2007年04月04日

法務検察の無罪過敏症

北方事件(注1)の無罪が確定した。福岡高検の次席検事は「憲法違反や判例違反などの適法な上告理由を見出せなかった」と説明し、「被害者や遺族の皆さんには真相解明に至らず申し訳なく思っている」と謝罪した。しかし、次席検事はその一方で、「証拠に照らして十分有罪を立証できると判断した」「主張が受け入れられなかったのは残念」ともコメントした。法務検察当局は、今年に入って鹿児島県志布志市の選挙違反事件や北方事件など無罪判決が続いたことを受けて、今月5日に全国の高検検事長を集めた「検事長会同」を開催して今後の対策を協議するということである(日経新聞2007年4月3日朝刊13版39頁)。

1980年代にも無罪の件数がほんの少し増えたことがあった。また、そのころいわゆる「4大死刑再審事件」がすべて無罪で終結した。そのころの法務検察当局も、無罪が増えたことに対する危機感を募らせ、無罪事件を徹底的に調査検討した(注2)。法務検察当局を無罪事件の調査へと動かした動機は非常にはっきりしている。要するに、無罪判決という事態は「被告人、被害者等の事件関係者のみならず、国民一般をして、捜査機関はもとより、刑事司法そのものに対する信頼を失わせることにつながる」ものであり(注3)、「無罪判決が惹起する国民の刑事司法に対する不信感は、国民の捜査への非協力につながる」のであって、それゆえに刑事事件はすべからく「無罪という結果にならないように万全の捜査をしなければならない」(注4)というものである。

しかし、無罪判決が「国民の刑事司法に対する不信感」や「捜査への非協力」をもたらすという意見に実証的根拠があるとは思えない。もしそれが本当だとすれば、陪審裁判による無罪率が30%近いアメリカでは司法への不信が蔓延し市民は犯罪捜査に全く非協力的であるはずであるが、実際にはアメリカの司法は国民から非常に高く尊敬されているし、市民が警察を忌み嫌っているということもない。そもそも裁判というものは、事実関係に争いがあり、その争いに決着をつけるためにある。当事者いずれの側の言い分にも一理あり、簡単には甲乙付け難いからこそ裁判は行われる。すなわち、裁判というものは、いずれの当事者にもその主張が認められる可能性があるということを前提としてはじめて成り立つのである。刑事裁判に限って常に一つの結論=有罪が正しいなどと言うのはおかしい。双方の当事者に対して十分に主張立証・攻撃防御の機会が公正に与えられた結果到達した裁判の結論は、いずれであったとしても正義の実現と言えるはずであり、そうであるかぎり、国民はその結果を喜んで受け入れるはずである。要するに、裁判の結果が無罪だからと言って国民がその裁判に不信感を抱くなどと言うことはないのである。

なぜ日本の法務省や検察庁はこれほどまでに無罪に対して過敏に反応するのだろうか。私の知る限り日本の検察官ほど無罪が嫌いな検察官がいる国はない。アメリカの検察官は裁判の結果無罪評決が出されることを「検察の失点」とは考えていない。検察官は公益の代表者であり、彼らの仕事は訴訟に勝つことが目標なのではなく、正義が行われることが目標なのだ、と彼らはよく言う。これは「負け惜しみ」などではなく、政府という多大の権力を持つ当事者を代表する法律家であることの自覚と刑事司法の目的への忠誠心のようなものをそこに見て取ることができる。

法の建前は日本でも同じはずである。日本の検察官も「公益の代表者」であり、彼らの職責は訴訟に勝つことではなく「刑事について、公訴を行い、裁判所に法の正当な適用を請求」することである(検察庁法4条)。だから、裁判の結果、有罪とすることに合理的な疑問が残る被告人に無罪判決がなされたのだとすれば、それは彼らの仕事の失敗を意味するのではないことは勿論であるし、正義が実現されたという意味でその検察官は立派にその職責を果したというべきなのである。無罪判決を受けた検察官は、無罪判決を出した裁判官を祝福すべきであり、自分が立派に仕事を成し遂げたことを誇るべきである。

現実の検察官はこれとは全く異なる。彼らは徹底的に当事者的である。公訴を提起した以上何が何でも有罪に持ち込むのだという執念のようなものに突き動かされているとしか思えないことがしばしばある。黙秘権の行使を勧める弁護人の悪口を繰り返す;無罪を主張する被告人の保釈には絶対に反対する;手持ち証拠の弁護人への開示には極力反対する;法廷で十分な証言をしなかったり捜査段階の供述を覆す証人を徹底的に糾弾する;ひどい場合には偽証罪で逮捕する;弁護側の反証が成功したかに見えると警察に徹底的な「補充捜査」をさせてつぶしにかかる。彼らには自分たちが非常に強大な権力を持っていて、その権力を用いて何の権力も権威もない一個人を相手にしているのだという自覚が全くないかのようである。勝つためならどんなに小さなシミもほころびも一切許さず、岩も小石も残らずひっくり返す。そのような権限行使の結果無実の被告人に有罪判決がなされるという不正義が行われる危険性が高まるということなど、彼らの眼中にはない。

無罪を「失点」と考え、訴訟の勝敗に徹底的にこだわる日本の検察はいつどのようにして出来上がったのか、私には判らない。しかし、私が弁護士になったばかりのころ(25年前)の検察官はもっと大らかで大局的な見地からことに当たっていたと思う。年代が下がるにしたがって、「当事者的」検事が多くなっているような気がする。

日本のマスメディアは無罪判決が出ると判で押したように捜査訴追機関を非難する。確かに、北方事件では、別件で起訴された人の起訴後勾留を利用して連日深夜や未明に至る長時間の取調べを行って自白させるということが行われており、そのことは批判されるべきである。しかし、それは被告人が無罪であるかどうかに関係なく批判されるべきことがらである。有罪の人ならばそのような取調べが許されるという理屈はない。むしろ、裁判の結果違法な捜査が明らかになり、無実の人に有罪判決をすることが回避されたということは、刑事裁判システムが正常に機能した証拠であって、冤罪の発生が防止されたことをメディアも祝福するべきなのである。有罪判決と無罪判決とで捜査機関に対して手のひらを返したような姿勢をとる日本のマスメディアのあり方も、法務検察の無罪過敏症の原因となっているのではないだろうか。

80年代のイギリスでも60年代後半から70年代初頭のテロリスト裁判で有罪となった受刑者の冤罪が次々と明らかになったことがあった。そのとき、イギリス政府は警察の捜査のあり方について徹底的な調査を行い、その結果、被疑者の取調べをすべて録音・録画するという法律(1984年警察刑事証拠法)が作られるに至った。日本の法務検察もその頃「捜査の適正」を唱えたが、結局、何らの改善策も制度改革も打ち出すことはなかった。今回はどうなのだろうか。北方事件や志布志事件の捜査のあり方を徹底的に検討し、イギリス政府がやったように、取調べをすべて録音・録画するというような立法提案を日本の法務省もすべきではないだろうか。無罪判決をなくすことよりも、より人間的な捜査方法を実現することの方が、刑事司法に対する国民の信頼を高めることになるのではないだろうか。

(注)
(1) 1989年に佐賀県北方町(現武雄市)で女性3人の死体が発見された。警察は覚せい剤取締法違反で起訴され勾留中の男性を連日のように深夜にわたる取調べをしたすえ、犯行を認める上申書を獲得したが、その後男性は否認に転じ、結局、立件はできなかった。しかし、2002年夏時効の6時間前に男性を逮捕し、佐賀地検は彼の上申書群を主要な有罪証拠として起訴した。第1審の佐賀地裁は、被告人の上申書は任意捜査の限界を超える違法な取調べによるものであり、かつ、任意性にも疑いがあるとして、その証拠として採用することを拒否し(佐賀地決平16・9・16判時1947-3)、2002年5月無罪判決を言渡した(佐賀地判平17・5・10判時1947-23)。検察官が控訴したが、先月19日福岡高裁は控訴を棄却した。
(2) 最高検察庁『再審無罪事件検討結果報告』(1986)、司法研修所検察教官室『適正なる捜査のために――無罪事例の検討』(令文社1988)、同『無罪事件に学ぶ――捜査実務の基本』(令文社1992)、
(3) 吉村徳則「はしかぎ」、前掲『無罪事件に学ぶ』。
(4) 馬場義宣「はしがき」、前掲『適正なる捜査のために』。

plltakano at 22:20コメント(2)トラックバック(0)刑事裁判 | 検察官  このエントリーをはてなブックマークに追加

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コメント一覧

1. Posted by 岩崎   2007年04月14日 01:54
大阪拘置所による事前検査は秘密交通権の侵害として違憲判決が確定しましたが、被告は行政権の無謬を確信していたようにしか思えませんが。
2. Posted by 遂犯無罪   2007年08月18日 01:14
虚偽公文書作成・行使の作源地は警察・検事・裁判官
調書の偽造は裁判所の基本姿勢であり 日本裁判の基底構造

お粗末名損で発覚した虚偽有印公文書作成・行使の数々
捜査報告書・警察調書・検事調書・公判調書・口頭弁論調書
そして・・検察審査会議決書

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