しかし、誰かが別の場所にあったハッシーのノートをここに誤って張り付けてしまったという可能性もある。人々が文書を閲覧した際にそのようなことをするということを、私はマクネリー教授から聞いたことがある。非常に多くの人々がハッシー文書を扱っているために、現在の彼のノートの位置が彼が添付した当時のままであると信じることができなくなっているのだ。……9条について非常に多く質問を受けたので、これ以上9条の話しをするのは嫌なのだが、ここでも同じことが言える。9条の草案が前文と一緒にクリップされていたので、9条が前文に入れられる筈であったのだと考える人がいるのだ。
鈴木:9条が真ん中に入った前文のドラフトがあります。
ケーディス:私はそのようなドラフトを知らない。……ウィットニー将軍や運営委員会のメンバーは皆、前文にそれを入れることに反対していた。われわれはこの条項は憲法の本文に入れられるべきであると考えていたのだ。1条にするか、2条か、それとも3条かという点については議論があったが、本文中に入れるべきだという点についは意見が完全に一致していた。一方、ハッシーがもしかしたらある時期に前文にいれた草案を考えていたかもしれない。というのは松本蒸治博士が前文にこれを入れることを望んでおり、前文にいれたらどうなるかを検討していたかもしれないから。しかし、わたしはそのような前文の存在を全く思い出せない。ハッシーは実験的にそのようなことをしたのかもしれない。
高野:刑事手続に関する規定について質問します。日本国憲法には、非常に詳細な刑事手続規定があることが種々の人々から指摘されています。そこで、まず、はじめにおおざっぱな質問ですが、なぜあなたやあなたの同僚たちはこのような詳細な刑事手続規定を憲法に定めようと考えたのですか。
ケーディス:刑事手続上の権利規定の原案の起草に私は直接かかわってはいない。これらの原案はハッシーとラウエルが起草したものだ。彼等はそれまでの日本の刑事被告人たちは非常に少ない権利しか持っておらず、それを保障するためには憲法に詳細な規定を設ける必要があると考えたのだと思う。憲法の規定が一般的すぎると、刑事訴訟法による保障も期待できず、結局、何等の権利も保障されないことになってしまうことを恐れたのだ。彼等は、ベアタ・ゴードンたちが市民的自由について考えていたのと同じように考えていたのかも知れない。彼等もまた、非常に詳細な市民的自由に関する規定を起草した。しかし、運営委員会はその幾つかを削除した。運営委員会は、憲法というものは一般的な原則を述べるべきであって、詳細な規定は制定法に委ねるべきだと考えた。彼女や人権に関する委員会の他のメンバー、ワイルズ博士やルースト中佐たちの意見は、憲法上に市民的自由に関する詳細な規定を置かなければ、日本側は決してこれらの権利規定を制定法に置くことはしないだろうと言うものであった。しかし、我々は日本側はそうするだろうと考えて、詳細な規定を原案から削除した。ラウエルとハッシーは、刑事手続上の権利に関して、彼女たちが考えたのと同じように考えたのだと思う。勿論、これらの権利は、結局、憲法第三章に規定されることになった。それはつまり、ラウエルやハッシーが、これら刑事手続上の権利を、女性や子供の権利あるいは労働の権利等に関する規定よりも重要と考えたためであろう。
高野:ラウエル氏は当時の日本の刑事手続の状況についての予備的なリポートを書いています。その中で、例えば、彼はつぎのように言っています。「日本の刑事裁判は、拷問によって得られた自白に依拠するところが大きいこと、および政府の批判者に犯罪を犯させるアジャン・プロヴォカツールを用いることで、悪名高いものがある」。ラウエル氏は、憲法草案起草にあたって日本の刑事手続の実際についての調査をしたのでしょうか。
ケーディス:それこそ彼の仕事であったと思う。
高野:彼は誰か日本人の専門家の援助を受けたのでしょうか。
ケーディス:我々の人材は非常に不足していた。1946年の1月下旬か2月にゴードン夫人が参加するまで民間人や政府の調査機関を利用することはできなかった。私はラウエルが独自に調査したのではないかと思う。彼は非常に優秀な弁護士であった。彼は長年にわたって弁護士実務に携わっていた。良い弁護士というのは非常に思慮深く、慎重である。
高野:GHQ草案の32条についてお伺いします。同条はこう言っています。「何人も、国会の定める手続によらずに、その生命もしくは自由を奪われ、またはいかなる刑罰をも科せられることはない」。この規定は合衆国憲法のデュープロセス・クローズに似ていますが、しかし、明かに異なった表現が用いられています。なぜあなたがたは、デュープロセス・クローズと異なる表現を用いたのでしょうか。
ケーディス:何故にwithout due process of Lawという表現を我々が使わなかったかという質問か?
高野:そうです。なぜ、あなたがたはその有名なフレーズを使わなかったのでしょうか。
ケーディス:私がその表現を使うのを避けたのだ。その理由は次のようなものだ。合衆国憲法のデュープロセス・クローズつまりNo one shall be deprived of his life, liberty or property without due process of Lawという条項のもとで、合衆国最高裁判所は、1920年代から30年代初頭にかけて、多くの制定法を違憲であると宣言した。その考え方は、実体的デュープロセス(substantive due process)というもので、手続的デュープロセス(procedural due process)とは区別される概念だ。私の意見では良い法律、例えば、最低賃金法とか児童労働の禁止とかに関する法律、要するに一般に社会的な立法と言われるものの多くを、最高裁判所は、「法の適正な手続」によらずに経営者の財産権を奪うものであるとか、雇用者が児童を雇用し、あるいは、時給の額を決定する自由を奪うものであるとして、憲法に違反するとした。私のロースクールの教授のなかに、フランクファーター裁判官がいた。彼は、実体的デュープロセスに非常に強く反対して、最高裁判所は間違っていると言った。
彼によれば、「デュープロセス」とは手続的なデュープロセス、すなわち、procedures established by Lawに他ならない。私は、この考え方を日本の憲法の中に取り入れたのだと思う。最初の31条の原案のなかにwithout due process of Lawというフレーズがあったかどうか思い出せないが、もしあったのだとすれば、私はそれを取り外したと思う。
高野:最初の草案の段階から、そのフレーズは使われていません。
ケーディス:ハッシーもラウエルもハーバードロースクールの出身だが、彼等がフランクファーターのもとで学んだかどうかは、思い出せない。しかし、彼等も同様の思考をしたのかも知れない。
高野:それでは、逆に、なぜこの規定を憲法に入れることにしたのですか。全然このような規定を設けないことも可能であったと思われるのに、あえてアメリカのデュープロセス・クローズを思い起こさせる規定を設けた理由は何ですか。なぜ、except according to procedures established by the Dietという表現を使おうとしたのでしょうか。
ケーディス:我々が目指したのは、刑事手続上の人権の保障というような手続的デュープロセスであって、実体的デュープロセスではないということだ。私の手元のコピーではprocedures established by Lawとなっているが.....。
高野:それは最終的に採用された条文の表現です。
ケーディス:我々は皆、何人も告知を受けず、あるいは、審問を受けずに、生命や自由を奪われることはないというような権利は保障されると考えていた。
高野:それが、要するに手続的デュープロセスということなんですね。
ケーディス:そうだ。この規定に関して当時行なわれた議論を詳しくは思い出せないが、しかし、due process of Lawという表現を用いなかった理由として、アメリカの最高裁判所が1920年代から30年代にかけておこなったと同じようなことを日本の最高裁判所がやるだろうと考えていたことは、よく覚えている。
高野:しかし、アメリカの最高裁判所は1937年に態度を変えました。
ケーディス:その通りだ。しかし、賭をしてみるつもりはなかったんだよ。(笑い)。
高野:この規定の起草過程には、いわゆる「ニューディール時代」に財務省などの連邦法務官を歴任したあなた自身の経歴が影響していると思いますか。
ケーディス:多分そうだろう。必ずしも意識的にそうしていた訳ではないが。われわれはあの時代、いつも最高裁判所の少数意見の考えに賛成していた。良い法律が、裁判官の経済的好みによって違憲とされたのだ。
高野:GHQ草案の最初の原案には「財産」という言葉がありましたが、次のドラフトではこの言葉は削られています。これは、多分運営委員会のメンバーの誰かによってなされたのだと思いますが、あなたが削ったのかも知れませんね。
ケーディス:多分。(笑い)
伊佐:ごく初期のGHQ原案では「逮捕のときから国選弁護人が付される」と記載されています。ところが、最終的な条文である37条は、これとは異なり、国選弁護人は起訴後にしか付されないことになってしまいました。この違いはなぜ生じたのでしょうか。私は、これこそ日本で冤罪が多発している最大の原因の一つだと思うのです。
ケーディス:多分、これは日本側との妥協の結果だと思うのだが。
伊佐:日本ではthe accusedという言葉が、indictされた後の者とされているのです。
ケーディス:その点についてどのようなディスカッションが行なわれたのかは思い出せないが、それが問題であることは判る。日本側と協議していて、しばしば、問題の部分の日本語がどうなっているのかということが問題となった。例えば、逮捕の際に司法官憲が発する令状が必要である場合の例外であるunless he is apprehended, the offense being committedに相当する日本語がどうなっているのか、というようなことを巡って議論した覚えがある。日本側が同意した日本語がどのような意味なのかを確認するのは大変困難なことだった。
伊佐:日本側の代表として交渉に参加した佐藤氏は次のような報告をしています。GHQ草案にimmcomunicadoを禁止すると言う規定あるが、その意味が判らないので、GHQ側に問いただしたが、満足な答えがないので、彼等も良く判らないのだと考えて、この規定は削除することにした、と。こんなことは信じられないのですが。
ケーディス:とても、信じられないね(笑い)。法制局のサトウ・タツオのことか....。
高野:佐藤氏はまた、次のような報告もしています。GHQ草案では逮捕状の発布権者を「権限のある裁判所の一員(a competent officer of a court of law)」にしていたが、3月4日から5日にかけてのGHQとの折衝によって、これを「権限ある司法官憲(a competent judicial officer)」に変更することに合意した、これは検察官を令状発布権者に含めようとする趣旨である、と彼は報告しています。この報告は正しいでしょうか。
ケーディス:これも交渉の過程における譲歩の一つだと思うが、われわれの理解では、competent judicial officerには、マジストレートなどの下級の裁判所職員が含まれることはあっても、検察官を含むことはない。だから、刑事訴訟法が改定されるときに、日本側に対してcompetent judicial officerには検察官は含まれないと言っているはずだ。
高野:佐藤氏は、GHQのメンバー自身もcompetent judicial officerには検察官が含まれることを了解していたというのですが。これは本当なのでしょうか。私には本当には思えないのですが。
ケーディス:私もそうは思わないが、定かな記憶はない。もしも、検察官を含むつもりならば、public procuratorという言葉を使ったはずだ。なぜなら、われわれは通常procuratorをjudicial officerとは考えないから。日本の裁判所では、検察官は弁護人よりも高い席についていた。この実務をわれわれは変えたいと考えていたのだ。彼等検察官は、一段高い席についているために、裁判官のように見えた。佐藤が言うような合意があったのかどうか、記憶はない。3月4日から5日にかけて折衝したわけだが、われわれがこの章に達したのもう午前3時、4時と言う時刻だったことをはっきり覚えている。それまでに非常に多くの時間を費やし、そして、更に多くの章が残されていた。つかれていたことは間違いない。良い言い訳ではないが...(笑い)。
高野:あなたはその徹夜の折衝に終始参加していたのですか。
ケーディス:ずっといた。ベアタ・ゴードンもいたし、後に彼女の夫になるゴードンもいたと思う。ホイットニーはその部屋にはおらず、自分のオフィスにいた。
四宮:日本国憲法76条3項は「すべての裁判官は、その良心に従い独立してその職務を行ない、この憲法及び法律にのみ拘束される」と規定しています。学者のなかには、裁判官が陪審員の評決に従うことは、この規定に違反するから、我が国では陪審制を採用することはできないと主張する人がいます。あなたがたは、この規定を起草するときに、このような議論が可能だと考えましたか。
ケーディス:まったく考えなかった。この規定によって、陪審の評決の拘束力を排除しようという考えは全くなかった。われわれは、陪審制を採用するかどうかの問題は、日本国民すなわち国会に委ねようと考えていたのだ。
(高野隆 記1993年8月24日)
1993年5月、チャールズ・L・ケーディス氏が来日した。ケーディス氏は、連合国軍総司令部(GHQ)民政局次長であり、1946年2月に連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサーが日本政府に提示した憲法草案(「GHQ草案」あるいは「マッカーサー草案」)の起草を指揮し、その後も内閣法制局との交渉などを通じて日本国憲法の制定に深くかかわった人である。
「陪審裁判を考える会」のメンバーから、ケーディス氏のインタビューに付き合わないかと誘われて、私はこのまたとない機会を逃すまいと、何の準備もなく氏の滞在する赤坂プリンスホテルに赴いたのであった。そのころ私は、日弁連接見交通権確立実行委員会の有力メンバーとともに、「日本国憲法の刑事人権規定が想定した刑事手続はどのようなものだったのか」というテーマの共同研究を行っていた。仕事の合間に日本国憲法の制定過程に関する資料を読んでみたところ、その面白さに圧倒されてしまった。ケーディスやラウエル、ハッシーという面々は占領軍の軍人であると同時に、ハーバード・ロースクール卒の気鋭の法律家であり、鋭敏な人権感覚の持主であった。彼ら「運営委員会」の調整の下で、民政局を横断する人材が、青臭い理想に燃えて智慧を出し合って合作したのがGHQ草案であった。対する日本政府側の法務官はアメリカ憲法の基本的なコンセプトについて驚くほどに無知であった。その両者が夜を徹して議論をし、議会の裏舞台で駆け引きを行って出来上がったのが日本国憲法である。
われわれの研究会の問題意識は、刑事人権規定の英語版と日本語版との間に翻訳上の問題以上に事柄の本質にかかわる乖離があるのではないか、ということが出発点であった。制定過程を調べていくうちにこの問題意識は非常に強く裏付けられるとともに、憲法学者たちがこの問題を殆ど無視していることが気になった。英米法学者の田中英夫はこの問題に正面から立ち向かった数少ない学者である。田中は、アメリカ憲法判例の歴史的展開についての深い造詣と日本国憲法の制定過程の研究から、憲法31条はデュー・プロセス保障規定ではないと断定した。憲法学者の通説は、彼の論拠を殆ど黙殺することで、やり過ごそうとしている。この態度には学者的良心が全くない。私にはそう思える。
私は、率直にこの問題をケーディス氏に尋ねてみた。ケーディス氏は当時87歳であったが、語り口は非常にしっかりしていたし、40年以上も前のやり取りを非常に鮮明に記憶しているようであり、驚かされた。
このインタビューの後、私は、田中英夫の説が正しいことを確信した。われわれは、憲法施行50周年の年にわれわれの研究に一区切りをつけ、その一応の成果を発表した(憲法的刑事手続研究会編『憲法的刑事手続』(日本評論社1997))。勿論、憲法学者はわれわれを無視した。日本の憲法学者はそれぞれの政治哲学に引き寄せて憲法の条文を解釈することに忙しく、その条文に込められた人々の願いや格闘の歴史には興味がないらしい。
ケーディス氏は1996年6月18日90年の生涯を閉じた。
以下の資料は、私たちが行ったインタビューの録音テープを私が翻訳したものである。
*****
ケーディス氏インタビュー
1993年5月6日
赤坂プリンスホテル
参加者
チャールズ・L・ケーディス
利谷信義
伊佐千尋
飯室勝彦
鈴木昭典
四宮啓
和田幹彦
高野隆
利谷:私の専門は民事法なのですが、法社会学者として陪審制度の研究をしています。私はとりわけアメリカの陪審制度ならびに戦前の日本の陪審制度に関心を持っています。わたしの質問は、2つしかありません。一つは、憲法草案ははじめ陪審制度に関する規定を持っていたのに、それが削除されたのは何故かと言うことです。それは陪審に関する否定的な評価をGHQが持っていたからですか。
ケーディス:いつの日付の草案ですか。
和田:1946年2月8日付けです。
ケーディス:それは人権に関する委員会のドラフトだ。われわれ運営委員会は陪審制度の要請を削除した。なぜなら、陪審制度は特殊アングローサクソン的な制度であり、一般的にドイツの法制度やナポレオン法典(これらには陪審制度はない)に従っていた日本に押し付けられるべきではないと考えたからだ。
伊佐:われわれは戦前には陪審制度を持っていました。
ケーディス:日本には陪審があったかもしれないが、日本の制度が模範としていた、例えばドイツの法典には陪審制度はない。……われわれは陪審制度を禁止した訳ではない。それを要請はしなかったに過ぎない。われわれが陪審を憲法に盛り込んだとすれば、日本は陪審制を持つことを義務づけられることになる。われわれはただ、問題をオープンにしておいたに過ぎない。あなたがたがそれを欲すれば、持つことができるし、欲しくなければ持つ必要はないということだ。運営委員会は陪審制度を必須の制度として要求すべきとは考えなかったのだ。
利谷:GHQの内部にも陪審制度を日本に入れた方が良いと考えた人もいたのですね
ケーディス:名前は忘れたが、そのような人がいたことは聞違いない。そうでなければドラフトに陪審制度が加えられることはあり得ない。
利谷:私の第2の質問です。裁判所法の審議の最終段階で、GHQは陪審法の将来の可能性を認める規定を挿入することを要求しました。そのことについてご意見を伺いたい。
ケーディス:その条項がどのようなものだったか思い出せないのだが……。
利谷:私が見た記録によると、オプラー博士が日本側に対してそのことを要求しました。
ケーディス:オプラーは日本側に何かを要求するということが殆どなかった。彼はいつも日本側の選択に任せていた。この件も要求したというよりも、一つの提案をしたのだろうと思う。
伊佐:裁判所法3条3項については、かなり強硬で「これは命令だ」と記録されているんです。
ケーディス:彼がそれについて私に話したかどうか、おぼえていない。もしも話したとすれば、私は「命令などするな」と言ったはずだ。
伊佐:私は「命令」に感謝します。それがなかったら、このような規定をわれわれは持つことができなかったでしょう(笑い)。
ケーディス:オプラーも喜んでいるでしょう(笑い)。
利谷:よろしければ、ケーディスさんの陪審制度に対するお考えをお聞きかせください。
ケーディス:一般的に言って、陪審制度は良い制度だと思う。1951年か52年に日本の最高裁判所をアメリカの最高裁判所や多くの裁判官に紹介したことがある。あるとき私は当時第2巡回区連邦控訴裁判所判事をしていたジェローム・フランクを紹介した。ある日本の裁判官はフランク判事に陪審制についての質問をした。すると、フランク判事は非常に長い、説得力のある反陪審論を展開した。
利谷:『裁かれる裁判所』のなかでも彼は、反陪審論を展開していますね。
ケーディス:私は彼のことを個人的にもよく知っているし、大変良い裁判官だ。フランク判事に紹介したすぐ後で、私は日本の裁判官たちをもう一人の裁判官ハロルド・メディナHarold Medina判事に紹介した。彼も大変優れた連邦地裁判事であり、多くの陪審裁判を経験していた。彼はニューヨークで私と同じアパートに住んでいたので、私は彼のこともよく知っていた。私はメディナ判事に、その前日か前々日に行われた日本の裁判官とフランク判事の会話のことを話した。するとメディナ判事は、わたしたちの会談の殆ど全ての時間を費やして、いかに陪審制度が素晴らしいものであり、全ての国がこの制度を持つべきでること、そしてフランク判事の説が如何に誤りであるかを弁じた。わたしは彼の議論にも感銘を受けた(笑い)。
この問題は非常に議論が多い。しかし、私は刑事事件については一般的に言って陪審は良い制度だと思う。民事事件については、よく判らない。1949年から1979年まで実務に携わり、何度も裁判所に出頭したが、陪審裁判を経験したことは一度もない。したがって、陪審制度についての私の意見は、経験に基づくものではない。
利谷:「ロドニー・キング事件」の陪審裁判はどうお感じになりましたでしょうか。
ケーディス:評決は正しかったと思う。私は裁判をテレビでみていました。評決後私は妻に「私も同じ評決をしたと思う」と言いました。
高野:どちらの評決ですか。州のケースですか、連邦のケースですか。
ケーディス:連邦の公民権違反事件の方だ。テレビで、問題のビデオが通常のスピードやスローモーションで何度も再生された。それを見て、私は一人の警察官は明らかに無罪だと思った。しかし、もう一人の警察官は、明らかに過剰な暴行を加えており、監督する立場にあった巡査部長はそれを止めるべきだと私は感じた。評決が出たときには、妻は私を「賢い」と言って誉めてくれた。(笑い)。
私は、この事件はまだ最終的な結論には達していないと思う。有罪になった2人の警察官は控訴すると思う。
四宮:占領当時のことをお伺いします。当時、日本政府の方から陪審制度について、反対若しくは先送りにしたいというような声がケーディスさんたちのところに届いたことはあったでしょうか。
ケーディス:いいえ、当時賛成論も反対論も聞いたことはなかった。
伊佐:陪審制度がなかった方が、占領行政を遂行するのに好都合だったということはないでしょうか。
ケーディス:ワシントンにおいては陪審制に関して、賛成・反対いずれのポリシーもなかったし、この件についてわれわれはいかなる指令も受けていない。われわれはどのような立場にも立たなかったはずだ。われわれは、陪審制を採用するかどうかという問題を完全に日本政府に委ねたのである。オプラーが陪審条項の挿入を「命令した」という皆さんお話しを今日聞くまではそう思っていた。
伊佐:陪審についての当時のディスカッションの議事録があると思うのですが、どこに行けば見ることができるのでしょうか。
ケーディス:そのような記録が取られたのかどうか判らないが、もしもあるとすれば、ワシントン郊外にあるSuitlandと言うこところに保存されている民政局のファイルの中に含まれている筈だ。私はそこに行ったことはないが、合衆国公文書館のように記録が整理されておらず、文書はただ箱の中に入れられているだけなので、目的の文書を探すのは一苦労だと思う。
利谷:ケーディスさんの記憶のなかに、運営委員会で陪審が議論されたということはありますか。
ケーディス:いいえ。運営委員会の記録は高柳、田中、大友らがラウエルから入手した文書に基づいて出版した書物の中にあると思う。
伊佐:あの本は全てをカバーしている訳ではないと思います。
ケーディス:全部カバーしていないって?しかし、ラウエルの全てをカバーしているがね(笑い)。わたしの知る限りもう一つの文書はミシガン大学にある「ハッシー・ペーパー」だ。そのなかにあるかもしれない。しかし私はラウエル・ペーパーは完全なファイルだと思っていた。わたしも幾つかの文書を持っているが、そのほとんどをジャスティン・ウィリアムズに貸した。彼はその文書に基づいて本を執筆したが、この文書はその後メリーランド大学に保存されている。
この文書のなかに陪審制度に関する記述があったかどうかは覚えていない。メリーランド大学にPrangeコレクションという膨大な資料集がある。これは当時の新聞の切り抜きなど多数の文献を収集したもので、この中に問題の文献があるかもしれない。メリーランド大学のMayo教授に半年前に聞いたところ、Prangeコレクションは現在閉鎖されているということだ。多くの学者が文書の一部を勝手に持ち去るという出来事があって、それを防ぐ手だてがないということだ。いつかはまた公開されるだろうが、次の飛行機には間に合わないね(笑い)。
伊佐:これはゴードン夫人から頂いたもので、かなり早い段階の憲法草案だと思うのですが。
ケーディス:これは第3章(人権の章)だ。……ハッシーの筆跡だ。これは2番目か3番目のドラフトだ。最初のドラフトには条文のナンバリングはなかった。
伊佐:ここには陪審制の条項があります。
ケーディス:ここに陪審の条項があり、高柳らの本にその件のディスカッションがないとすれば、それはとても不思議なことで、不完全な資料と言わなければならない。このドラフトに陪審があり、運営委員会がそれを削った際に人権に関する委員会からなんらの異論もないとすれば不思議なことだ。もしかしたら、これが最初のドラフトなのかもしれない。というのは、このドラフトはTOP SECRETと分類されているが、私の記憶では、TOP SECRETというのは高すぎる分類なので、ただのSECRETにするように指示したことがあるからだ。
このドラフトが最初で後からナンバリングをしたのかも知れない。それから、ここにハッシーの筆跡でOriginal Reportと書いてあることも、これが最初の草案であると考える理由となるだろう。しかし、誰かが別の場所にあったハッシーのノートをここに誤って張り付けてしまったという可能性もある。人々が文書を閲覧した際にそのようなことをするということを、私はマクネリー教授から聞いたことがある。非常に多くの人々がハッシー文書を扱っているために、現在の彼のノートの位置が彼が添付した当時のままであると信じることができなくなっているのだ。……9条について非常に多く質問を受けたので、これ以上9条の話しをするのは嫌なのだが、ここでも同じことが言える。9条の草案が前文と一緒にクリップされていたので、9条が前文に入れられる筈であったのだと考える人がいるのだ。
鈴木:9条が真ん中に入った前文のドラフトがあります。
ケーディス:私はそのようなドラフトを知らない。……ウィットニー将軍や運営委員会のメンバーは皆、前文にそれを入れることに反対していた。われわれはこの条項は憲法の本文に入れられるべきであると考えていたのだ。1条にするか、2条か、それとも3条かという点については議論があったが、本文中に入れるべきだという点についは意見が完全に一致していた。一方、ハッシーがもしかしたらある時期に前文にいれた草案を考えていたかもしれない。というのは松本蒸治博士が前文にこれを入れることを望んでおり、前文にいれたらどうなるかを検討していたかもしれないから。しかし、わたしはそのような前文の存在を全く思い出せない。ハッシーは実験的にそのようなことをしたのかもしれない。
高野:刑事手続に関する規定について質問します。日本国憲法には、非常に詳細な刑事手続規定があることが種々の人々から指摘されています。そこで、まず、はじめにおおざっぱな質問ですが、なぜあなたやあなたの同僚たちはこのような詳細な刑事手続規定を憲法に定めようと考えたのですか。
ケーディス:刑事手続上の権利規定の原案の起草に私は直接かかわってはいない。これらの原案はハッシーとラウエルが起草したものだ。彼等はそれまでの日本の刑事被告人たちは非常に少ない権利しか持っておらず、それを保障するためには憲法に詳細な規定を設ける必要があると考えたのだと思う。憲法の規定が一般的すぎると、刑事訴訟法による保障も期待できず、結局、何等の権利も保障されないことになってしまうことを恐れたのだ。彼等は、ベアタ・ゴードンたちが市民的自由について考えていたのと同じように考えていたのかも知れない。彼等もまた、非常に詳細な市民的自由に関する規定を起草した。しかし、運営委員会はその幾つかを削除した。運営委員会は、憲法というものは一般的な原則を述べるべきであって、詳細な規定は制定法に委ねるべきだと考えた。彼女や人権に関する委員会の他のメンバー、ワイルズ博士やルースト中佐たちの意見は、憲法上に市民的自由に関する詳細な規定を置かなければ、日本側は決してこれらの権利規定を制定法に置くことはしないだろうと言うものであった。しかし、我々は日本側はそうするだろうと考えて、詳細な規定を原案から削除した。ラウエルとハッシーは、刑事手続上の権利に関して、彼女たちが考えたのと同じように考えたのだと思う。勿論、これらの権利は、結局、憲法第三章に規定されることになった。それはつまり、ラウエルやハッシーが、これら刑事手続上の権利を、女性や子供の権利あるいは労働の権利等に関する規定よりも重要と考えたためであろう。
高野:ラウエル氏は当時の日本の刑事手続の状況についての予備的なリポートを書いています。その中で、例えば、彼はつぎのように言っています。「日本の刑事裁判は、拷問によって得られた自白に依拠するところが大きいこと、および政府の批判者に犯罪を犯させるアジャン・プロヴォカツールを用いることで、悪名高いものがある」。ラウエル氏は、憲法草案起草にあたって日本の刑事手続の実際についての調査をしたのでしょうか。
ケーディス:それこそ彼の仕事であったと思う。
高野:彼は誰か日本人の専門家の援助を受けたのでしょうか。
ケーディス:我々の人材は非常に不足していた。1946年の1月下旬か2月にゴードン夫人が参加するまで民間人や政府の調査機関を利用することはできなかった。私はラウエルが独自に調査したのではないかと思う。彼は非常に優秀な弁護士であった。彼は長年にわたって弁護士実務に携わっていた。良い弁護士というのは非常に思慮深く、慎重である。
高野:GHQ草案の32条についてお伺いします。同条はこう言っています。「何人も、国会の定める手続によらずに、その生命もしくは自由を奪われ、またはいかなる刑罰をも科せられることはない」。この規定は合衆国憲法のデュープロセス・クローズに似ていますが、しかし、明かに異なった表現が用いられています。なぜあなたがたは、デュープロセス・クローズと異なる表現を用いたのでしょうか。
ケーディス:何故にwithout due process of Lawという表現を我々が使わなかったかという質問か?
高野:そうです。なぜ、あなたがたはその有名なフレーズを使わなかったのでしょうか。
ケーディス:私がその表現を使うのを避けたのだ。その理由は次のようなものだ。合衆国憲法のデュープロセス・クローズつまりNo one shall be deprived of his life, liberty or property without due process of Lawという条項のもとで、合衆国最高裁判所は、1920年代から30年代初頭にかけて、多くの制定法を違憲であると宣言した。その考え方は、実体的デュープロセス(substantive due process)というもので、手続的デュープロセス(procedural due process)とは区別される概念だ。私の意見では良い法律、例えば、最低賃金法とか児童労働の禁止とかに関する法律、要するに一般に社会的な立法と言われるものの多くを、最高裁判所は、「法の適正な手続」によらずに経営者の財産権を奪うものであるとか、雇用者が児童を雇用し、あるいは、時給の額を決定する自由を奪うものであるとして、憲法に違反するとした。私のロースクールの教授のなかに、フランクファーター裁判官がいた。彼は、実体的デュープロセスに非常に強く反対して、最高裁判所は間違っていると言った。
彼によれば、「デュープロセス」とは手続的なデュープロセス、すなわち、procedures established by Lawに他ならない。私は、この考え方を日本の憲法の中に取り入れたのだと思う。最初の31条の原案のなかにwithout due process of Lawというフレーズがあったかどうか思い出せないが、もしあったのだとすれば、私はそれを取り外したと思う。
高野:最初の草案の段階から、そのフレーズは使われていません。
ケーディス:ハッシーもラウエルもハーバードロースクールの出身だが、彼等がフランクファーターのもとで学んだかどうかは、思い出せない。しかし、彼等も同様の思考をしたのかも知れない。
高野:それでは、逆に、なぜこの規定を憲法に入れることにしたのですか。全然このような規定を設けないことも可能であったと思われるのに、あえてアメリカのデュープロセス・クローズを思い起こさせる規定を設けた理由は何ですか。なぜ、except according to procedures established by the Dietという表現を使おうとしたのでしょうか。
ケーディス:我々が目指したのは、刑事手続上の人権の保障というような手続的デュープロセスであって、実体的デュープロセスではないということだ。私の手元のコピーではprocedures established by Lawとなっているが.....。
高野:それは最終的に採用された条文の表現です。
ケーディス:我々は皆、何人も告知を受けず、あるいは、審問を受けずに、生命や自由を奪われることはないというような権利は保障されると考えていた。
高野:それが、要するに手続的デュープロセスということなんですね。
ケーディス:そうだ。この規定に関して当時行なわれた議論を詳しくは思い出せないが、しかし、due process of Lawという表現を用いなかった理由として、アメリカの最高裁判所が1920年代から30年代にかけておこなったと同じようなことを日本の最高裁判所がやるだろうと考えていたことは、よく覚えている。
高野:しかし、アメリカの最高裁判所は1937年に態度を変えました。
ケーディス:その通りだ。しかし、賭をしてみるつもりはなかったんだよ。(笑い)。
高野:この規定の起草過程には、いわゆる「ニューディール時代」に財務省などの連邦法務官を歴任したあなた自身の経歴が影響していると思いますか。
ケーディス:多分そうだろう。必ずしも意識的にそうしていた訳ではないが。われわれはあの時代、いつも最高裁判所の少数意見の考えに賛成していた。良い法律が、裁判官の経済的好みによって違憲とされたのだ。
高野:GHQ草案の最初の原案には「財産」という言葉がありましたが、次のドラフトではこの言葉は削られています。これは、多分運営委員会のメンバーの誰かによってなされたのだと思いますが、あなたが削ったのかも知れませんね。
ケーディス:多分。(笑い)
伊佐:ごく初期のGHQ原案では「逮捕のときから国選弁護人が付される」と記載されています。ところが、最終的な条文である37条は、これとは異なり、国選弁護人は起訴後にしか付されないことになってしまいました。この違いはなぜ生じたのでしょうか。私は、これこそ日本で冤罪が多発している最大の原因の一つだと思うのです。
ケーディス:多分、これは日本側との妥協の結果だと思うのだが。
伊佐:日本ではthe accusedという言葉が、indictされた後の者とされているのです。
ケーディス:その点についてどのようなディスカッションが行なわれたのかは思い出せないが、それが問題であることは判る。日本側と協議していて、しばしば、問題の部分の日本語がどうなっているのかということが問題となった。例えば、逮捕の際に司法官憲が発する令状が必要である場合の例外であるunless he is apprehended, the offense being committedに相当する日本語がどうなっているのか、というようなことを巡って議論した覚えがある。日本側が同意した日本語がどのような意味なのかを確認するのは大変困難なことだった。
伊佐:日本側の代表として交渉に参加した佐藤氏は次のような報告をしています。GHQ草案にimmcomunicadoを禁止すると言う規定あるが、その意味が判らないので、GHQ側に問いただしたが、満足な答えがないので、彼等も良く判らないのだと考えて、この規定は削除することにした、と。こんなことは信じられないのですが。
ケーディス:とても、信じられないね(笑い)。法制局のサトウ・タツオのことか....。
高野:佐藤氏はまた、次のような報告もしています。GHQ草案では逮捕状の発布権者を「権限のある裁判所の一員(a competent officer of a court of law)」にしていたが、3月4日から5日にかけてのGHQとの折衝によって、これを「権限ある司法官憲(a competent judicial officer)」に変更することに合意した、これは検察官を令状発布権者に含めようとする趣旨である、と彼は報告しています。この報告は正しいでしょうか。
ケーディス:これも交渉の過程における譲歩の一つだと思うが、われわれの理解では、competent judicial officerには、マジストレートなどの下級の裁判所職員が含まれることはあっても、検察官を含むことはない。だから、刑事訴訟法が改定されるときに、日本側に対してcompetent judicial officerには検察官は含まれないと言っているはずだ。
高野:佐藤氏は、GHQのメンバー自身もcompetent judicial officerには検察官が含まれることを了解していたというのですが。これは本当なのでしょうか。私には本当には思えないのですが。
ケーディス:私もそうは思わないが、定かな記憶はない。もしも、検察官を含むつもりならば、public procuratorという言葉を使ったはずだ。なぜなら、われわれは通常procuratorをjudicial officerとは考えないから。日本の裁判所では、検察官は弁護人よりも高い席についていた。この実務をわれわれは変えたいと考えていたのだ。彼等検察官は、一段高い席についているために、裁判官のように見えた。佐藤が言うような合意があったのかどうか、記憶はない。3月4日から5日にかけて折衝したわけだが、われわれがこの章に達したのもう午前3時、4時と言う時刻だったことをはっきり覚えている。それまでに非常に多くの時間を費やし、そして、更に多くの章が残されていた。つかれていたことは間違いない。良い言い訳ではないが...(笑い)。
高野:あなたはその徹夜の折衝に終始参加していたのですか。
ケーディス:ずっといた。ベアタ・ゴードンもいたし、後に彼女の夫になるゴードンもいたと思う。ホイットニーはその部屋にはおらず、自分のオフィスにいた。
四宮:日本国憲法76条3項は「すべての裁判官は、その良心に従い独立してその職務を行ない、この憲法及び法律にのみ拘束される」と規定しています。学者のなかには、裁判官が陪審員の評決に従うことは、この規定に違反するから、我が国では陪審制を採用することはできないと主張する人がいます。あなたがたは、この規定を起草するときに、このような議論が可能だと考えましたか。
ケーディス:まったく考えなかった。この規定によって、陪審の評決の拘束力を排除しようという考えは全くなかった。われわれは、陪審制を採用するかどうかの問題は、日本国民すなわち国会に委ねようと考えていたのだ。
(高野隆 記1993年8月24日)