2006年12月31日
裁判員制度の精神
裁判員裁判はこれまでの刑事裁判に対してどのような要素を注入しようとするものなのか?通説的な見解とは大いに異なり、「立法者の意思」に反するかもしれないが、私は、裁判員制度は民主主義的な制度ではないと考えている。それは市民が統治機構の一部に参加する制度ではあるが、国民の「総意」すなわち多数の意思に基く判断を保障するための制度ではない。それはむしろ「少数者」である刑事訴追を受ける個人の自由を保障するための制度であり、民主主義とは緊張関係に立つところの自由主義(リベラリズム)に根ざす制度であると私は考える。
そこで、われわれは市民が法廷に参加することによって何ゆえに自由が保障されるのかを考えなければならない。それは、市民参加型刑事裁判のいわば純粋形であり「自由の守護神」(デヴリン卿)と称えられる陪審制の歴史をひもとくことで明らかになる。陪審制は刑事被告人に「同輩による裁判」(マグナ・カルタ39章)を保障すること、すなわち、被告人と同じ社会階層に属し、彼女の生活実感を理解しうる人々が裁判に参加することによって、彼女の自由が不必要に侵害されることを防止しようとするのである。
この機能がもっとも先鋭に現れるのは、検察官や裁判官と陪審員が対立するときである。アメリカ連邦最高裁判所は陪審制の歴史を振り返ってその機能をこう要約した。
「連邦や州憲法上の陪審裁判保障条項は,権力の行使についての基本的な態度──市民の生命や自由を剥奪しうる絶対的な権力を一人のあるいは一握りの裁判官の手に委ねることへの躊躇──を反映したものである。政府の他の分野で典型的に見られることであるが,他からの抑制のない絶対的な権力への恐れというものが,刑事法の分野では,有罪無罪の判断にコミュニティが参加するという方法で表明されているのである。……刑事被告人に対して同輩による陪審裁判を受ける権利を保障するということは,腐敗しあるいは過度に熱心な検察官や,卑屈な,予断を持ったあるいは風変わりな裁判官から被告人を保護する貴重な安全装置を提供することなのである。」(ダンカン対ルイジアナ、1967年)
陪審は検察官や裁判官だけではなく、法廷の外に渦巻く「世論」という名の権力と対峙して被告人をその圧力から防衛するという機能を果たすことがある。ロドニー・キング事件(1992年)やO.J.シンプソン事件(1995年)などはその例である。
陪審がこのような機能を発揮しうるのはなぜか?それは陪審の独立と厳格な証拠法の運用によるのである。裁判官に事実認定の権限がなく評議に参加できないこと、そして、陪審は証拠に集中し採用された証拠以外の何ものも判断の根拠としてはならないことが公判中に繰り返し強調されること、これらが陪審の自由保障機能の源泉であると言っても良い。そうなると、わが国の裁判員制度の妥協的な性格が明らかになるだろう。わが国の裁判官は評議室に入り裁判員と議論することができる。そして、長い間の職業裁判官制の下でこの国の証拠法は相当胡散臭いものになってしまった。
しかし、だからと言って裁判員制度は自由主義的な制度ではないと言うことはできないし、そう言うべきではない。そうではなく、われわれはいま述べた「妥協的な性格」をしっかりと認識して、裁判員制度が自由主義的な制度であり続けるための努力を実践しなければならない。裁判官がこれまでのように常識的に考えて明らかに「任意」とは言い難い自白を「任意性に疑いがない」と言い張って採用したならば、われわれは裁判員に「この自白は被告人の自発的な意思によるものでしょうか。あなたの常識に照らしてよく考えてください」と直接問いかけることができるし、問いかけるべきである。裁判官が評議室の中で裁判員に不当な影響力を行使する気配を感じたら、「事実認定は皆さん一人ひとりが責任を果たすべき貴重な職責です。決して他人任せにしてはなりません。裁判官は事実認定のプロではありません。裁判官とあなたたち裁判員との間には何らの優劣もありません。」と裁判員に向けて弁論することができるのであり、われわれはその貴重な機会を断然利用すべきなのである。
そこで、われわれは市民が法廷に参加することによって何ゆえに自由が保障されるのかを考えなければならない。それは、市民参加型刑事裁判のいわば純粋形であり「自由の守護神」(デヴリン卿)と称えられる陪審制の歴史をひもとくことで明らかになる。陪審制は刑事被告人に「同輩による裁判」(マグナ・カルタ39章)を保障すること、すなわち、被告人と同じ社会階層に属し、彼女の生活実感を理解しうる人々が裁判に参加することによって、彼女の自由が不必要に侵害されることを防止しようとするのである。
この機能がもっとも先鋭に現れるのは、検察官や裁判官と陪審員が対立するときである。アメリカ連邦最高裁判所は陪審制の歴史を振り返ってその機能をこう要約した。
「連邦や州憲法上の陪審裁判保障条項は,権力の行使についての基本的な態度──市民の生命や自由を剥奪しうる絶対的な権力を一人のあるいは一握りの裁判官の手に委ねることへの躊躇──を反映したものである。政府の他の分野で典型的に見られることであるが,他からの抑制のない絶対的な権力への恐れというものが,刑事法の分野では,有罪無罪の判断にコミュニティが参加するという方法で表明されているのである。……刑事被告人に対して同輩による陪審裁判を受ける権利を保障するということは,腐敗しあるいは過度に熱心な検察官や,卑屈な,予断を持ったあるいは風変わりな裁判官から被告人を保護する貴重な安全装置を提供することなのである。」(ダンカン対ルイジアナ、1967年)
陪審は検察官や裁判官だけではなく、法廷の外に渦巻く「世論」という名の権力と対峙して被告人をその圧力から防衛するという機能を果たすことがある。ロドニー・キング事件(1992年)やO.J.シンプソン事件(1995年)などはその例である。
陪審がこのような機能を発揮しうるのはなぜか?それは陪審の独立と厳格な証拠法の運用によるのである。裁判官に事実認定の権限がなく評議に参加できないこと、そして、陪審は証拠に集中し採用された証拠以外の何ものも判断の根拠としてはならないことが公判中に繰り返し強調されること、これらが陪審の自由保障機能の源泉であると言っても良い。そうなると、わが国の裁判員制度の妥協的な性格が明らかになるだろう。わが国の裁判官は評議室に入り裁判員と議論することができる。そして、長い間の職業裁判官制の下でこの国の証拠法は相当胡散臭いものになってしまった。
しかし、だからと言って裁判員制度は自由主義的な制度ではないと言うことはできないし、そう言うべきではない。そうではなく、われわれはいま述べた「妥協的な性格」をしっかりと認識して、裁判員制度が自由主義的な制度であり続けるための努力を実践しなければならない。裁判官がこれまでのように常識的に考えて明らかに「任意」とは言い難い自白を「任意性に疑いがない」と言い張って採用したならば、われわれは裁判員に「この自白は被告人の自発的な意思によるものでしょうか。あなたの常識に照らしてよく考えてください」と直接問いかけることができるし、問いかけるべきである。裁判官が評議室の中で裁判員に不当な影響力を行使する気配を感じたら、「事実認定は皆さん一人ひとりが責任を果たすべき貴重な職責です。決して他人任せにしてはなりません。裁判官は事実認定のプロではありません。裁判官とあなたたち裁判員との間には何らの優劣もありません。」と裁判員に向けて弁論することができるのであり、われわれはその貴重な機会を断然利用すべきなのである。
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コメント一覧
1. Posted by ゐ 2007年01月26日 20:28
引用のDancun v. Louisianaは、1968年じゃないでしょうか。ここですよね。
Providing an accused with the right to be tried by a jury of his peers gave him an inestimable safeguard against the corrupt or overzealous prosecutor and against the compliant, biased, or eccentric judge.
日本の裁判官から「against biased judge」なんていう表現が出てくる日が来るのでしょうかね?
Providing an accused with the right to be tried by a jury of his peers gave him an inestimable safeguard against the corrupt or overzealous prosecutor and against the compliant, biased, or eccentric judge.
日本の裁判官から「against biased judge」なんていう表現が出てくる日が来るのでしょうかね?
2. Posted by 高野隆 2007年01月27日 12:23
ゐさん、ご指摘ありがとうございます。
確かに1968年でした。
引用箇所は、Duncan v. Lousiana, 391 U.S. 145 (1968), at 156.です。
日本の裁判官は自分たちが「卑屈」だとか「予断を持っている」とか「風変わり」だとか思っていないでしょうし、彼らは「公正無私」であり、「自分たちも常識人だ」と声を大にして言うでしょうね。
「自己の情動的な性質の道を踏み外させる影響に」最も強く支配されている裁判官に限って、屡々、最も神妙に威圧的な機械的論理の言葉を用いるものであり、自分はただ現行の規範を発見して、それを実施するだけにすぎないという粧いで巧妙に自己を包みかくすものである。」(ジェローム・フランク(古賀正義訳)『裁かれる裁判所(下)(新装版)』(弘文堂1970[1949])、668頁)
確かに1968年でした。
引用箇所は、Duncan v. Lousiana, 391 U.S. 145 (1968), at 156.です。
日本の裁判官は自分たちが「卑屈」だとか「予断を持っている」とか「風変わり」だとか思っていないでしょうし、彼らは「公正無私」であり、「自分たちも常識人だ」と声を大にして言うでしょうね。
「自己の情動的な性質の道を踏み外させる影響に」最も強く支配されている裁判官に限って、屡々、最も神妙に威圧的な機械的論理の言葉を用いるものであり、自分はただ現行の規範を発見して、それを実施するだけにすぎないという粧いで巧妙に自己を包みかくすものである。」(ジェローム・フランク(古賀正義訳)『裁かれる裁判所(下)(新装版)』(弘文堂1970[1949])、668頁)