2023年08月17日

英国ウェストミンスター マジストレイト裁判所のゴールドスプリング上級地方判事(首席判事)は、2023年8月11日、日本政府による英国人ジョー・アンソニー・チャペル氏の身柄引渡要請を棄却する判決を言い渡した。以下に判決全文の試訳を掲載する。


ゴールドスプリング上級地方判事

(首席判事)

イングランドおよびウェールズ

ウェストミンスター マジストレイト裁判所にて


日本政府


ジョー・アンソニー・チャペル



申立人政府代理人 ベン・キース氏、ジョージア・ビーティ氏
被申立人代理人 マーク・サマーズ勅撰弁護士およびジョージ・ヘップバーン・スコット氏
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「申立人政府による保証」に関する

判決

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はじめに

1.日本政府は、ジョー・アンソニー・チャペル氏の身柄引き渡しを要求する。本判決は本件に関してなされた3度めの判決であり、国際的に認知された人権基準違反の疑いに関する証拠を評価した先の2回の判決、特に第2回の判決と併せ読まれるべきである。

2.私は、2023年2月27日に詳細な判決を下し、その中で、日本においては、法が規定しているものとは異なる人権実務の実態があるとする弁護側の証拠を受け入れた。本判決は、裁判所が保証を求めたことに対する日本の対応と、その対応が被申立人の条約上の権利を保証するのに十分なものであるかどうかを扱ったものである。

3. 2度めの判決文をここで詳述する必要はない。しかし、私は同判決で述べた次のことを繰り返す。
「これに関連する本件のテーマの一つは、ある行動が許されるか許されないかを示すために、日本当局は、法令の文言に依拠している一方で、証人の口頭証言や複数の国際機関の報告書を含む各種の報告書は、日本の実務が[日本の]証人が主観的に依拠する法令の文言とは必ずしも一致しないということである。」

4.慎重に検討した結果、私は日本に対し、こうした実務からチャペル氏を保護する保証を提供する機会を設けることにした。 アランヨシ判決[訳者注1]に従い、私は日本に対し、その点について具体的かつ詳細な保証を提供するよう求めた。

5.保証を求めるプロセスは、この司法管轄区における身柄引渡し手続きの常套手段であり、裁判所はしばしば、米国、インド、南アフリカ、カナダ、その他多くの、法の支配が行われている友好的な外国政府に対してヨーロッパ人権条約の遵守に関する保証を求める。

6.ヨーロッパ人権条約第3条、第4条、第5条、そして第6条に違反する現実的な危険性を示す証拠に接して、この要請が行われた。私は当初はそのような意図はなかったが、国際礼譲の原則に従い、この要請を行うことにした。申立人政府の証人XXは、そうした実務は法律ではなく、法律は遵守されるだろうと何度も述べたのであるが、彼らは、その実務が行われないという口頭での保証を提供することを明確に拒否した。私は、国際礼譲を十分に認識した上で、この要請を行ったのである。

7.これに対し、日本は、4 人の異なる人物によって作成された 17 ページの文書(2023 年 5 月 22 日付け)を提出して、彼らの回答を示した。申立人政府 は、これらの文書は具体的、詳細、最新かつ厳粛な外交的約束であり、法律の問題として十分であると主張する。被申立人側は、これらの文書は審問で依拠された証拠以上のものではなく、単なる法律の説明であり、私の所見に照らせば、実際の慣行が法令を遵守していることを保証するものではないと主張する。

8. ギース対アメリカ合衆国政府事件Giese v Government of the United States of America [2018] EWHC 1480 (Admin) が本件で引用された。特に同判決のパラグラフ38で、部門裁判所が以下のように述べている箇所が引用された:
「......使用された言葉を技術的に分析し、その言葉から逃れるためにあらゆる手段を講じるのではないかという疑念のレンズを通して、その保証を見るべき国家があるかもしれない。しかし、それは、与えられた約束が守られることが期待される、法の支配が行われている友好的な外国政府を扱うときには適切ではない。... 」

9.これらの見解はその後、インド対チャウラIndia v Chawla [2018] EWHC 3096 (Admin)で支持された。同判決において高等法院は、拘禁の条件に関してインド政府が提供した保証を受け入れた。

10.この点について、2点指摘したい。第1に、後に明らかになるように、いかなる保証についても「潜脱される」と言われている訳ではない。日本政府の応答はそもそも保証ですらないというのが被申立人の主張である。第2に、合衆国やインドとは違って、英国は日本と身柄引渡条約を締結していない。その理由は完全に明白とは言い難いが、本件は最初の引き渡し要請である。英国大使館から英国国民に提供された文書(第2の判決で言及されている)からその理由をある程度洞察することはできる。その文書の中で外交サービスが表明した懸念を考慮すれば、サマーズ勅撰弁護士が引用するスコットランド男爵夫人の言葉――2003年法となった法案を提出する際に政府を代表して述べた言葉――が適切である。
「...一般的な身柄引き渡しの取り決めがない国は、乱暴な言い方をすれば、人権上の理由から身柄引き渡しができないような国であることが多い」。


11.両国にとって、この新しい領域は混乱を招くものであろう。しかし、良好な外交関係を享受しているからといって、申立人政府が国際基準を遵守する義務を免除されることはない。2003年身柄引渡法(EA2003)は、ヨーロッパ人権条約に照らして現地の実務を評価することを裁判所に求めている。

12.従って、私は、その保証が法律上信頼されるための基準に照らして、客観的かつ厳密に精査しなければならない。

法的枠組み

人権条約第3条  保証と一般原則

13.条約上の権利侵害が問題になる事件における保証の提供に関する原則については、ヨーロッパ人権裁判所のオスマン対英国Othman (Abu Qatada) v UK [2012] 55 EHRR 1に示されている。この事件はヨーロッパ人権条約における多数の違反が問題になった。しかし、すべての権利侵害についてその原理は同一であった。オスマン事件でヨーロッパ人権裁判所が問題としたのは、得られた保証が、違反の現実的なリスクを取り除くのに十分であったかどうかであった。本事件に関連する限り、発表されたガイダンスには以下のような内容が含まれていた:

14.われわれには問題の保証がその実際的な適用において、申請者が不当な扱いの危険から保護される十分な保証を提供するかどうかを検討する義務がある。受入国からの保証に与えられる重みは、それぞれの場合において、問題の時点で一般に行われている実務に依存する。

15.裁判所は、第一に、提供された保証の質を、第二に、受領国の実務に照らして、それらが信頼できるかどうかを評価する。

16.法律もこのことを認めており、法理論によれば、その保証がオスマン対英国Othman (Abu qatada) v UK (2012) 55 EHRR 1で示された基準に準拠しており、そのような保証が守られないという説得力のある証拠がない場合には、条約上の権利侵害に対する十分な保護が存在することになる。

17.その基準とは
" 188. 保証の実際的な適用を評価し、保証にどのような重みが与えられるべきかを決定する際、予備的な問題は、受諾国における一般的な人権状況がいかなる保証も受け入れることを排除するかどうかである。しかし、ある国の一般的な状況によって、保証にまったく重みが与えられないということは、まれなケースに限られる(例えば、Gaforov v. Russia, no 25404/09.Russia, no. 25404/09, § 138, 21 October 2010; Sultanov v. .Russia, no. 15303/09, § 73, 4 November 2010; Yuldashev v. .Russia, no. 1248/09, § 85, 8 July 2010; Ismoilov and Others, cited above, §127).

189. 通常、裁判所は、第一に、提供された保証の質、第二に、受諾国の実務に照らして、保証が信頼できるかどうかを評価する。その際、裁判所は特に以下の要素を考慮する:

(i) 保証の条件が裁判所に開示されているかどうか(Ryabikin v. .Russia, no. 8320/04, § 119, 19 June 2008; Muminov v. .Russia, no.42502/06, § 97, 11 December 2008; Pelit v. .Azerbaijan, sited above);

(ii) 保証が具体的であるか、一般的で曖昧であるか(Saadi, cited above; Klein v. .Russia, no. 24268/08, § 55, 1 April 2010; Khaydarov v. .Russia, no. 21055/09, § 111, 20 May 2010);

(iii) 誰が保証を与えたのか、またその人物が受領国を拘束できるのか(Shamayev and Others v. Georgia and Russia No.Georgia and Russia, no.36378/02, § 344, ECHR 2005-III; Kordian v. .Turkey (dec.), no. 6575/06, 4 July 2006; Abu Salem v. .Portugal (dec.), no. 26844/04, 9 May 2006; cf. Ben Khemais v. Italy, no. 246/07, § 59, ECHR 2009-... (extracts); Garayev v. .(extracts); Garayev v. . Azerbaijan, no.53688/08, § 74, 10 June 2010; Baysakov and Others v. Ukraine, no.54131/08, § 51, 18 February 2010; Soldatenko v. .Ukraine, no. 2440/07, § 73, 23 October 2008);

(iv) その保証が受入国の中央政府によって出されたものである場合、地方当局がその保証に従うことが期待できるかどうか(Chahal, cited above, §105-107);

( v ) その保証が、受入国において合法または違法とされる待遇に関するものかどうか(Cipriani v. Italy (dec.), no. 221142/07, 30 March 2010; Youb Saoudi v. .Spain (dec.), no. 22871/06, 18 September 2006; Ismaili v. .Germany, no.58128/00, 15 March 2001; Nivette v. .France (dec.), no 44190/98, ECHR 2001 VII; Einhorn v. .France (dec.), no 71555/01, ECHR 2001-XI; Suresh and Lai Sing, both cited above)。

(vi) その保証が 締約国によって与えられたか否か(Chentiev and Ibragimov v .Slovakia (dec.), nos. 21022/08 and 51946/08, 14 September 2010; Gasayev v. .Spain (dec.), no.48514/06, 17 February 2009);

(vii) 送出国と受入国との間の二国間関係の長さと強さ、受入国が同様の保証を遵守している実績(Babar Ahmad and Others, cited above, §§107 and 108; Al-Moayad v. .Germany (dec.), no.35865/03, § 68, 20 February 2007);

(viii) 保証の遵守が、申請者の弁護士との自由な接見を提供することを含む外交的またはその他の監視メカニズ ムを通じて客観的に検証できるかどうか(Chentiev and Ibragimov and Gasayev, cited above;Ben Khemais, § 61 and Ryabikin, § 119, both cited above;Kolesnik v .Russia, no. 26876/08, § 73, 17 June 2010; see also, Agiza, Alzery and Pelit, cited above);

(ix) 受け入れ国に拷問に対する効果的な保護制度があるかどうか(国際監視機構(国際人権 NGO を含む)に協力する意思があるかどうか、拷問の申し立てを調査し責任者を処罰する意思があるかどうかを含む)(Ben Khemais, §59, 60;Soldatenko, §73, both cited above;Koktysh v. .Ukraine, no.43707/07, § 63, 10 December 2009);

(x) 申請人が以前に受入国において不当な扱いを受けたことがあるかどうか(Koktysh, § 64, cited above)、そして

(xi) 送出国/締約国の国内裁判所によって保証の信頼性が検証されたかどうか(Gasayev; Babar Ahmad and Others, § 106; Al-Moayad, § 66-69)。

18.従って、以下に述べるのは、上記の基準に照らして、当裁判所が認定した人権侵害と思われる行為の一部に対する日本の対応を検討するものである。私は、被申立人の提出文書から多くを引用することを躊躇しない。なぜなら、私は彼らの分析に多くの点で同意できるし、それ以上の分析を行うことができないからである。

19. 私がこのようなアプローチを選んだのは、日本からの回答の多くが、私が知り得た事実や意見と合致しないからである。論点が多岐にわたるため、すべてのトピックを分析したわけではないが、以下の例は、裁判所の考え方や私の結論の根拠を当事者に理解してもらうためのものである。

20.私は判断を下すにあたり、申立人政府からのその段階での回答に満足していないこと、とりわけ、申立人政府側の証人が何度もその用意があるかどうか尋ねられたにもかかわらず、権利保護の保証を与えなかったことに満足できないことを明らかにした。少なくともそうしたつもりだった。そのような背景のもと、今回の日本政府の回答がなされたのである。

ヨーロッパ人権条約第3条[訳者注2]に関連する現実的なリスク

ダイヨーカンゴク

制限時間の潜脱

21.日本の回答は、「関連犯罪」(「原則として、23日間に限定される」拘禁期間をもたらす)について、私がすでに持っている証拠を繰り返しているだけだ。それは、犯罪事実を分割して、それぞれに23日間の制限を当てはめるというやり方で拘禁期間を実質的に延長することができるし、また、実際にもそれが行われているという事実を無視しているようである。この点については、ゴーン事件や私が認定した事実を参照されたい。また、日本の回答は、警察や検察による制限潜脱の問題にも触れていないようで、チャペル氏のケースでそのような潜脱が行われないという保証にはならない。オスマン基準によれば、この回答は具体的ではなく、むしろ一般的で曖昧である。

警察留置場での不当な扱い


22.このトピックに関する日本の回答も、警察留置場の物的条件に関する法律の要請を繰り返し引用するだけである。法律の文言ではなく、その潜脱こそが私の懸念事項なのであるが、日本の回答はそれには答えない。それゆえに、チャペル氏がそうした実務の対象となっているかどうか監視し評価することもできない。日本政府の回答は、ここでも個別的な保証に値せず、ただ法律の枠組みを一般的に要約するだけである。これでは、オスマンに準拠した保証の水準に達していない。

拘束具の誤用

23.日本は、たとえば、「被拘禁者が留置担当官の命令を無視して大声を出したり騒いだりした場合」に拘束具を使用することを再度主張している。

24.日本は拘束具の誤用は存在しない、なぜなら法がそれを許容しないからだと述べる。しかし、裁判所が採用した証拠に基づいて私が認定したところでは、そうした誤用は確かに存在する。不幸なことに、誤用が可能であり現に存在するという認定がなされているにもかかわらず、彼らは、そうした実務がチャペル氏には適用されないことを確保するための保証を提供しない。この回答はまたもやオスマンに反している。

弁護士へのアクセス

25.日本は、弁護人の選任を管理する様々なルールを列挙した。このことはむしろ、私が所見を述べる際に抱いた懸念を強調するものである。すなわち、被疑者を彼の弁護士に会わせることが「捜査に重大な支障が生じる」と警察が判断した場合には、弁護士との面会を『除外』することができる。

26.こうした例外がチャペル氏に適用されないことを確約する保証はなされなかった。形式的にも精神的にも保証と言えるものはない。

圧迫的な取調べ -その長さ

27.当裁判所は、チャペル氏の場合、取調べが「個別的にも累積的にも圧迫的な長さにはならない」という個人的な保証を求め、その裏付けとして、「各取調べや一連の取調べが圧迫的な長さにならないことを保証するために、どのような措置が講じられるかについての詳細な保証」を求めた。

28.日本の回答は、ここでも、取調べに適用されるルールを引用するだけである。サマーズ氏が指摘し、私も同意するように、実際には、規則の引用を繰り返すということは、証人が語った濫用を許している広範な例外の存在を再確認することにしかならない。日本政府の「保証」には、こうした例外がチャペル氏に適用されないことを示唆するものも約束するものもない。したがって、それはオスマンに準拠しているとはいえない。

抑圧的な取調べテクニック

29.「取調べは、国際的な公正の基準を尊重した方法で行われなければならず、自白を確保するために抑圧的な行動をとること、たとえば、怒鳴る、髪を引っ張る......といったこと排除するために保証が提供されなければならない」と私は判断した。

30.ここでも日本は、警察の取調べを規定する規範、法律、警察内部のガイドラインを繰り返し引用するだけである。チャペル氏に対して抑圧的な取調べが行われないという「保証」は与えられなかったし、また、チャペル氏のケースでそうした濫用が行われないようにするための監視メカニズムも提供されなかった。日本が示した最高水準のものは、「取調べの監督者」が「取調べの状況を検査」し、抑圧的な取調べの手法を観察した場合には取調べを中止することができるという示唆である。

31.そのような監督者が組織的に独立した存在であるという保証も、チャペル氏の取調べにずっと立ち会うという保証もない。この回答は、容認できる保証にはならない。

取調べへの弁護人立会並びにビデオ録画がなされないこと

32.「日本が弁護人を取調べそのものから完全に排除している」ことが「人権条約違反の明白な危険性を生じさせている」と判断した私は、チャペル氏のケースについて、「取調べ中に...弁護士の助言を受けられるようにする措置」が取られることを個人的に保証するよう要請した。

33.日本の回答は、チャペル氏の弁護士が例外的に取調室への入室を許可されることを保証するものではない。1984年警察刑事証拠法(PACE1984)が掲げているような例外的な理由もなしに、取調べ中に弁護人を排除することは非常に問題である。例外を原則化することは、ヨーロッパ人権条約6条[訳者注3]に基づく公正な裁判の保障を明白に否定するものである。私は、日本がチャペル氏に対してこの国際的に認められた最低基準を提供するという保証を提供しない理由がわからない。国内の被拘禁者や被疑者と異なる保護を身柄引渡人に与えることは、身柄引渡手続きでは珍しいことではなく、むしろ、国家間で法律や実務に違いがあることは避けられないのである。 同じことが、ある程度の予防装置となるべき取調べのビデオ録画に関しても言える。日本は、ここでも、取調べは通常ビデオ録画されるが、例外は適用されるというルールを述べただけである。チャペル氏に対してそうした裁量の余地がないことを保証することはできるはずだが、彼らはそれをしなかった。提供されたものは保証と言えるものではない。

未決拘禁

拘禁場所が不明

34.チャペル氏がダイヨーカンゴクから出所した後、公判前にどの拘禁施設に拘禁されるのか明らかではないので、私は「チャペル氏が公判前に収容される施設を明示するように[日本に]要請した」。

35.日本は刑事施設名を挙げることを拒否している。その結果、公判前勾留に関する回答は一般的なものであり、施設に特化したものになっていない。このこと自体がオスマン基準に抵触する。それでも検討すべきだという主張もあり得るが、回答が漠然としているために適切な分析が行えない。日本がいずれの施設でも保障されるものであることを示していると思われる回答を取り上げてみても、それをどのように評価しかつ監視することができるのかは、不明である。

物的環境

36.私は、チャペル氏が公判前勾留において、次のような状況にさらされる現実の危険に直面していると判断した:
(i)「夏の耐え難い暑さ」
(ii) 冬の「厳しい寒さと暖房の欠如」
(iii)「一晩中明かりが点いている」
(iv) 「不必要な水の使用の禁止」。

37.そこで私は、チャペル氏に関して、以下の最低基準が「遵守される」という保証を求めた:
(i)「熱交換システムが設置され稼動しており、冬は暖房を、夏は冷房を供給する」、そして「このシステムは、単に利用可能なだけではなく、必要なときに実際に使用される」。
(ii)「希望すれば、居房は暗闇にすることができる」
(iii) 「居房内及び入浴やトイレを使用する際のプライバシーと尊厳」
(iv)「入浴や洗髪など、身の回りの世話に必要な水を十分に利用できる」
(v) 「適切かつ清潔なベッドと寝具 」
(vi)「適切な衛生施設へのアクセス 」
(vii) 「十分な採光と換気」

38.日本が実際の拘禁施設を特定しないので、その回答は当然のことながら曖昧で一般的なものに過ぎないが、それでも以下のような保証をしている:
(i) 拘禁施設には通常、冷暖房システムが「必要に応じて」設置されており、これらのシステムは「適切に使用」されている。これは明らかに、要求された具体的な保証には及ばない。当裁判所が採用した証拠によれば、システムは設置されているかもしれないが、実際には経費節減の目的で使用されていないことがある。
(ii)施設の居房は、夜間でも常に「最小限の明るさ」を保っている。
(iii) 施設のトイレは一般的に仕切られている。居房内のプライバシー(独房内カメラなど)や入浴時のプライバシーについては何も語られていない。
(iv)被拘禁者は、通常、週に3回の入浴と洗髪が許されている。これは明らかに、要求された具体的な個別保証には及ばない。当裁判所が採用した具体的な証拠によれば、経費節減目的のために、そのような設備が実際には差し控えられることがある。
(v) 刑事施設に関する法では、「衣類と寝具」を提供することが義務づけられている。つまり、ベッドは保証されていないということである。
(vi) 法は刑事施設の衛生環境は一般的に「適切」に保つことを要請している。
(vii) 刑事施設は通常、「適切な」自然光と空気を提供するように建設されている。

39.刑事施設の名前が明記され、提起された懸念のそれぞれがどのように適切に対処されているのか、具体的な詳細が示されない限り、保証が不十分であることは明らかである。

医療

40.私は、医療の十分性に懸念があると判断し、「必要かつ合理的な医療が、いかなる期間においても[チャペル氏に]提供され、被告が医療や医療施設を利用できるよう、あらゆる合理的な措置が取られる」ことの保証を求めた。

41.日本は、日本の刑事施設はすべての被拘禁者に「十分な」医療を提供しているという主張を繰り返す。医療の適切さにはばらつきがあり、申立人政府は施設を特定することを拒否しているという事実があるため、このような全般的な主張が、長期に及ぶ可能性のある拘禁期間を通じて被申立人の医療ニーズに対して十分に具体的であり、意味のあるものであるという十分な安心感を当裁判所に与える保証になるとは考えにくい。

規律

42.私はさらに、チャペル氏が公判前拘禁において、特に以下のような現実にさらされる危険に直面していると判断した:
(i)運動...1日30分以内(居房から運動場への移動時間を含む)。
(ii)面会が厳しく管理されている
(iii)信書についてプライバシーの保証が全くない
(iv)電話を利用できない
(v)運動時間や休憩時間など、特定の時間帯にのみ会話が許可される
(vi)弁護士への実質的なアクセスがない。

43.そこで私は日本に対し、チャペル氏が「1日30分以上の適切な運動が許可される」こと、「家族、弁護士、大使館職員のいずれか、または両方との面会が認められる」こと、「彼の個人的な通信は日常的に検閲されることはなく、厳密に必要な場合にのみ検閲される」こと、「彼の法的助言者との通信は閲覧されない」こと、そして「家族や友人との連絡のために電話を使用することが許可される」ことを保証するよう要請した。

44.「日本の法律では "少なくとも30分 "の運動が義務付けられている」というのがその回答である。

45.これは30分「以上」ではない。また、居房から運動場への移動時間が含まれるという問題や認められる運動の条件について触れていない。ここでも日本は、通常の規則を繰り返すだけで、そのような実質的な環境がヨーロッパ人権条約3条に適合していないことを認識していない。しかも、証拠によれば、そのような最低基準さえも常に守られているわけではないのである。

46.回答は、公判前被拘禁者の場合、日本の法律では「原則として」所長が面会を完全に「禁止」することは認められていない。しかし、それはチャペル氏の面会が禁止されないことを保証するものではない、と続けている。

47.公判前の被拘禁者について、日本の法律は所長と職員が「手紙を調べる」ことを認めており、さらに「原則として、すべての手紙は調べる対象となる」と述べている。

48.チャペル氏の信書のプライバシーに関しては、何の保証も提供されなかった。チャペル氏の法的信書でさえ、「必要な範囲で」検閲されるらしい。 弁護士・依頼人間の通信の秘匿特権が日本に存在するかどうかは不明であり、回答はこの特権が存在しないことを示唆している。第6条の基礎的な保証の一つは、法的助言者との通信の秘密であることは明らかであるが、日本はチャペル氏にそのような保護を保証していない。

49.私が申立人政府に「裁判所の意見を十分に検討するように」要請したにもかかわらず、チャペル氏が公判前勾留中、運動中や休憩時間以外に話すことを例外的に許すという保証はなされなかった。 日本で拘禁されることに伴う現実を直視すべきである。 チャペル氏は友人や家族から完全に隔離され、日本語を話すことができず、英語を話す囚人や看守が事態に対処する必須な助けとなる可能性があるが、文化的規範や刑務所の規則がどのようなものであれ、非人道的な処遇、少なくとも全体的な環境がそうなるような条件を作り出す可能性があるのであり、それは人権条約3条に適合しないのである。

ヨーロッパ人権条約5条に関連する条件

ヨーロッパ人権条約5条はこう規定する;
(1) すべての人は、自由および身体の安全に対する権利を有する。何人も、次に掲げる場合及び法律の定める手続によらなければ、その自由を奪われない:
(a) 所轄裁判所による有罪判決後の合法的な拘禁
(b) 裁判所の合法的な命令に従わないため、または法律で定められた義務の履行を確保するために、人を合法的に逮捕または拘禁すること。
(c) 犯罪を犯したという合理的な疑いにより、又は犯罪を犯し、若しくは犯罪を犯した後に逃走することを防止するために合理的に必要と認められる場合に、その者を権限のある司法当局に連行する目的で行われる適法な逮捕又は拘禁。
(d) 教育上の監督を目的とする適法な命令による未成年者の拘禁又は管轄の法律当局に提 出することを目的とする未成年者の適法な拘禁
(e) 伝染病の蔓延を防止するため、心神喪失者、アルコール中毒者、麻薬中毒者又は浮浪者を適法に拘禁すること。
(f) 無許可の入国を防止するため、又は国外追放若しくは犯罪人引渡しのための措置が取られている者を適法に逮捕又は拘禁すること。
(2) 逮捕された者は、すべて、速やかに、その者の理解する言語で、逮捕の理由及び自己に対する罪状を知らされなければならない。
(3) 本条第 1 項(c)の規定に従って逮捕され、又は拘禁された者は、裁判官その他司法権を行使する権限を法律で認められた職員の面前に速やかに連行されるものとし、相当な期間内に裁判を受け、又は裁判を受けるまでの間釈放される権利を有する。釈放は、裁判に出頭することを保証することを条件とすることができる。
(4) 逮捕又は拘禁により自由を奪われた者は、すべて、その拘禁の適法性を裁判所がすみやかに決定し、その拘禁が適法でない場合にはその釈放を命ずる手続をとる権利を有する。
(5) この条の規定に違反して逮捕され、又は拘禁された者は、すべて、強制執行可能な補償を受ける権利を有する。

50.同条約の解説書によれば、6条の権利は5条と同じ意味と範囲を有する。それらに課される制限は、人権条約が許容する範囲を超えることはできない。対象者の自由はEU機関の管轄に属するものであり、移民や刑事司法の側面がヨーロッパ司法裁判所の管轄下に置かれて以来、EU法に従うものである。

51.さらに、加盟国はEU法に従って、多くの場合、移民や亡命や刑事訴訟における国境を越えた協力の分野で、人を逮捕・拘禁することもできる。欧州逮捕令状に基づく国内手続きは、必然的に憲章とその権利に関わることになる。

52.自由権は絶対的なものではなく、同条の大部分は、人の自由を合法的に制限することができる条件のリストに充てられている。これらの許容される拘禁の形態は、その正当性の根拠を、審査が可能であることにおいている。したがって、独立した裁判所または法廷によって、拘禁の合法性が定期的に精査されなければならない。このリストは網羅的なものであること、すなわち、人身の自由に対する権利に対する他の許容される逸脱は存在しないことに留意することが重要である。

53.第5条の最初の部分は、人が身体的自由を奪われるすべての状況を規定している。これは、国外退去を目的とした2時間未満の拘禁(X & Y v Sweden Application No.00007376/76 )から、精神病院の開放病棟における患者の拘束(Ashingdane v United Kingdom (1985) 7 EHRR 528 )まで、また犯罪による逮捕を伴うより明白な状況も含む。

54.第5条1項(d)〜(f)のうち、裁判所の命令を伴わない、行政的拘禁を扱う部分は、個人が第5条4項に基づいてその拘禁の合法性を検討する権利を有することをより重要なものとしている。

55.しかし、ヨーロッパ人権裁判所は、第5条1項(f)は、(a)〜(e)で認められている拘禁とは異なり、締約国で拘禁されている者の退去強制や身柄引き渡しを確保するためにあるいは不法入国を防止するために、拘禁が「必要」または「比例的である」とされてはならないと判示している(Chahal v. United Kingdom (1997))。裁判所は、自国の国境を管理し、外国人に自国民と同じ自由に対する一般的権利を拒否するという主権的権利を尊重することで、締約国から見た自己の正当性を保持する必要がある(Saadi v. United Kingdom 2008)。

56.「人身の自由と保護」についての言及は、逮捕が恣意的であってはならないことを意味する。個人は、政府による説明のない不法な行動から「保護」されなければならない。Bozano v France (1986) 9 EHRR 297.

57.第5条4項に基づく拘禁審査権は、テロ容疑者に関する情報が本人にも弁護士にも開示されない、いわゆる「閉ざされた」手続を英国政府が採用したことによって侵害されないとされた。特別弁護人は、非公開の審理において、被拘禁者に代わって弁論を行うことで、完全な情報開示の欠如と公開の敵対関係の欠如を相殺するという「重要な役割」を果たしたとされた。同じ事件(A v. United Kingdom (2009) No. 3455/05)において、ヨーロッパ司法裁判所大法廷は、一部の申請者について、非公開の資料の中に決定的な証拠が含まれており、申請者がそれに異議を唱える機会がなかった場合、非公開の手続きは公正なものではないと判断した。

ヨーロッパ人権条約5条に関連する現実的なリスク

ダイヨーカンゴク

保釈がないこと

58.第5条の規定と上述の判例を考慮すれば、第5条違反のリスクがあることは明白である。日本の回答は、この問題を十分に取り扱わず、公式のように日本の現行法を繰り返し唱えるだけである。ここで求められているのは、身柄引渡しを認めるためには、人権条約が許容する実務に適合する基準が適用されるということである。もしも必要があるならば、法律又は実務あるいはその双方を変更しなければならない。

ヨーロッパ人権条約6条に関連する現実的なリスク

59.問題は、被告人が引き渡された場合、あからさまに正義を拒否される現実的なリスクにさらされるかどうかである。そうした現実的なリスクを示す証拠を提出する責任は被告人にある。そして、そうした証拠が提出されたときには、その点に関するいかなる疑問をも解消する責任が政府にある。この責任は非常に高度のものである(see Soering and Othman Supra)。

ダイヨーカンゴク

正義のあからさまな否定

60.当裁判所は、(人権条約3条違反に加えて)警察の「弁解録取の機会」や取調べ中に弁護士へのアクセスが認められないことは、人権条約6条のあからさまな違反であると判断した。当裁判所による保証の要請が 日本によって拒否されたことは、したがって、第6条にも違反する。

61.犯罪の訴追に対する効果的な弁護は、起訴や公判の時点で始まるのではない。それは警察や捜査官との最初の接触のときに始まるのであり、とりわけ、取調べの際にそれは必要である。自白が不適切に獲得されたり、不当な扱いを受けるリスクがあるからであり、黙秘権や自己負罪拒否の権利などについて助言を得ることなどを含め、これらはすべて、司法機能の過誤を防止するために必須の安全装置なのである。

62.これらは、ヨーロッパ人権条約6条と英国内における1984年警察刑事証拠法(PACE1984)の両方の推進力となっていることは注目に値する。非常に限定され注意深く管理された状況を除いては、取調べ中に法的助言を受けることができることは、第6条を遵守するために不可欠である(本件では、あらゆる場合にこれが否定されているのである)。

強制された証拠を公判で使用すること

63.私はさらに、チャペル氏は、警察拘禁中に得られた自白の任意性が意味のある方法で検証されない裁判を受ける「現実的なリスク」にさらされていると判断し、意味のある「自白の信頼性を精査し、適切であれば、それが真実でないか、抑圧的な手段によって確保されたものであると結論づけ、無罪か有罪かを決定する際に、そのことを適切に考慮するための......規定」の存在について保証を求めた。

64.日本の回答は、日本の法律が自白の任意性を判断するための適切な「法的枠組み」を提供しているとの立場を、ここでも繰り返した(回答書第III節)。

65.彼らは、誤判の多発と99.3%の有罪率――それらはいずれも別の方向性を示している――にもかかわらず、現実の問題を否定しているように見える。結局のところ、公判裁判所は不適切に入手された自白を除外することができるという法律に言及するだけでは、実際の実務の証拠に対する答えにはまったくならないのである。

二重の危険

66.「二重の危険の禁止に対する認識可能な制度がない」裁判を受ける「現実的なリスク」があるという私の判断に関して、日本の回答には、無罪判決に対する検察の無制限の上訴からチャペル氏が免責されるという保証は含まれていない。

ヨーロッパ人権条約4条[訳者注4]に関連する現実的なリスク

法的枠組み

第4条

67.条約第 4 条は、条約第 2 条および第 3 条とともに、民主主義社会の基本的価値の 1 つを謳うものである(Siliadin v. France, § 112; Stummer v. Austria [GC], § 116)。

68.条約第4条第1項は、「何人も、奴隷又は隷属状態に置かれてはならない」と定めている。条約の実体的条項の大部分とは異なり、第 4 条第 1 項は例外を規定しておらず、第 15 条第 2 項に基づき、国民の生命を脅かす公共緊急事態の場合であっても、この条項からの逸脱は許されない(C.N. v. the United Kingdom, § 65; Stummer v. Austria [GC], § 116)。

69.条約第4条第2項は強制労働を禁止している(同上)。第 4 条の「強制又は強制労働」の概念は、事案の特定の状況において、それが特定の人身売買の状況 に関連しているか否かにかかわらず、深刻な搾取の事例から保護することを目的としている(Zoletic and Others v. Azerbaijan, § 148)。そのような行為はすべて、第 4 条の「奴隷」または「隷属」と評価される要素を有しているかも しれないし、条約の別の規定の下で問題を提起するかもしれない(S.M. v. Croatia [GC], §§ 300 and 303)。

70.条約第 4 条第3項は、第 2 項によって保障される権利の行使を「制限」することを意図しているのではなく、 その権利の内容そのものを「限定」することを意図しているのであり、第 2 項と一体となって、「強制労働」 という用語に含まれないものを示しているのである(ibid., §120)。

71.第4条は「民主主義社会の基本的価値の一つを謳う」ものであり、変更不可能である(Meier v Switzerland (2016) 10109/14 at §62)。

72.刑事施設に関する限り、第 4 条第3項(a)は「この条約第 5 条の規定に従って課される通常の拘禁の過程において行われることが要求される作業」のみを除外する。第 4 条第3項(a)(通常の拘禁の過程における作業)は、第 2 項によって保障される権利の行使を「制限」することを意図したものではなく、その権利の内容そのものを「限定」することを意図したものである(ibid §65)。したがって、比例原則による制限の問題や、利益衡量の問題は存在しない。

有罪判決後の拘禁

73.「刑期中、作業所勤務が強制され、一般的に受刑者は月曜日から金曜日まで1日8時間働く」ということが、人権条約4条に違反する現実的なリスクをもたらすという私の判断について、私は、チャペル氏のケースについては、「労働は......自発的に行われる」という保証を行なう機会を日本に提供した。

74. 日本は、チャペル氏が刑期中、月曜日から金曜日まで「1日8時間」、「溶接[または]機械サービス[または]機械操作」などを行う「労働の義務」があることを再確認した。

違反に対する処罰

75.日本の回答は、チャペル氏も他の受刑者と同様、「労働を拒否」すれば「懲罰の対象」になるというものだ。

労働の遂行方法

76.裁判所は、チャペル氏のケースについて、(自主的な)仕事中、「行進する、まっすぐ前だけを見る、制限された会話だけをするといった抑圧的な規制をしないこと」を保証する機会を日本に与えた。

77.日本は、チャペル氏が「行進しなければならない」可能性があること、「仕事から目を離したり、おしゃべりをすることを禁止」され、違反した場合は懲罰の苦痛を受けること再確認した。

公平な報酬

78.「受刑者が工場労働の見返りとして意味のあるものを何も受け取っていない」ことについて、日本は、チャペル氏の特定のケースについて、「労働には意味があり、報酬は公平である」ことを保証するよう求められた。

79.彼は27カ月働くごとに平均79,920円(現在の為替レートで464ポンド)の報酬が期待できると日本は答えた。これは1日あたり1ポンド(つまり1時間あたり約10ペンス)にも満たない。刑期は少なくとも6年間は続く。

80.各懸念に対する個別的な回答も、累積的な回答も、被申立人を「国際的に認められたいかなる基準(とりわけ、人権条約4条の保証)にも適合しているとは考えられない日本の強制労働システム」に晒すことはないという約束とはならないというのが、私の明確な見解である。

全体に関連する事項

モニタリング

81.最後に、私は「拘禁条件の効果的なモニタリングが実施される」ことの保証を求めた。

82.回答は、英国領事館に通知すると述べているが、そのような約束が監視の仕組みと言えるのか疑問である。大使館職員は、その任務を遂行するための専門知識、訓練、基本的な知識を有していない(see e.g.,Nizomkhon Dzhurayev v Russia (2013) App 31890/11 at §133-135)。

83.日本は刑務所面会委員会の立場を繰り返すが、これが不十分で独立性を欠いているという私の所見に対する応答はなく、独立性や有効性の欠如に関する救済措置も提供されていない。

84.刑務所内の苦情処理メカニズムに関する法律に関する日本の証拠もまた、提起された懸念に対処するものでもなく、懸念を解消するものではない。

結論

85.引渡しがチャペル氏をヨーロッパ人権条約第3条、第4条、第5条、第6条に対する違反をもたらす「現実のリスク」があると私が認定したことは、これらのリスクのそれぞれについて「現実のリスクの存在を軽減する」責任を日本が負うということを意味する(Aranyosi para.103)。

86.オスマン基準の各項目を順番に見ていくと、裁判所に示された回答は、私の見解では、曖昧で一般的なものであり、私がチャペル氏のケースで指摘したリスクに対する個別具体的保証とは言えない。回答は、日本を拘束できる人物によって提供されたものであることは明らかである。地方自治体がそれに従わないと疑う理由はない。

87.保証は、日本では合法とされるが人権条約締約国では行われていない処遇への懸念を示すものである。日本は国連基本権宣言にもヨーロッパ人権条約にも加盟しておらず、英国は日本と身柄引渡条約を結んでいない。英国は日本との間に長く強固な相互関係をきづいてきたことは明らかであるが、本件が最初の身柄引渡し要請であるために、同様の保証を履行してきたという受入国の記録を評価することができない。これが最初の要請であるという事実は、また、保証の遵守に関するいかなる歴史を評価することも、また、保証(それが仮に保証に値するとして)が、外交的またはその他の監視メカニズムを通じて客観的に検証するための情報を提供しているかどうかを評価することもできないということでもある。

88.証拠と私の所見は明らかである。日本は、システムを監視するための国際的な基準に適合するシステムをもっていない。日本は、効果的な監視を十分に保証するという反証を提出しなかった。最後に、被申立人は受入国に不適切な取り扱いをうけたことはない。彼は受入国で拘禁されたこともない。

89.日本はその反証責任を果たしていない。

90.サマーズ勅撰弁護士は、GS対ハンガリー(GS v Hungary [2016] 4 WLR 33)におけるバーネット控訴院判事(当時)のコメント(see para 20)を引用した。そのコメントはここでも適切なものである。
「問題は、何が約束されたか、誰によって約束されたかを、『問題の政府におけるすべての実際の状況に照らして』、検討しなければならないのであり、そうすることで、『約束が守られるという確信があるかどうか』を決定することである。」

91.求められるのは、「保証」が、裁判所が認定した事実固有のリスクに対応する、事実固有の「約束」であることである。

92.そのため、申立人政府には、この裁判所の認定を受け入れ、被申立人をそのようなリスクから守る約束をする責任がある。

93.日本の証人に対しては、それぞれ、そのような約束を証拠として提出する機会が与えられたということを忘れてはならない。彼らはそれを明確に拒否した。当裁判所は、当初は反対の立場を取っていたにもかかわらず、「保証」を求めるべきであると説得され、国際礼譲の原則を適用して日本にその機会を与えた。

94.これまでに提出された文書には、そのような約束はない。それは、実務が必ずしも法に適合していないことを受け入れず、被申立人がそのような実務に直面しないことを「約束」もしない。そして、日本の法を繰り返し唱えるだけである。しかし、それは当裁判所がアランヨシによる審査のために求めているものではない。

95.回答そして裁判所の質問に回答した担当者は、法と実務が必要な安全装置を十分に提供するものであり、要請国の基準に沿うものであると信じて、善意でそのような回答をしたことについて私は疑わない。しかし、当裁判所は、国際的な基準に照らして評価しなければならないのであり、また評価してきた。この点で、日本は基準を満たしていない。

96.私は、日本の保証は、ヨーロッパ人権条約3条、4条、5条および6条違反のリスクを克服するには不十分であり、したがって、2003年身柄引渡法87項(2)に基づき(そしてさらに同法84項に基づき。第1の判決を参照)被申立人を免責するべきであると判断する。

命令

97.前述のように、これは本件における第3の判決であり、それらは身柄引渡請求事件に関する当裁判所の判断として一体のものとして読まれるべきである。第1判決において、私は申立人政府は被申立人に対する一応の証明を示すことができていないと判断し、すべての異議が処理された後に、チャペル氏を免責することを示唆した。したがって、私は2003年身柄引渡法84項(5)[訳者注5]および同法87項(2)[訳者注6]に従い、チャペル氏を免責する。日本政府は14日以内に上訴する権利を有する。

ポール・ゴールドスプリング
イングランド・ウェールズ上級地方判事(首席判事)
2023年8月11日

訳者注1:アランヨシ判決 欧州司法裁判所大法廷が2016年4月5日に下した判決 JUDGMENT OF 5. 4. 2016 — JOINED CASES C-404/15 AND C-659/15 PPU ARANYOSI AND CĂLDĂRARU, ECLI:EU:C:2016:198 EU所属国の裁判所が発行した逮捕状(European Arrest Warrant)の執行を求められた別の所属国は、発行国に被告人の身柄を引き渡すと、ヨーロッパ人権条約に違反する現実的なリスクがあると判断されるときに、人権侵害が行われないという「保証」を求めることができ、その保証が確実ではないと判断したときには、逮捕状の執行を延期し、合理的な期間内に保証の実行ができないと判断したときには、逮捕状の執行自体を拒否することができるとした。https://eclan.eu/files/attachments/.2121/CL_Aranyosi_and_Caldararu_2016.pdf

訳者注2:ヨーロッパ人権条約第3条(拷問の禁止)「何人も、拷問または非人道的なもしくは品位を傷つける取扱いもしくは刑罰を受けない。」

訳者注3:ヨーロッパ人権条約第6条(公正な裁判を受ける権利)第3項「刑事上の罪に問われているすべての者は、少なくとも次の権利を有する。
***
(c) 自らまたは自己が選任する弁護人を通じて、防御すること。弁護人に対する十分な支払手段を有しないときは、司法の利益のために必要な場合には無料で弁護人を付されること。」

訳者注4:ヨーロッパ人権条約第4条(奴隷の状態および強制労働の禁止)
1 何人も、奴隷の状態または隷属状態に置かれない。
2 何人も、強制労働に服することを要求されない。
3 この条の適用上、「強制労働」には、次のものを含まない。
(a) この条約の第5条の規定に基づく拘禁の通常の過程またはその拘禁を条件付きで解かれているときに要求される作業
(b) 軍事的性質の役務、または、良心的兵役拒否が認められている国における良心的兵役拒否者の場合に義務的軍事役務のかわりに要求される役務
(c) 社会の存立または福祉を脅かす緊急事態または災害の場合に要求される役務
(d) 市民としての通常の義務とされる作業または役務

訳者注5:2003年身柄引渡法84項(5)「事件の証拠が被申立人に答弁を求めるのに十分かどうか」について、「否定的な判断をしたときは、裁判官はその者の免責を命じなければならない。」

訳者注6:2003年身柄引渡法87項(2):「その者の身柄引渡が、1998年人権法(42項)の意味で人権条約上の権利に適合するかどうか」について、「否定的な判断をしたときは、裁判官はその者の免責を命じなければならない。」




plltakano at 19:56コメント(7)身体拘束国際人権法  このエントリーをはてなブックマークに追加

2023年07月10日

再審開始決定が確定した袴田事件について、検察側が再審公判で有罪立証をする方針だという。

しかし、日本の再審制度の実態を前提に考えると、再審請求審で再審開始決定がなされた事件について、さらに公判を行い、検察側に有罪立証の機会を与えるということは、同じ事実について2度刑事訴追すること(二重起訴)に等しいのであって、それを禁じた日本国憲法39条に違反すると思う。

日本の再審とコモンロー系諸国の再審(new trial)とは、言葉は同じでも全く異なるものである。コモンロー系諸国では、通常の上訴手続(appeal)あるいは人身保護手続(habeas corpus)によって、有罪判決に至る手続に憲法違反や重大な法令違反があったと認定されれば――有罪認定に誤りがあるかどうかに関係なく――、事件は公判裁判所に差し戻され、公判は最初からやり直される。上訴や人身保護の審理では有罪か無罪かをめぐる証拠調べは行われていないので、再審(new trial)で事実審理を行うことは二重の危険(double jeopardy)の禁止を定めた合衆国憲法第5修正に違反しない。

日本の再審手続はこれと全く異なる。審理の対象が違う。日本の再審手続では手続の法令違反は審理されない。日本の再審手続で審理されるのは有罪判決の事実認定の誤りである。「有罪の言渡しを受けた者に対して無罪[…]を言い渡[す]べき明らかな証拠をあらたに発見したとき」(刑事訴訟法435条6号)に再審が「開始」されることになっている(同法448条1項)。

日本では、再審開始が決めれられた段階で、すでに、3人の職業裁判官による評議によって――即時抗告と特別抗告が行われた場合には、合計11人の裁判官によって――「無罪を言い渡すべき明らかな証拠」があると判断されてしまっているのである。その決定がなされるまでの間に、検察官は有罪判決に誤りはないと主張してそれを支える証拠を提出する機会が与えられている。その決定に対する不服申立の機会まで与えられている。

このうえさらに公判審理を行って有罪か無罪かを決めるというのは、単に迂遠で時間や経費の無駄使いだというにとどまらない。強大な権力と莫大な資金力を持つ政府にそうした権力や資金と無縁な個人を訴追する機会を繰り返し与えることにほかならない。それは日本国憲法が禁じる二重の危険(double jeopardy)そのものではないだろうか。実態に即して言えば、それは同じ犯罪事実について2度起訴され2度裁判を受けるのに等しい負担を個人に課すものである。

二重の危険禁止の意味について説明したアメリカ連邦最高裁の次の説示は、その憲法を承継したこの国の刑事裁判にも当てはまると思う――「政府は、その有する全ての資源と権力とを用いて個人を断罪する試みを繰り返すことによって、彼をして困惑させ、出費をさせ、試練にさらし、持続する憂慮と不安のうちに生きることをやむなくさせ、そして、無罪であっても有罪とされる危険を高めるようなことをしてはならないということである」Green v. United States, 355 U.S. 184 (1957), at 187-188.


plltakano at 17:45コメント(0)憲法的刑事手続刑事裁判  このエントリーをはてなブックマークに追加

2023年03月09日

1「裁判員量刑検索システム」

最高裁判所事務総局刑事局(以下「刑事局」)は、2008年4月1日に「Web版量刑検索システム」の運用を開始した。現在行なわれている「裁判員量刑検索システム」(2012年3月26日運用開始)はそれを引き継いだものである(1) 。このシステムは裁判員裁判において裁判官と裁判員が行なう量刑に関する評議の場で活用することを主たる目的として構築されたものであり、評議の際に裁判官が裁判員にその検索結果を「示す」ことが予定されている(2) 。

最高裁刑事局長の「事務連絡」によると、「刑事局において本システムの運用事務を分掌する係の担当課長補佐」がシステムの管理者である (3)。また、この管理者から指名された者も管理者と同一の権限を有する(4) 。現在まで、「分掌する係」が何を指すのか、その「課長補佐」が誰なのか、そして、その課長補佐から指名された、「管理者と同一の権限を持つ者」が誰なのかは一切公表されていない。

また、刑事局長事務連絡によれば、「地方裁判所本庁及び支部(合議事件を取り扱う支部に限る。)に所属する刑事事件担当裁判官」は、システムにデータを登録する権限(「登録権限」)を持っているとされ (5)、各庁ごとに「登録権限を有する者の中から、登録担当者を決める」ことになっている(6) 。しかし、各庁(地方裁判所本庁及び支部)の誰が登録担当者なのかも全く公表されていない。

前述の「管理者から指名された者」は「承認担当者」として、登録されたデータを点検し、不備がなければ「承認処理」を行なう (7)。この承認処理によってデータは検索対象となり、全国の端末から参照可能となる (8)。しかし、この「承認担当者」が誰なのかも不明である。さらに、具体的にどのような方法で「承認処理」を行っているのかもわからない。登録されたデータが幾つであり、そのうちどのくらいのデータが承認を得られなかったのか、その理由が何なのかも公表されていない。

刑事局は、量刑検索システムへの「データ登録のルール」(以下「刑事局ルール」)を定めている。2014年改訂版によると、「有罪判決が宣告された裁判員裁判対象事件」のほか「法定合議事件の一部(強姦、非現住建造物等放火等)」も対象となっている(刑事局ルール1頁)。データの登録は処断罪を基準にそれぞれの事件の特定事項――判決日、裁判所、事件番号、求刑、判決結果等)――と量刑因子――動機、凶器の有無、傷害の程度、被害者の落ち度、共犯関係、被告人から見た被害者の立場、被告人の懲役前科、被告人の反省、示談等――をプルダウンから選択することになっている。プルダウン方式であるから、入力者は自由に項目を設けたり、記述することはできない。

この「データ登録のルール」がどのような検討の末に、誰によって作成されたのか、全く不明である。なぜ裁判員裁判対象事件のほかに「法廷合議事件の一部」を含むことにしたのかも不明である。その「一部」以外の事件を含めなかった理由もまた不明である。量刑因子として登録する項目を決めたのは誰か。どのような論理や基準によってそれを定めたのかも分からない。

検索されたデータは、「量刑分布表」と「量刑グラフ」と「事例一覧表」という形式で出力される。また、検索条件に該当する各事件の登録内容を事件ごとに表示した「個別事件票」を出力することができる。しかし、いずれの出力形式についても、個別事件を識別する情報――被告人名、裁判所名、裁判官名、事件番号等――は一切表示されない (9)。したがって、検索結果から元になった判決を参照することもできない。

2 民主的正当性が全くない

量刑検索システムというデータベースを作成すること、そして、それを裁判員裁判の量刑判断の資料として利用することを定めた法律は存在しない。裁判員法にも裁判員規則にも量刑検索システムの作成や利用を認める規定は全くない。そもそも、裁判員制度を提言した司法制度改革審議会においても、その提言に基づいて裁判員制度を具体的に設計した司法制度改革推進本部・刑事検討会においても、そしてまた裁判員法の審議を行った国会においても、裁判員が量刑について過去の裁判例をまとめた参考資料を用いて量刑判断を行うことなど、一度も議論されたことはない(10) 。

量刑検索システムは一般市民に公開されていない。国会議員も見ることができない。刑事司法を研究する学者もその内容を知ることはできない。前述のように、その作成のプロセス――どのような議論に基づいて、いつ、誰が、どのような資料に基づいて量刑因子を決めたのかなど――が一切不明である。その正確性や公正さを第三者が検証することは全くできない。いわばシステム全体が一つのブラックボックスとなっている。

弁護士は裁判員裁判対象事件を受任したときに限りシステムを利用することができる。事件が係属する担当部の書記官室に赴き、そこに設置された端末で検索条件を入力すると、それに該当する事件の「量刑グラフ」、「量刑分布表」と「個別事件票」を見ることができる。それらをプリントアウトすることもできる。しかし、その用紙には「被告人・閲覧可、交付不可」という注意書きがある。弁護人は自分の依頼人に検索結果を見せることはできるが、プリントアウトしたデータを依頼人に渡すことは禁じられるのである。どの法律に基づいて、被告人と弁護人との間の情報共有にこうした制限を加えることが可能なのか、不明である。

検索結果として得た判決の事件を識別する情報を得ることはできない。弁護人は検索結果を利用してもとの事件の判決文の謄写等を行って、判決文を確認することができない。したがって、出力データが正確かどうか、出力された項目以外にどのような量刑因子が存在したのかを点検することはできない。また判決に関与した裁判官が誰なのかも全く不明である。要するに、法律上の根拠もなく、誰が何に基づいて作ったのかも分からない、データベースソフトがインストールされたパソコンのモニターに表示された「検索結果」が1人の人間の運命を決めているのだ。

東京高等裁判所2022年7月7日判決(11)は、「量刑判断は、特段の必要性がある場合を除き、個々の過去の裁判例といちいちの事情を比較して重くしたり軽くしたりする性質のものではないと解され、裁判員量刑検索システムに入力された事例の判決文が出力、特定等できないことも問題ない」などと言う。さらには、正確性が担保されていないとしても、また、「[入力]ミスが生じたことをもって、裁判員量刑検索システム自体の利用に支障が生じているものとも認められない」とも言っている。要するに、入力元となった判決文が不明のままでも、入力データの正確性が検証されなくとも、さらには入力に誤りがあっても、問題ないというのである。しかし、入力データに誤りがあるにもかかわらず、そのデータに基づいて評議され決定された判決が正当であり、被告人にその執行を甘受せよと、どうして主張することができるというのだろうか?こうした論法が許されるなら、有罪判決の基礎となった証拠が偽造された証拠であっても、確定した判決は有効なものであり、被告人はそれに従うべきだと言うのと同じである。少なくとも、現在のこの国の刑事訴訟法はそうした立場には立っていない(刑訴法435条1号)。

量刑検索システムの目的が個々の裁判例と裁判対象となる事件との「いちいちの事情」を比較するためにあるのではなく、「目安」としての「おおまかな量刑傾向」(12) を知るためのものに過ぎないとしても、だからといって入力元の判決を特定できなくて良いということにはならない。その「大まかな量刑傾向」を構成しているのはまさに一つ一つの判決なのである。個性ある一つ一つの事件のなかから、限られた「量刑因子」を選定して集めたデータの検索結果が果たして実際の判決を公正に反映したものなのか、実際の判決にはデータベースに反映されていないが実質的に判決結果に影響を与えた別の「量刑因子」があったのではないかといった疑問は常に起こりうるのであり、そうした疑問を検証する機会を訴訟当事者に与えないというのは明らかにアンフェアである。また、一般市民や立法機関がそうした検証を絶えず行うことで、データの正確性は保持されるのである。こうした検証に耐えてこそ、それは被告人の運命を決する重大要素である「大まかな量刑傾向」を示すものとして機能する正当性を主張することができるのである。

3 証拠裁判主義違反

(1)証明対象としての「量刑傾向」
最高裁判所第1小法廷2014年7月24日判決は、裁判所の量刑判断の公平性を担保するためには、これまでの裁判例の集積によって形成された、犯罪類型ごとの量刑傾向を考慮しなければならないとした。

我が国の刑法は,一つの構成要件の中に種々の犯罪類型が含まれることを前提に幅広い法定刑を定めている。その上で,裁判においては,行為責任の原則を基礎としつつ,当該犯罪行為にふさわしいと考えられる刑が言い渡されることとなるが,裁判例が集積されることによって,犯罪類型ごとに一定の量刑傾向が示されることとなる。そうした先例の集積それ自体は直ちに法規範性を帯びるものではないが,量刑を決定するに当たって,その目安とされるという意義をもっている。量刑が裁判の判断として是認されるためには,量刑要素が客観的に適切に評価され,結果が公平性を損なわないものであることが求められるが,これまでの量刑傾向を視野に入れて判断がされることは,当該量刑判断のプロセスが適切なものであったことを担保する重要な要素になると考えられるからである。

この点は,裁判員裁判においても等しく妥当するところである。裁判員制度は,刑事裁判に国民の視点を入れるために導入された。したがって,量刑に関しても,裁判員裁判導入前の先例の集積結果に相応の変容を与えることがあり得ることは当然に想定されていたということができる。その意味では,裁判員裁判において,それが導入される前の量刑傾向を厳密に調査・分析することは求められていないし,ましてや,これに従うことまで求められているわけではない。しかし,裁判員裁判といえども,他の裁判の結果との公平性が保持された適正なものでなければならないことはいうまでもなく,評議に当たっては,これまでのおおまかな量刑の傾向を裁判体の共通認識とした上で,これを出発点として当該事案にふさわしい評議を深めていくことが求められているというべきである(13) 。


最高裁は、量刑判断において、「これまでの大まかな量刑の傾向」を「裁判体の共通認識」とすることが必要であると言ったのである。他方で、最高裁は、その方法について何も言っていない。「量刑検索システム」を利用せよとも勿論言っていない。最高裁は、しかし逆に、どんな方法でも良いとも言っていない。したがって、実際の刑事裁判において、どのような手続に基づいて「これまでの大まかな量刑傾向」を「裁判体の共通認識」にすることが正しいのかを検討する必要がある。

最高裁が言う「量刑傾向」とは、「犯罪類型ごと」の裁判例の集積である。ここに言う「犯罪類型」とは、単なる罪名ではないし、刑法が定める犯罪構成要件を指すのでもない。最高裁は「行為責任」とか「当該犯罪行為にふさわしいと考えられる刑」を考えるという文脈で「犯罪類型」と言っているのであるから、犯罪構成要件の要素をさらに細かく分類選別することを要求していることは明らかであろう。それは有罪とされた犯罪事実に含まれる諸事情――犯行の態様・動機・被告人の地位・役割(共犯関係)等――を一定の基準にしたがって分類し、その分類にそって裁判例を再評価するということである。そうすると、決定的に重要なのは、「犯罪類型」をどのように分類するかということであり、その分類項目を評価するものさしとして何を設定するかということである。

そして、審判対象となっている事件があらかじめ設定された犯罪類型ごとの分類に、該当するのかどうかが決定的に重要である。これは犯罪構成要件に関する事実認定と同じ認定判断の構造である。当事者間において争いが生じうるし、裁判体と当事者の間でも見解の相違が生じうる。たとえば、犯罪の動機について、「経済的利益を得ること」か「名誉を守るため」かという分類をすることが正しいのか;犯行に「凶器」を使ったのかどうか、凶器が「刃物」か「拳銃」か「それ以外」かに分けることは正しいのかについて論争が生じ得る。そして、取り上げられている裁判例が実際にその動機や凶器の有無などを事実として認定したのかどうかについても、争いが起こりえるのである。

このように、「量刑傾向」なるものは、訴訟の帰趨(量刑)に決定的な影響を与える事項であり、訴訟の当事者間において争いの対象となりえるものなのであって、したがってそれは証拠によって認定判断すべき事柄なのである。

(2)厳格な証明の対象である
要するに、最高裁が言う「裁判例の集積」に基づく「目安」としての「量刑傾向」なるものは、訴追の対象となっている犯罪事実の認定に匹敵する、決定的に重要で論争の対象となりうる事実認定の問題なのである。したがってこれは「厳格な証明」を要する事実である。すなわち、量刑傾向を立証する証拠は、刑事訴訟法320条以下の伝聞法則の適用を受けるのであり、法廷外で作成された供述証拠(書面)の内容を証拠とするのであれば、その作成者が法廷で証言するか、あるいは、その書面が伝聞例外規定(刑訴法323条各号)に該当することが証明されなければならない。

いずれにしても、当事者には量刑傾向についての主張・立証の機会が与えられるだけではなく、相手方の主張・立証の内容を予め知り、それに反駁し反証を行なう機会が与えられなければならない。そして、裁判所が職権で量刑傾向を立証しようとする場合には、当事者双方にその内容を知り、意見を述べ、かつ、反証の機会が与えられなければならない。

そうした手続を踏まずに、量刑傾向の内容を一方的に、当事者が知らなううちに、裁判体に提供することは、証拠裁判主義(刑訴法317条)に違反し、ひいては、公平な裁判所による公正な裁判を受ける権利(憲法37条1項、2項、市民的及び政治的権利に関する国際規約14条2項)を侵害すると言わなければならない。

(3)「証拠による証明」が必要である
仮に、「これまでの大まかな量刑傾向」は、量刑に関する事実であるから、「厳格な証明」は必要ではなく、「自由な証明」で足りるという見解を採用したとしても、評議室の中で裁判官と裁判員だけで量刑検索システムを利用することが違法であることに変わりはない。なぜなら、「自由な証明」も証明手続の一種なのであって、公判廷に顕出して当事者双方と事実認定者の吟味に付することもなく、秘密裏に量刑判断の資料にすることが許されているとはとうてい考えられないからである。

最高裁判所第2小法廷1949年2月22日判決は、原判決が、執行猶予に付さなかった理由について証拠を引用して説明しなかったことが証拠裁判主義に反するという上告趣意に対して、情状に関する理由は判決にその判断を示す必要もなく、その証拠理由を示す必要もないとして退けたが、「刑の執行を猶予すべき情状の有無と雖も、必ず適法なる証拠にもとずいて、判断しなければならぬことは所論のとおりである」とした(14) 。また、最高裁判所第1小法廷1950年10月5日判決は、死刑事件に対する被告人の控訴を棄却した原判決が「その結果の社会に及ぼす影響もまた甚大である点」を「斟酌」したと言いながら、その証拠を挙げていない点は証拠裁判主義に反する(したがって、法定手続を保障した憲法31条に違反する)とした上告趣意に対して、「刑の量定に関する事項については記録上これを認むべき証拠あるを以て足り訴訟法上証拠を掲げてこれを説明するを要するものでない」と判示した(15) 。このように、最高裁判例は、「犯情」ではない単なる情状に関する事実についても、一切の証拠なしにこれを認定したり、あるいは、訴訟手続に登場しない秘密の場所で資料を検討するなどということを決して認めてはいないのである。むしろ、単なる情状に関する事実についても、その判断の根拠となる資料は、証拠として公判廷で吟味されることを要求していると言うべきである (16)。

裁判官や裁判員は、評議室に何でも持ち込みそれを参照して良いというわけではない。証拠として採用され法廷で取調べられてもいない「資料」を評議室に持ち込むことは許されないのである。誰かがインターネットで検索した結果を評議室に持ち込んで評議の材料にすることが許されないように、証拠として取り調べれていない量刑検索システムの検索結果なるものを評議室に持ち込むことは、証拠裁判主義に違反するのである。

量刑検索システムの検索結果は訴訟記録に編綴されていない。それが不当な内容であったとしても、上訴審はそれを審査できないのである。刑事訴訟法は、上訴審の審査対象となるべき訴訟手続を示す資料は、全て訴訟記録のなかに収められなければならない言っているのである。だから、上訴した当事者はその上訴理由を原審の訴訟記録のなかから見つけ出さなければならないのである。例えば、量刑不当の控訴趣意は「訴訟記録及び原裁判所において取調べた証拠にあらわれている事実」を援用しなければならない(刑訴法381条)。証拠として取調べられていない、訴訟記録に編綴されてもいないものに基づいて量刑判断をすることは、この法の建前と明らかに矛盾する。

(4)量刑傾向の認定は「判例調査」ではない
前出の2022年東京高裁判決は、量刑傾向を把握することは「法規の解釈のために裁判例等を調査することなどと同様の作用」だと言う。しかし、これは明らかな誤りである。

刑の量定が「法規の解釈」ではないことは明白である。裁判員法は法令の解釈は裁判官の専権事項であるとする(裁判員法6条2項1号)一方、刑の量定は、裁判官と裁判員の合議によって決すべき事項であるとしているのである(同項3号)。すなわち、法的な教育や訓練を受けていない普通の市民が、その社会常識を駆使して証拠を検討することによって、適正な量刑判断に到達することができることを法は予定しているのである。2014年第1小法廷判決は、前述したように、「大まかな量刑傾向」を「目安」「出発点」として「当該事案にふさわしい評議を深めていくこと」が必要であると言っている。この量刑傾向の調査が裁判官の専権に属するなどとは一言も言っていない。そのような解釈はそもそも裁判員法に明白に違反するのである。

「大まかな量刑傾向」が何であるかを裁判員が――裁判官と対等の立場で――認定判断できるためには、検察官と弁護人の双方がそのことを立証テーマとして主張し合ったうえ、その裏付けとなる適切な証拠――具体的な裁判例や、量刑や処遇などに関する専門家証言など――を提出し合い、弁論を行い、それらを見聞した上で、評議室に臨むという仕組みがあれば良いのである。そして、この仕組みこそ、証拠裁判主義・公判中心主義に基づく事実認定の仕組みにほかならないである。

東京高裁判決は、量刑判断の過程――その中核である量刑傾向の認定過程――を法令解釈と異ならないなどという独自の見解(裁判員制度を無視した見解)に基づいて、刑事裁判のもっとも中核的な価値である証拠裁判主義・公判中心主義をなし崩しにしようとするものである。

5 裁判官の独立への侵害

裁判員裁判においては、被告人の量刑は裁判官と裁判員の評議によって決定される(裁判員法6条1項3号)。この評議において、裁判官と裁判員の意見の重みは同等である。裁判員には裁判官の量刑に関する意見に従う義務などない。量刑の前提となる証拠の評価は、裁判官と裁判員の自由な判断に委ねられる(同法62条)。量刑判断の前提となる量刑傾向についても、その判断は裁判官と裁判員の自由な判断に委ねられなければならないのである。量刑傾向を構成する裁判例を分類するための「犯罪類型」として何が重要かを判断するのも、裁判官と裁判員の権限に属するのである。そして、その犯罪類型を評価するための基準として何を設定するかについても、裁判官と裁判員は対等の立場で議論できなければならないのである。

前述したように、「量刑検索システム」は最高裁判所事務総局刑事局長という司法行政機関が運営しているデータベースであり、司法行政文書である。そうした文書が裁判の結果に重大な影響を与えることなど、日本国憲法の下では決してあってはならないことである。ところが、現実にそれが平然と全国の裁判所で行なわれているのである。しかも、データの基礎となっている裁判例は全く特定されておらず、データの正確性を検証することも全く不可能である。さらに、裁判例を分類するための類型すなわち「量刑因子」の選択もそれを評価するためのものさしも、刑事局長名の「事務連絡」や「ルール」によって恣意的に決められているのである。何が重要な量刑因子であり、それをどのような基準で評価するべきかは、各事件を担当する裁判官と裁判員が評議の上で決めるべきことである。司法行政機関がその権限に介入することなど許されないことは明らかである。

「量刑検索システム」の利用は、刑の量定が裁判官と裁判員の対等な評議によって決せられるべきことを定めた裁判員法6条1項3号に違反する。またそれは裁判官の独立を保障した日本国憲法76条3項に違反する。そしてまたそれは、「独立の・・・裁判所による・・・審理」を保障する市民的及び政治的権利に関する国際規約14条1項にも違反する。

6 結論

罪刑の均衡は正義の要である。犯人が犯した罪にふさわしい刑罰が課されなければならない。それと同時にそれは公平なものであるべきである。公平さを担保するための一つの装置として、それまでの裁判例の集積から導かれる「量刑傾向」を参照するというのは、決して間違ってはいない。問題なのは、その手続である。

「量刑傾向」として何が認められるのかは、単純明快な事実ではない。争いの余地が多分にある。そうであるにも関わらず、それは最終的に「裁判体の共通認識」として認定され、被告人の量刑に決定的な影響を与えるのである。そうであれば、「量刑傾向」を認定する手続が公開の法廷で厳格になされなければならないことは当然であろう。

それを実現する方法はいくつもある。そのためには、まず、全裁判例を公開することが必要である。そうすることで、問題の殆どは解消されてしまうであろう。検察と弁護は、公刊された裁判例をもとに、「量刑傾向」が何かを主張・立証すれば良い。その主張に異論があれば、裁判例を特定して反論すれば良いのである。裁判例の内容やその解釈に争いがあれば、判決文を証拠請求すれば良い。当事者が証拠請求した判決文や判例集は同意書証(326条)あるいは伝聞例外に該当する証拠(323条1号)として許容性が認められるであろう。

一般国民にとっても法律家にとっても正体不明のブラックボックスである「量刑検索システム」などを利用する必要は全然ない。司法行政文書に頼った刑事裁判など現代の国際社会において信頼されるはずはない。一刻も早く廃止されなければならない。

【注】
(1) 2012年3月23日付刑事局長事務連絡。
(2) 司法研修所編(井田良、大島隆明、園原敏彦、辛島朗)『裁判員裁判における量刑評議の在り方について』(法曹会2012)、26頁(「裁判官としては、裁判員から抵抗感を示されたとしても、評議において、量刑資料を示すことをちゅうちょする必要はない。」)。
(3) 前注1の刑事局長事務連絡に添付された「改正後の運用要領」第3の2。
(4) 同前、第3の3。
(5) 同前、第3の4、第1の1。
(6)同前、第5の3。
(7)同前、第6の1。
(8)同前、第6の2。
(9)同前、第8。
(10)趙誠峰「裁判員量刑検索システムの違憲性」大澤恒夫ほか編『民主的司法の展望:四宮啓先生古希記念論文集』(日本評論社2022)、278、280頁。
(11) 東京高裁第10刑事部2022年7月7日判決(同裁判所令和4年(う)第225号)公刊物未搭載。私は同事件の弁護人の一人であり、本稿は同判決に対する上告趣意書の一部に加筆したものである。なお、上告審である最高裁第1小法廷は、2023年3月8日、われわれの上告趣意を「実質は単なる法令違反[]の主張であって、刑訴法405条の上告理由に当たらない」と言って棄却した。
(12) 最1小判2014・7・24刑集68-6-925、928〜929頁。
(13) 刑集68-6、928〜929頁。強調は引用者。
(14) 最2小判1949・2・22刑集3-2-221、222頁。強調は引用者。
(15) 最1小判1950・10・5刑集4-10-1875、1876頁。強調は引用者。
(16) 最高裁判所第2小法廷1952年12月27日決定は、控訴審の弁論終結後に検察官が裁判所に直接送付した前科調書に基づいて、弁論を再開せずに、したがって、前科調書の証拠調べもせずに、そのまま前科を認定して「執行猶予の言渡しを為すは相当ならず」と判決したという事案について、「所論の資料は単なる量刑判断に用いたものであって罪となるべき事実認定の証拠ではないから厳格な証拠調手続を履践することを要しない」とした。最2小決1952・12・27刑集6-12-1481、1482〜1483頁。この判例については強い批判がある。安廣文夫元東京高裁判事は「情状関係の証拠を公判廷に顕出することもしないで量刑判断の用に供するというようなことが、今日無条件に許容されるなどと考えるべきではあるまい」と述べている。河上和雄他編『大コンメンタール刑事訴訟法(第2版)第7巻』(青林書院2012)、366頁[安廣文夫]。



plltakano at 16:16コメント(0)憲法的刑事手続裁判員制度  このエントリーをはてなブックマークに追加

2022年10月08日

再検討が必要である


 日本国憲法の施行(1947年)から数年しか経過していない時期においては、まだ、憲法の制定過程に関する資料は十分に公開されておらず、また、憲法37条2項のもとになった合衆国憲法の修正条項の研究も十分ではなかった。

 1949年大法廷判決は、憲法37条2項前段の証人審問権は法廷に喚問された証人に対して被告人の反対尋問権を保障しただけである(「出廷したら尋問させれば良い」テーゼ)から、伝聞排除法則とは全く関係のない規定であると言う一方で、被告人において伝聞供述の供述者を尋問したければ、同項後段の強制手続権を行使して供述者を証人尋問すれば良いのだから、伝聞証拠を採用しても被告人の権利保護に欠けるところはない、と言った。しかし、この憲法解釈は、憲法の沿革に対する無知に由来する、まさに「独自の見解」である。すなわち、日本国憲法の制定過程から明らかなように、37条2項前段の証人審問権は合衆国憲法第6修正の対決権条項(confrontation clause)を承継するものであるのに対して、同項後段の強制手続権は同修正の強制手続条項(compulsory process clause)を承継するものなのである。前者は自己に不利益な供述をする人物と法廷で対決して反対尋問を行う権利であるのに対して、後者は自己に有利な供述をする人物を法廷に呼ぶために強制手続を利用する権利である[32] 。当時の最高裁裁判官は、この両者の違いを理解せず、前者を単なる法廷での尋問権と決めつけ、後者を敵対証人に対する反対尋問のための権利であると位置づけてしまったのである。

 1949年大法廷判決は、何一つ論証を試みることなく、憲法の歴史的沿革を無視した独自の見解――「出廷したら尋問させれば良い」テーゼにもとづいて、伝聞排除の憲法的基礎であるべき条項を伝聞排除とは無関係の規定であると宣言してしまった。その後の判例は、この説示の信憑性について自ら再検討しようとせず、金科玉条の如くにこの判例を引用して、被告人の違憲の主張を繰り返し退けてきたのである。

 1949年大法廷判決はそもそも刑訴法321条1項2号の合憲性を審査した判例ですならない。それは刑訴応急措置法に関する先例である。刑訴応急措置法は、旧刑訴法から新刑訴法への過渡期において、新憲法の要求をとりあえず必要最小限の範囲で満足させようと意図したものに過ぎない。文字通り「応急的措置」なのである。当時はそもそも反対尋問なるものについて法曹一般が理解しておらず、実際にも行われていなかったのである。このような時代的な制約のなかで、憲法の施行に間に合わせるために不十分ながらもその要求に応じようとするしかなかったのである。この意味で、応急措置法の合憲性をもって直ちに新刑訴法の合憲性を理由づけることはできないと言わなければならない [33]。

 憲法が施行された直後から1950年代中頃にかけての最高裁判例を概観して感じるのは、その議論の内容の希薄さと速やかに刑事手続の合憲判断をしなければならないという性急な意識である。一国の法令の憲法適合性を決定する「最終審裁判所」(“the court of last resort”)(憲法81条)である最高裁判所の行うものとして、その議論の内容のあまりの貧困さは目を覆いたくなるほどである。憲法の解釈をする以上、まずもって当該規定の歴史的沿革や制定過程を調査すべきであるが、最高裁判所の法廷意見は全くこれを行っていない。憲法37条2項の歴史的な沿革に多少なりとも触れたのは、1948年大法廷判決における栗山裁判官の反対意見のみである。

 当時は、まだ、憲法の制定過程に関する資料は十分に公開されておらず、憲法37条2項前段のもとになった対決権条項の研究も十分ではなかった。後述するように、その後に公開された憲法制定過程に関する文献や対決権条項の沿革に関する文献などを参照していれば、同項は、被告人を訴追する目的で行われ、被告人に対決・尋問の機会を与えずになされた尋問の結果を排除することを主眼とする規定であることが理解できたであろう。しかし、1949年大法廷判決は、そのような憲法解釈[34] を「独自の見解」[35] と言って排斥したのである。

 1949年大法廷判決の「出廷したら尋問させれば良い」テーゼには、いかなる意味でも論証というものが存在しない。要するに、「憲法の文言をそのように読むことができる」というだけである。また、同判決は、実質的根拠として、「もし被告人に不審不満の点があれば、憲法上の権利として、[…]其供述者の喚問を請求し、充分反対訊問をなし、その内容を明らかにすることができるのであるから」と言っているが、これが憲法の沿革に関する無知に由来すること、そして、実際には最高裁は被告人が請求すれば必ず証人喚問するつもりなどなかったこと(「最高裁の二枚舌」)は、前述した。これらの点をさておいても、被告人不在の場所で作成された法廷外供述を採用しても、供述者を後で法廷で尋問する機会を与えれば反対尋問権は十分保障されたと言えるということについても、論証はなされていない。法廷外の供述に対して、法廷で十分な反対尋問をするためには、供述者が法廷で、問題の法廷外供述を自己の供述であると認める必要がある[36] 。ところが、2号後段によって証拠請求される検察官調書の供述者のほとんどは、調書における供述を自己の真意に基づく供述であるとは認めないのである。要するに、事後的な反対尋問は、同時的な反対尋問の代用とはなり得ないのである。こうした点についても、1949年大法廷判決はもとより、今日までわが国の最高裁判事たちは全く検討したことがない。

 判例データベースで1948年以降の刑事事件に関する最高裁判所の憲法判断の件数を調べてみる[37] と、表1のとおりである。その推移をグラフにすると次のとおりである。


グラフ1刑事に関する最高裁憲法判例件数



 1948年には刑事事件に関して大法廷判決が83件、小法廷判決が112件、合計195件の最高裁判決があった。その後も1953年まで毎年100件を超える憲法判例があった(例外は1952年の79件)[38] 。年間200件の憲法判断をするということは、2日に1回以上のペースで憲法判断を示していることになる。きちんとした調査をする暇などなかったことは想像に難くない。刑訴応急措置法や新刑訴法制定直後の時期の諸判例は、憲法違反の上告が山積した時代に、「『適正手続』の原則に対する理解が十分でない中で、刑事司法・刑事手続の安定を図るため、急速に最高裁判所の判断を示す必要があり、暫定的に憲法判断を次々に示した」ものなのである[39] 。このような暫定的で拙速な憲法判断によってその後の実務が支配されている現状は不幸である。

 1995年に平場安治教授は次のように指摘した――「50年の経験を踏まえ、刑事手続に対する内外の批判もあることでもあり、新法施行直後の一連の最高裁判決を腰を据えて再検討すべきときにきている」[40] 。それからさらに30年近く経っているのに、そして「刑事手続に対する内外の批判」はますます大きくなっているのに、日本の最高裁は全く動く気配がない。われわれは、この国で刑事司法に携わっている職業人として、このままいつまでも手をこまねいている訳にはいかないとわたしは考える。われわれは今こそ、1940年末期から50年代前半にかけて最高裁判所が大量生産した刑事手続合憲判例を見直すべきである。
(つづく)

【脚注】
[32]田中・前注4、136頁は、この点を指摘していた。
[33]江家義男『刑事証拠法の基礎理論(訂正版)』(有斐閣1952)、100頁参照。
[34]1949年大法廷判決の上告趣意であると同時に、1948年大法廷判決の栗山裁判官の反対意見の趣旨でもあった。
[35]刑集3-6、790頁。
[36]後述の連邦最高裁のダグラス対アラバマ判決(1965年)を参照。
[37]TKC LEX/DBで「憲法」を検索語にして、各年の最高裁判所の刑事判例を検索した。
[38]2000年代以降、最高裁の憲法判断は最大で年間26件であり、大法廷判決は2011年に2件、2017年に1件あっただけで、あとはゼロ件である。
[39]平場安治「刑事訴訟法学と現実の刑事手続」季刊刑事弁護3‐12(1995)、13頁。
[40]同前。



plltakano at 23:23コメント(1)憲法的刑事手続対決権  このエントリーをはてなブックマークに追加

2022年09月30日

 明治時代から、犯罪捜査を行う公務員として、警察官とは別に検察官(検事)というものが存在していた。しかし、明治刑訴法(1890年)には検事や警察官が被疑者や参考人を尋問(取調べ)して、その供述を記録することができることを定めた規定はなく、そうした聴取書は無効であって、被告人の有罪を立証する証拠として利用することはできないというのが大審院の判例 [1]であった。しかし、1903年に大審院は判例を変更して、法律の規定によらずに「自由任意ノ承諾ニ出タル供述」を記録することは可能であり、そうして作成された聴取書も有効であって証拠として採用することができるとした[2]。大正刑訴法(1922年)は、しかし、法令上の権限がない者によって作成された法廷外供述の許容性を一般的に否定した。そのうえで、供述者が死亡や疾病のために法廷で尋問できない場合に限り例外的に聴取書を証拠として採用できるとした(大正刑訴法343条)[3] 。いずれにしても、検事が被疑者や参考人を尋問して作成した供述録取書(検事聴取書)の許容性について特別扱いをする規定は戦前には存在しなかった。

 ところが、1948年に制定され1949年に施行された昭和刑事訴訟法(現行刑事訴訟法)は、検事の作成する供述録取書に特別な地位を与えた。昭和刑事訴訟法は「公判期日における供述に代えて書面を証拠とし、又は公判期日外における他の者の供述を内容とする供述を証拠とすることはできない」(320条)と宣言する一方で、「その供述者が死亡、精神若しくは身体の故障、所在不明若しくは国外にいるため公判準備若しくは公判期日において供述することができないとき、又は公判準備若しくは公判期日において前の供述と相反するか若しくは実質的に異なつた供述をしたとき。ただし、公判準備又は公判期日における供述よりも前の供述を信用すべき特別の情況の存するとき」には検事作成の聴取書を証拠にしても良いとしたのである(321条1項2号)。

 昭和刑訴法が制定される前年に施行された日本国憲法(1947年施行)には、詳細な刑事人権規定が定められており、その37条2項前段は「刑事被告人は、すべての証人に対して審問する機会を充分に与へられ[る]」と定めていた。検察官調書の特別扱いについては、いち早く英米証拠法の専門家がその違憲性を指摘した[4] 。しかし、最高裁判所は、321条1項2号前段については1952年に、そして、同号後段については1955年に、それぞれ合憲判決を出した。

 その後今日まで70年間にわたって、刑事弁護人や一部の学者は、合憲判例は根拠が薄弱で説得力がないとして、同号の合憲性について繰り返し異議を唱えているが、今日に至るまで最高裁判所は当初の合憲判例を引用する以外に何らの応答もしていない。しかし、そうしたいわば惰性的な合憲判断によって良心的な違憲論者を納得させることは不可能である。同号については依然として内外から批判が根強い。本稿は、日本国憲法制定から間がない時期に出された合憲判決を分析し、それがほとんど論証と呼べるものを欠いた空論であることを明らかにする。そして、憲法37条2項前段の歴史と沿革を踏まえて、検察官調書を特別扱いする321条1項2号の違憲性は明白であることを改めて主張する。

機々膩判例には先例としての価値がない


刑訴法321条1項2号前段(証言不能)についての判例
 刑訴法321条1項2号前段が憲法37条2項に違反しないと述べた最初の最高裁判例は、1952年4月9日大法廷判決 である[5]。大法廷はこう述べた。

憲法37条2項は、裁判所が尋問すべきすべての証人に対して被告人にこれを審問する機会を充分に与えなければならないことを規定したものであつて、被告人にかかる審問の機会を与えない証人の供述には絶対的に証拠能力を認めないとの法意を含むものではない(昭和23年(れ)833号同24年5月18日大法廷判決判例集3巻6号789頁以下参照)。されば被告人のため反対尋問の機会を与えていない証人の供述又はその供述を録取した書類であつても、現にやむことを得ない事由があつて、その供述者を裁判所において尋問することが妨げられ、これがために被告人に反対尋問の機会を与え得ないような場合にあつては、これを裁判上証拠となし得べきものと解したからとて、必ずしも前記憲法の規定に背反するものではない。刑訴321条1項2号が、検察官の面前における被告人以外の者の供述を録取した書面について、その供述者が死亡、精神若しくは身体の故障、所在不明、若しくは国外にあるため、公判準備若しくは公判期日において供述することができないときは、これを証拠とすることができる旨規定し、その供述について既に被告人のため反対尋問の機会を与えたか否かを問わないのも、全く右と同一見地に出た立法ということができる[6] 。


 つまり、憲法37条2項は、現実に公判廷において証人尋問が行われたときには被告人に対して尋問の機会を与えなければならないというだけであって[7] 、法廷以外の場所で作成された供述録取書を、その供述者に対する尋問の機会を与えずに採用しても憲法とは無関係だと言うのである。大法廷は、その解釈が正しい根拠を自ら何一つ示さず、別の大法廷判決を引用した。それ――1949(昭和24)年5月18日の大法廷判決[8] ――はどんな判例なんだろうか。

 それは、刑訴応急措置法12条[9] に基づいて、公判で尋問された証人の検事聴取書を採用したことの合憲性が争われた事案である。弁護人は、憲法37条2項は合衆国憲法第6修正と同旨の規定であり、被告人に反対尋問の機会を与えずに作成された供述の許容性を否定する趣旨であって、公判で尋問の機会を与えさえすれば、尋問の機会を与えずに作成された供述録取書を採用しても良いという応急措置法12条は憲法37条2項に違反すると主張した[10] 。大法廷は次のように述べてこの主張を退けた。

 
しかし、憲法37条2項に、刑事被告人はすべての証人に対し審問する機会を充分に与えられると規定しているのは、裁判所の職権により、又は訴訟当事者の請求により喚問した証人につき、反対訊問の機会を十分に与えなければならないと言うのであって、被告人に反対訊問の機会を与えない証人その他の者(被告人を除く。)の供述を録取した書類は、絶対に証拠とすることは許されないと言う意味を含むものではない。従って、刑訴応急措置法第12条において、証人その他の者(被告人を除く。)の供述を録取した書類は、被告人の請求があるときは、その供述者を公判期日において訊問する機会を被告人に与えれば、これを証拠とすることができる旨を規定し、検事聴取書の如き書類は、右制限内において、これを証拠とすることができるものとしても、憲法第37条第2項の趣旨に反するものではない。
 論旨は公判廷において被告人に反対訊問の機会を与えたとしてもその訊問の結果を証拠となし得るに止まり、検事聴取書其ものは被告人に反対訊問の機会を与えて作成したことにはならないから、これを証拠することはできないと主張するものであるが、右主張は、憲法第37条第2項は被告人に反対訊問の機会を与えない証人の供述録取書は絶対に証拠とすることは許されないことを意味すると言う、独自の見解に基づくものであるから、採用できない。検事聴取書は、いわば、原告官たる検事が作成したものであるが、他の書類と同一の訴訟資料として、公判において被告人に読聞けられるものであり、もし被告人に不審不満の点があれば、憲法上の権利として、公費でしかも強制手続によって其供述者の喚問を請求し、充分反対訊問をなし、その内容を明らかにすることができるのであるから、裁判官の自由なる心証により、これを証拠となし得るものとするも、被告人の保護に缺くるところはない、唯無制限にこれを証拠となし得るものとすれば、憲法第37条第2項の趣旨に反する結果を生ずる恐れがあるから、刑訴応急措置法第12条により、被告人の権益保護につとめているのであって、右措置法の規定は憲法第37条第2項の旨を受けたものであり、たがいに杆格するものではなく、これを無効とすべき理由はない[11] 。


 たしかに、大法廷は「憲法37条2項[は]、[…]裁判所の職権により、又は訴訟当事者の請求により喚問した証人につき、反対訊問の機会を十分に与えなければならないと言うのであ[る]」と言って、「出廷したら尋問させれば良い」テーゼを語っている。しかし、その事案は、供述者が法廷に実際に出頭して被告人に尋問の機会を与えたうえで検事聴取書を採用したというものなのであり、証人尋問が行われなかったケース――刑訴法321条1項2号前段が想定しているケース――ではそもそもない。

 大法廷は、また、「もし被告人に不審不満の点があれば、憲法上の権利として、公費でしかも強制手続によって其供述者の喚問を請求し、充分反対訊問をなし、その内容を明らかにすることができる」から実質的に被告人の権利は保障されているという。この説示を読むと、いかにも被告人が証人尋問を請求したら、裁判所は必ずそれを採用して強制的に被告人に尋問の機会が与えられるかのような印象を受ける。ところが実際にはそうではない。最高裁判所大法廷は、この判決の前年に、「健全な合理性に反しない限り、裁判所は一般に自由裁量の範囲で適当に証人申請の取捨選択をすることができると言わねばならぬ。所論の憲法第37条第2項に、『刑事被告人は、公費で自己のために強制手続により証人を求める権利を有する』というのは、裁判所がその必要を認めて訊問を許可した証人について規定しているものと解すべきである。この規定を根拠として、裁判所は被告人側の申請にかかる証人の総てを取調ぶべきだとする論旨には、到底賛同することができない」と言っているのである[12] 。これを最高裁の「二枚舌」というのは言い過ぎだろうか。

 2号前段の2件目の合憲判決は、最高裁第1小法廷1961年3月9日判決 [13]である。被告人の有罪を認定する唯一の証拠である自称被害者の検察官調書を採用しながら、被告人側による供述者の証人申請を「国外に旅行中である」との理由で却下したという事案である。憲法37条2項に違反するとの論旨を、「証人が外国旅行中であつて、これに対する反対尋問の機会を被告人に与えることができない場合であつても、その証人の供述録取書を証拠として採用することが憲法37条2項の規定に違反するものでないことは当裁判所昭和24年5月18日,同25年9月27日、同年10月4日、同27年4月9日、同23年7月19日の各大法廷判決の趣旨に徴し明かであるから所論違憲の主張は採用し難い」と、ワンセンテンスで退けている[14] 。

 第1小法廷が引用している5つの判例のうち2つ――昭和24年(1949年)5月18日と昭和27年(1952年)4月9日各大法廷判決――については、すでに触れた。

 昭和23年(1948年)7月19日大法廷判決 [15]は、共犯者とされる者の「始末書」を刑訴応急措置法12条に基づいて裁判所が採用したが、第1審弁護人はその供述者の証人申請をしなかったという事案である。上告趣意は、憲法37条2項の法意は刑事事件において第三者の供述を証拠とするにはその者を証人として公開の法廷で尋問し、被告人に審問の機会を十分に与えることにあるのであって、供述者の聴取書や供述代用書面をもって証人尋問に代えることは許されないというものであった [16]。多数意見は、次のように述べてこの論旨を退けた。

 
刑訴応急措置法第12条は、証人その他の者の供述を録取した書類又は之に代わるべき書類を証拠とするには、被告人の請求がある場合には、その供述者又は作成者を公判期日において訊問する機会を被告人に与えることを必要とし、憲法37条に基づき被告人は、公費で自己のために強制手続によりかかる証人の訊問を請求することができるし、又証人に対して充分に審問する機会を与えられることができ不当に訊問権の行使を制限されることがない訳である。しかし裁判所は、被告人側からかかる証人の訊問請求がない場合においても、義務として現実に訊問の機会を被告人に与えなければ、これらの書類を証拠とすることができないものと解すべき理由はどこにも存しない。憲法の諸規定は、将来の刑事手続が一層直接主義に徹せんとする契機を充分に包蔵しているが、それがどの程度に具体的に実現されてゆくかは、社会の実情に即して適当に規制せらるべき立法政策の問題である。今直ちに憲法37条を根拠として、論旨のごとく第三者の供述を証拠とするにはその者を公判において証人として訊問すべきものであり、公判外における聴取書又は供述に代わる書面をもって証人に代えることは絶対に許されないと断定し去るのは、早計に過ぎるものであって到底賛同することができない [17]。


 要するに、この1948年大法廷判決は、刑訴応急措置法が「被告人の請求があるときは、その供述者又は作成者を公判期日において訊問する機会を被告人に与えなければ、これを証拠とすることができない」と規定しているのは憲法に沿うものであり、被告人が供述者の証人尋問を請求しなかった場合にその供述書を採用しても憲法には違反しないというのである。1961年第1小法廷判決は、被告人側が自称被害者の証人申請をしたのに、裁判所は証人が海外旅行中だというだけの理由で証人申請を却下して、唯一の有罪証拠であるその検察官調書を採用したという事案であって、1948年大法廷判決とは全く異なる、むしろ、逆のケースと言っても良い事案であった。それにも関わらず、第1小法廷は、この判例を引用して上告を棄却したのである。

 ところで、1948年大法廷判決には、栗山茂裁判官の詳細な反対意見が付されている。彼は、刑訴応急措置法12条は憲法37条2項の趣旨にそって限定的に解釈されなければならず、同条によって証拠とすることができるのは、原則として、被告人に尋問の機会を与えたうえで作成された供述に限られると言うのである。

 
憲法第37条第2項は、被告人又は弁護人の面前でされる証人の供述でなければ証拠にとれない。言いかえれば、供述を録取した書類を読聞けただけでは証拠とすることができない。即ち直接審理の原則を宣明したものである。刑訴応急措置法第12条はこの趣旨に適合するように解釈されなくてはならぬ。同条は、証人その他の者が当審公判廷外で被告人の面前で供述をしても(即ち審問の機会が与えられたのである)直接審理主義からいえば、当審公判廷で更に被告人の面前で証人として供述せしむべきものである。けれども被告人には既に審問の機会が与えられているのであるから、被告人又は弁護人からその請求がなければ、その供述を録取した書類又は之に代るべき書類を読聞けて証拠とすることができるという趣旨と解すべきものである。
 尤も被告人に傷害された被害者が瀕死の場合に彼を証人として被告人に審問の機会を与えることが著しく困難な場合がある。又被告人に既に審問の機会が与えられた証人その他の者が既に死亡し又は国外に去った場合がある。これらの場合に直接審理主義が制限せられるのは巳むを得ないであろう。然るに一度も被告人に対質の機会を与えず即ち裁判所も直接審理の機会を持たなかった証人その他の者が単に死亡若しくは国外に去ったという理由で、当然にその供述に証拠能力が出てくるものではありえない。瀕死の被害者の供述と雖も容易に信用できないものである。けだし被害者が被告人を見違うこともあり又他の動機で被告人を罪に陥れんとすることもあるであろうから、瀕死の一事を以ってその供述を録取した書類に証拠能力を認めるのさえ必ずしも公正を期しえないのものである。而てこの理由は第三者が被害者でなく而も死亡せず又国外に去らない場合でも同様でなくてはならぬ。従て刑訴応急措置法第12条は人権を尊重する上に於て、出来る限り厳格に解釈すべきものである。
 元来憲法第37条第2項の特権は、第三者の供述を、被告人に対質もさせないで即ち審問の機会も与えないで、単に読聞けただけで断罪した専制政府の裁判に対し、人権を擁護するために出来た保障であって、恐るべき裁判の歴史の産物である。専制政府が自分の好ましからずとする人物を倒すのには、これほど有力な武器はなかったし又ないであろうと思われる。犯罪捜索[ママ]の機関である司法警察官又は検察官が証拠を収集する段階で作成した報告書即ち聴取書は、理論上は公訴機関が公訴を提起するか否かを判断する資料に過ぎないものである。之を公訴提起後に公訴機関が公判期日に証拠として提出した場合に(弾劾主義の建前から、かように解釈すべきものである)この報告書に録取された第三者の供述については、捜索[ママ]の段階で、被告人に審問の機会が与えられた訳ではないから、裁判所は直接審理主義に基づいて、被告人又は弁護人の面前で供述者を証人として訊問とした後でなければ証拠にとれないことを原則とすべきである。ことに第三者の供述によって被告人に刑責を負わせる場合の如き、裁判所としては未だ嘗て直接審理をしたことがないのに、(たとえ裁判所にとって本人の刑責が明であると認めても)その供述を録取した書類によって裁判するのは、被告人又は弁護人の請求の有無に拘わらず、憲法第37条第2項の原則に反するものである。従て刑訴応急措置法第12条は、前掲のような特殊事由がある場合を除いては、原則として嘗て審問の機会が与えられた証人その他の者の供述を録取した書類と解すべきであると考える。同条が刑事訴訟法334条[ママ]を適用しないとしたにもかかわらず、同条を極めて皮相に文理解釈して、却て刑訴第343条[18] 以下の審理に終らんとするのは、同条が憲法第37条第2項を前提として出来ていることを忘れるものである[19] 。


 昭和25年(1950年)9月27日大法廷判決 [20]も被告側が自称被害者の尋問を請求しなかった事案である[21] 。そして、同年10月4日大法廷決定[22] は、刑訴法228条により被疑者・弁護人の立会いなしになされた証人尋問調書を、刑訴法321条1項1号によって採用した証拠決定に対する特別抗告事件である。公判では、検察官が証人申請を行い、実際に証人尋問が行われ、弁護人は反対尋問を行っているのである。その意味で2号前段の問題状況(証言不能)とは異なる事案なのである[23] 。

 刑訴法321条1項2号前段の合憲性を肯定した3件目の最高裁判例は、1995年6月20の第三小法廷判決 [24]である。退去強制させられた結果証人尋問をする機会がなかった外国人の検察官調書が刑訴法321条1項2号前段によって採用されたことが問題となった。捜査官・訴追官に過ぎない検察官の作成する供述調書の証拠能力を単に必要性の要件だけで肯定する刑訴法の規定は憲法37条2項に違反するとの上告趣意を、第3小法廷は、1952年大法廷判決の――説示を引用することもなく――サイテーションを示すだけで、片づけた[25] 。しかし、すでに見たとおり、1952年大法廷判決が依って立つのは、全く事案を異にし、対象となる法律すら別な事案に関する判例(1949年大法廷判決)の、結論とは無関係な傍論部分――「出廷したら尋問させれば良い」テーゼ――にすぎないのであった[26] 。

刑訴法321条1項2号後段(自己矛盾)に関する判例

 刑訴法321条1項2号後段の合憲性を15人の最高裁判事が審査したことは一度もない。2号後段の合憲性問題を取り上げてその判断を示した最高裁判例としては、1955年11月29日の第3小法廷判決 [27]があるだけである。しかし、この合憲判断は全くの傍論に過ぎないのである。事案は恐喝事件であるが、1審において弁護人は検察官調書の取り調べに同意している。1審においても2審においても、弁護人は2号後段の違憲性を主張していない。上告審において初めて憲法違反の主張がなされたのである。第3小法廷は、なぜかこの主張を取り上げて、「所論は、原審で主張、判断されていない事項に関する主張である」と、言わずもがなの説示をしたうえで[28] 、ワンセンテンスの合憲判断を付け加えたのである。
 
 そして、判決が述べる合憲の理由は、またしても、1949年大法廷判決の「出廷したら尋問させれば良い」テーゼである――「憲法37条2項が、刑事被告人は、すべての証人に対し審問する機会を充分に与えられると規定しているのは、裁判所の職権により又は当事者の請求により喚問した証人につき、反対尋問の機会を充分に与えなければならないという趣旨であって、被告人に反対尋問の機会を与えない証人その他の者の供述を録取した書類を絶対に証拠とすることを許さない意味を含むものではなく、従って、法律においてこれらの書類はその供述者を公判期日において尋問する機会を被告人に与えれば、これを証拠とすることができる旨を規定したからといって、憲法37条2項に反するものでないことは、当裁判所大法廷の判例[1949年大法廷判決]が示すところであるから、刑訴321条1項2号後段の規定が違憲でないことはおのずから明らかである」[29] 。

まとめ

 つまるところ、刑訴法321条1項2号の合憲性の根拠は、1949年大法廷判決の「出廷したら尋問させれば良い」テーゼ以外にないのである。しかし、このテーゼが現代において憲法37条2項の公権的解釈として通用するような代物ではないことは明白である。そして、それは他ならぬ最高裁自身が認めているのである。1995年判決は「憲法37条2項が被告人に証人審問権を保障している趣旨」に照らすと、「検察官面前調書が作成されるに至った事情や、供述者が国外にいることになった事由のいかんによっては、その検察官面前調書を常に右規定により証拠能力があるものとして事実認定の証拠とすることができるとすることには疑問の余地がある」と言った[30] 。憲法37条2項の趣旨が「喚問した証人につき、反対訊問の機会を十分に与えなければならない」というだけだ(1949年大法廷判決)としたら、「検察官面前調書が作成されるに至った事情や、供述者が国外にいることになった事由のいかん」とかによって、検察官調書の許容性が左右されるいわれはないだろう。

 要するに、刑訴法321条1項2号が合憲であると宣言した最高裁判所判例は、まったく筋違いの先例、そして、その後の最高裁自身がそれと矛盾する判断をしているような先例をほとんど唯一の根拠としているのである。もはや先例拘束性(stare decisis)の前提条件を欠いた先例であるという他ない。「先例が先例であるということのみが裁判所の作ったルールを支え得る全ての論拠となったとき、その時こそ、そのルールの作成者がそれを打ち破るときである」 [31]。
(つづく)

【脚注】
[1]大判1892・6・30法律新聞1875-4;大判1892・11・10裁判粋誌大審院判決例刑事集7-341;大判1895・10・3大審院刑禄1-3-27;大判1895・10・3大審院刑禄1-3-29。
[2]大判1903・10・22大審院刑禄9-26-1721、1723〜1724頁。
[3]1941年に国防保安法と改正治安維持法によって、それぞれの法律が規定する犯罪については警察官や検事に尋問権が与えられ、したがってそれらの聴取書の許容性が認められた。また、1942年の戦時刑事特別法によって、刑訴法343条それ自体が停止された。高野隆『人質司法』(KADOKAWA、2021)、132-133頁。
[4]鈴木勇『証拠法を中心とする新刑事手続の解説』(近代書房1948)、99-100頁;江家義男「刑訴法321条1項の合憲性」刑法雑誌1-3=4-405(1950);田中和夫「刑事被告人の証人審問権に関する判例」法曹時報3-6-125(1951)。
[5]最大判1952・4・9刑集6-4-584。
[6]刑集6-4、588頁。
[7]証人が法廷に来たら尋問させれば良いということ、以下これを「出廷したら尋問させれば良い」テーゼという。
[8]最大判1949・5・18刑集3-6-789。
[9]日本国憲法の施行に伴う刑事訴訟法の応急的措置に関する法律(1948(昭和23)年法律第76号)第12条1項「証人その他の者(被告人を除く。)の供述を録取した書類又はこれに代わるべき書類は、被告人の請求があるときは、その供述者又は作成者を公判期日において訊問する機会を被告人に与えなければ、これを証拠とすることができない。但し、その機会を与えることができず、又は著しく困難な場合には、裁判所は、これらの書類についての制限及び被告人の憲法上の権利を適当に考慮して、これを証拠とすることができる。」
[10]刑集3-6、792〜793頁。
[11]同前、790〜791頁。
[12]最大判1948・6・23刑集2-7-734、735-736頁。
[13]最1小判1961・3・9刑集15-3-500。
[14]刑集15-3、502頁。
[15]最大判1948・7・19刑集2-8-952。
[16]刑集2-8、971頁。
[17]同前、957頁(強調は引用者)。
[18]大正刑訴法(1922年)343条1項は次のように規定する:「被告人其ノ他ノ者ノ供述ヲ録取シタル書類ニシテ法令ニ依リ作成シタル訊問調書ニ非サルモノハ左ノ場合ニ限リ之ヲ証拠ト為スコトヲ得
1 供述者死亡シタルトキ
2 疾病其ノ他ノ事由ニ因リ供述者ヲ供訊問スルコト能ハサルトキ
3 訴訟関係人異議ナキトキ」
検事聴取書や始末書は「法令ニ依リ作成シタル訊問調書」ではないので、供述者が尋問不能であるか、弁護側が同意しない限り、許容性は認められていなかった。なお、同法では、検事も警察官も、現行犯逮捕された被疑者に対してしか取調べを行うことができず、しかも、警察官は「即時」(127条)、検事は「24時間以内」(129条)に限られていた。1932年の大審院判例は検事が現行犯逮捕された犯人を受け取ってから4日後に作成した検事聴取書の許容性を否定した。大判1932・4・18大審院刑集11-384、394-395頁。
[19]刑集2-8、959〜961頁(強調は引用者)。
[20]最大判1950・9・27刑集4-9-1774。
[21]大法廷は、「本件では所論始末書又は被害届について原審公判廷でその作成者を訊問することを得る旨告げられたにかかわらず被告人並びに弁護人は之を請求しなかったこと記録上明かであるから、原審がこれを証拠としたからといって、違法であるということができない」と説示している。刑集4-9、1776〜1777。
[22]最大決1950・10・4刑集4-10-1866。
[23]大法廷は、「本件においては、所論の証人赤間勝美は、検察官の請求により、原審公判廷において尋問せられ、被告人側の反対訊問にも充分にさらされたことが明白である、従って、この点において、憲法37条2項の要請は充たされたものと認めることができる」として、抗告を棄却した。刑集4-10、1869頁。
[24]最3小1995・6・20刑集49-6-741。
[25]「刑訴法の右規定が憲法37条2項に違反するものでないことは、当裁判所の判例(最高裁昭和26年(あ)第2357号同27年4月9日大法廷判決・刑集6巻4号584頁)とするところであるから、所論は理由がな[い]」。刑集49-6、743頁。
[26]だから、1995年第3小法廷判決は、321条1項2号前段による証拠採用が常に合憲だとは限らず、一定の場合に憲法違反となりうることを説示したのだと思われる――「憲法37条2項が被告人に証人審問権を保障している趣旨にもかんがみると、検察官面前調書が作成されるに至った事情や、供述者が国外にいることになった事由のいかんによっては、その検察官面前調書を常に右規定により証拠能力があるものとして事実認定の証拠とすることができるとすることには疑問の余地がある。[…]当該外国人の検察官面前調書を証拠請求することが手続的正義の観点から公正さを欠くと認められるときは、これを事実認定の証拠とすることが許容されないこともあり得るといわなければならない。」刑集49-6、744〜745頁。
[27]最3小判1955・11・29刑集9-12-2524。
[28]刑集9-12、2525頁。
[29]同前、2526頁。
[30]刑集49-6、744〜745頁。
[31]Francis v. Southern Pacific Co., 333 U.S. 445, 471 (1948) (Black,J., dissenting).


plltakano at 22:10コメント(0)憲法的刑事手続対決権  このエントリーをはてなブックマークに追加

2022年07月14日

 永沢真平氏が私に対して提起した著作権侵害訴訟について、最高裁判所第二小法廷は、7月6日付で同氏の上告受理申立てを棄却する決定をしました。これで、私がこのブログで永沢氏の懲戒請求に反論するにあたって、彼の実名を公表したことが永沢氏の「プライバシー権が違法に侵害されるということにはならない」と言い、さらに私が彼の懲戒請求書全文を公開したことは「本件懲戒請求に対する反論を公にする方法として相当なものであった」とした知財高裁判決が確定しました。

 永沢氏の懲戒請求書全文を公開した私のブログ記事は、永沢氏の申立てによって、ライブドア・ブログを運営するLINE株式会社によって削除されていました。私の勝訴確定によってこの削除が誤りであることが明らかになりました。そこで私は同社に私の投稿記事の復元を求めました。これに対して同社は、「弊社にて復元・再公開することはできかねます。再公開される場合は、お客様のご判断でご対応等いただくようお願いいたします」という回答を寄越しました。

 この回答は全く無責任であり、表現活動のプラットフォームを提供する企業としての自覚に欠けるものです。その責任は別途追求したいと思います。しかし、記事を復元して皆さんが閲覧できる状況にすることが肝要ですから、とりあえず自分で復元しました。

 復元した記事はこちら:
 「知財高裁判決:懲戒請求書の全文引用は正当」(2021年12月23日)
 「懲戒不相当決定」(2021年7月1日)
 「被告高野隆の陳述」(2020年7月31日)
 「懲戒請求に対する弁明書」(2020年2月4日)




plltakano at 22:24コメント(0)表現の自由プライバシー  このエントリーをはてなブックマークに追加

2022年06月26日

最高裁判所第2小法廷は、6月24日、旅館の女性浴場の脱衣所に侵入したという建造物侵入罪で逮捕され略式起訴されて罰金を納付した男性が、ツイッター社に対して彼の逮捕報道を引用したツイートの削除を求めた事件で、男性の請求を棄却した東京高裁判決を破棄して、削除を認める判決をした。第2小法廷は、逮捕されたという事実は「他人にみだりに知られたくない上告人のプライバシーに属する事実である」と断定したうえ、逮捕から長期間(原審口頭弁論終結まで約8年)経過しているとか、上告人が公的立場にある者ではないなどの事情をあげて、「上告人の本件事実[逮捕事実]を公表されない法的利益が本件各ツイートを一般の閲覧に供し続ける理由に優越するものと認めるのが相当である」として、ツイートの削除を認めた。

この判断の手法は、『逆転』事件最高裁判決(最3小1994・2・8民集48-2-149)の手法とよく似ている。『逆転』は、復帰前の沖縄で行われていた陪審裁判を描いたノンフィクションで大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した作品である。作者伊佐千尋氏は、その事件の陪審員の一人であり、本作において被告人を実名で表記した。被告人の一人が、刑事裁判で有罪となり服役したという前科にかかわる事実が公表され精神的苦痛を被ったと主張して、伊佐氏に慰謝料を請求した事件である。最高裁第3小法廷は、「プライバシー」という表現は使わなかったものの、前科について「公表されない利益が法的保護に値する場合がある」と言った。そして、公表の利益よりも「前科等にかかわる事実を公表されない法的利益が優越するとされる場合には」不法行為が成立し、公表による精神的苦痛に対する慰謝料請求ができるという利益衡量基準を設定したうえでこれを適用して、事件及び裁判から12年以上経過し、被告人が公的立場になく、服役後新たな生活環境を形成していたなどの事情を述べて、不法行為の成立を認めたのである。

私は、「『逆転』事件」についても、今回の「ツイート削除命令事件」についても、最高裁判決は誤りであり、表現の自由に対する不合理な制約であって、刑事手続に関する情報の検閲制度を自ら創設したのであって、憲法に違反すると考えている。

犯罪の容疑で逮捕されたり、起訴され刑事裁判を受けるという出来事を「私生活」(private life)というのはおよそ不可能である。犯罪捜査や刑事訴追は国家の統治機構の中核の一つであり、国家権力の行使そのものである。それらをその対象者である被疑者・被告人そして犯罪被害者のプライベートな出来事であるなどということはできない。こうした国家権力の行使について、主権者である国民は何が行われているのか関心を持つべきであり、何が行われているのかを知る権利がある。国民主権を標榜する民主主義国家において犯罪捜査や刑事訴追そして刑事裁判が「ブラックボックス」であることは許されない。そして、これらを記録した情報は、いわば「公共財」としての公的記録(public record)であり、すべての国民がアクセスできなければならない。

今回のツイート削除事件判決に付された草野耕一裁判官の補足意見は、犯罪者が「政治家等の公的立場にある者」でない場合は、犯罪者の氏名等は「原則として、犯罪事件の社会的意義に影響を与える情報ではない。よって、犯罪者の特定を可能とするこのような情報を、保全されるべき報道内容から排除しても報道の保全価値が損なわれることはほとんどないといってよいであろう」という。しかし、前科情報は選挙権行使の際の判断材料になれば良いというものではない。自分の交際相手や従業員として採用しようとしている人がどのような人物なのか、彼らに逮捕歴や前科があるのかを知ることが、選挙の際の立候補者のそれを知る必要性よりも軽いなどとは言えないだろう。相手と結婚するかどうか、採用するかどうかは、もちろんそれぞれの個人の判断である。前科があったとしても政治家として国民のために有用な仕事をしてくれる人もいるだろうし、前科があっても立派に更生していて会社のために有意な人材だと経営者に認められて採用される人も少なくはないだろう。選挙の際の立候補者の場合以外は、人物評価は前科や逮捕歴を除いてしなければならないなどというルールはない。

刑事訴追制度に対する国民の知る権利は、こうした個別的な国民の選択にとって重要だというだけではもちろんない。犯罪捜査や刑事訴追に携わる公務員の権力の行使が公正かつ適切に行われているのかを国民が常時監視するために必要なのである。そのためには、われわれ国民は、抽象的な統計や傾向や政府の発表ではなく、個々の具体的な事実を知る必要がある。どの警察官が、誰を、何時、どのような被疑事実で逮捕したのか。その被疑者はいつまでどのような理由で身柄拘束されたのか。裁判では誰が証言したのか。結果はどうだったのか。これらの事実を評価するためには、被疑者や被告人が誰なのか、被害者として訴えたのは誰なのかを知らなければならない。登場人物が特定されることで、初めて、その人の属するコミュニティがどんなものなのか、およそ犯罪とは無縁の生活を送ってきたのか、自称被害者の話は信頼できるのか、被告人の無実の訴えは信頼できるのかを考えることができる。さらには、無実を知る人物が名乗りを上げるということもある。刑事裁判が真実に達するためにも、登場人物の実名を伴った、刑事訴追に関する情報の流通が必要なのである(証拠法の父・ウィグモアは証拠法の教科書のなかでそうした実例を多数あげている)。

公正な刑事手続を確保するための情報の流通の必要性が、事件から数年で消滅するなどということはない。刑事手続に関する情報は、いわば国民の歴史の一部なのである。国民はいつでもそこにアクセスして検証を繰り返すことができなければならない。

草野裁判官は、実名報道には「制裁的機能」や「社会防衛機能」があるとか、「他人の不幸に嗜虐的快楽を覚える心性」に答える機能(「外的選好機能」)があると指摘したうえ、それらは社会的利益として価値がないかあるいは低い価値しかないと指摘している。草野裁判官の指摘に特に異存はない。これまで述べたように、刑事手続情報における実名の重要さは、そういうところにあるのではない。

草野裁判官が言う「外的選好機能」について一つだけ指摘したい。草野裁判官は「負の外的選好が、豊かで公正で寛容な社会の形成を妨げるものであることは明白であ[る]」と言っている。本当にそうだろうか?確かに、裁判官が指摘するように、逮捕されたり起訴されたりした個人やその家族の実名を知って「嗜虐的快楽を覚える」(「隣りの不幸は蜜の味」)人がいるかも知れない。しかし、そういう人が相当な数を占めて、裁判官がいうような「サブカルチャー」といえるほどの実態をなしているとはとうてい言えないと私は考える。私は、これまでの人生でそうした「嗜虐的快楽」を覚えたことはないし、私の周囲にもそういう人がいるようには思えない。むしろ、被告人や有罪判決を受けた人やその家族のために、経済的利害を度外視して様々な奉仕活動をしている人々が少なくない。前科者を積極的に雇い入れている経営者もいる。結局のところ、草野裁判官の指摘は、刑事訴追に携わっている国家機関だけが被告人の実名情報を独占している分には問題ないが、一般国民がそれを知ると、彼らはみな「嗜虐的快楽」に溺れてしまい、この国は貧困で不寛容で不公正な社会に堕落してしまうだろうと言っているのである。これは愚民思想以外のなにものでもない。

個人の逮捕歴や前科がその人の「プライバシー」に属するということは、要するに、そうした情報がすべて国家権力――警察官と検察官――に独占されるということである。われわれ国民は、自分の所属するコミュニティにいる隣人たちに前科があるのか、あるとしてどんな前科なのか、全く知るすべがない。ところが、警察官や検察官はそれを知っている。刑事裁判では必ず、検察官はわれわれの依頼人である被告人の前科調書を証拠請求してくる。ところが、検察側の証人の前科情報が弁護側に開示されることはない。弁護人が証人の基本的な情報として知る必要があると言っても、裁判所は弁護人の訴えをほぼ必ず退ける。弁護士法に基づいて前科の照会をしたのに答えた自治体は損害賠償責任を負うというのが最高裁の判例である。こうした判断で検察官や裁判官が使う理屈も「プライバシー」である。

私が学生のころには、刑事裁判や冤罪をテーマにしたノンフィクション作品がたくさんあった。それらはみな実名で書かれていた。実名で書かれることによって作品が「ノンフィクション」であることが保証される。作者は「事実」にこだわり、間違いのない事実を物語るために最善の努力をする。登場人物の周辺にいる人たちは事実に違いがあれば、それを指摘できる。実際に指摘された例もある。現在は「匿名」が主流である。そのために、登場人物の隣人ですら誰のことを書いているのか分からない。誤りを指摘することもできない。作品は事実の物語というより、架空の設例のような感じすら受けることがある。ウェブサイトでよく見かける匿名の「裁判傍聴記」などを読むと特にそう感じる。匿名であるからなおさら「嗜虐的快楽」「隣りの不幸は蜜の味」に奉仕しているとしか思えないような代物も多い。

しかし、このプライバシーの考え方は根本的におかしい。前科や裁判情報というのは「公的記録」の典型例であり、公的記録に搭載された情報を「プライベート」と名付けるのは甚だしい形容矛盾と言わなければならない。最近では、犯罪情報に限らず、身分に関する個人情報すらも個人のアクセスが原則として禁じられている(戸籍はかつて「身分登記簿」と言って身分関係を公示するためのものであったが、現在は原則として他人の戸籍を見ることが禁じられている)。その結果、われわれは犯罪情報だけではなく、われわれの隣人の身分関係を知ることもできない。けれども、国家はすべて知っているのだ。現在の日本社会は、ジェレミー・ベンサムが設計した刑務所――「パノプティコン」――のようなものになっている。


plltakano at 16:13コメント(3)表現の自由プライバシー  このエントリーをはてなブックマークに追加

2022年06月19日

【*本稿は、2022年6月11日浜松で行われた「第8回日本医療安全学会学術総会」での講演の記録に加筆したものである。】

今日は、お医者さんが犯罪の訴追を受けるという話をさせていただきます。お医者さんであれ弁護士であれ誰であれ、物を盗んだり、人を傷つけたり、お金を横領したりしたら、犯罪として訴追されます。今日はそういう話ではありません。医療に従事する皆さんに特有の犯罪についてお話をします。どういうことかというと、医療に従事する皆さんがその医療行為をしていくなかで、不注意、過失を犯したということで刑事訴追を受けるということです。刑法211条の業務上過失致死傷罪という罪です。

刑法211条はこう言っています――「業務上必要な注意を怠り、よって人を死傷させた者は、5年以下の懲役若しくは禁錮又は100万円以下の罰金に処する」。医療従事者にとって「業務上必要な注意を怠「った」」つまり業務上の過失というのはいったい何なのでしょうか。

1 医療上の過失の特徴

医療は死と隣合わせ

医療従事者の過失というのは少し特殊なものです。まずその話をしましょう。

過失というのはあらゆる職業につきものです。われわれ弁護士も良く間違えます。たとえば、時効を徒過してしまって、依頼人の債権が消滅してしまったとか、法律の解釈を間違えたり、新しい判例のことを知らないで、全く頓珍漢な主張をしたために依頼人が訴訟で負けてしまう。検察官が持っている証拠の開示請求をちゃんとやらなかったために、無罪を証明できる証拠があるにもかかわらず、有罪になってしまった。こういう場合でも、弁護士は刑法犯に問われることはないのです。損害賠償を請求されたり、懲戒請求を受けるかもしれないけれど、それで刑事訴追されることはない。

下手な弁護のために冤罪が確定して、死刑が執行されて依頼人が亡くなったとしても、その弁護士が業務上過失致死罪に問われたということはいまだかつてない。問われてもいいような感じがちょっとしますけれど、ないですね。

お医者さんの場合は違います。どう違うか。医療従事者の仕事は常に人の死と隣り合わせなのです。そこが最大の違いです。医療従事者の些細なミスが人の死に直結する可能性があります。注射する薬の種類を間違えたとか、量の計算を間違えて1000分の1グラム多く点滴してしまったとか、メスを入れる部位を1ミリずらしてしまったというような微妙なエラーによって大惨事が起こります。

注意義務が一義的ではない

人の死に直結するといえば、自動車運転もそうですね。自動車運転をしている中で、注意を怠り不注意で人を轢いてしまった。その結果人が亡くなったという場合に業務上過失致死罪、今は別の法律になって自動車運転過失致死罪ですけれど、そういう罪が問われる。過失が人の死と直結するという意味では、医療上の過失と似た面があります。

しかし、医療と自動車運転との間には決定的な違いがあります。それはどういうことかというと、自動車運転上の過失、自動車運転における注意義務違反というのは明瞭です。お酒を飲んだら運転してはいけないとか、時速60キロの速度制限であるとか、ハンドルを持っている時は必ず前を見ていなければいけないとか、曲がったり車線変更するときはウィンカーを出さなきゃいけないとか、そういう決まりがあって、その決まりに違反したら、それが過失だということになるわけですね。安全運転という大きな枠組みの中で、過失=注意義務違反というのは非常にクリアです。

お医者さんの場合は必ずしもクリアではないわけです。マニュアルがあって、それに沿う医療をやっていれば責任を問われないという話ではないわけです。たとえば、帝王切開をしているときに、前置胎盤だというのがわかった。術後の処置としてその胎盤を剥離しなければいけない。出血する。どこまで剥離するのか。最後までやるのか。途中で止めるのか。子宮全部を摘出するべきなのか。これは一義的に決められないですよね。子供が救急搬送されてきた。その子供は転んで口の中に割りばしが刺さっちゃった。それを自力で抜いたと言われた。その子供を見たお医者さんは必ず頭部のCTを撮って、割りばしのかけらが脳の中に残っているかどうか確認しなきゃいけないのか。それは一義的に決められないですよね。そうすると、医療関係者は、常に人の死と隣合わせで仕事をしながらも、何をしたらいいのか、何をしてはいけないのかを、時々刻々の活動のなかで、マニュアルによらずに自らの判断で決めていかなければならないということです。

チーム医療

自動車を運転するのはひとりですよね。たぶん複数の人で自動車を運転することはできないと思います。自動車を運転する人はひとりです。だから、自動車事故が起こったときには、運転した1人の人の過失を問えばいいわけですね。その人は法定速度を守っていた、前方をちゃんと見ていたのか、ということを検討すればいい。ところが、医療の場合は1人でやるということはない。医療は「チーム」で行われます。

単純な薬品の取り違え事件をみても、関与しているのは1人ではありません。薬品の保管はきちんとされていたか、その責任者はちゃんと薬品のラベルを明確にしていたのか、医師の投薬指示書はきちんと判読できたか、薬剤師の処方に間違いはなかったか、看護師はラベルを読み間違えなかったのか、病棟の看護師は正しい患者に正しい薬品を注射したのか、というように、単純な薬の注射をめぐっても、複数の人間が常に関与しています。手術が行われて、術後管理のためにICUで鎮静が行われる。そうしたプロセスでも、看護師さん、薬剤師さん、麻酔科医、当直の先生などが関わります。そういう人たちのコミュニケーションのどこか一つに齟齬があっただけで、重大な問題が起こりえます。たったひとりの医師、あるいはたったひとりの看護師の責任を考えれば良いというような問題ではないわけです。それはシステムの問題です。

ところが、刑法はあくまでも一人ひとりの医療者の責任を問います。関与した複数の医療者のなかから、「業務上の過失」があると検察官が考えた一部の個人だけが刑事責任を問われ、裁判にかけられます。決して医療機関そのものの刑事責任が問われるということはありません。

2「後知恵」による過失の認定


自動車事故や医療事故に限らず、原発事故とか航空機事故のような大きな被害をもたらした事故が起こると、必ず「事故原因」の調査が行われます。その過程で、「ああすればよかった」「これをやったのがいけなかった」というような個人のエラー、ミスが指摘されます。調査を行う人は、実際に何が起こったのかを知っているわけですから、いわば「後知恵」にもとづいて、論理的に――時系列を遡って――事故原因としての人為的なミスを指摘することができます。事故原因を探り、介在したヒューマン・エラーを特定して、その再発を防ぐための対策を考えるというのはとても良いことです。安全で住みやすい世界を構築するためには必要なことです。

しかし、個人の刑事責任を追求するために「後知恵」を利用するということになると、話は別です。実をいうと、現在日本の刑事裁判で行われている刑事過失の認定方法は、後知恵による個人責任追及のパターンに親しみやすい構造になっています。

日本では、刑法上の過失は、人の死傷という結果の「予見義務違反」と「回避義務違反」という2つの要素からなりたっているとされています。自分の行為によって、他人の死亡や傷害という事態が発生することを予見することが「できた」のにそれを「しなかった」;そうした予見があれば、他人の死亡や傷害という事態を回避することが「できた」のにそれを「しなかった」。こうしたことが認定できるときに、刑法上の過失があると認められ、個人は刑事責任を負わせられます。この認定の構造は後知恵による責任追及のパターンそのものです。

事故が起こったあとで、「ああすれば良かった」「これをしたのがまずかった」というのは、難しくありません。つまり、事故という結果を回避するために何をすれば良かったのかを特定するのは容易です。これが容易なのは、われわれが実際に何が起こったのかを知っているからです。まだ事故が発生する前の世界にいる人々は必ずしもその発生を予見できるとは限りません。ところが、後知恵を持っているわれわれは、しばしば、「予見できたはずだ」という結論に飛びつきます。これを「後知恵バイアス」と言います。後知恵に基づいて時系列を論理的にそして冷静に遡れば、次に何が起こるのか容易に予測がつき、そして、その予測に基づいて悪い結果を回避する方策を採ることも容易でしょう。しかし、事故が起こる前の当事者は、次に何が起こるのか予測できるとは限りませんし、論理的で冷静に行動できたとも限らないのです。

先ほど「医療は人の死と隣合わせだ」と言いましたが、これは比喩でもなんでもありません。医師は自分の仕事の結果として患者の死と向き合うことになります。その場合に、出来事の時系列を遡ってあとから冷静に振り返って「こうすれば良かった」「そうすれば患者は死ななかった」と言うのは簡単なことです。そして、人の死という大きな被害が発生したときには、そうした後知恵に基づいて関係者の「責任」を追求しようとする人が必ずいます。後知恵バイアスに基づいて刑法上の過失を認定されてしまう危険に医療関係者は常にさらされていると言っても過言ではありません。

司法の場で後知恵バイアスに基づく過失の認定ということが横行したら、もうお医者さんなんてやってられないですよね。特に生死の境にある患者を扱う医療者はそうでしょう。常に後から、結果から判断されてしまうのでしたら、安心して医者を続けることはできなくなります。ましてや先端的な医療をやろうという意欲は失われてしまうでしょう。

3 刑事医療過失事件の捜査・訴追・裁判


医療関係者の業務上過失というものは非常に複雑で不確定な要素があります。医療の過程で人が亡くなったときの刑事過失の有無を判定するのは決して簡単ではありません。医療水準をめぐってもいろいろな意見があったり、さまざまな症例報告があったりして、それらを総合的に検討してここまでやるのが正しかった、これをやらなかったのは間違いだった、という結論を出すわけですね。その結論によって、医療従事者は犯罪者になるかならないかが決まるのです。

患者さんが亡くなった。遺族が被害届を出す。事故調査が行われる。その結果警察が捜査を開始する。訴えられた医療従事者が、それは間違いない、たしかに自分はやるべきことをやらなかった、やってはいけないことをやってしまった、それは間違いないというのであれば、それほど問題ではありません。そしてそういう事件も確かにないわけではない。もう、ほんとうに「常軌を逸した」としか言いようのない事件というのも確かにあります。全然消毒しないとか、注射器を使いまわししていたとかですね。そういう無謀で大胆で常識外れな業務上過失致死事件というのも存在します。

しかし、実際に刑事訴追を受けるのはそういう事例ばかりではありません。訴えられた医療関係者が無罪を主張することは決して珍しくありません。そうなると、刑事医療過失事件の展開というのは非常に違ったものになります。どう違うのか。

ひとことでいうと、時間がかかるということです。今回皆さんの前でお話しをするにあたって、過去の著名な刑事医療過失事件の時間的な経過をおさらいしてみたんですけれども、事故から判決の確定までとても長い時間を要しています。「都立広尾病院事件」。これはどちらかというと単純な薬剤の取り違えの事件ですけれども、それでも事故が起こってから、1審判決まで、685日間かかっています。2年近くかかっている。これは短い方です。「杏林大学病院割りばし事件」というのがありますけれども、これは事故から一審判決まで、2452日、6年半、かかっています。一審は無罪で、検事が控訴して、控訴審で無罪が確定しましたけれども、控訴審だけでも2年半かかっています。事故から無罪確定まで9年かかっているわけです。「大野病院事件」は1審で無罪が確定しましたが、これも事故が起こってから一審の無罪判決まで3年半かかっています。

現在私がかかわっている事件があります。これは、2歳の子の頸部嚢胞性リンパ腫の手術が行われて、術後ICUに運ばれてプロポフォールによる鎮静をしたわけですけれども、検察官側の主張によれば、幼児に対しては、「相対的禁忌」といわれる、プロポフォールによる鎮静を非常に長くやりすぎたために、プロポフォール吸引性症候群(PRIS)という複雑な病態の病気で亡くなった、という業務上過失致死事件です。この事故が起こったのは2014年2月です。多数の関係者(医師、薬剤師、看護師ら)の中から二人の医師が起訴されたのが昨年2021年の1月です。つまり、起訴までに7年かかっています。で、いま何をやっているかというと、公判前整理手続といって、検察官手持ち証拠の開示のためのやり取りを延々とやっている最中です。捜査機関が集めた大量の、カルテであるとか、医療文献であるとか、各種の専門家の意見書だとか、それから同種の症例についての、大量のカルテであるとか、そういう膨大な証拠をわれわれに開示するように検察官に請求し、ときに検事がそれに反対するので、裁判所に裁定をもとめたり、裁判所が開示命令を出さないので、高裁に即時抗告したりというようなことをやっています。公判がいつ始まるのか分かりません。一体いつになったら裁判が終わるのか。事故から7年以上経ってまったく見通しが立たないという状況になっています。

なぜ、こんなに刑事医療過失事件は時間がかかるのか。一つは法律家の怠慢です。日本国憲法には被告人には「迅速な裁判」を受ける権利があるとされています(憲法37条1項)。これはアメリカ合衆国憲法(第6修正)を直輸入したものです。アメリカでは憲法の「迅速な裁判」(speedy trial)の保障を実現するために制定法が定められています。それによると、この“speedy trial”というのは、90日とか180日とかいうような単位なのです。その間に裁判を始めないと、訴追は却下されるというのがルールなのです。日本の法律家は「迅速」という言葉の意味を、普通の日本人の理解とは全然違う感覚で理解しています。5年6年は当たり前、10年くらい立っているのに「迅速な裁判」に違反しないと裁判官は平気で言います。

こうした法曹関係者の問題もありますが、刑事医療過失事件の遅延の原因をなしているのは、やはり法律家が医学の専門家ではないということです。警察もこういう事件の捜査をするときは専門家の意見を聞きながらやります。文献を集めたり専門家の意見を聞いてやります。そのうえで、事件を検察庁に送致する。検察官も専門家の意見を聞く。検察官はだいたい2年ないし3年に一回くらい転勤しちゃうんですね。だから、それまで、一生懸文献を読んだり専門家の意見を聞きながらやっていた捜査も、そこで終わってしまいます。新しい検事がきて、新しい検事もまた一から勉強しなおす。実に非効率的なことをやっています。弁護士もまったく素人ですから、まず専門家の意見を聞いてその指導を受けながら、病院で起こった出来事の流れとその医学的意味を理解しようとします。当然時間がかかってしまいます。

こうした素人による捜査、素人による訴追、素人による防御のあとに、素人による判決というのが続くわけです。そうしたプロセスによって一番割を食うのは、刑事訴追の対象になっている医療関係者、お医者さん、看護師さん、そういう方たちです。いつまで経っても捜査が終わらない。起訴されるのかどうかもわからない。いつまで経っても裁判がはじまらない。そういう状態がずっと続くわけですね。そういう状況に追い込まれること自体が、非常な苦痛であり負担なわけですね。裁判で有罪になるか無罪になるかということよりも、そういうものに巻き込まれて、そのために生活が大きく制約されてしまう。そのこと自体の負担が非常に大きなものに違いありません。

何年か後に判決が確定するわけですけれども、刑事医療過失事件の有罪率は普通の刑事裁判の有罪率よりも低いというデータがあります。普通の否認事件、罪を争う事件の刑事事件の無罪率というのは、だいたい1.7%前後です【1】 。1950年から2017年までの刑事医療事件を調査した文献によると、刑事医療過失事件の無罪率は18%ということです【2】。つまり、普通の刑事事件の10倍くらいの割合で無罪になる可能性があるというわけです。

4 刑事訴追は医療安全の役に立っているのか

萎縮医療・防衛医療

多大な負担・時間・労力をかけて1人の医療従事者を刑事訴追して、彼女が有罪か無罪かを決める。そのことによって、医療全体の質は高まっているのでしょうか。一部の刑法の先生とか検察官や裁判官の中には、役に立っているんだと言う人が言います。刑事責任の追及があることによって医療は進歩する、あるいは、医療過誤が防止されるのだ言うのです。われわれ法律家は「一般予防」というわけですけども、医療行為を刑事訴追することには一般予防の効果はあるんだというふうに言われています。私は疑問に思います。事故から10年経って刑事裁判の決着がついた、忘れたころに判決が出て昔のことが少し報道される。そんなことによって、医療は進歩するんだろうかと思います。

むしろ、ちょっと先端的なこと、あるいは患者の命を守るためにちょっと冒険的な医療をやって失敗したために、刑事訴追されて膨大な時間や費用が費やされる、そのリスクを避けるために、そんなことはやらないでおこう、危険性のない分野で危険性のない仕事をしよう、というふうな方向に働いてしまう可能性の方がむしろ大きいんじゃないかと思います。この問題はもっと科学的に議論する必要があるのだろうとは思いますけれども、率直に申し上げて、微妙な医療水準が問題になるような医療事故について、関係者の刑事責任を追及することにどれほどの意味があるのか疑問です。むしろそれは医療関係者を防衛的にしてしまい、かえって医療安全の推進を阻害しているのではないかと感じます。

刑事医療過失事件が潜在的にもっているこうしたリスクつまり萎縮効果・防衛医療の弊害について、厚労省の研究会が検討結果を発表しています。厚労省の中に設けられた「医療行為と刑事責任の研究会」が2019年3月に「医療行為と刑事責任について」という報告書を出しています。これは、1999年から2016年までの、刑事医療裁判を集約して評価したものですけれども、結論的にこう言っています――「医療従事者の方々に対しては、医療従事者として一般に求められる注意を怠ることがなければ、必要なリスクをとった医療行為の結果、患者が死亡した場合であっても、刑事責任を問われることはないことを理解していただき、安心して日々の診療に従事していただきたいと考えている」と【3】 。

これはちょっとミスリーディングだと私は思います。この報告書の中身をよく読んでみると、刑事裁判の統計を出している部分があるんですけれども、そのデータ分析をしている箇所では、こう言っています――「診療現場においては、一定の確率で死亡のリスクを伴う治療法がある場合、原疾患による死亡のリスクと比較考量して、あえて当該治療を行うようなケースも存在するが、安全性有効性が検証されない治療法を採用しているような場合でない限り、必要なリスクを取った医療行為の結果、患者が死亡したケースにおいて、刑事裁判で有罪となった事例は見当たらなかった。」【4】 結論部分と表現がちょっと違いますよね。結論部分では、「刑事責任を問われることはない」と言っているのですが、分析のところでは、「有罪となった事例は見当たらなかった」と言っているのです。つまり、捜査を受けて、訴追されて、何年も裁判を受けるかもしれないけど、有罪になることはあまりないよ、って言ってるだけなんですよね。

罪を問われる危険性はあるわけです。そして、実際に有罪になった事件はまったく問題ないのかについて、検証は何一つなされていません。検察官がどういう主張をして、弁護側がどういう証拠を出した、それはなぜ受け入れられなかったのか、受け入れられなかったのは正しいのか、というような分析はどこにもされていないのです。

この中間報告にもありますけれども 、2005年をピークに刑事医療過失事件の訴追件数は減っているというふうに言われています。しかし、それも、正確な統計があるわけではありません。この中間報告のベースになった事件の件数も網羅的とは到底いえません。刑事医療過失事件のすべてが判例集に載っているわけでもないです。判例集に載っていない事件はたくさんあると思います。ですから、現段階で、よほどのことがない限り刑事医療過失で訴追されることはないと判断するのは無理があると私は思います。

事故調査制度

刑事医療過失の訴追と医療安全との関係をもう少し別の角度から検討したいと思います。医療安全の考え方というのは、要するに、こういうことです。結局、人はミスをする、エラーをする。そういう人的なエラーの原因や構造を分析して、再発防止策を構築する。そうすることによって安全で有効な医療の発展を目指す。これが医療安全という考え方、コンセプトの中心にあるんだと思います。

2015年に医療事故調査制度というのがはじまりました。この制度はいま申し上げた医療安全の考え方を実践するものだというふうに言われています。医療事故調査制度の中核を担う、一般社団法人日本医療安全調査機構というところのホームページをみると、こう言っています――「本制度の目的は、医療の安全を確保するために医療事故の再発防止を行うことであり、責任追及を目的としたものではありません」 【5】。何が問題だったのかを明らかにして、再発を防止するために調査するのであって、医療関係者の責任追及はしないんだということです。

実態はどうなのでしょうか。事故調査委員会の調査やその報告書が責任追及の道具にならないという保障はあるのかということです。残念ながら、法律をみても、現実の調査をみても、そういう保障はないですね。私自身が経験した範囲でしかものを言えませんが、現実には、事故調査が医師の責任追及の場と化しているとしか思えないような調査報告が存在しています。まるで検察官の論告じゃないかと思われるような調査報告書に出会ったことがあります。

真相究明するためには、関係した医療従事者から正しい事実を提供してもらう必要があるわけですね。そのためには、その情報が医療関係者の責任追及の道具にならないという保障をしなければいけません。医療事故調査委員会の事情聴取に応じた供述や提供した資料を、民事裁判の原告となりうる遺族や刑事訴追をする可能性のある捜査機関に提供することはない(提供したとしても裁判の証拠として利用することは許されない)という保障が必要です。実際そういう制度が海外にはあります。例えば、2005年にアメリカで、Patient Safety and Quality Improvement Act of 2005(患者の安全及び医療品質の向上のための法律)という連邦法が制定されました。これは日本の医療事故調査制度にある意味で良く似ているんですね。医療従事者は患者安全機構(Patient Safety Organization: PSO)に医療事故に関する情報を提供する;PSOは情報を集約して、何が問題だったのか、そしてなにを改善すべきか、という報告をしたり、データベースを構築したりする。しかし、ここで提供された情報は、医療関係者の民事責任・刑事責任を追及する証拠として使ってはいけないということが明文で書かれています【6】 。これに違反した場合には、10,000ドル以下の罰金が科されることになります【7】 。

こういう保障があって初めて、事故を体験した医療従事者は安心して情報提供できるわけです。そして、正しい情報提供によって、正しい医療安全の仕組み、再発防止の方法というのが構築されるわけです。日本の事故調査制度はそこの部分が全く欠落しています。そのために、医療従事者は、自分は刑事訴追されるんじゃないか、あるいは民事の損害賠償請求を受けるのではないかということを恐れて、きちんとした話ができないのです。それは正しい選択ですよね。自分で自分を訴追する証拠を提供しないというのは極めて合理的な選択です。「黙秘権」というのはまさにそのために存在するのです。

黙秘権っていうのは、あたかも悪いことをした人が、こそこそ逃げるための権利だって皆さん思うかもしれないけれども、そうじゃありません。警察や検察に供述を提供するということは、訴追機関に自分の弁解や供述をそこで記録されるということです。あとから思い返したら、間違っていたとか、思い出したことがあると言って供述を変えると、裁判官はこの被告人は供述を変えているから、全体的にその弁解は信頼できないという判断をします。だから、捜査とか訴追の過程で、自分の弁解や情報を捜査機関に提供しないというは、正しい裁判をするためにも必要なことです。被告人が自分を防衛するためにも必要なことです。これは正しい選択なんです。

その正しい選択をしたことに対して、ある事故調査報告書は「非協力的な態度が調査を困難にした」とか「無責任な言動」と言って非難しました。さらに、その報告書は遺族に提供されて、民事裁判の原告側の証拠として提出されました。そしてさらに、刑事事件の方でも、検察官はその報告書を証拠請求してきました。これは、いろいろな意味で間違っているわけですけれども、現在の事故調査制度が、一番肝心な保障を欠いているために、制度本来の目的を達することができない状態になっていることは明らかだと思います。

刑事訴追の可能性があることで、医療事故に関する情報提供がはばかられるという問題は、事故調査制度だけの問題ではありません。診療や症状の経過を症例報告として医学ジャーナルに発表することすらできなくなります。事故原因の究明と再発防止は、医療安全だけの問題ではなく、医学全体の問題でもあるわけですが、医療行為の刑事訴追は、医学というものの学問的な発展にも障害となる可能性があるのです。

5 医療過失の刑事訴追はどうあるべきか


じゃあどうあるべきか、ということを最後に申し上げたいと思います。ちょっと法律の話になります。過失による人の死亡、これは医療過失に限らないですけれども、過失によって人を死亡させることを犯罪として刑罰を科するという刑法の考え方について、若干の検討をしてみたいと思います。これにはいろんな考え方が実はありまして、日本では、明治に近代法制を取り入れて以降、ずっとこの過失犯に関する議論をしているんです。いまだにしているわけです。どういう場合が刑事上の過失として罰則の対象になるのか、そもそも過失なんて罰してはいけないんじゃないかというような議論もあるわけです。

そういう過失犯の議論の中で、この刑事医療過失についても議論する必要があると思います。実際に、現在、刑法学者の先生方は、医療行為に対する刑事責任をどうやって限定するかということを盛んに議論しています。

コモンローの刑事過失致死:「故殺」

一つ参考になるのは、アメリカとかイギリスのコモンロー系諸国の刑事過失致死についての考え方です。コモンロー系の諸国では、単純な過失、業務上の過失も含めてですけれども、不注意によって人を死なせてしまったということを犯罪として処罰することはありません。普通の不注意や業務上の注意義務違反で人が亡くなったとしても、イギリスでもアメリカでも刑事訴追されることはありません。

ある行為を犯罪として刑罰を科するためには、道徳的に強い非難が与えられて当然だという精神状態、mens reaというんですけれども、そういう精神状態が立証されなければなりません。人の死に関していうと、それは二種類あります。一つは murder、もう一つはmanslaughterです。murderは日本語で「謀殺」と訳されています。人の死を計画し、人を死なせる目的をもって、意図的に人を殺すことです。manslaughterというのは、そういう意味での積極的に人を殺す意思がない場合です。日本語では「故殺」と訳されています。このmanslaughterには二種類あって、一つはvoluntary manslaughter(自発的故殺)、もう一つはinvoluntary manslaughter(非自発的故殺)です。“voluntary”というのは自主的にその状態を受け入れる、積極的に殺そうというんじゃないけれども、死んでもかまわない的な要素がある場合をvoluntary manslaughter(自発的故殺)というのです。”involuntary”というのは、自発的な意思がない場合ですが、単なる過失致死とは違います。やはり道徳的に強い非難に値する精神状態が必要です。無謀(recklessness)とか勝手気まま(wantonness)というような要素が必要です。そういう精神状態があることが合理的な疑いを超えて証明されない限り、被告人の行為によって人がなくなったとしても刑事責任は問われないのです。

医療行為に基づく患者の死亡の場合は、involuntary manslaughter(非自発的故殺)にあたるかどうかが問題になります。医学的な常識を無視したような無謀な(reckless)医療行為、たとえば、これまで一度もメスを持ったことがないような、知識も技量もない医師が最先端の手術をやろうとして患者を死なせてしまったというようなケースです。そこまでいかなくとも、標準的な治療の基準から甚だしく逸脱した(gross departure from standard)医療を行った結果患者が亡くなったというようなケースです。医療水準がどこにあるのか微妙なケースであるとか、無謀・勝手気ままというような要素のない、単純なケアレスミスや思い違いによる、薬品の取り違えや患者の取違えのようなケースが非自発的故殺罪になることはないでしょう。

こうした刑事訴追制度があるので、「アメリカの医師や病院は刑事手続への危惧を抱いていない」と言われるのです【8】 。

刑事上の過失を「認識ある過失」に限定する

日本の刑法学者の人たちは、日本法の枠組みの中で、お医者さんの刑事責任、刑事過失を限定しようとしています。ひとつは、刑事責任の対象となる過失は「認識ある過失」に限られるという考え方です【9】 。過失には二種類があって、「認識ある過失」と「認識のない過失」です。これどういうことかというと、人が死ぬ危険性がある、こういうことをやったら事故が起こって人が死ぬかもしれない、だけどそれは起こらないだろうと思って、やるような場合が「認識ある過失」。そういう危険があることを全然知らないでやってしまう場合が「認識のない過失」です。

過失致死傷罪の過失は認識のある過失の場合を指すのであって、認識のない過失は犯罪ではないという議論があるわけですね。虫垂切除術をする際に手術部位をきちんと確認せずに手探りでメスをあて、盲腸じゃないかもしれないが、まず盲腸だろうと考えて切断したら、盲腸じゃなくて大腸壁の一部だったというような場合です。これはコモンローで言うところの「無謀」とか「勝手気まま」に当たるような気がしますね。

しかし、認識のない過失は悪質ではないとか道徳的な非難の程度が常に低いかというと、必ずしもそうでないと思います。認識があるということは、それなりに慎重な人なわけです。全く無謀な人間っていうのは、認識がないわけですよね。例えば先程の盲腸の例で言うと、盲腸と大腸壁の組織の区別を考えもせず、手で触っただけで盲腸に間違いないと考えてメスを入れてしまうような人の方が、盲腸じゃない可能性を考えた人よりも「無謀」の程度は大きいと思います。「認識のない過失」を除外するという考え方は、何も考えない、なんでもオッケーというような意味での無謀な人が、罰せられなくなる可能性があるような気がします。

逆に、医療の現場では、患者の死亡を早めるリスクがあることを認識しながら、救命のために治療をするということは珍しくありません。こうした医療の結果患者が死亡したケースはすべて「認識ある過失」にあたると言われてしまう可能性があります。

「重大な過失」に限定する

刑法211条の業務上の過失というのを重大な過失に限定するという考え方です【10】 。というのは、刑法211条自身が、業務上の過失を罰すると言っているのと同時に、「重大な過失の場合も同様とする」と言っているのです。刑法は、業務上の過失と重大な過失をパラレルに考えている。だから、刑事医療過失も重大な過失である必要があるという議論です。これは今とても有力な議論になっています。

ただ、一つ問題があります。この、刑法学者の人たちの議論をみると、重大な過失の典型例として、「初歩的なミス」や「基本的なミス」を挙げています。例えば薬品の取り違えや患者の取り違えとかです【11】 。私はここは疑問です。初歩的で単純なミスというのは実際のところ、「ヒューマン・エラー」といって、誰にでも起こり得るミスです。それまでどんなに慎重にやっていた人でも、ふと間違えることがある。100回に1度いや1000回に1度はそういう瞬間があります。問題は、それがチーム医療の中で見過ごされてしまい、惨事に至ることです。

そういうヒューマン・エラーを刑事過失にする意味はあまりないと思います。むしろ、そういう初歩的で基本的なミスというのは、それが大事に至らないようにするシステムを作っていくことが重要です。例えば、患者の腕にバーコード付きのタグをつけて、必ずそのバーコードをスキャンすることで患者や薬品の取り違えを防ぐというようなことです。それを「重大な過失」というのは、私は違うのではないかと思います。さきほども言ったようにコモンローでは、そういう単純な過失は、無謀でもないし勝手気ままとも言えませんから、その結果事故が起きて人が死んでも、それを犯罪と言うことはできないのです。

6 ヒューマン・エラーは裁けるか


いずれにしても、刑法の先生がたが医療行為に対する刑事責任の追及を限定しようとしていることは間違いないです。それは良いことだと私は思います。

医療安全ということを考えたときに、単に業務上過失致死罪が成立するかどうかという議論だけではなくて、刑事訴追のあり方全体を議論する必要があると思います。長い時間をかけて最後に無罪になれば良いという話ではないと思います。このあたりのことを学者の先生がたはあまり議論してくれていません。訴追される医療関係者にとってはそこが一番の関心事ではないかと思います。

最後に、これまでに少し触れたヒューマン・エラーというものについてお話したいと思います。「人は間違える」ということです。そうした間違いの可能性を前提にシステムはつくられるべきではないか、というふうに思うわけです。個人の刑事責任、間違えた人や間違いを見逃してしまった人の刑事責任を問うというのは、いろいろな意味で問題があると思います。このヒューマン・エラーの問題については、実は、日本の最高裁の判例で議論されたことがあります。「日航機ニアミス事件」の最高裁決定です。

どういう事件かというと、一つの飛行機が3万7千フィートの高度で巡行している。別の飛行機が離陸して3万9000フィートを目指して上昇している。2つの飛行機が徐々に接近していく。このままだとぶつかってしまう。緊急事態を知らせる警報を受けた航空管制官は、セオリーにしたがって上空を巡航している飛行機に降下指示を出そうとします。ところが指示を伝える便名を言い間違えてしまいました。「358便」と言うべきところを「309便」言ってしまった。つまり、離陸したばかりの飛行機に下降せよと指示を出してしまいました。旅客機には、TCASという装置が備えられています。異常接近すると双方のTCASがそれぞれの機長に上昇と下降の指示を自動的に出すんですね(この指示をRAと言います)。309便のTCASは上昇の指示を出し、358便のTCASは下降の指示を出しました。ところが、309便の機長は、TCASの指示を無視して、管制官の指示にしたがって、下降したのです。そのために、両方が下降して、非常に危ない状態になった。それで、ぎりぎりのところで機長が、上昇に転じて、衝突は免れたんですけれども、中に乗っている多数の乗客が怪我をしてしまった。この管制官が業務上過失致傷罪で起訴されたのです。

結論としては、最高裁は被告側の上告を棄却して、管制官の有罪が確定しました。けれども、この最高裁決定に対して1人反対意見を述べた裁判官がいます。櫻井龍子裁判官です。櫻井裁判官の反対意見の中につぎのような言葉があります。

そもそも本件ニアミスの発生原因を総合的に判断すると,航空管制では間に合わないような接近事例における衝突等回避のためのいわば最後の砦として,TCASを一定規模以上の航空機に搭載することが義務付けられたにもかかわらず,管制指示とRA[TCASの指示]が相反した場合の優先関係という最も重要かつ基本的な運用事項が明確に定められていなかったことが,本件ニアミスに関連することは明らかである(TCAS開発を主導した米国の航空マニュアル等にはRAが管制指示に優先することが明記されていた。)。航空機の運航のように複雑な機械とそれを操作する人間の共同作業が不可欠な現代の高度システムにおいては,誰でも起こしがちな小さなミスが重大な事故につながる可能性は常にある。それだからこそ,二重,三重の安全装置を備えることが肝要であり,その安全装置が十全の機能を果たせるよう日々の努力が求められるというべきである。また,[弁護人の]所論は,本件のようなミスについて刑事責任を問うことになると,将来の刑事責任の追及をおそれてミスやその原因を隠ぺいするという萎縮効果が生じ,システム全体の安全性の向上に支障を来す旨主張するが、これは今後検討すべき重要な問題提起であると考える【12】 。


この櫻井裁判官は、裁判官出身ではなく、労働省の官僚出身ということです。非常に立派な反対意見だと思います。この反対意見の考え方がこれからの日本の司法の主流になることを私は希望しています。

ありがとうございました。

【注】
1 令和2(2020)年の司法統計年報(刑事事件編)によると、通常第1審(地裁・簡裁)の否認人員は4,254人(25表)で、無罪人員は72人(21表)であり、無罪率は1.69%である。
2 木内淳子ほか「医療刑事裁判において無罪となった23名の医療事故の検討」日臨麻会誌41-7-632(2021)。
3 医療行為と刑事責任の研究会「医療行為と刑事責任について(中間報告)」(2019年3月29日)、16頁。
4 同前、14頁(強調は引用者)。   
5 https://www.medsafe.or.jp/modules/about/index.php?content_id=24
6 42 U.S.C. §299b-22.
7 42 U.S.C. §299b-22(f)(1).
8 ロバート・B・レフラー(三瀬朋子訳)「医療安全と法の日米比較」ジュリスト1323-8(2006)、17頁。
9 沢登佳人「すべての過失は認識ある過失である」植松還暦記念『刑法と科学 法律編』(1971)、p321、338頁以下;田宮裕「過失に対する刑法の機能」『刑事法の理論と現実』87-109所収(岩波書店2000[1966])、104、107頁;甲斐克則『責任原理と過失犯論』(成文堂2005)、120頁。
10 甲斐克則「刑事医療過誤と注意義務論」年報医事法学23号(2008)、96頁;高アンナ「日米における刑事医療過誤」北大法学論集63-6-363(2013)、414頁;萩原由美恵「医療過誤における刑事責任の限定」中央学院大学法学論叢24-1/2-123(2011)、146頁。
11 萩原・前注、134頁;高・前注、416〜417頁。
12 最1小決2008・10・26刑集64-7-1019、1032頁。




plltakano at 16:23コメント(0)刑事裁判刑事医療過失  このエントリーをはてなブックマークに追加

2022年04月27日

このブログのプロバイダであるLINE株式会社は、2022年4月25日、このブログから以下の4つの記事を削除しました。

1)「知財高裁判決:懲戒請求書の全文引用は正当」(2021年12月23日)
2)「懲戒不相当決定」(2021年7月1日)
3)「被告高野隆の陳述」(2020年7月31日)
4)「懲戒請求に対する弁明書」(2020年2月4日)

記事の削除は私に対して懲戒請求と民事訴訟を提起したS・N氏の要請によるものです。S・N氏は削除請求する理由として「[S・N氏の]氏名を掲載している」と指摘しています。私は、「私のブログの記事が削除されるようなことがあれば、それは表現の自由に対する甚だしい侵害」であり、かつ、「自分は匿名のまま弁護士に対する無責任な懲戒請求を行うことを許すことにな[る]」「他人を名指ししてその非違行為を公的に訴えるのであれば、当然自分も公的に名を名乗るべき」である、知財高裁も彼の削除請求を棄却したと述べて、削除に異議を唱えました。

しかし、LINE株式会社は、「『権利が侵害されたことが明らか』(プロバイダ責任制限法第3条第2項第1号)であると判断しました」と言って、私のブログ記事をタイトルも含め全文削除しました。

この措置は、現代における表現活動の事実上のインフラ――「プラットフォーム」――を提供する企業の基本的な使命に反するのではないかと私は考えます。今回の記事削除措置に対してどうするかは未定ですが、このブログの読者の皆さんに経過報告をした次第です。


plltakano at 21:11コメント(4)刑事弁護全般表現の自由  このエントリーをはてなブックマークに追加

2022年02月22日

 藤田政博関西大学教授、大橋君平弁護士、和田恵弁護士と共訳で、マイケル・サックスとバーバラ・スペルマンの『証拠法の心理学的基礎』を出版しました。

 帯より:
 証拠法は応用心理学だ!

 心理学が科学として成立する遥か以前から、欧米の法曹は心理学を実践してきた。本書は最新の心理学的知見から、アメリカ証拠法を素材にあるべき裁判のルールを検証する。さらに本書は、日本の心理学に新しい研究分野を提供するものである。

 日本の裁判に正しい証拠法を構築するために必読の書。


法曹や心理学研究者はもちろん、裁判と心理学に興味があるべての人におすすめします。


plltakano at 11:57コメント(0)出版刑事証拠法  このエントリーをはてなブックマークに追加
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