2007年03月25日
裁判官の意識と無罪の推定
7、8年も前のこと、地裁刑事部で修習している司法修習生の模擬裁判に弁護士会を代表して立会い、講評をしたことがある。司法修習生が1日かけて行う刑事模擬裁判の様子を傍聴して、指導担当の裁判官、検事、弁護士が彼らの仕事ぶりを次々に論評するというものだ。
裁判の冒頭で、検察官が起訴状を朗読して、それに対して被告人が陳述の機会を与えられて意見を述べる手続(「罪状認否」などと呼ばれている)がある。裁判長は被告人を正面に起立させて、「起訴状に書かれている事実に間違いはないか」などと問う手続である。この時の模擬裁判では、裁判長は、被告人の意見陳述が終わったにもかかわらず、彼を正面に立たせっぱなしにしてその後の手続――弁護人の意見陳述や検察官の冒頭陳述など――を進めた。
訴訟指揮に不慣れな修習生は良くそういうことをする。被告人は立ちっぱなしで落ち着かないし、疲れる。着席させてあげるべきである。実際の裁判では被告人を立ちっぱなしにする裁判官は殆どいないが、被告人を尋問するときは立たせたままにする裁判官がいる。そういうとき、私は裁判長に被告人を証言席の椅子に座らせてくれるように求める。殆どの裁判官はその申立てを認める。しかし、一度だけ「いや、私は被告人質問は起立させたままやることにしています」と言って、突っぱねられことがある。明治大正のころの刑事裁判では被告人尋問は起立したまま行われ、長時間にわたって尋問が続いて疲れた被告人がふらついたり倒れたりするのを防止するために、被告人の陳述台には手すりがあったという話を長老の弁護士から聞いたことがある。
さて、模擬裁判の講評の席上で、地裁刑事部の総括判事が、被告人を立たせっぱなしにして手続を進めたことをたしなめた。この判事は最近転勤してきたばかりでどんな人か私はまだ良く知らなかった。被告人を着席させなかったことを問題にしたので、この人は被告人の気持ちが多少は理解できる良い裁判官なんだと思った。しかし、それは一瞬で打ち砕かれた。
「立たせたままだと被告人が逃げることがあるんですよ。だから、必要なとき以外は被告人を着席させて刑務官に両側から戒護させるようにしなければいけません。」
裁判長はそう説明した。私はちょっと衝撃を受けた。これまでいろんな裁判官を見てきたが、「立たせたままだと被告人は逃げる」と公言する裁判官は初めてだった。だから私はこの時のことをずっと覚えている。
つい最近、これと同じ発言をする裁判官の話を聞いた。修習生の模擬裁判ではなく、ロースクールの模擬裁判でのことだ。正確に言うと「裁判官」ではなく、「元裁判官」で現在はロールクールの教授の話である。学生の模擬裁判の練習に立ち会ったその元裁判官は、冒頭手続で被告人を立たせっぱなしにしたことを指摘して、「立たせたままでは逃げるでしょ」と言ったそうである。この発言を聞いた学生は昔の私と同じ衝撃を受けた。この点が司法修習生の反応と違うところだ。私が見た修習生は裁判長の説明を聞いて素直に納得しているようであった。
保釈を認められた被告人の中にはまれに逃亡する人がいる。拘禁状態で裁判を受ける被告人の中にもまれに、公判中あるいは押送の途中で突然逃げ出す人がいる。それは事実だ。しかし、だからと言って、被告人というものは逃げるものだという命題は成り立たないし、いま目の前にいるこの被告人が、すきあらば逃げようとする人物だということにはならない。世界人権宣言にもあるように、すべての被告人は裁判で有罪とされるまでは無罪の者と推定される権利を保障されなければならない。目の前の被告人は立たせておくと逃げるような人物だと思っている人に「無罪の推定」などなんの意味があろうか。
実は、このような思考パターンの裁判官は決して少数派ではない。少数派でないどころか、「被告人は逃げるものだ」と考える裁判官の方が圧倒的に多い。勾留の要件は「逃亡すると疑うに足りる相当な理由」あるいは「罪証を隠滅すると疑うに足りる相当な理由」であるが、毎年15万人の勾留請求に対して裁判官がそれを却下するのは500人あまり(0.33%)に過ぎない。保釈を不許可とする理由の最大のものは「罪証を隠滅すると疑うに足りる相当な理由」である。地方裁判所で公判中の被告人のうち保釈を認められるのは13%ほどである。罪を争うとこの割合はさらに低くなる。
要するに、日本の裁判官は被疑者や被告人というものは逃げたり、証拠を隠滅するものだと考えている。そのような裁判官に「無罪の推定」を実践して公正な訴訟手続や正しい事実認定をすることを期待することなどできるだろうか。彼らは、検察官が起訴した以上被告人は有罪に違いないと思っている。だから、いま自分の前にいる、罪をあえて争っている被告人は、嘘つきであり、釈放すれば逃げたり、有罪の証拠を隠匿したり、関係者を脅迫したり偽証を教唆するに違いないと思っているのだ。
「無罪の推定」がただの言葉ではなく、実質を持つべき権利だとすれば、現在の職業裁判官には事実認定者たるべき資格はないといわなければならない。自分の目の前にいる被告人を嘘つきで放っておくと逃げるような人間だと考えるような人には刑事裁判をする資格はない。目の前にいる被告人は自分と同じ心と身体を持った人間であるという共感ができる人が裁判をするとき、初めて「無罪の推定」は意味を持つ。
裁判の冒頭で、検察官が起訴状を朗読して、それに対して被告人が陳述の機会を与えられて意見を述べる手続(「罪状認否」などと呼ばれている)がある。裁判長は被告人を正面に起立させて、「起訴状に書かれている事実に間違いはないか」などと問う手続である。この時の模擬裁判では、裁判長は、被告人の意見陳述が終わったにもかかわらず、彼を正面に立たせっぱなしにしてその後の手続――弁護人の意見陳述や検察官の冒頭陳述など――を進めた。
訴訟指揮に不慣れな修習生は良くそういうことをする。被告人は立ちっぱなしで落ち着かないし、疲れる。着席させてあげるべきである。実際の裁判では被告人を立ちっぱなしにする裁判官は殆どいないが、被告人を尋問するときは立たせたままにする裁判官がいる。そういうとき、私は裁判長に被告人を証言席の椅子に座らせてくれるように求める。殆どの裁判官はその申立てを認める。しかし、一度だけ「いや、私は被告人質問は起立させたままやることにしています」と言って、突っぱねられことがある。明治大正のころの刑事裁判では被告人尋問は起立したまま行われ、長時間にわたって尋問が続いて疲れた被告人がふらついたり倒れたりするのを防止するために、被告人の陳述台には手すりがあったという話を長老の弁護士から聞いたことがある。
さて、模擬裁判の講評の席上で、地裁刑事部の総括判事が、被告人を立たせっぱなしにして手続を進めたことをたしなめた。この判事は最近転勤してきたばかりでどんな人か私はまだ良く知らなかった。被告人を着席させなかったことを問題にしたので、この人は被告人の気持ちが多少は理解できる良い裁判官なんだと思った。しかし、それは一瞬で打ち砕かれた。
「立たせたままだと被告人が逃げることがあるんですよ。だから、必要なとき以外は被告人を着席させて刑務官に両側から戒護させるようにしなければいけません。」
裁判長はそう説明した。私はちょっと衝撃を受けた。これまでいろんな裁判官を見てきたが、「立たせたままだと被告人は逃げる」と公言する裁判官は初めてだった。だから私はこの時のことをずっと覚えている。
つい最近、これと同じ発言をする裁判官の話を聞いた。修習生の模擬裁判ではなく、ロースクールの模擬裁判でのことだ。正確に言うと「裁判官」ではなく、「元裁判官」で現在はロールクールの教授の話である。学生の模擬裁判の練習に立ち会ったその元裁判官は、冒頭手続で被告人を立たせっぱなしにしたことを指摘して、「立たせたままでは逃げるでしょ」と言ったそうである。この発言を聞いた学生は昔の私と同じ衝撃を受けた。この点が司法修習生の反応と違うところだ。私が見た修習生は裁判長の説明を聞いて素直に納得しているようであった。
保釈を認められた被告人の中にはまれに逃亡する人がいる。拘禁状態で裁判を受ける被告人の中にもまれに、公判中あるいは押送の途中で突然逃げ出す人がいる。それは事実だ。しかし、だからと言って、被告人というものは逃げるものだという命題は成り立たないし、いま目の前にいるこの被告人が、すきあらば逃げようとする人物だということにはならない。世界人権宣言にもあるように、すべての被告人は裁判で有罪とされるまでは無罪の者と推定される権利を保障されなければならない。目の前の被告人は立たせておくと逃げるような人物だと思っている人に「無罪の推定」などなんの意味があろうか。
実は、このような思考パターンの裁判官は決して少数派ではない。少数派でないどころか、「被告人は逃げるものだ」と考える裁判官の方が圧倒的に多い。勾留の要件は「逃亡すると疑うに足りる相当な理由」あるいは「罪証を隠滅すると疑うに足りる相当な理由」であるが、毎年15万人の勾留請求に対して裁判官がそれを却下するのは500人あまり(0.33%)に過ぎない。保釈を不許可とする理由の最大のものは「罪証を隠滅すると疑うに足りる相当な理由」である。地方裁判所で公判中の被告人のうち保釈を認められるのは13%ほどである。罪を争うとこの割合はさらに低くなる。
要するに、日本の裁判官は被疑者や被告人というものは逃げたり、証拠を隠滅するものだと考えている。そのような裁判官に「無罪の推定」を実践して公正な訴訟手続や正しい事実認定をすることを期待することなどできるだろうか。彼らは、検察官が起訴した以上被告人は有罪に違いないと思っている。だから、いま自分の前にいる、罪をあえて争っている被告人は、嘘つきであり、釈放すれば逃げたり、有罪の証拠を隠匿したり、関係者を脅迫したり偽証を教唆するに違いないと思っているのだ。
「無罪の推定」がただの言葉ではなく、実質を持つべき権利だとすれば、現在の職業裁判官には事実認定者たるべき資格はないといわなければならない。自分の目の前にいる被告人を嘘つきで放っておくと逃げるような人間だと考えるような人には刑事裁判をする資格はない。目の前にいる被告人は自分と同じ心と身体を持った人間であるという共感ができる人が裁判をするとき、初めて「無罪の推定」は意味を持つ。